五月 09

テクノがハウスだった頃

シカゴがテクノの誕生に与えた影響を振り返る

By Jacob Arnold

 

昨今、テクノとハウスは大きく異なる音楽ジャンルとして扱われているが、かつてこの2つは我々の想像以上に重なり合っていた。

 

最終的にデトロイトのアーティストたちは自分たちのサウンドを確立させることになるのだが、Belleville Three(Juan Atkins、Derrick May、Kevin Saunderson)は、自分たちがシカゴから大きな影響を受けていることを以前から認めており、かつてのシカゴとデトロイト間には有意義な音楽的な会話が存在していたとしている(DJ HistoryのBill BrewsterとFrank Broughtonは、テクノをこの世に送り出すきっかけとなった、UKの10 Recordsが1988年にリリースしたコンピレーションアルバム『Techno! The New Dance Sound of Detroit』は、元々『The House Sound of Detroit』というタイトルでリリースされる予定だったとしている)。

 

1980年代初めのシカゴとデトロイトのダンスミュージックシーンには共通点がいくつもあった。たとえば、ディスコ衰退後、両都市のDJとプロモーターはアフリカ系ティーンエイジャーがニューウェーブやシンセポップの輸入盤に合わせて踊れる “プレッピー” なパーティを打ち出しており、車で約4時間の距離にある両都市には伝統的なR&Bラジオ局の深夜番組でフリーフォームな音楽をオンエアする人気ラジオパーソナリティもいた。また、両都市のゲイクラブのDJたちは、自分たちが生み出したビートマッチやリミックスなどの"革命" によってストレートな客層を惹きつけ、クロスオーバーな人気を獲得していた。

 

 

 

"ほぼ一夜にしてハウスミュージックは収益性の高いビジネスとなり、デトロイトのアーティストたちもこの動きに注目した"

 

 

 

デトロイト初のエレクトロニック・ダンスミュージックのレコードは、1981年にリリースされたA Number of Names「Sharevari」とCybotron(Juan Atkins & Rik Davis)「Alleys of Your Mind」で、これらはシカゴよりも先んじていたが、他のアーティストたちに道を開くきっかけにはならなかった。また、シカゴもデトロイトと同じく中々シーンに火がつかなかったが、あるトラックが突如として海外でヒットしたことで一気に注目を集めた。

 

ハウスミュージック初のビッグヒットはシカゴのJ.M. Silkが生み出したトラックだった。1985年9月にリリースされた「Music Is The Key」は、レーベルのD.J. Internationalが売り込みに苦労したにも関わらず、USだけで85,000枚が売れ、Billboardのダンスチャートの9位に入った。そして翌年、J.M. SilkがメジャーのRCA、London Recordsと契約を結ぶと、「Jack Your Body」がUKシングルチャートナンバーワンヒットを記録した。ほぼ一夜にしてハウスミュージックは収益性の高いビジネスとなり、デトロイトのアーティストたちもこの動きに注目した。

 

 

Steve “Silk” Hurley / Stacey “Hotwax” Hale / Jamie Principle / Keith Nunnally © Courtesy of Stacey Hale 

 

 

すぐに数人の非公式 “アンバサダー” が、シカゴ産ハウスミュージックをモーターシティに持ち込むようになった。デトロイト出身のDJ、Stacey “Hotwaxx” Haleはそのひとりだった。WGPRで放送されていたThe Electrifying Mojoの番組用にDJミックスを提供していた彼女は、デトロイトのラジオ局で初めてハウスミュージックをプレイしたDJのひとりとなった。本人は「シカゴはわたしの第2の故郷なのよ。シカゴに出向いてはD.J. InternationalやTraxから大量のレコードを手に入れて、デトロイトに持ち帰ってプレイしていたわ」と振り返っている。

 

