九月 03

Princeがダンスミュージックに与えた影響

先日2枚のニューアルバムのリリースが決定したPrinceだが、彼ほどダンスミュージックに多大な影響を与えたアーティストはいないに等しい。今回はハウスとテクノの誕生にまで与えたその影響の大きさに迫る。

By Michaelangelo Matos

 

 

「Walk around like you’re bigger than Prince」(Princeより偉そうに歩け)− Green VelvetことCurtis A. Jonesは昨年のヒットトラック「Bigger Than Prince」でこのように歌っている。こう言われると馬鹿にされているかのように思えるが、実際は「What They Say is Cra-Zay」(奴らの言うことはクレイジーだ)と歌詞に書かれている通り、これは誹謗中傷ではなく、YouTubeなどで偉そうにコメントする人たちへの対応法を歌っている。尚、この「Cra-Zay」という単語も、1986年に元TimeのギタリストJesse JohnsonがSly Stoneと共にリリースしたシングルのタイトルであり、 ここにもPrinceへの敬意が確認できる。

 

いずれにせよこのトラックの放つメッセージは、PrinceことPrince Rogers Nelsonの身長が実際は157センチしかなく、常にヒールを履いていると言われている点、そしてこのトラックがLinn Drumを使ったフラットなリズム、『1999』を彷彿とさせる奇妙なシンセ、Apollonia 6の「Sex Shooter」そのものと思える瞬間など、あらゆる部分で1980年代のPrinceサウンドに酷似しているという点を考えると面白い。

 

Princeは最初からダンスミュージックカルチャーの中に普遍的な存在として位置し続けてきた。

「Bigger Than Prince」を単なるダンスミュージックの懐古主義だと言いたい人はそう言えば良い。その図々しさは確かに否定出来ない。しかし、この曲だけではない。フランスのShonky、Dyed Soundorom、Dan Ghenaciaが立ち上げたレーベルApolloniaは、Princeの映画『Purple Rain』の中に出てくるPrinceのガールフレンドの名前からつけられたもので、更に言えば、2012年2月にShonkyがリリースしたファーストEPのタイトルは「The Minneapolis Touch」となっている。また、これより3年前には、シカゴのFelix Da Housecatが「We All Wanna Be Prince」というタイトルのシングルをリリースしている。

 

そして、更に言えば、これは長年続く伝統の一部でしかない。エレクトロニック・ダンスミュージックは誕生した時からPrinceにどっぷり浸かっていたジャンルであり、ポストハウス/テクノが生まれあらゆる方向に拡散した時も、彼のDNAもそれに伴って拡散していった。遡ればUKではWarp的なブリープ、ダンスホールヴォーカルに騒々しいブレイクビーツを組み合わせ、ドラムンベースの誕生を促したShut Up and Dance の「Hooligan 69」に「Let’s Go Crazy」のイントロサンプルが使用されている。

 

そしてダブステップからその先へと進化を続けるレーベルの筆頭であるHyperdubも、 「Sign ‘O’ the times」をKode9がスモーキーにカバーした「Sine of the Dub」を2006年にリリースしている他、自分のネオンのように輝くシンセサウンドをPrinceのシグネチャーカラーである「Purple」と表現するブリストルのダブステッププロデューサーJokerも、 2009年にJoker & Ginz名義でリリースした特徴的なダブステップアンセム「Purple City」で、「Jack U Off」や「D.M.S.R」から拝借したかのような、突き刺すようなキーボードをフィーチャーしている。Princeのポップミュージックシーンでの立場がその時々でどう変わろうと、彼は最初からダンスミュージックカルチャーの中に普遍的な存在として位置し続けてきたのだ。

 

 

アーカンソー州リトルロック出身のラジオDJ、Charles JohnsonことThe Electrifying Mojoは長年に渡り番組に電話出演を取り入れていた。電話を通じてリスナーやゲストとコミュニケーションを取ることは、デトロイトのWGPR(107.5 FM)で毎日オンエアされていた彼の深夜番組の中で重要な位置を占めていた。Mojoは「The Landing of the Mothership」(宇宙戦の着陸)と題されたその番組の中で、サウンドエフェクトやJohn Williamsの『Star Wars』のサウンドトラック、そして彼自身の魅力的な声を使いながら、リスナーに「聴いているなら懐中電灯を点滅させてくれ」と指示したり、彼のお気に入りの曲を数回プレイしたりしていた。例えば、MojoはPrinceの「Controversy」を番組内で3回プレイしようが全く気にすることはなかった。

