十一月 06

ZANZIBAR: AN ORAL HISTORY

証言で綴る、ニュージャージーの伝説のクラブZANZIBARの歴史

By Bruce Tantum

 

神聖化されたクラブの歴史に興味がある人であれば、そのほとんどが知っているであろうクラブ、Zanzibar(ザンジバー)。ニュージャージー州はニューアークの荒廃した一帯に位置するこの場所で、Tony HumphriesはDJとしての名声を馳せた。このクラブが —Movin' Recordsショップとレーベルと共にー いつだってソウルフルで時に荒削りな「ジャージー・サウンド」と呼ばれるハウスのサブジャンルを生み出したことを知っている人もいるだろう。マンハッタンからヒントを得ながらも、かの地の崇められてきたクラブとは一線を画す独自性を確立することに成功した。しかし、1979年から90年代初頭まで営業し —その顧客からは心から愛された— このクラブの豊かで影響力を持つ歴史を知るのは、特に熱心な常連たちだけである。

 

Zanzibarの伝説は、とある不動産屋Miles Bergerがブロード・ストリート430番地にあったみすぼらしいHoliday Innを買い上げ、大して変わらぬいかがわしさのLincoln Motelに改装した1970年代中頃に始まる。館内には、Gerald TやHippie Torrales(後の1988年に、ハウス・クラシックとなった「You're Gonna Miss Me」をプロデュースした人物)らがDJを務める、Abe's(エイブス)という名の小さなダンス・クラブがあった。その小ぢんまりした空間の増築が始まった’79年… そこから物語が始まる。惜しくも、Zanzibarの主要プレイヤーたち —サウンド・システム担当のRichard Long、経営者のAlbert MurphyとShelton Hayes、DJのLarry Patterson、Tee Scott、Larry Levanー がこの世を去っている。でも多くは健在だ。ここに紹介するのは、彼らの言葉で記したZanzibarの伝説である。

 

LARKIE RUCKERとDJ LARRY PATTERSON Photo by Vincent Bryant

 

Gerald T:Abe'sがAbe'sになる前からあそこでやってた。75年、Lincoln MotelがまだHoliday Innだった頃だ。小さなバー兼ナイトクラブみたいなところだった。その頃は主にR&Bをプレイしていた。初めて一般的に買えるようになったディスコ12インチ・シングルはDouble Exposureの「Ten Percent」だったが、それはしばらく経ってからのことで、その前は全て7インチだった。「Ten Percent」が出た時は、「よし、いい音楽が買えるようになってきたぞ!」と思ったのを覚えているよ。Miles BergerがHoliday Innを買い取ってLincoln Motelになってからも、俺はまだクラブの鍵を持っていて、ある日機材を引き取りに行った。彼が出てきて「お前は誰だ?」と言うから、「お前こそ誰だよ?」と返したら、「俺が新しいオーナーだ」と言われた。だから「そうか、俺はここのDJだったんだ。機材を取りに来ただけだよ」と言うと、「ここにクラブを作りたいんだ。DJやってくれないか?」って聞かれたんだ。「いいよ!」と返事した。

 

Stewart Upchurch:俺はLincoln Motelで日中ポーターをやってた。17歳くらいの時だ。場所はニューアークの商業地区、ブロード・ストリートの端っこにあった。その頃、その先には他に何もなくて、あったとしても倉庫くらいだったと思う。店はけばけばしい70年代風で、赤紫のカーペットや赤いヴェルヴェットが敷き詰められていて —安っぽいけどそれほど悪趣味でもないような、出来の悪いブラックスプロイテーション映画の世界観ではシックとされているようなー 変なデザインのガラスの置物や、噴水があった。ちょっと売春の匂いがするというか、コカインとかもそこら辺にありそうな…近隣の人たちがどう思っていたかは分からないけど、でも一定の需要は満たしているような店だった。

 

Gerald T:Abe'sを本物のクラブにする方法は分かっていたけど、俺には金がなかった。Milesはクラブについては何一つ知らなかったが、金は持っていた。彼に「プロフェッショナルなクラブには、プロフェッショナルな機材が要る」と言って、Richard Longのスタジオを訪ねた。こうしてRichard LongのサウンドシステムがAbe'sに導入された。それでもオープンしたばかりの頃は、一晩に25人とかしか客が来なかった。忘れちゃいけないのは、あの頃はどこもクラブだらけで、バーさえあればDJを雇ってクラブと呼んでいたから、遊びに行くところはいくらでもあったということ。でも俺もそれなりに名前が知れてて —大したことない、少しだけどね— 最初の25人から100人、200人、300人と増えていった。最終的には700人が集まるようになった。パンパンで、それ以上は入れないくらいにね!