Haleは昔から音楽好きだった。一軒家の地下で開催されるハウスパーティで踊り続けるために、16歳の頃からダンスミュージックを詰め込んだオープンリールの制作をしていた彼女は、同時期にKen Collier、Duane Bradley、Ronaldo White、Morris Mitchellなどを輩出したクラブ、The ChessmateでライブDJミックスの存在を知った(尚、1995年にTerrence Samsonが行ったインタビューの中で、Ken CollierはシカゴのWarehouseでプレイしていたFrankie Knucklesから影響を受けたと語っている)。

 

17歳で機材を揃え、DJミックスの練習を重ねたHaleは、やがてCircus LoungeとClub Hollywoodでプレイするチャンスを得た。そして、1985年4月にWJLBが主催するDJイベントMotor City MixでJesse Saunders「On and On」などの初期シカゴハウストラックを組み込んだセットをプレイして優勝した彼女は、この優勝を足がかりにデトロイトの有名なダンスTV番組「The Scene」への出演を果たし、さらにはWLBS、WJLB、WHYT、WDRQなどのローカルラジオ局にミックスを提供するようになった。また言うまでもなく、The Lady、Studio 54、Cheeks、The Warehouseなど、デトロイトのローカルクラブでもプレイするようになり、のちに友人のSteve Hurley、Keith Nunnally(J.M. Silk)と組んでトラック制作を行った他、ソロとしてリミックス制作にも励んだ。

 

 

 

“1987年前半、シカゴはその新しいクラブサウンドで世界から注目を集めていた。まだテクノというジャンルは存在しなかった”

Thomas Barnett

 

 

 

デトロイトのDerrick Mayが当時生まれたばかりのシカゴのハウスシーンを知ったのは、シカゴに住む母親を訪ねた1980年代初めのことだった。DJたちがDoctor’s Cat「Feel the Drive」のようなイタロディスコをプレイしているWBMXやWGCIのラジオ番組を聴いたMayは、その衝撃についてBill BrewsterとFrank Broughtonとのインタビューの中で「ああいうトラックで光が見えたんだ。救命ボートに乗り込んだ感じだったよ」と振り返っている。

 

Mayはイタロディスコのレコードをシカゴからデトロイトへ持ち帰ると、自分のDJセットに組み込むようになった。本人はその頃について「そのおかげで他とは違う個性を得ることができた」と振り返っている。またMayは、シカゴ滞在中にImportes Etc.のスタッフからPower PlantとMusic Boxの存在も教わっていた。Power Plantで未発表のJamie PrincipleのトラックをオープンリールでプレイしているFrankie Knucklesと、Music Boxで荒々しくパワフルなプレイをしているRon Hardyの姿に刺激を受けたとしているMayは、BrewsterとBroughtonとのインタビューの中で「Ronのパワーに人生を変えられた。壁にはシンプルにこう書いてあるだけだった… “全ては魂の中にある。感じたものを解放せよ” とね」と振り返っている。

 

1980年代初め、Derrick MayはJuan Atkinsに自分が体験したシカゴのハウスシーンについて話をしようとしたが、Mayは同じインタビューの中で「Juanはシカゴのことは全く意識していなかった。シカゴのハウスシーンはゲイしかいないって思っていたんだ。存在を認めていなかったのさ」としている。しかし、Mayは1985年にJuan AtkinsのModel 500名義のレコードをプロモートするためにMusic Instituteの創設者Alton Miller、George Baker、Anthony Pearson(aka Chez Damier)を含む多くの友人を連れて、Music Boxへ定期的に通った。また、MayはKevin SaundersonもMusic Boxへ連れて行った。その時の体験に刺激されて生み出されたのが、SaundersonがSantonio Echolsと共作した「Bounce Your Body To The Box」だった。

 

 

 

 

 

