十一月 11

YMO: 名曲を生み出したマシンたち

Yellow Magic Orchestraの音楽を支えたMIDI以前の機材変遷を田中雄二が解説

By Yuji Tanaka

 

YMOことイエロー・マジック・オーケストラが結成され、2回のワールド・ツアーを成功させたのは、70年代末から80年代初頭にかけて。ホンダ、ソニーが海外市場を席巻し、Ezra Vogel『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(79年)が書かれた時代だ。その後、ヤマハ、ローランド、コルグといった国産のシンセ・メーカーが海外に進出し、Moog、Arpといった先人メーカーと入れ替わるほどの世界的シェアを築くことになる。電子楽器の接続規格として今もスタンダードな「MIDI(ミュージカル・インストルメンツ・デジタル・インターフェース)」の策定を主導したのも、日本のローランド。創業者だった梯郁太郎は2013年、MIDIによってデジタル・レコーディングの手法が確立された歴史的偉業を讃えられ、グラミー賞技術部門賞をDave Smith(元Sequential Circuits)とともに受賞している。ヤマハ、ローランド、コルグ、Sequential Circuits、Oberheimの5つの主要楽器メーカーが手を結んで「MIDI」をスタートさせたのが84年。つまりYMOは「MIDI」が誕生する前のグループだった。

 

79年に行われたワールド・ツアーでステージを陣取っていたのは、Moog III-C、Polymoog、Arp Odyssey、Oberheim 8 Voiceといった舶来の高級楽器。Joseph Zawinulのような大がかりなステージセットを見て、「Weather Reportのようだ」と海外のプレスに指摘されたのは、あながち的外れではない。YMOが活躍していたのは、Moog、Arpなどの舶来楽器がスタジオの主役として君臨し、国産シンセの存在が断罪されていた時代。彼らYMO活躍で日本の電子音楽が世界的に注目を集め、それに応えるべく国内メーカーが力を付けていったことで、海外でも評価される国産人気モデルが生まれてきた歴史がある。

 

 

初期のYMOのステージの中心に鎮座ましていたのが、通称“タンス”と呼ばれる大型モジュラー・シンセサイザー、Moog IIIーC。レコーディング、ツアーでプログラマーとして活動をともにした「第4のメンバー」、松武秀樹の所有物だった。冨田勲のアシスタントとしてキャリアをスタートさせた松武は、黎明期のプログラマーのひとりで、メンバーと出会う前は、CM音楽、The Beatles、オールディーズ曲などをシンセサイザーでカヴァーする企画レコードなどに主に関わっていた。松武がYMOのレコーディングに最初に呼ばれたのは、デビュー・シングルとして計画されていた「ファイヤー・クラッカー」(後に『イエロー・マジック・オーケストラ』収録)の2度目のセッションのとき。参加しなかった1度目のレコーディングは、コンピュータなど介在しない、Solinaなどを使ったフュージョン・スタイルのものだったという。なぜYMOは最初からコンピュータを使わなかったのか? 細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人が、業界屈指の技巧派プレイヤーだったからである。

 

リーダーの細野晴臣が、ディスコ・インストゥルメンタル・グループとして新バンド構想を思い付いたのは77年。メンバーとして最初に声をかけたのは、林立夫(ティン・パン・アレー)、佐藤博(ハックルバック)といったフュージョン畑のプレイヤーだった。その誘いは実らず、彼らに変わる形で参加したのが、当時まだ無名だった高橋幸宏、坂本龍一であった。リズム・ボックスのクリックを聴きながら叩くことを、大半のドラマー拒絶した時代に(林立夫が加入を断った理由もこれだった)、好奇心旺盛だった高橋は、機械とのセッションに嬉々として取り組んだ。坂本は東京藝術大学大学院卒のアレンジャーで、ローランドから発売されたばかりのシーケンサー、MC-8を使って、自身のソロアルバム(『千のナイフ』)をレコーディング中であった。MC-8はGiorgio Moroderも使っていた、世界初のテンキー入力式デジタル・シーケンサー。「♩(四分音符)=48」というふうに音符を数値に置きかえて、電卓のようなテンキーで入力するという前時代のシロモノだった。坂本がコンピュータ録音に抵抗を持たなかったのは、大学時代にXenakis(クセナキス)などの電子音楽を研究していたからである。この時代にコンピュータを熟知し、ポピュラー音楽のレコーディングにその技術を持ち込めたのは、細野周辺のセッション・ミュージシャンではおそらく坂本龍一ただ1人であった。