 

Hippie Torrales:Abe'sでやり始めたのは78年。Geraldや店のみんなを知ってたし、いつも行っていたんだ。DJとしての評判も上がってたから俺が入ることが決まって、確か木曜日の担当になったと思う。

 

Gerald T:2~3ヶ月経ったところでMilesに、「上にボールルーム(ダンス場)があるけど、あれどうするつもり?」と聞いたら、「一晩700ドルで貸してる」と言うので、「あそこを大型の、完璧なクラブに改装したらどうかな?そしたら毎晩、700ドルを5分で稼げるぜ!」と提案したんだ。

 

Hippie Torrales:Milesがメインのボールルームをクラブとしてオープンする話をしていた時、Richard Longが「だったら、ニューヨークのあるクラブに連れて行くよ。街で最高峰の店だ」と言って、Paradise Garageに連れて行った。Milesはすっかり夢中になって「なあ、これをニュージャージーでやりたいよ」と言ったんだ。だからZanzibarのサウンドシステムは最高で、照明も同じくらい凄かった。Studio 54で使われていたような照明だった。

 

Tony Humphries:Milesを(Paradise) Garageに連れて行った時の反応は、「コレをやるしかない!」という勢いだったと聞いているよ。

 

Stewart Upchurch::ボールルームは、改築をするまでホテルを建てた当初から全く手を入れていないような状態だった。彼らは壁を壊し、表面を引き剥がした。俺は建設に詳しいわけじゃないが、誰もマスクなどの覆いをしてないことに気づいていた。「おいおい、ここはクソみたいに古いんだから、アスベストみたいな有害なもんが混ざってるかもしれないぞ!」と思ってた。そのうち顔を覆うための濡らしたボロ布を渡されたけどね。それが、俺のポーターとして働いた最後の頃。でもとにかく作業は凄く速かったのを覚えてる。一ヶ月半くらいで完成した。

 

Larkie Rucker(アシスタント・マネージャー兼ホスト):Zanzibarは一回り小さいParadise Garageのように作られていました。サウンドシステムはGarageみたいだった。人がスピーカーの上で寝ることもよくあるくらい、巨大だった。ターンテーブルが3台、オープンリール、カセットなど全てが揃っていたわ。

 

Hippie Torrales:1979年のレイバー・デー(労働者の日)の週末の金曜日に行われたオープニング・ナイトは凄かった。セレブを招待したりして、ちゃんと仕切られていた。WNJRラジオは生中継をし、Channel 4の撮影も入っていた。Kool & GangやTasha Thomasも遊びに来ていた。俺より目立ってたかもしれない唯一のライバルは、ディスコでローラースケートするZippyて名前の猿だった!Sugar
Hill RecordsのJoe Robinsonもいた。その一週間前、彼がテキサスのラジオ局に持ち込んだテスト・プレス盤がプレイされたことがあったんだが、まだニューヨークでは誰もこの曲を持っていなかった。彼は「ここに新しいレコードを持ってきたんだが、最新のスタイルだ。まだテキサスのラジオ局一カ所でしかプレイされたことがない曲だ」とか言っていた。それであそこで初めて、「Rapper's Delight」がかけられた。

 

Gerald T:初日の夜、俺は下の階でプレイしていた。上はまだオープンしてなかったからね。Joe Robinsonにレコードを手渡されて、「どんなもんか聴いてみるか」とかけたら、「オー・マイ・ゴッド!」となったよ。そのとき既にChicの「Good Times」をプレイしていて、プレイクの部分がこの新曲と似ているからミックスしてみたら、店中が発狂した。それが初めて「Rapper's Delight」をプレイしたときの思い出。Hippie (Torrales)は自分が最初にプレイしたって言ってるけど、まだ上の階がオープンしてなかったのにプレイ出来たわけがない。俺たち2人ともプレイしていたけど、厳密に言えば俺が先だ。あのレコードはまだ持ってるよ。「Sugarhill Gang」と手書きしてあるテスト・プレス盤。

