八月 29

ワールドクラブ&フェスティバル ロゴ PART 2

あのクラブやあのフェスティバルのイメージはどのように作られたのか? 世界13のクラブとフェスティバルのロゴやデザインの歴史と経緯を2回に分けて追っていく

By Gabriel Szatan

 

クラブやフェスティバルのオリジナルヴィジュアルIDの創出は意外と難しい。高機能のソフトウェアがレイヤーの重ねすぎや過剰な装飾による「やり過ぎ」を簡単に許してしまい、クラブを輝かせるはずが目の毒になってしまう。また、アシッドハウスのド派手なクリエイティビティやパンクのカット&ペーストの美学でさえも今は何回も繰り返し使用されるトロープと化している。しかし、有り難いことに、いくつかのクラブやフェスティバルがこのような流れとは異なるデザインを打ち出している。

 

その中には長い歴史を誇る存在があれば、ほんの数年前に生まれたばかりの存在もあるが、どちらも常識をスレッジハンマーで打ち砕きながら独自の歴史を築き上げている。そして、太古から伝わるカリグラフィーにモダンなテクニックを精緻に組み合わせたデザインがあれば、適当に描いた落書きが残り続けたデザインもある。政治的メッセージが添えられたシンボルからマスコットが全面に散りばめられているフライヤーまで、どれもが非常にユニークだ。

 

RBMAはこれまでに特定の地域のアーティストロゴやレーベルロゴのデザインにフォーカスした記事を発表してきたが(最下部参照)、今回は地理的範囲を広げつつ選出基準を絞り込み、南極を除く6大陸に存在する13のフェスティバルとクラブをピックアップした。それぞれに自分たちを表現するロゴが生まれるまでのプロセスやデザインにまつわるユニークなストーリーを語ってもらい、現地へ行かなくても、またはそこでプレイされている音楽が好きではなくても、デザインを楽しんでもらえるようになっている。

 

今回紹介しているバラエティに富んだ13のデザインに共通しているのは、ひと目見ただけですぐに判別できるという謎のクオリティ “覚えやすさ” だ。

 

Part 1はこちら>>

 

 

 

 

Opium(リトアニア・ヴィリニュス)

 

 

© Opium

 

 

2019年、Opiumはヴィリニュスのベストクラブのひとつに数えられており、バルト三国のRobert Johnsonという評価も得ている。貸し切りパーティのような親密さと活気が感じられるこの小箱は、インターナショナルDJたちから “グッドタイム” そのものだと称賛されている。

 

しかし、Opiumの起源はそこまでインスピレーショナルではない。2009年、アジアンフュージョンレストランの地下を使って近所のクラブのアフターアワー用スペースを用意しようという実にシンプルなアイディアがその起源で、店名も上階のテーマ「アジア」から連想されただけだ。しかし、評判が高まっていくにつれて、「フュージョンエナジーが感じられる場所になった。エクレクティックな音楽性を備えた、異なるルックスとインクルーシブな社会を受け容れるスペースになったんだ」とプログラミングのヘッドを務めるVidmantas Čepkauskasはコメントしている。

 

Čepkauskasは「ヴィリニュスにはリトアニア版バウハウスのような国を代表するようなデザイン学校やムーブメントはひとつもなかった。20世紀初頭までに積み重ねられていたすべてはソビエトの占領によって突然終わってしまった。だから今は色々なものがごっちゃになっている」と説明している。その結果、参考にできるものが何もなかったのだが、これが逆にクラブらしいライティングの代わりに常に変化するビデオプロジェクションを投影するというアイディアを生み出した。そして、壁が艶のあるホワイトに塗られると「雪山のど真ん中にいるような感覚になったから、イエティをデザインに加えることにした」(Čepkauskas)。ちなみに、リトアニア語に “イエティ” の直訳は存在せず、Čepkauskasも会話の中では “雪の中にいる野人” と表現していた。

 