 

 

「ファイヤー・クラッカー」の2度目のセッションで、コンピュータを使うアイデアが実践されるのは、細野がアメリカのディスコ・シーンで発見した、ドイツのKraftwerkの影響だった。人間のグルーヴ、演奏ムラの一切を拒絶する、彼らの打ち込み主体の音楽を聴いて、細野はすべての演奏力を放棄して脳の中にあるグルーヴだけを手掛かりにする、新グループのアイデアを着想する。そのためにプログラマーとして呼ばれたのが、坂本のソロアルバムを手伝っていた松武秀樹だった。人間のノリを解析し、「♩(四分音符)=48」を「47」「45」などの数値に微妙にズラして、肉感的でファンキーな演奏をコンピュータで再現してみせたのが、ファースト・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』である。

 

細野がこの時期、インストゥルメンタル・グループの結成を目論んでいたのは、唯一日本人が世界市場に打って出る可能性があったから。ドイツのKraftwerk、Giorgio Moroderらが、コンピュータの力を借りてハンディを克服し、アメリカのジョービジネス界で成功する先例もあった。幸運にもYMOは、デビューしてすぐにバーバンクのA&Mからアメリカ・デビューの誘いを受ける。海外バンドと同じスタート・ラインに立った3人が、この時期に衝撃を受けたのは、アクロン出身のポストパンク・グループ、Devoの登場だった。プロデューサーはUltra Vox、Talking Headsなど数々のニュー・ウェーヴバンドを世に出したBrian Eno。ミュータントのようなサウンドにシンセサイザーを利用していた彼らに倣い、一転して「リズムの解体」に向かった3人は、それまでの手法を一切捨てて、機械のジャストなビートに人間が合わせる発想の転換が行われる。こうして生まれたのがセカンド・アルバム『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』である。

 

グループ結成の準備期間に、細野は国産のコルグPS-3300を購入。『はらいそ』、『コチンの月』などのソロアルバムと同じように、初期YMOのレコーディングでは機材を持ち込んで、音作りも自ら行っていた。だが、松武のプログラミングや、Moog、Oberheimなどの舶来製シンセサイザーの音を聞いて、『増殖』以降はほどんど私物をスタジオに持ち込むことはなくなった。

 

YMOの活動拠点だった、アルファ・レコードが所有するAスタジオは、日本で初めて24チャンネルの録音設備を構えたスタジオである。Lexiconのデジタル・リヴァーヴ、ノイズゲートのキーペックスなど、国内でまだ珍しかった舶来製の高級エフェクターが設備されていた。コンソールも西海岸の最先鋭だったAPI。『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』は、国内で行われた最初期のコンピュミックスのひとつである。そんな舶来至上主義の現場で、唯一活躍していた国産電子楽器が、ローランドVP-330だろう。「テクノポリス」(『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』)の冒頭の「TOKIO」のロボット声を発する、声を変調するヴォコーダーである。続く『増殖』で3人は、Archie Bell & The Drells「Tighten Up」をカヴァーし、これを使ってヴォコーダーによるドゥワップを披露した。

 

 

スタジオグループとして構想されたYMOがライヴ活動を始めたのは、A&Mから海外デビューにあたって求められた、アメリカのショー・ビジネス界の商慣習に応えたもの。アルバム・プロモーションのためにゲストを迎えた即席バンドが作られ、Moog III-C、Polymoog、Oberheimなど、松武の会社から機材をレンタルしてアメリカに乗り込んだ。このとき坂本が演奏していた2台のArp Odysseyは、Herbie Hancockの影響を受けて購入した、坂本の私物であった。

