九月 15

ErykahがDillaに出会ったとき

2人のクリエイティブなマインドが初めて交わった時の出来事にスポットライトを当てるシリーズ!

2人のクリエイティブなマインドが初めて交わった時の出来事にスポットライトを当てるシリーズ。第2回目はErykah Badu がヒップホップ・プロデューサー J Dilla から受けたサンプリングのレッスン、そして、J Dilla の早過ぎる訃報を受けて書いた彼へのトリビュート作について語ってくれた。 

 

By Erykah Badu (Translation by Nobuyuki Suzuki)


私はCommonを通して1998年頃Dillaに出会ったの。彼はCommonと仲が良かったし、彼に私のアルバムに参加してもらいたかったからデトロイトまで行ったの。どんな形で参加してもらうか具体的なことは考えてなかったけど、上手くいくことを願いながらね。上手くいかなくても良い友達になれると思って行ったわ。彼の地下室を訪ねた時、全ての壁が床から天井までレコードで埋め尽くされてたの、きちんとカテゴライズされてね。彼は科学者のようだったわ。冷蔵庫を開ければ缶が全部同じ向きに並んでたり、まるで整然とした墓地のように、全てが完璧に整理整頓されてたの。

 


彼は私にレコードを選ばせてくれたんだけど、それまで聴いたことも無いようなものがたくさんあったわ。その内のひとつは Tarika Blue のレコードで、私は「ワォ、なんて美しいの」って思ったわ。それが “Didn’t Cha Know”になったのよ。レコードを選ばせてくれただけじゃなく、曲の好きな部分も選ばせてくれて、曲からどうやってオイシイ部分をサンプリングするのかも教えてくれたわ。彼はとても謙虚な人で、「ここはオレのスタジオだ」とか威張ったりせず、「これが好きなら、きっと形にできるよ」って言ってくれるような人だったの。それがDillaから受けた最初のサンプリング・レッスンよ。


私は、Dillaと Madlib はほぼ兄弟なんじゃないかとさえ思うの。彼らは、自分が取り組んでいることに対してもの凄く真剣で、とにかく一日中ビートを作ってるの。彼らはそれしかしないのよ、一日中。データさえ保存せずにビートをそのままCDに焼いちゃうの。Vol.1、2、3、4、5 って具合に、Vol.121とかそれくらいどんどんCDがレーベルに渡されるんだけど、好きなトラックを選ぶと、彼らは何をサンプリングしたのか覚えてないのよ。サンプルが分からないのは、難航する場合があるわよね。訴えられたくないから、レーベルの人たちは何をサンプリングしたのかリサーチしなくちゃいけないけど、その間も本人達は一日中ビート作りと真剣に向き合ってるのよ。


ボーカルはマンハッタンのElectric Lady studios でレコーディングしたわ。Jimi Hendrix のスタジオよ。Electric Lady Studio が好きなの。あそこは世界中の優れた機材があるわけじゃないんだけど、特別な雰囲気があるのよ。60年代、70年代にあの場で行われていたことの精神みたいなものを感じることができるの。Jimiっていうネコがいて、Jimi Hendrix の精霊が宿ってるって言われてるんだけど、スタジオで鳴ってる音楽が気に入ると中に入ってくるのよ。気に入らなかったら、スタジオに入って来ても直ぐに出て行っちゃう。私の時はたまに入って来てくれることもあったし、直ぐに出て行ってしまうこともあったわ。彼が気に入らなかった曲は結局アルバムには収録されなかったわね。


当時Dillaがもの凄くシャイだったの覚えてるわ。口数の少ない人だったわ。DillaとMadlibはそういう意味でも双子みたいだったのよ。2人の会話といったら、多くの言葉を使わず物静かに「Yeah, yeah, yeah. That’s right. That’s right.」って言うくらいよ(笑)。私は当時、Commonと付合ってたんだけど、Dillaがとにかくシャイだったからたまにからかったりしてたの。Commonが部屋を出て行った隙に、Dillaにゆっくり歩み寄って行って「やっと2人きりになれたわね、あなたのことずっとセクシーだと思ってたの」って誘惑するように言うと、ソファに縮こまって隠れるようにしてたわ。Commonが戻って来て、私は何もしてなかったフリをするんだけど、バレてて「大の男をそんな風にからかっちゃダメだ」って怒られたわ(苦笑)。


からかいたくなるような衝動に駆られたのよ、でも同時に、彼は優しくて、謙虚で、大らかで、多くを与えてくれる人だった。もちろんアーティストとして、自分の時間や空間が必要な時はそれを主張したけど、もちろんそれは尊重してあげなきゃいけないことじゃない。私たちはすでにかなり仲が良かったのに、彼は自分の病気のことを打ち明けてくれなかったの。仲間内では私がほぼ唯一の女性だったから、ママBaduって呼ばれてて、みんなを癒したり、面倒をみたりしてたのよ。だから「たまには会いに行って、話したりしないとね」って連絡すると、「今はあれやこれをしなきゃいけないし、たくさんやらなきゃいけないことがある」って断られたの。でも、彼は実は全身性エリテマトーデスっていう深刻な病気を抱えてて、寝たきりになるほど病状は悪化してたの。


その頃、彼はCommonと一緒に住んでたの。私がCommonと別れた後の話ね。Commonは私にDillaの病状のことを教えてくれなかった。Dillaから私には言わないように言われてたみたい。私は彼の病状がどれだけ深刻だったか、最期まで知らなかったわ。全身性エリテマトーデスだったのは知ってたんだけど、あんなに深刻だったなんて知らなかった。彼は最期までそんな感じで、ビートを作っては葉っぱを吸ってたのよ。痛みには良かったみたい。


Dillaの訃報を受けた時、私は信じられなかったわ。その時、皮肉にも私はレコーディングでちょうどロサンゼルスにいたの。?uestlove 、Prince & The RevolutionのWendy & Lisa、Dr. Dreのベースを弾いてたMike Elizondo、ギタリストのDoyle Bramhall、それにJazzy Jeffと一緒にスーパーグループを結成してね。このメンバーでスーパーグループにしようって言ってLAに集まってたのよ。そしたら電話がかかってきてね。そんなタイミングで、信じられなかった。


私たちは音楽で自分の思いを表現するの、だからその日の内に“Telephone”をレコーディングしたの。後に『New Amerykah Part I』に収録した曲よ。この曲の詩は、Dillaのお母さんが教えてくれた話に基づいたストーリーになってるの。モルヒネか、何かの鎮静剤か分からないけど、Dillaはよく幻覚を起こしてたみたい。誰もいないのに、誰かと会話をしてたって。後からお母さんが、誰と話してたのか訪ねると、「Ol’ Dirty Bastard」って言ったそうよ。ODBは数年前、先に他界したのよね。


「それで彼はなんて言ってたの?」「オレが向こう側に渡った時にどのバスに乗ったらいいか教えてくれたんだ。『赤いバスには乗るな、白いバスに乗れ。赤いバスは楽しそうに見えるが、そっちじゃない。』ってね。」Dillaのお母さんがこの話を私にしてくれたの。訃報を聞いたその晩、私たちはスタジオに入って、ビートに揺られて安らかに眠るDillaへの思いを込めてこの曲を作ったの。


「Ol' Dirtyが家路を示してくれる、そんなに遠くはないってさ」