当初、OpiumのロゴデザインはAndrius Lėkštutisが担当したが、多種多様なプロモーション用アートワークにイエティを加えたのはVytis Gruzdysだった。Čepkauskasはこのロゴがくだらない理由で一時保留になったことを認めている。リトアニア国家特許局(State Patent Bureau of the Republic of Lithuania)がオピオイドとの繋がりからOpiumという店名の商標登録を一時認めなかったのだ。

 

ロマンティックな人なら、イエティのぼんやりとしたシルエットは汗ばんだ夜の遊び場にパーフェクトだと思うかもしれない。また、このページ上では分からないかもしれないが、Čepkauskasは「イエティの目は燃えている。しかもただの炎じゃない。電気の炎なんだ。イエティは帯電していて、その目からスペシャルなエナジーとパワーを放っているんだ」と説明している。ヴィリニュスにおけるOpiumと同じなのだ。

 

 

 

 

Rainbow Disco Club(日本)

 

 

© Rainbow Disco Club

 

 

Rainbow Disco Clubの創設者3人はイベントのイメージの確立とイベントの管理運営を長年続けてきた。2000年代半ば、Carlos GibbsはLaurent Novatinと “赤いキューブ(REDBOX)” をビジュアルキーアイテムとして用意したパーティREDBOX PROJECTを東京で定期的に開催し、自分たちのパーティへの注目度を高めていった。REDBOXは自分たちの野心を示すシンボルであり、話のネタであり、スナップ撮影用の面白い小道具でもあった。

 

その後2人は、同じく東京で別のパーティRaft Tokyoを立ち上げていたMasahiro Tsuchiyaと出会うと、3人で大型のハロウィンパーティやカウントダウンパーティを仕掛けるようになる。そして2009年、自分たちのクリエイティブなアイディアをより制限なく表現するため、そしてパーティの規模をスケールアップさせるため、3人はアウトドアフェスティバルの開催を決定する。現在上海に住むGibbsは「Masa(Masahiro)はテレビ番組のロケハンを仕事にしていて、俺は大学でステージデザインを学んでいた。ロケーションを見つけるのがMasaの仕事で、そこをキュートなルックスに仕上げるのが俺の仕事なんだ」と説明している。

 

Rainbow Disco Clubの魅力の構成要素はキュートさとクラッシーさだ。細かい装飾とカラフルな色調を備えた村祭りのようなバイブスは、このフェスティバルでプレイしているワールドクラスのセレクターたちにも備わっている。そして、チアリーダーのようにはしゃぐ子供たちとDJがブースに一緒にいるチャーミングな写真は国外の様々な年齢層の人たちを日本で楽しい時間を過ごしたいと思わせる格好のプロモーションになっている。決定打は伊豆の緑豊かな自然で、ピラミッド型のメインステージと逆ピラミッド型のネオンライトに最高のバックドロップを提供している。

 

Rainbow Disco ClubのロゴはGibbsの手描きだ。最初は正式名称で描かれていたが、やがて頭文字を一筆書きしたようなクラッシーなロゴになった。Gibbsが言うところの「スペースのシンプルな魅力」がプロダクションとブランディングに活かされている。フライヤーとポスターのデザインはレジデントDJのひとり、Kikiorixが担当している。ここ数年は2017年のテーマ「Beyond Space And Time」をベースに展開されており、UFO、ピラミッド、曲線、を組み合わせたデザインになっている。この「折衷案」的デザインが醸し出すミステリアスなスペーストラベルへのノスタルジックなフィーリングが、Gibbsのような40代後半のトレッキーや、DJ Harveyのプレイを毎回熱心にチェックしているような少し下の世代のパーティファン、または両世代の子供たちに訴求している。

 

Gibbsが経営するTexture GroupがRainbow Disco Clubのサブイベントで使用する小道具や装飾の製作と輸送を担当している。バリのPotato Headの贅沢なビーチフロントやRush Hourと共催しているADEのインダストリアルヴェニューを含む世界のどこで開催されてもこのフェスティバルのイメージが保たれるようになっており、最低でもネオンライトだけはどのヴェニューに持ち込まれている。幾何学デザインで人を惹きつける彼らの才覚は失われていない。

 

 

 

