六月 17

Malcolm Cecil:Stevie Wonderとの出会い

Malcolm Cecilは元々UKのジャズシーンでキャリアを築いていたミュージシャンだが、シンセサイザーの発展に大きく貢献した人物として、またソウル系レジェンドたちと数々のコラボレーションを行った人物として良く知られている。今回は2013 Red Bull Music Academyで行われた彼のレクチャーの抜粋を紹介する。シンセサイザーのエンジニアだった彼がStevie Wonderと出会った1971年頃を振り返る。

By Malcolm Cecil

 

私はある時からMedia Soundのエンジニアを務めるようになった。ここはTonto’s Expanding Head Bandが生まれた場所でもあった。なぜなら、Media SoundのスタジオAに巨大なMoog III-Cが置いてあったからだ。働き出した初日にIII-Cを見つけた私は、「これは凄いぞ。色々いじってみよう」と思い、じっくりと眺めた後、スイッチを入れてみた。実際にサウンドを出してみると、非常に面白いと思えたので、周囲に色々訊ねてみると、どうやらこのIII-Cはこのスタジオの所有物ではなく、Bob Margouleffの所有物だということ、そして本人は深夜にたまにやってくるだけということが分かった。

 

深夜は丁度私が働いている時間帯だった。当時の私は午後5時にスタジオへ入り、スタジオAのコンソールの前で一晩を過ごすというリズムだった。そして私が働き出して5日程経った冬のある日、Bobが毛皮のコートをまとってスタジオへやってきた。彼の髪の毛は非常に長く、背中までかかっていて、彼がスタジオに入ってきた時点で私は「彼がBob Margouleffだな」と分かったので、本人に「Bob Margouleffさんですよね?」と訊ねると、「そうだよ。君が新しいメンテナンスエンジニアだね?」と返してきた。お互い既に話を聞いていたという訳だ。

 

 

彼はコンソールを指差し、「君はこれの使い方を知っているのか?」と訊ねてきたので、丁度調整していた私は、「知っていますよ。今修理しているんです」と答えた。すると彼は、「使い方を誰も教えてくれないんだ。君が教えてくれないか?」と言ってきた。そこで私が「あなたはこのシンセの使い方を知っていますか?」と訊ねると、「ああ。僕のだからね」と答えたので、「コンソールの使い方を教えるので、代わりにシンセの使い方を教えて下さい」と頼んだ。彼は「よし、決まりだ」と言い、私たちは握手を交わした。こうして私たちの関係がスタートした。

 

「コンソールの使い方を教えるので、代わりにシンセの使い方を教えて下さい」と頼んだ。

私たちはその晩から制作を始め、エクスペリメンタルな音楽のレコーディングにトライしていった。色々物事が動き出したのは、それから半年後、Ronnie Scott’sで一緒にプレイしていたHerbie Mannがスタジオを訪れた時だった。彼は私がスタジオにいるのを見つけると、「ここで何をしているんだ?」と言ってきた。私が、「僕はここでメンテナンスエンジニアをやっているんだ。君は?」と返すと、「スタジオBでレコーディングしている自分のグループの様子を見に来たんだ」と言うので、「丁度そのスタジオに16トラックミキサーを導入したところさ。それはそうと、レコーディングが終わったら、僕のシンセの作品を聴いてみないか?」と誘ってみた。彼は「シンセ? 君が?」と不思議に思っていた。なぜならUK時代の私は生楽器の信奉者だったからだ。だから私は、「ちゃんと聴いてから判断してくれよ」と念を押した。

 

 

そしてHerbieがやってきたので、初めて作った曲を彼に聴かせた。それが “Aurora” だった。これはBobと私が最初の晩にレコーディングした作品だった。私はスタジオの中を薄暗くして、Bobにちゃんと座って聴くように頼み、トラックをプレイした。

 