 

 

Larkie Rucker:あの夜は最高だった。クラブには本物のつる植物が張り巡らされていて、その中に蘭の生花が飾りつけられていて。そこら中が花だらけで、トロピカルなデコレーションだった。それにGreat Adventure (ニュージャージー州のアミューズメント・パーク)から借りて来た虎とか、色んな動物がいて、プールサイドに放されていたわ。レイバー・デーの連休だったので、動物もその間ずっと借りっぱなしだったのよ。その週末は誰も家に帰らずに、ホテルにそのまま泊まってね。ニューアークがあんなになったのは初めてだった。いや、ニュージャージー全体でも初めてだったんじゃないかしら!

 

Hippie Torrales:Milesはすぐに成功を確信した。何十万ドルも金をつぎ込んでいたのを知っていたから、ある日クラブの調子はどうなのか聞いてみたんだ。そしたら「投資した分は最初の半年で回収したよ!」と言っていた。言い方を変えれば、Milesは上機嫌だったということ。カネを稼ぎまくっていたということだが、レジデントDJだった俺とGeraldがギャラとしてもらっていたのは一晩40ドルだけだった。俺がZanzibarで回していたのは週に一度だけだったが、それ以外の日もホテルにタダで泊まらせてもらっていた。だから、恐らくMilesはそれで十分だと思ってたんだろう。あの頃のDJなんてそんなもの。とはいえ、70年代でもその額でやっていくのはギリギリだったけどね。

 

Danny Krivit:Garageでかかる曲をHippieは知り尽くしていて、よく同じ曲を彼自身もプレイしていた。でも彼のプレイは、Garageへの回答のようだった。彼はGarageで受ける曲、客層を分かった上で、もう一歩先の音楽を彼のニュージャージーのオーディエンスに合うようにかけようとしていた。

 

Hippie Torrales:ニューアークでは、よりソウルフルなR&Bスタイルがいつも好まれた。「Love Is The Message」みたいなディスコもかけたけど、あそこはそこまでハードコアなディスコ・タウンではない。もっとソウルフルで、R&Bスタイルの曲が合う土地だった。Salsoulなどに加えて、退廃的な音楽が流行っていたけど、俺はそこにThe B-52sの「Mesopotamia」やTalking Headsも混ぜていた。

 

Danny Krivit:(Hippie Torralesは)そういう予想外のレコードも持ってきていて、それを自然に合わせることが出来た。

 

 

Hippie Torrales:最初の3ヶ月は、Abe'sと同じDesmondという人物がZanzibarを経営していた。俺はAl Murphyを引き入れたかった。彼はニューアークで一番のパーティー・プロモーターで、ニューヨーク・スタイルのパーティーを手がけていたんだ。それにAlは、たまたまゲイと黒人に人気があった、Docksの俺のパーティーでのプレイを気に入ってくれていた。Milesは乗り気じゃなかったけど、結局「よし、彼を引き入れよう」と言ったんだ。

 

Gerald T:Al Murphyが店長になってから、俺の災難が始まった。奴は俺を降ろして自分好みのDJを入れたがった。俺がゲイじゃなかったせいだとは言わないけけど、何か違うものを求めていたんだ。クラブの雰囲気が変わり始めていた。みんな粧し込んで来るような粋なクラブだったのに、踊り易いカジュアルな服で来るような店になっていった。実際のところ、Garageみたいになっていたってことだ。俺は下の階で回し続けて、たまに上でもやっていた。大した問題ではなかったけどね。まだあそこでDJを続けながら、俺自身も楽しんでいたから。それでギャラも貰えていたし!89年に去るまではずっと続けていた。

 

Larkie Rucker:Hippieはしばらく居たけど、そんなに長い期間ではなかった… 恐らく1年半ほど。それからAlbert (Murphy)が、その頃ハルジー・ストリートにあった彼の小さなゲイ・クラブ Le JockでDJをやっていた、Larry Pattersonを連れて来た。でもLarryは金・土の2日連続はやりたくなかったから、土曜日を担当してくれる、友人のTee Scottを呼んで来た。