 

Smartbar(シカゴ)

 

 

© Smartbar

 

 

これまでSmartbarのロゴのバックストーリーが公に語られたことはなかった。「誰も質問しなかったからさ」と笑いながら言うのが、このクラブを1982年に立ち上げたJoe Shanahanだ。本記事執筆のための質問状がプレス担当の元へ届いた時、Shanahanは自ら話をすることに決めた。なぜなら、このロゴのタトゥーを入れたり、ピンバッジを付けたり、ジャケット用パッチを製作したりしているレジデントDJや常連、スタッフは多いが、その中の誰ひとりとして本当の起源を知らないからだ。このロゴがクリーニング店のレシートからShanahanが拝借したものだということに気付いていたら、彼らはその場で手を止めていたかもしれない。

 

1980年、ウェイター兼バーテンダーとして働いていたShanahanは「定期的にシャツとスラックスをクリーニングに出す必要があった」。ある日、今はもう存在しないクリーニング店、The Tic Toc Cotton Shops(1973年撮影の写真で確認できる)へ向かったShanahanがメモを取る必要に迫られると、店員がメモ用紙代わりにレシートブックを渡してくれた。そして、その左上に配置されていたロゴのシンプルなデザインが彼に強い印象を与えることになった。

 

Shanahanはロゴ上部の「Latest Creations」を自分が最初に立ち上げた制作会社の社名に使用すると、向き合っている女性を様々な形で使用してSmartbarをプロモートしていった。Shanahanは「Smartbarのエンジンに火を入れたあと、2人の女性を円の中に入れて、その下に “Chicago” と記したんだ」と振り返っている。パンクのカット&ペーストとMalcolm McLarenの他人のIPをフレキシブルに拝借するデザインの大ファンだった彼の "他者から盗んだデザイン" が明るみに出ることはなかった。Shanahanは「こっちとしても変えるつもりはなかった。力強いイメージで持続性があるからね」と付け加えている。

 

 

 

"こちらを向いている女性と背を向けている女性の組み合わせはSmartbarそのものだ。未来へ勇敢に進みながら、すべての礎である過去を讃える場所なんだ"

 

 

 

Smartbarという店名はJohn Kennedy Tooleのカルト小説『A Confederacy of Dunces』から取られている。ニューオーリンズのフレンチクォーターに集まっていた酔客たちの適当な会話の中からもっと良い店で飲もうというアイディアが生まれ、「Let’s go to a smart bar / スマートなバーへ行こう」というセリフが放たれる。米国文学史の中におけるこの小説と同じように、このクラブは “ハウスのホットスポット” として音楽史に刻まれている。

 

1980年代、Frankie Knucklesが最初のレジデントDJとなり、ニューサウンドとしてのハウスがブレイクすると、Shanahanはこのロゴの中にさらなる意味を見出すようになった。こちらを向いている女性と背を向けている女性の組み合わせは「Smartbarそのものだ」とShanahanは説明し、次のように続ける。「未来へ勇敢に進みながら、すべての礎である過去を讃える場所なんだ」

 

Smartbarと同じ建物に入っている、Smartbarよりも広いライブヴェニューMetro ChicagoはSmartbarとは異なりデザインを数回変えている。ナプキンの裏に殴り描いたような汚らしいデザインを長年維持したあと、もう少しキャバレー的なデザインに変わった。しかし、シカゴを「湖に面したマンチェスター」と呼んで好んでいたNew OrderやHaçiendaのDJ陣、そして他のハウスファンと同時期にShanahanと懇意になっていたPeter Savilleからそのデザインをやんわりと否定されたことで、ShanahanはSavilleにロゴデザインをオファーすることにした。「自分たちの世代を代表するグラフィックデザイナーのひとりにロゴの再デザインを頼むってのはちょっと無謀な話だった。でも、数ヶ月後にアルファベットのフルセットとサークルがあしらわれたMを受け取ったんだ」

 