Santonio Echolsはデトロイトで育った。キッズ時代はDirect DriveやCharivariなどのパーティに顔を出し、Eddie Fowlkes、Steve Dunbar、Ken Collier、Jeff MillsなどのDJスキルに魅了されていた。そして、18歳から自分でもDJを始め、Juan Atkins、Kraftwerk、George Clinton、George Duke、James Brownなどから音楽的な影響を受けていった彼はやがて間接的にブレイクのチャンスを得ることになる。彼の双子の兄が東ミシガン大学でKevin Saundersonと同じフラタニティに入っていたのだが、ある晩、そのフラタニティのパーティにEcholsが貸し出したスピーカーが壊されてしまった。その埋め合わせとしてSaundersonが音楽制作に力を貸すと申し出たのだ。Reese & Santonioが生まれた瞬間だった。

 

「How To Play Our Music」は、Echolsが自分が所有する機材でドラムパートを制作したあと、2人でSaundersonのスタジオで完成させたトラックだ。力強いベースラインと早急なスネア、キャッチーなヴォーカルフレーズが盛り込まれている1987年リリースのこのトラックは、テクノとハウスのクロスオーバートラックの代表作のひとつだ。

 

自分たちの音楽がハウスとテクノのどちらなのかと質問されたEcholsは、シカゴのアーティストたちの音楽にJuan AtkinsのModel 500名義の音楽を組み合わせてテンポアップしたものだと回答しており、「2つのサウンドを組み合わせて、デトロイト発のオリジナルサウンドを生み出そうとしたんだ」と続けている。

 

そして、EcholsとSaundersonが1988年にリリースした次のシングル「Bounce Your Body To The Box」と「Force Field」は共にシカゴで大ヒットした。Echolsは「車でシカゴに向かう途中、インディアナ州に入ったタイミングでGCIやBMXのようなラジオ局に切り替えると、両方ともオンエアされていたね」と振り返っている。

 

 

Rick Wilhite © Courtesy of Rick Wilhite

 

 

1980年にCliff Thomasがデトロイトに開いたBuy Rite Musicは、シカゴハウスを幅広く取り扱っていた珍しいレコードショップで、1985年、当時15歳だったRick Wilhiteは、DJ DOCという名前でこの店でアルバイトをすることになった。Wilhiteは「オーナーが店内でミックスしてくれるDJを探していたんだ。扱っているレコードの内容を客に教えるためだ。ハウスはまだ新しいジャンルだったからな」と振り返っている。Wilhiteは、デトロイトではシカゴハウスが良く売れたとしており、実際、1985年と1986年にはChip E「Jack Trax」、Adonis「No Way Back」、Mr. Fingers「Washing Machine」、Farley「Jackmaster」、Funk「Give Your Self To Me」などがヒットした。

 

Derrick Mayが音楽制作を始めた頃、彼はFarley Funk、Ron Hardy、Frankie Knucklesがプレイするようなトラックを作ることを目標にしていた。なぜなら、シカゴでヒットすれば相当な枚数が売れることを知っていたからだ。

 

Thomas BarnettがMayと組んで「Nude Photo」を制作した時、Barnettはまだ18歳で、Chez Damierがポケットベルのセールスマンをしていた会社が入っているビルの警備員として働いていた。ある晩、Barnettが自分のバンドの音楽をカセットテープで流しているのを耳にしたDamierは、BarnettをJuan Atkinsに引き合わせた。BarnettはAtkinsからスタジオを借りるようになり、やがて、“危険なエリア” にあったMayのアパートにDamierと一緒に赴いて、Mayの所有する機材を使って制作をするようになった。それが「Nude Photo」になった。

 

 

 

 

Barnettは「1987年前半、シカゴはその新しいクラブサウンドで世界から注目を集めていた。まだテクノというジャンルは存在しなかった。ハウスとアシッドハウスが生まれたばかりの頃の話さ。だから、“Nude Photo” も当時はアシッドハウスとして扱われていたんだ」と説明している。

 

アシッドハウスはシカゴとデトロイトを繋げる架け橋となった。これはシカゴ出身のK-Alexi ShelbyがTransmatからリリースした「All for Lee-Sah」EPが証明している。このEPには泡のような浮遊感とセクシーさが感じられるタイトルトラックや音数が絞り込まれたハードで切り裂くようなシンセが特徴的な「My Medusa」など様々なサウンドが詰め込まれていた。Shelbyは後者を「ピュアなロウサウンド」と表現しており、「使ったのは303と606だけだ」と説明しているが、実際は303にはFarleyが所有していたエフェクターが通されていた。