 

Hippie Torrales:(クラブの経営者は)Tee ScottやLarry Levanがプレイしていたような音楽を求めた。彼らは少し違うスタイルだったんだ。俺はきっちりミックスをしていて、俺にとってはDJとして大事な部分だと思っていたけど、彼らは次の曲さえ良ければ、ミックスはそこまで素晴らしくなくてもいいという、もっと選曲を重視する考えだった。AlのルームメイトだったLarry Pattersonが、俺の替わりになった。そしてLarry Pattersonは実に人柄のいい、誰にでも手を貸すような奴だった。俺が辞めてから2~3年後に、Tonyを連れてきたのはLarryだったんだ。Larryは俺とTonyの間にいるようないいDJをたくさん呼んで来た… David Morales、Larry Levan、Tee Scott、François Kなど、(ニュー)ジャージーのクラブにしてはいい面子だったよ!

 

ZANZIBARでのLOLEATTA HOLLOWAY誕生会 Photo by Vincent Bryant

 

Larkie Rucker:よくParadise Garageと協力して、優れたアーティストを招聘していたわ。ロンドンから、Five Star、Modern Romance、Central Lineも呼んだ。その多くが、アメリカに初めて来る人たちだった。Chaka Khanも何回かと、Sylvesterが出たこともあった。Thelma Houston、Two Tons o' Fun、Roy Ayers、Strafe、D-Train、それにLarry Levanのグループ、Peech Boysも。Loose Endsは「Hangin' on a String」を演ったし、Evelyn "Champagne" Kingを呼んだ日は最も成功したイベントの1つだった。建物の周りが人で溢れて、凄かった。Phyllis Hymanがパフォーマンス中に歌詞を忘れてたこともあったわね! Colonel Abramsは当然のこと、Young & Company、Mtume、Gayle Adamsといったジャージーのアーティストたちも… いくらでも名前が出てきちゃう。でも一番頻繁に出演して、ホテルにも泊まっていたのはLoletta Holloway。彼女はうちのレジデントみたいだった。

 

Billie Prest (経営者):そしてとうとうAlがGrace Jonesを呼んでね、そこから次元が1つ変わった。

 

Larkie Rucker: Grace Jonesは結局2回出たわよね。全身真っ黒の衣装で「Pull Up to the Bumber」をやった時のことを覚えてる。足を切って怪我しちゃって、緊急病院に運び込まれたのよね。メイクから何から、派手なステージ衣装そのまんまでリムジンに乗って。朝の7時だったから「何で緊急病院にリムジンが停まってるんだ?この女の人は一体誰?」なんて噂されていた。

 

 

Tony Humphries:Larry Pattersonのことは前から知っていて、ある日彼に「ジャージーにあるクラブをチェックした方がいいぞ!」と言われた。「ジャージー?冗談だろ」と思ったけど、Shep Pettiboneと、Kiss FMのパーソナリティだったJose Guzmanと俺でニューアークに行って確かめてみることにしたんだ。中に入って「これはヤバいな… Garageと全く同じ雰囲気じゃないか!ここにもこんな店があるのか」と言ったよ。大きさはGarageの半分だったけど、俺にはショックだった。それから通うようになって、水曜と金曜にLarry Patterson、土曜にTee Scottを聴きに行っていた。Zanzibarに行くようになってしばらくして、彼らと一緒に演れるかどうか、自分の腕を試すチャンスが欲しいと思ったんだ。それはカネの問題ではなかった。LarryとTeeは少しずつ俺を受け入れてくれて、少しブースを離れる時などに俺に少しプレイさせてくれた。結局俺が、「あのさ… 俺に水曜をやらせてくれないなら、もう来るのやめようかな」と言って、Zanzibarに入り込んだんだ。

 

Larkie Rucker:Alが亡くなって、Larry Pattersonが亡くなってしまってからは、Shelton Hayesがその穴を埋めて、それをTonyが引き継いだ。

 

