九月 19

Tony Allenが語るFela Kutiとの出会い

ナイジェリア出身の稀代のドラマーの人生を変えた、パートナーとの出会い

By Tony Allen

 

「Tony Allenがいなかったら、アフロビートはこの世に存在していなかった」 − かつてFela Kutiは長年のパートナーだったこの稀代のドラマーについてこう称賛した。ナイジェリア・ラゴス出身のTony Allenはハイライフシーンを通じて、Art Blakeyなどアメリカのジャズのパイオニアたちをモデルにしながらアフリカとアメリカの音楽の最も優れた部分を融合させて生み出した独自のドラミングを世に知らしめた。2007年にカナダ・トロントで開催されたRed Bull Music Academyでレクチャーを行ったTony Allenは、そこでFela Kutiとの出会いについて語ってくれた。AllenはFala Kutiと出会った後、1968年から1979年までFela Kutiが率いる革新的なバンドに在籍した。

 

Blue Noteの作品がナイジェリアで聴けるようになり始めた頃に私はArt Blakeyの音楽に出会い、「ワオ! これは他とは違うぞ。Gene Krupaのようなスタイルじゃない。ジャズだが違うタイプだ。Blakeyの方が私好みだな」と思った。そして私はArt BlakeyやJo Jonesのサウンドにのめり込んでいった。何故なら、Art Blakeyのサウンドはひとりのドラマーのサウンドには聴こえなかったからだ。複数のドラマーが叩いているようなサウンドだった。私は彼の作品を聴きながら、「ドラマーはひとりだけだろうか? シンバルやハットを担当している別のドラマーがいるのではないだろうか?」と考えていた。そして、もし彼がひとりで叩いているのだとしたら、自分もそうなる必要があると感じていた。彼は私のアイドルだった。そして当時の私はまだ自分のスタイルを模索している状況だった。

 

 

自分で演奏していて気が付いたのは、いわゆる偉大なドラマーと言われていた私の先輩たちのドラムには、ハイハット用のペダルとキック用のペダルが用意されていたが、彼らのドラミングを見ている限り、彼らはハイハットを使っていなかったという点だった。彼らはハイハットをクローズした状態で、上を叩いているだけだった。私は納得がいかなかった。他のハイハットの演奏方法があるはずだった。全く納得いかなかった。何かがおかしかった。完全ではなかった。ハイハットが活用されていなかったからだ。私は「どうやったらハイハットを使えるようになるのだろう?」と思っていた。それである日、当時毎月買っていた『Downbeat』誌を買うと、丁度真ん中あたりの2ページでハイハットの特集が組まれていた。「これだ!」と私は思った。そこには誰も演奏しているのを見たことがないようなハイハットの使い方が書いてあった。読んだ私は、「これはチャレンジだぞ」と思い、毎日午後になると練習に励み、それまでの自分の演奏に組み込もうとした。その作業は簡単ではなく、しばらく時間がかかった。そして、それができるようになった時、私はようやく「これで何のストレスもなく演奏できる」と感じることができ、地元のドラマーたちがこぞって見に来るような存在になれた。

 

彼らは「Tony!どうやって演奏しているんだい?」と訊ねてきた。「ただ演奏しているだけさ」と私は答えた。音楽は以前から演奏していたものだった。だが、突如としてそこに新しい要素が加わったことに彼らは気がつき、私のことをクレイジーだと思うようになった。私はそう思われても別に気にならなかった。Felaに出会う前の段階で、私はそのスタイルを手に入れることが出来た。

 

私がFelaに出会ったのは、彼が留学から戻ってきた頃だった。当時彼はNigerian Radio Corporationの司会として働いていて、金曜日の夜に古いジャズを流すという番組を持っていたが、彼はミュージシャンだったので、ナイジェリアに戻ってからもバンドで活動したいと考えていた。そこで彼はその番組でレコードをプレイする代わりにバンドを結成して、レコードの内容をコピーして演奏するというスタイルを取ることにした。それで彼は毎回30分、計13回という3カ月の放送内容を約3日間でレコーディングした。

 

 