「なぜ1オクターブは12音なのだろう? 12という数字にどんな意味があるのだろう? なぜ12だと機能するのだろう?」

基本的にこのトラックは実験作品だ。聴けばトーンがグライドしているのが分かると思うが、これは「1オクターブが何段階に分けられているのか?」という音楽的な疑問に取り組もうとしたトラックだ。このトラックはスピリチュアルな側面もあるが、音楽的にはトーンが上下しているのが特徴だ。結局このトラックではオクターブの上下が、上へ1回、下へ2回と計3回行われている。これが私たちの言うところのエクスペリメンタル・ミュージックだった。私たちは実験をしながら、「なぜ1オクターブは12音なのだろう? なぜそれで問題がないのだろう? なぜペンタトニック・スケールなのだろう? なぜヘキサトニックスケールではないのだろう? 12という数字にどんな意味があるのだろう? なぜ12だと機能するのだろう?」と考えた。結果的に私たちはこういった疑問の答えに辿り着き、そこからはオリジナリティや作品性を追求していったが、このトラックはそういう疑問が元になっている。

 

Herbieはこのトラックを気に入り、「レコード契約に興味はないか?」と言ってきた。私が「本当かい?」と訊ねると、「ああ、僕は4つの契約を交わしていて、そのうち3つが埋まっている状態だから、第4のグループとしてどうだろう?」と言った。こうしてTonto’s Expanding Head Bandのアルバムがリリースされることになった。そしてアルバムがリリースされた3ヶ月後に、Stevie Wonderのバンドでベースを担当していた友人RonnieがStevieにこのアルバムを聴かせて、このアルバムがキーボードで作られたものだと紹介してくれた。

 

 

Stevieは1971年5月13日に21歳になったばかりだった。そして当時の私はスタジオの3階部分に住んでいた。スタジオで何か問題が発生した時にいつでも行けるようにとスタジオからそのアパートを与えられていた。それが私の仕事の一部だった。そしてその年の5月末のメモリアルデーの週末、 ドアのベルが鳴ったので外を見ると、そこにはRonnieとピスタチオカラーのジャンプスーツを着て、Tontoのアルバムを持ったStevie Wonderが立っていた。そしてRonnieが「Malcolm、Tontoを聴きたいという人を連れてきたよ」と言った。

 

Stevieはまず私に「これはキーボードなのかい?」と訊ねてきたので、「ある意味ね」と返した。

その日、階下のスタジオはメモリアルデーということで閉まっていたが、チーフエンジニアになっていた私はスタジオの鍵を持っていたので、スタジオに降りて行き、そこで改めてStevieを紹介してもらった。彼はシンセサイザーが見たいということだった。実際は見るというよりは、弾いてみたかった彼は、まず私に「これはキーボードなのかい?」と訊ねてきた。私が「ある意味ね」と返すと、彼はその「ある意味」がどういう意味かを知りたがったので、スタジオに入ってIII-Cを立ち上げて、彼に実際に弾いてもらった。

 

III-Cの同時発音数は1だったので、サックスやトランペットのような単音演奏しかできなかったが、Stevieはキーボードプレイヤーだったので和音を弾こうとし、「上手く弾けないな。壊れているよ」と言うので、「違う。弾き方が違うんだ」と言って説明すると、彼は理解したようだった。そして彼は「ピアノはあるかい?」と訊ねてきたので、「グランドピアノがある」と答えると、「いいね。レコーディングできるかい?」と言うので、「できると思うよ」と返し、テスト用のテープを準備した。私が新しいテープを勝手に使うことは許されていなかったので、自分のテスト用のテープを準備しなければならなかった。そして2インチのテストテープでレコーディングを開始した。

 

 

結局私たちはその週末に17曲をレコーディングした。まず彼は私にアップライトベースをプレイして欲しいと言ってきたので、2曲を弾いてみたのだが、上手く行かなかった。私は彼に「サウンドが合わないね。どうしてもジャズっぽくなってしまう。でもこの曲はジャズじゃない。ジャズよりもR&Bに近いから、違うベースサウンドを試してみよう」と提案すると、彼は「そんなことができるのかい?」と言うので、「シンセサイザーなら可能だ」と伝えた。そして私がシンセサイザーでベースを弾くと、彼はそのサウンドを凄く気に入ってくれた。

 

レコーディングしたトラックの中で特に記憶に残っているのは “Evil” だ。これは後に正式にリリースされた。結局Stevieの元を去る4年間で、私たちは50曲程度をリリースし、その他にも250曲程度の未発表曲も制作した。彼の元を去る時に未発表曲はすべて彼に譲ったが、その中からの数曲は彼の複数のアルバムに収録されてリリースされた。