Tony Humphries:つまり、俺も最初はそうやって始めたんだよ!本当のことを言うと、初めてプレイした時は大惨事だった。本当に。ベルト・ドライブ式のThorensのターンテーブルなんてそれまで使ったことがなかった。ベルト・ドライブよりずっと正確に操作できるTechnicsとは全然感覚が違った。ブースに入ってミックスを始めようとしたら、そこら中ゴミ捨て缶だらけで... カーン、バーン、ガシャーン、ガラガラ、ゴーン!って、いやもう酷かった。全然ビートは取れないし。その後、Larry Pattersonに「聞いてくれ、本当は俺はこんなにダメじゃないんだ!頼む、もう1回チャンスをくれ」と訴えなければならなかった。もう1回やらせてくれることになったので、変なイントロやエンディングがない、ミックスしやすいレコードばかりを見つけてやろうと考えていた。その時は何とかなって、やっているうちに段々とThorensのターンテーブルにも慣れていった。

 

Larkie Rucker:80年代のいつの間にか、クラブ・ミュージックがハウス・ミュージックになっていた。

 

Billie Prest:最初、Tonyはハウスを受け入れなかった。好んでいたとは言えなかったね。でも俺がMarshall Jeffersonプロデュースの、Ce Ce Rogersの「Someday」を買って渡した。シカゴから1/4インチ(テープ)を持って帰って来て、届けたんだ。それをきっかけにハウスに夢中になって、そこから誰もが知る歴史が作られた。

 

 

Tony Humphries:ハウスのリリースをもらい始めた頃 —レコード・プール(レーベルからDJ向けに配られるプロモーション盤を集約するところ)や、イースト・オレンジのMovin’ RecordsのAbbyから— 俺はそれらを主にミックスのツールとして使っていた。例えばAretha Franklinからの流れでLuther Vandrossをかけたいと思ったら、その間にハウス・トラックを挟んだりしていたんだ。ほとんどの場合、ヴォーカルものからトラックものに、トラックものからヴォーカルものに繋いでいた。Thorensを使ってブレンドするには、そういうやり方の方が楽だった。これらの機材を使いこなすには、そういったコツが必要だったんだ。

 

Billie Prest:分かると思うけど、TonyはThorensが好きではなかったんだ。

 

Danny Krivit:Tonyのサウンドは、アンダーグラウンドなジャージー・ハウスを中心としていて、それ以前はVisualの「The Music Got Me」などの、まだハウスとは言いきれないようなものをプレイしていた。ジャージーのプロデューサーは、この頃にみんな出て来たんだ。彼がクラシックをかけることもあったけど、彼の好みのハウス・グルーヴに合うような曲ばかりだった。Tonyの特徴は、とてもグルーヴにこだわるということ。ドラマチックな間や展開はあまりない。お客さんは、そのグルーヴに夢中だった。

 

 

Jon Martin:Movin’ Records で起こったことは、全てZanzibarで起こっていたことや、あそこでの会話から影響を受けているんじゃないかな。この2つの場所には、確実に相互作用があった。

 

Abigail Adams (Movin’ Recordsオーナー):Tonyが回してる曲は分かっていたし、リリース日も分かってたから、店に仕入れると、Zanzibarでそれを聴いた人たちが買いに来ました。TonyとShelton Hayesと私で、この新しい音楽をもっとプッシュしていくことに決めた。それが、私たちがジャージー・サウンドと呼ぶようになった音楽。1989年のNew Music Seminarでパーティーを主催したところ、お客さんの数に共学したわ。世界中から集まっていたから!イギリスやドイツのような外国の方が、この音楽がより受け入れられていると感じた。シカゴやデトロイトとも違う、ソウルフルで感情豊かで、スピリチュアルな基盤のあるサウンドがとても好まれていた。KyzeやAdevaを出していたSmack Music、JomandaとBack Room Productions、ニューヨークからだったけどBoyd Jarvisも居たし、Intense名義で「Let the Rain Come Down」をリリースしたAce Mungin、Paul ScottにShank、それにもちろんBlazeのKevin HedgeとJosh Milanも。Kevinは実は初期の頃、店で働いてたの。Joshとは、俗音楽をやるべきかどうか、教会で育ってきた人間がクラブ・ミュージックをやるべきかどうか、などの悩みについて話したのを覚えてるわ。

 

 