Felaがナイジェリアに戻ってきた頃、私は定期的にバンド活動をしていた。Felaはジャズをやろうと考えていて、3人のドラマーをテストした。3人のテストは私をテストする前に行われた。私はこの3人と以前一緒にプレイしたことがあったので、彼らが素晴らしいドラマーたちだということを知っていた。しかし、Felaは彼らとプレイすると「駄目だ、駄目だ! この国にはドラマーがいないな。お前らドラムが叩けないじゃないか」と言い始めた。そしてこれを聞いたベーシストが、「いやいや、まだひとり残っていますよ」と彼に教えた。Felaは「上手いと言われる奴らは全員試したぞ?」と返したが、ベーシストは「Tony Allenがいます。同じバンドでプレイしているんです」と答えた。こうして私がテストを受けることになった。

 

彼の家へ招かれた私は、彼の機材が置いてあるラジオ局へ移動した。「Tony、12小節のブルースを演奏できるか?」「ええ。大丈夫です」「ソロも取れるか? 俺とお前で4小節ずつ回す感じで」「ええ」こういう会話の後、彼はトランペットを取り、私はドラムに座った。そして12小節のブルースを演奏した。3周目に入ると、彼が「ストップ! ストップ!」と言った。私は何か問題があったのかと思い彼にそう訊ねると、彼は「違う」と言い、私を見てからコントロールルームにいる男と会話を始めた。「おい! 今の演奏聴いていたか?」「ええ。聴いていましたよ」「1周目のTonyの演奏を聴いたか? 2周目のTonyの演奏を聴いたか? 3周目も聴いたか? 今までこういう演奏を聴いたことがあったか?」「いや、ありません」「あー! 分かった。じゃあ続けよう。今度はお互いにソロを取るぞ」それでFelaが最初の4小節、続いて私が4小節という形でソロを演奏した。私が2回目のソロを取ると、彼は「ストップ! お前どこでドラムを学んだんだ? アメリカか? UKか?」と訊ねてきた。私が「いいえ、すべてナイジェリアで学びました」と返すと、「お前のプレイは凄いぞ。お前のプレイスタイルならパーカッショニストも必要ない」と言われた。彼と出会った当時、私はまだ定期的なバンド活動を行っていたが、この出会いでその生活は終ることになった。

 

Felaとの活動はジャズに特化していた。 当時私は彼との活動の他に自分のバンドを抱えていたが、1年経つと、彼は他の活動にも参加したいと思うようになっていた。地元の音楽シーンではハイライフのバンドが幅を利かせていたので、Felaも独自のハイライフバンドの結成を考えていた。私は「可能だと思いますよ。好きなことをやればいいんですよ」と進言した。ある晩、私がバンドとして働いていたクラブへFela本人と、彼と一緒にラジオ番組を制作していた彼のアシスタントマネージャーがやってきた。そしてそのアシスタントマネージャーが、「Tony! Felaがここの仕事を辞めるべきだって言っているぞ」と言ってきた。「どういうことですか?」私がこう返すと、彼は「Felaが新しくバンドを組むから、ここを辞めろと言っているんだ」と続けた。私は「新しいバンド? 方向性さえ決まってないのに?」と思った。それは安定した仕事を捨て、再び不安定な生活に戻るということを意味した。だが、私は「何かを手に入れるには何かを捨てなければならないのでは?」と考え、意志を固めて仕事を辞めようと思った。そこで私は、「月末まで待ってもらえますか? 給料をもらいたいし、店側を説得したいので」と頼んだ。2人は私が冗談を言っていると思ったが、私はFelaと活動を共にすれば、どういうタイプになるにせよ、特別なドラマーになれると感じていた。そしてそのレベルに自分を引き上げてくれるのは彼しかいないと感じていた。賭けだったが、私は給料を受け取って仕事を辞めた。クラブのマネージャーは「給料が安いなら、もっと払うよ」と申し出てくれたが、私は「給料の話じゃないんです。私の将来の話なんです。ここのバンドは停滞しています。もう飽きてしまいました。今のバンドでは自分が成長できないんです」と説明し、「辞職を許してください」と頼んだ。マネージャーには「自分が何をしようとしているのか分かっているのかい?」と言われたが、私は「ええ。でもチャレンジしなければならないんです」と答えた。私にはFelaは天才だという確信があった。今まで会ったことが無いタイプだと。だから彼についていくことにした。