Shanahanはクラシックなデザインを好んでいるが、この再デザインを機にアートや音楽は常に何かしらの変化を加えられる運命にあることを理解した。「休暇中にJoy Division『Unknown Pleasures』のアートワークをパクって、その下に “Corsica” と入れてある土産物のTシャツを見かけたから、アルバム40周年のタイミングでそのTシャツをPeterに送ったんだ。 “クソ40周年おめでとう!” ってね。今度は同じデザインで “Smartbar” って入れたTシャツを地元で作ってマンチェスターの連中に送ろうと思ってるんだ。気に入ってくれるはずさ」

 

 

 

 

The Stud(サンフランシスコ)

 

 

© The Stud

 

 

The Studの歴史は長い。このヴェニューは1966年5月27日にオープンした。当時は楽に移動できる蹄鉄型のバーカウンターや体を預けられる干し草の山など、カントリー&ウエスタンをテーマにしたありとあらゆるものが置かれていたが、そこからは社会的・文化的進化を反映させながら様々な “サンフランシスコ初” を記録していくことになる。The Studは女性バーテンダーを入れた初のゲイバーとなり、アーナーキーでエクスペリメンタルなドラァグショーのパイオニアとなり、『ル・ポールのドラァグ・レース』のようなテレビ番組が人気を獲得する下地を作り、どこよりも先にヒップホップやテクノに特化したパーティを開催した。

 

移転、そして2016年の再開発の煽りを受けた存続危機を経て、The StudはアーティストやDJを含むコレクティブが経営するイノベーティブな共同経営に切り替わり、サンフランシスコの家賃高騰とそれに伴うアートシーンへのしわ寄せと対峙しながら存続することが決定した。17人で構成される共同経営陣のメンバーで、RBMAに定期的に寄稿しているコラムニストでもあるMarke Bieschkeは自分たちを「ノイジークイーンたちのパワーに再び目覚めた人々」と説明する。「ノイジークイーンたちのパワーに目覚めた人々」 ― The Studの胆力と魅力を端的にまとめている表現だ。

 

The Studのロゴは今回紹介している中でもっとも飾り気のないものに思える。カントリー&ウェスタンのルーツを感じさせるタイプフェイスでデザインされており、ブラックの太字がスペースの大半を埋めている。Bieschkeはこのロゴを「記号学専攻のロラン・バルト信者でグラフィックデザイン歴史オタクの作品」と評しているが、長年使われてきたこのヴィジュアルイメージはこのヴェニューに不変の価値を与えている。

 

Bieschkeは「ひと目見ただけで、ローカルたちはサンフランシスコのクィアの長い歴史の貴重な思い出と、ここがあらゆるジェンダーやセクシュアリティ、体系、人種の受容の先導役であり続けてきたことを思い出すんだ。ブランディングの重要性と脱構築を押し出してきたサンフランシスコのパンクとレイブの歴史が僕たちにこのロゴを守らせてきた。リブランディングのトレンドに乗っかる代わりにね」と説明している。

 

デザイナー/PRマネージャーのNeven RajaやイベントプログラマーのSiobhan Aluvalotを含む現在の経営陣 “The Stud Collective” の他のメンバーたちは、The Studが革に身を包んだ男たちが集まる場所からEtta Jamesが時折立ち寄る場所へと変わったにもかかわらず、「カルチャーの守り人」として “非公開” の役割を担っている。The Studでは、Ben UFOとOcto Octaのオールナイトパーティからトランスジェンダーファッションショー、フェムのバーレスクナイトまでが開催されているため、「各イベントのパーソナリティの一部を隠さないことには全体的なブランディングをするなんて到底不可能だった」(Bieschke)。The Studのフライヤーの中で唯一共通しているのは、誰もが理解できる、一直線に並べられたカウボーイ時代から続く4文字だけだ。

 

フォントDurangoとほぼ一緒のThe Studのロゴにはたった1度だけほんの少し手が加えられた。「 “皮肉なほどジェネリック” だった1990年代のブランディングトレンドの中、少し角張ったデザインに変更された」とBieschkeは説明し、「セリフが少し強調された」と続けている。この変更はその10年前のある事件と共にこのヴェニューの歴史に刻まれている。アーティストのNayland Blackが「DUST」と書かれたフラッグとバナーを持って市内を練り歩いたというその事件は、AIDSの恐怖をアピールするためのもので、1990年代の文化戦争中に発生するThe Studへの外圧 — 営業終了に追い込まれていた可能性があった — を予見していた。