 

 

 

 

キッズ時代にMusic Boxに忍び込んでRon Hardyのプレイを聴いていたShelbyは、Importes Etc.で働いていた友人を介してMayと知り合った。当時、ShelbyはMike Dunn、Marshall Jefferson、Bam Bamと一緒に暮らしており、Risque IIIやClub MCM名義を通じて、ハウスのハードな側面を探求していた。Wilhiteは「TransmatからリリースされたShelbyのトラックは間違いなくテクノだった。全てが冷たかった」とコメントしている。

 

のちにテクノと呼ばれるようになるサウンドを備えているシカゴ産トラックの例は他にも無数に存在し、その多くはDance Mania、Saber Records、Chicago Underground、Muzique、Future Records、House Nation、Targetなどのアンダーグラウンドレーベルからリリースされていた。その中で群を抜いて時代を先取りしていたのが、Larry HeardのGherkin JerksとThe Housefactors名義のリリース群だった。1980年代後半は、デトロイトよりもシカゴの方がプロデューサーやレーベルの数が多く、結果的にシカゴからは様々なスタイルが生み出されていた。

 

Thomas Barnettは「俺の中では2種類の音楽しかない。好きな音楽と嫌いな音楽だ。世の中には異なった名前が付けられている音楽がごまんとあるが、そういう名前は研究や文章、ジャーナリストの説明のためのものだと思う。俺に言わせりゃ、音楽は聴く、聴かない以外に説明しようがないからな」とコメントしている。

 

 

 

"Juan Atkinsはデトロイトのアーティストたちがアイデンティティを持つ必要があることを見抜いていた"

 

 

 

Juan Atkinsはハウスミュージックに影響を与えた人物として引き合いに出されることがあるが、初期インタビューの中では、彼もまたシカゴに影響を受けていたことを明かしている。AtkinsはJonathan Flemingの著作『What Kind of House Party Is This?』の中で「俺はエレクトロから始まったんだ。そのあとでラップが流行ったが、俺にはテンポが遅すぎた。だから、シカゴ産の音楽を聴くようになったのさ。Derrick MayやKevin Saundersonのような仲間と一緒にそのフレーバーを頂戴して、そこにデトロイトのフレーバーを足した。それがテクノ的なサウンドになったのさ」と語っている。

 

では、テクノがハードなインストゥルメンタルトラックと、ハウスがよりスローでヴォーカルを多用したトラックと結びつけられるようになった経緯は? Derrick Mayはそのきっかけについて、Juan AtkinsがUKのジャーナリストStuart CosgroveとJohn McCreadyとのインタビューの中で “テクノ” という言葉を使い、この2人が広めたからだとしている。

 

Atkinsはデトロイトのアーティストたちがアイデンティティを持つ必要があることを見抜いていた。そこで、彼はデトロイト産エレクトロニック・ミュージックをハウスから切り離し、自分とRik DavisがCybotron名義で打ち出していた近未来的で冷たいヴィジョンに引き戻したのだった。その後、Underground ResistanceやDrexciyaのような後発のアーティストたちがAtkinsのコンセプトをさらに押し進め、ハウストラックに明白に存在するディスコルーツを完全に切り落とした。

 

1980年代後半以来、ダンスミュージックは、混乱と議論を招くようなラベルが付けられた数多の特化されたサブジャンルへと細分化していった。 “テクノ” というラベルは世の中に貢献したが、歴史を書き換えてはいけない。デトロイトのDJとプロデューサーたちは、ハウス、そしてよりテクノに近いサウンドを生み出していたシカゴのアーティストたちに影響を受けながら、世の中が作り出した境界線を飛び越えるオープンなアイディアを示し続けてきたのだ。

 

 

Header Photo:Stacey Hale © Courtesy of Stacy Hale