 

YMOが画期的だったのは、いち早くライヴを実践したことだろう。MC-8をステージ上に上げて、コンピュータ・シンクロをやっていたロック・バンドは、YMOがほとんど唯一の存在だった。シーケンサーの1トラックをクリック音に宛て、その信号をメンバーのヘッドフォンに送って、出力されるシーケンスとの同期演奏を行っていた。パンクのように頭でカウントを叩かず、一斉に演奏が始まる光景を見て海外のオーディエンスは驚嘆したという。また、CPUを積んだコンピュータの一種でありながら、MC-8の最初のモデルには冷却ファンは付いてなかったという。カナダの涼しい気候で試作機が設計され、空調の効いたスタジオでの使用を想定していたためだ。残されたYMOのライヴ音源には、たびたびオーヴァーヒートしてシーケンサーが暴走する模様が記録されているが、ツアー後半になるとメンバーも慣れたもので、エラーも恐れずトラブルを克服するライヴ・バンドとしてのタフさが伝わってくる。本来は人力演奏に依存しないグループだったYMOが、知名度を上げたのはメンバーの演奏力によるところが大きかった。79年にはA&Mのレーベル・メイト、The Tubesからラヴ・コールを受け、LAの殿堂Greek Theaterで初の海外公演。前座でありながらアンコールを受け、この成功を糧にYMOは、79年、80年の2回にわたってワールド・ツアーを行うことになる。

 

 

その時代のシンセサイザーは大半がモノフォニック(短音)で、音色をメモリーする機能もまだなく、パラメータのセッティングには時間を要した。プリセット切り替えを瞬時に行える、ライヴ向けのポリフォニック・シンセサイザーが登場するのは、77年に発売されたSequential CircuitsのProphet5から。80年の第2回ワールド・ツアーからお目見えする、この利便性の高い次世代シンセサイザーの登場によって、以降のYMOの音作りがガラッと変わっていく。81年初頭、2度目の世界ツアーから帰国してすぐにレコーディングが開始したのが『BGM』。それまで、ライヴ用のリアレンジや、MC-8の数値打ち込みの橋渡し役を務めていた坂本龍一が、「キュー」のレコーディングをボイコットするという事件が起こる。「坂本不在」のハンディに屈せず、細野、高橋が自身でシンセサイザーを操作するようになるのもここから。使い慣れたProphet5を使い、『BGM』のほとんどのサウンドがこの1台で作られた。

 

また、それまでのYMOのレコーディングではほとんど使われなかった、インスタントなリズム・ボックスが初めて導入された。ローランド、TR-808である。80年暮れのワールド・ツアー最終日、東京・武道館公演の「1000のナイフ」のイントロで使われたのが最初で、『BGM』のリズムセクションにおいて重要な役割を担った。後にアメリカに渡り、ヒップホップ・シーンの誕生に大きく関わったこのマシンもまた、YMOを媒介に世界に知れ渡ることになった国産楽器のひとつである。ローランドがこの年に発売した、MC-8の次世代のシーケンサー、MC-4がスタジオに持ち込まれるのもこのとき。初めて鍵盤入力モードが搭載され、ミュージシャンでも打ち込めるようになったことで、細野はこの後、『浮気なぼくら』から自らMC-4のプログラミングも行うようになる。

 

YMOブームのさなか、「第4のメンバー」だった松武秀樹にもメディアからスポットが当たり、自身のグループ、ロジック・システムを80年に始動。このファースト・アルバム『ロジック』で、ヨーロッパ風な荘厳なシンフォニーを綴っていたのが、新入荷のE-muモジュールだった。YMOの第2回ワールド・ツアーのステージで先にお披露目され、「ライオット・イン・ラゴス」のイントロダクションで強烈なノイズ音を演出。アメリカの音楽大学を中心に普及していた、前衛音楽家のオーナーの多いE-muモジュールは、Moogのようなポピュラー向けと違った独特なノイズ発生器として、中期YMOのサウンドを支えることになった。