 

しかし、これらの出来事があったにもかかわらず、9th AvenueとHarrison Streetの交差点に位置するThe Studの外には、Folsom Streetと10th Avenueの交差点に位置していた旧店舗にかかっていた看板がそのままかかっている。現店舗には長い時代を生き抜いてきたオリジナルのバージョンと90度の位置に内部に電球が追加された大型バージョンも設置されているが、半世紀に及ぶ様々な混乱や変化を経てもオリジナルの看板の輝きは失われていない。

 

 

 

 

Trade(ロンドン)

 

 

© Trade

 

 

UKのクラブナイトの中で、Tradeほどの悪評と逸脱ぶりを誇っていたものは存在しないに等しい。1990年にLaurence Maliceによって立ち上げられたあと姿形を変えながら25年間開催されたこのクラブナイトは、今はなきTurnmillsでの “日曜開催” で知られている。付近の食肉市場が開く午前3時にハードハウスを鳴らし始めて昼過ぎまで続いたこのイベントは多くの熱狂的ファンを生み出すことになり、その人気ぶりは病に蝕まれていた常連客のひとりが「Tony de Vitのプレイ中に遺灰をフロアに撒いてくれ」という遺書を残すほどだった。

 

「Tradeでは売春婦、ギャングスタ、レイブクイーン、フーリガン、母親同伴の奴なんかと一緒に踊ることになった」と振り返るのは、デザインのテクノロジーが手描きのイラストやコピー機からデジタルへ移行するのに合わせて、このクラブナイトのデザインをTradeMark aka Mark Wardelから徐々に引き継いでいったデザイナーMartin Brown aka B-ARTだ。「奇天烈な若者たちが集まる狂乱のユースクラブのような雰囲気だったね。パーティ自体は完全にダンテの神曲 “地獄篇” レベルでクレイジーだったけど、ビジネスとしては問題なく回っていた」

 

ロゴが用意されないままスタートして半年が過ぎると、WardelがMantronixのレコードジャケットからデザインを拝借したあとフォントEurostileで「Trade」を配置した、当時クラブシーンで人気だったスピードのカプセルを模したデザインを考案した。元々はTシャツ用デザインとして用意されたこのロゴは最後の “e” が強調されており、さらにはサブタイトルとして「No Speed Limit」もあしらわれていたため、 “分かる人には分かる” ようになっていた。世間知らずの警察は気付かなかったが、オーディエンスはその意味をしっかりと理解していた。

 

Tradeの1年目、スタッフは “実情を確認” するべくニューヨークへ向かったが、この視察は失敗に終わった。Wardelはにやりと笑いながら「何も見つけられなかったし、むしろ迷い込んで終わった」と回答しているが、やがて「ポップアート・冷戦時代・バスキア」という3本柱がインスピレーションの源として固定された。またBrownは、Tradeの「隠されたユーモア」の才能はすぐに様々な「リスキーで罰当たり」な広告やフライヤーに活かされるようになったと振り返っている。

 

21世紀が迫り、ロゴがY2K的な方向性で再デザインされたあとも彼らのユーモアセンスが失われることはなかった。しかし、彼らには世間に「笑えない気分」があることを思い知った経験がある。毎年、イースターに「Res-Erection」(キリストの復活を意味する “Resurrection” と勃起を意味する “Erection” をかけている)を打ち出し、クリスマスには「White Christmas」(ドラッグと雪をかけている)を打ち出して世間から反感を買っていたTradeは、2001年秋に予定されていたUSでのイベントがすべて延期されてしまった。また、1997年以降はダイアナ妃を模したイラストやイメージのフライヤーや印刷物での使用を禁止された。

 