Jon Martin:Zanzibarはまるでクラック(コカイン)・ホテルだったということも忘れてはいけないね。特に夜の11時頃は、本当に酷かった。俺なんか早目に着こうものなら、居心地悪くて仕方なかったよ。Sheltonが仕切っていなかったら、かなり荒んでいただろう。でも時間が深まるに連れて段々とゲイの割合が増してきて、偏見もなくなる。俺が初めてZanzibarに行ったのは、1988年の(House of DuPreeの創始者)Paris Dupreeのパーティー、「Paris is Burning」のときだった。俺以外に白人がいなかったから、「顔見せ」をしないといけなくて。すぐに受け入れてもらえたけどね、若くてカワイイと得なんだよ。とにかく最高に楽しくて、それから92年ごろまで定期的にZanzibarに通ってた。

 

Abigail Adams:あのクラブが基本的に「生活保護者」モーテルの裏にあったことを考えると、問題はなかった方。ピース&ラブな客層で、音楽とシーンが全てだった。

 

Gladys Pizarro (Strictly Rhythm共同設立者):毎週Zanzibarに行って、Tonyと仲良くなれたことが、自分にとってはとても良かった。彼にレコードをあげると、プレイしてくれた。もしとても気に入ってくれた場合は、ただかけるんじゃなくて、それで客を熱狂させた。初めて渡したのが「The Warning」で、とても気に入ってくれた。次はRoger Sの「Luv Dancin」だったけど、3回ぐらいかけてくれたと思う。月曜にオフィスに出勤する頃には、その曲をライセンスしたいという人たちから電話が鳴りまくっていた。

 

 

Larkie Rucker:あるとき、経営にBillie Prestがスカウトされてきたのよね。

 

Billie Prest:最初はエンターテイメント部長みたいな役職だったけど、89年にSheltonが去ってからは全部任された。いつだったか、Zanzibarを取り壊してホテルの部屋にして、州に貸し出すって話が浮上した。彼らはMilesにかなりの額をオファーした。Milesと話してちょっと時間的猶予をもらえるとになった。そして、何年かの6月6日 —1991年だったと思う— 「Gypsy Woman」がチャートを上ってた頃、Crystal Watersをブッキングした。外に少なくとも隣のブロックまで続く客の行列ができて、最高の夜になった。俺は彼女が、Zanzibarを復活させた人だっていつも言うんだ。

 

Barbara Tucker:「Beautiful People」や「Deep Inside」、「I Get Lifted」といった私の曲をZanzibarで歌わせてもらえる機会に恵まれた。そういう意味で関わらせてもらってたけど、私自身クラブ好きだったから、ただ友達と遊びにわざわざジャージーまで行くこともあった。ニューヨークの友人は誰もわざわざ行きたがらなかったから、電車に乗って行っていた。ジャージーの友だちに拾ってもらって、パーティーに向かった。私はお酒もドラッグもやらないけど、踊るのが好きなの!夜遊んで、次の朝に家に帰る。あそこで喧嘩なんか一度も見たことなかったわ。音楽が、ハウス・ミュージックが愛のエネルギーのようなものを生み出している場所だったから、とても居心地が良かった。

 

Jon Martin:Tonyはレコードの最高の組み合わせを知っているんだ —そして、それらを3枚同時にプレイしたりしていた。Black Science Orchestraの「New Jersey Deep」をかけているところにMichael Watfordが入ってきて、その背後にBlunted Dummiesの「House for All」がずっと流れていたりする。何らかの方法で、Thorensを操ってた。アカペラやサウンド・エフェクトなどを使って…あの人の技術はダントツだった。

 

Danny Krivit:Thorensの操作は、スキルを必要とする。ミキシングは完璧ではないんだけど、Tonyのかけ方は本当にカッコよく聴こえた。他の曲に重ねて曲の一部をちょっとだけプレイしてじらしたり、色んなテクニックを持っていた。素晴らしい音楽とターンテーブルを使って自分が何を出来るかを完全に理解していたし、ロング・ミックスで映える曲も把握していた。とにかく、曲を知り尽くしてた。

 

 