 

同年、ロジック・システムは早くも2作目のアルバムに着手。LAでレコーディングが行われたが、このとき松武はスタジオで、発売されたばかりの世界初のデジタル・ドラム、LM-1を体験する。ROMにドラムの音声データを焼き込み、フレーズを打ち込んで生のようなドラム・サウンドを鳴らせる、世界初のPCMリズム・マシン。Steely Dan『ガウチョ』(80年)の録音で、Roger Nicholsが自作した試作機がすでに使われていたが、その技術を初めて商品化したのがこれだった。このLM-1が高価なために買えないという事情から、松武は帰国後、国内のエンジニアに装置の制作を依頼。こうしてできたのがオーダーメイドのサンプラー、LMD-649である。ロジックの第3作がレコーディングされるより先に、YMOは『テクノデリック』のレコーディングでこの機械を使うチャンスを得た。ここで3人は、一斗缶を叩いた衝撃音や、工場のボーリング音、ガムラン、ケチャなどをサンプリングして、世界初の本格的サンプリング・アルバムがここに完成する。

 

 

『BGM』(3月)、『テクノデリック』(11月)と、名盤の誉れ高き2枚が、81年という同じ時期に一気に作られたことは驚嘆に値する。『テクノデリック』制作後の3人は結成以来の達成感の中におり、ほとんど解散同然の状況だったという。スタッフが期待する第3回ワールド・ツアーが行われなかったのは、東京人である自分たちが世界の先端を行っている自負があったからだろう。82年は約1年、YMOとしては休眠期間に充てられ、各々がソロアルバム制作に注力。坂本龍一『戦場のメリークリスマス』、細野晴臣『フィルハーモニー』、高橋幸宏『ボク、大丈夫』がリリースされ、いずれも高い評価を受けた。使いやすくなったデジタル・ツールの助けを得て、メンバー1人でもYMOのようなサウンドは作れる時代に。このとき3人には、もはやYMOの必要のない存在になってしまったのかもしれない。

 

最後の年、83年に作られた『浮気なぼくら』、『サーヴィス』の2枚のアルバムは、事務所が購入したLM-1、Emulator、Prophet5などのウェルメイドな楽器だけで作られた。レコーディングには専従の技術者が必要なくなり、松武秀樹はここから参加していない。初期のヒリヒリとしたニュー・ウェーヴな季節は過ぎ、DTMのラウンジ・ミュージックのようなポップな音に変貌していた。こうして後期のレパートリーを中心とした国内ファン向けの全国ツアーを終えて、YMOは83年の暮れに長い沈黙の期間に入っていく。

 

84年、ヤマハから発売された世界初のMIDI搭載デジタル・シンセサイザーDX-7は、世界の楽器シーンに驚嘆を持って迎えられた。飛躍的なプリセット数と、ピアノ、エレピなどの生々しい音は、それまでのアナログ・シンセサイザーの音色作りの限界を超越した。24万円台で16音ポリフォニック仕様。百万円台の舶来期が主役だったプロのスタジオでも十分使えるクオリティを持ち、それまでのコンシューマー/プロの壁は取り払われた。ニューヨークのトップ・ミュージシャンから、アフリカの民族音楽グループまでがDX-7を使って演奏する、グローバル時代に突入する。ローランドのJupiter8(81年)、コルグのM-1(88年)という、世界的ベストセラー機が次々生まれ、デジタル・インストゥルメンツ市場を日本がリードする時代に。それら国内メーカーの台頭とともにシーンを牽引していったのは、YMOを聴いて育った次世代のミュージシャンたちであった。

 

 

Title Image: From Yellow Magic Orchestra "Yellow Magic Orchestra"