WardelとBrownは、企業的でおとなしいプロモーションの時代だった2000年代を経て、AdonisChapter 10のようなロンドンのクィアパーティが近年再び自分たちのような人を食ったプロモーションを展開していることを楽しそうに話すが、悪ふざけでファンベースを増やしていくというTradeの戦略が今後繰り返されることはないだろう。Brownは次のように振り返っている。「バレンタインカードを2,000枚送った年があった。表紙にハートが描かれているシンプルなデザインで、 “Tradeで会いましょう。いつもの場所で” という手書きのメッセージを添えたのさ。ロンドン中がこのカードを受け取ったんだ。パートナーに “どういうこと!” って言われながらね」

 

 

 

 

Video Club(コロンビア・ボゴタ)

 

 

© Video Club

 

 

2016年にオープンしたVideo Clubはボゴタ都市部と近年高く評価されているコロンビアのエレクトロニック・ミュージックシーンにとって重要な場所だ。

 

建築家、インテリアデザイナー、プロモーター、インベスターなどを含む28人強のグループに支えられているこの2階建てのヴェニューの内部は非常に良く考えられており、あらゆる部分が美しいハーモニーを奏でている。ボゴタの工業地帯と古いレストランから集めて再利用したレンガの壁や天井は歴史の重みを感じさせ、上階に置かれているPiet Mondrianの作風を模したステンドグラスが日光を取り入れながらそこに置かれている機材群を自然で補完している。また、ルーフトップテラスはダンスフロアの延長上に位置しているため、アンデス地方特有の快適な気候の中、通年でリラックスできる。

 

しかし、このような内部の細かな拘りはこのクラブの対外イメージには一切持ち込まれていない。Video Clubの外観はチープで、ログも分かりにくいがBarbie人形から拝借したものだ。

 

プログラミングとレジデントDJを担当するEnrique Leonは細部まで拘っているインテリアや装飾とチープなロゴや外観の分裂はある意味意図的だとしている。このロゴをデザインした、ボゴタのギャラリーや展示会を中心に活躍しているアーティストSofía Reyesについて、Leonは「強烈な分裂のオーラを備えている人物」と評価している。

 

Video Clubのロゴは、NASAをもじったバージョン、ひねりが加えられているバージョン、ローファイなバージョン、ケバケバしいバージョンなどがフライヤーに用いられてきたが、これらすべては “醜悪” というテーマでまとめられている。しかし、 “醜悪” は誰もが喜ぶテーマではない。Leonは次のように振り返っている。「数年前にSolarとTyrel Williamsを呼んで、パーティのSNS用素材をシェアしてもらうように頼んだんだ。で、Sofíaはトラックに轢かれるダミー人形の動画を素材として用意したんだけど、エージェントは嫌がっていた。自分たちのアーティストのイメージには合わないと文句を言ってきたんだ。僕たちは “なるほどね。でも、そっちが僕たちを理解できていないんじゃないの?” って返した」

 

Video Clubのブッキングポリシーは「カッティングエッジなハウス・テクノ・ラテンディアスポラの変異体クラブミュージック」だが、このポリシーを貫くのさえもボゴタでは簡単ではない。LeonはメキシコシティのクラブYu YuやコペンハーゲンのパーティSelf Disruptなどが自分たちと似た美学と音楽的方向性を打ち出しているが、彼らの方が簡単に境界線を越えたものをプッシュできているとしており、「この方向性を続けるべきなのか? 自分たちは正しいのか? と疑問に思う時があるよ。他のクラブはクールなフォントや美しいグラフィックデザインを用意していて、上品に自分たちをアピールしているじゃないかってね」と続けている。しかし、Sofía Reyesのスタイルは、他とは違う何かを提供するというVideo Clubのミッションとその高貴なる追求の冒険性を完全(不完全)に体現しているということに彼らは気付いている。

 

 

 

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《過去記事》

NYの音楽シーンを代表するロゴデザイン22(Mar. 2014)

NY MUSIC LOGO(July. 2016)

LONDON MUSIC LOGOS(Sep. 2016)

 

 

Header Image:© Johannes Ammler

 

 

30. Aug. 2019