Tony Humphries:確か1990年頃にDanny Ramplingが奥さんのJenniとわざわざやって来て、俺をロンドンに呼び寄せようとした。「えっと、ちょっとスケジュールが忙しすぎて… あなたたちが嫌いとかではなくて」とか何とか言ったんだが、実際のところ全く行きたくなかった。でも凄く粘られて、とうとう行くことになった —そして純粋にカルチャーショックを受けた。最初にShoom、次にNorman Jayと一緒にHigh on Hopeで、それからKid BachelorとNicky TraxとConfusionでプレイした。衝撃だったよ。みんなあらゆる音楽に対してオープンだった。Zanzibarに戻った俺は、「全くの別世界が存在していた… みんなが想像もつかないような!」という感じだった。結局Dannyにもう1度イギリスに行きたいと頼んで、ギャラを貰う代わりに店から10~11人くらいを一緒に連れて行った。それは、俺が言っていることが嘘じゃないということを証明したいというのが主な理由だった。みんなも衝撃を受けて、それ以来Zanzibarのみんなが、「Tony、何でも好きなものかけてくれ!」と言ってくれるようになった。誰も煩わしいことを言わなくなったよ。

 

Billie Prest:TonyがロンドンのMinistry of Soundのレジデントにならないかと誘われたことがあった。TonyはZanzibarでのポジションが不安定だと思ってたから、何があっても彼のポジションはそのままだし、ロンドンに行ったとしてもいつでも戻って来ていいと伝えた。それもあって、彼は行くことに決めたんだ。

 

ZANZIBARでの仮装パーティー Photo by Vincent Bryant

 

Tony Humphries:ロンドンの滞在期間を終えて帰ってきたら、店は大きく変わっていた。同じ店ではなくなっていた。ヒップホップ寄りになっていて、名前もBrick Cityに変わっていた。悲しかったけれど、その頃には俺は国際的な活躍の場が出来ていたから、最悪の事態は避けられた。

 

Larkie Rucker:私たちはみんな、「こんなに長く続いた店の名前を、なぜ変えてしまうんだ?」と思った。

 

Gerald T:ヒップホップになってから、Zanzibarは終わってしまった。喧嘩や刺傷事件や、色んなトラブルがあった。それまでにあそこを辞めていて良かったと思ったよ。

 

Larkie Rucker:それから間もなくして、クラブは閉店してしまった。2007年に、遂に全てが取り壊された。あの建物の取り壊しの写真を見ると、楽しかった頃のことを思い出してしまう。みんな家族みたいだったから。

 

Barbara Tucker:Tonyは隠れたヒーローなの。おおっぴらにハイになったり、大騒ぎしたり、誰かに取り入ろうとしたりするタイプじゃないから、「イケてる」DJたちのグループには入らないかもしれない。でも彼はここの人で、どこにも動かせない。彼は基盤を作り上げた人として、敬意を払われるべきだわ。

 

Gladys Pizarro:Zanzibarに行く前は、StudioやXenonといったニューヨークの商業的なクラブにしか行ったことがなくて、LimeやBobby Oなんかのレコードを買っていた。友達に「Gladys、これはダサい!ジャージーのクラブに俺と一緒に来い」と言われて足を踏み入れたら、オー・マイ・ゴッド —あんなサウンドシステムを体験したことはなかった。「Move Your Body」がかかっていて、TonyがDJをしていて、それがずっと続いた。決定的な体験だった。完全にぶっ飛ばされた。Zanzibarは俺の音楽に対する考え方をすっかり変えたよ。

 

Tony Humphries:今は素晴らしいアンダーグラウンドのパーティーがいっぱいあるけれど、あの頃のZanzibarに戻れたらいいなと思う。その後自分に起こったことには感謝しているし、いわゆる「世界的DJ」になれたのかもしれないが… 実はずっと、陸に上がってしまった魚みたいな気持ちがしているんだよね。

 

Gladys Pizarro:この話になると凄く感傷的になってしまうんだけど、あのクラブは俺の全てだった。俺の人生で大きな部分を占めていて、今の時代には存在しないような場所だから。あのサウンドシステム、Tonyのミックス技術、選曲… その全てが揃ってあの最高の時間があった。ただみんなで楽しむために集まるというああいう雰囲気が、今は欠けてしまっている。俺にとっては、それこそがハウス・ミュージックが意味するものなんだ。

 

 

写真集『A Journey Through The House』からの写真を使用させてくれたVincent Bryantに心から感謝します。この写真集についての詳細は、彼のウェブサイトをご覧下さい。タイトル写真はVincent Bryant撮影のDJ Gerald T. Roneyです。