 

「デトロイトは俺のホームタウンのようなものさ。本当さ。アップタウンでパーティーするのも良かったが、俺はみんなとここでパーティーしたかったのさ」(Prince:1986年6月7日Cobo HallのライブMC)

MojoはPrinceと同様、自分の存在の神秘性を維持するために公に姿を現さなかったが、電話出演の相手に対してはくだけた感じで愛想も良かった。その数々の出演者の中で最も有名で、かつ意外な相手がPrinceだった。1986年6月7日の早朝、デトロイトのダウンタウンにある収容人数12000人のCobo Hallでのライブ(発表後30分で売り切れた)に先立って電話をかけてきたPrinceは、まずデトロイトで誰よりも早く自分の楽曲をサポートしてくれたMojoに感謝すると共に、320曲のストックがあることなどを明らかにした。尚、その日はPrinceの28歳の誕生日で、Princeはその晩のライブで観客に対し、「昨年もバースデイパーティーを開いて、それなりに楽しかったが、今日ほどじゃないね」と語りかけた。

 

Princeはデトロイトを愛していた。そしてデトロイトも彼を愛していた。1980年初頭にRick Jamesの前座としての初の全米ツアー中に初めてCoboでプレイすると、1983年初頭にはヘッドライナーツアーで同ヴェニューに凱旋し、4日間6公演を行った(尚、この年の『1999』ツアー終了後にはJoe Louis Arenaで追加公演も行っている)。また1984年11月には同じくCoboでの7days(すべてソールドアウト)から『Purple Rain』ツアーをスタートさせている。

 

PrinceがMojoにかけた電話は大きな意味を持つことになった。何故ならこの電話は結果的に『Rolling Stone』誌の1985年のインタビューから同誌の1990年のインタビューまでの5年間における、唯一のインタビューになったからだ。しかし、このインタビューはまったくの予想外という訳ではなかった。 というのは、Mojoは大きな影響力を持っていたからだ。実際、MojoはPrince以外にも数多くのミュージシャンをリスナーたちに紹介しており、「Controversy」がリリースされた年も、デトロイトテクノの道標となるCybotronの歴史的なトラック「Alleys of Your Mind」やA Number of Namesの「Sharivari」もプッシュしていた。尚、A Number of Namesに関しては、Mojoが名付け親だった。

 

デトロイトのダンスミュージックが反抗的なDIY精神を携えた音楽になっていった背景には、デトロイトという都市がDIY精神を持っていたという点、そして1980年代を通じてシンセサイザーとドラムマシンの低価格化が進み、それらが簡単に手に入るようになったという点が部分的に関わっているが、Princeという存在、そして彼の放ったグルーヴも大きな影響を与えていた。Brendan M .Gillen(BMG)は2003年にケープタウンで開催されたRed Bull Music Academyのレクチャーで、「Princeはデトロイトにおける音楽の守護聖人だった。すべてを自分でやっていたコントロールフリークで、自分でオーケストラを生み出せたアーティストだ」と言及している。また1985年にJuan AtkinsがRick Davisと共に活動していたCybotronから離れ、Model 500名義での活動を始めた際、彼はテクノについて、「Princeをモデルにしたソロ音楽活動だ」と説明している。

 

 

Princeのキャリアはデトロイトのアーティストたちにとっては、別の意味でも理想だった。彼はポップシーンの中でどのミュージシャンやプロデューサーよりもドラムマシンとシンセに精通していたが、同時に決して妥協しない姿勢も提示していた。Derrick Mayは1997年のMixmagのインタビューでTony Marcusに対し以下のように語っている。「俺はメジャーレーベルと厄介な状況に陥った時、奴らがアーティストと同じマインドでは仕事をしていないということに気が付いたんだ。アーティストとして契約したはずなのに、いきなりエンターテイナーになれと言われたのさ。俺にとってアーティストとはPrinceのことだ。遠慮なく言いたいことを言い、同時に金を生み出すんだ」

 

「俺にとってアーティストとはPrinceのことだ。遠慮なく言いたいことを言い、同時に金を生み出すんだ」(Derrick May:1997年)

またPrinceはMojoからMoodymannに至るまでの数多のデトロイトのDJ陣に対して、新鮮で魅力的な楽曲を提供した。Moodymannは1997年にアルバム『1999』の収録曲「All the Critics love U in New York」をリエディットして、12インチ「U Can Dance If U Want 2」としてリリースしている。このリエディットはスピードを落として誇張することで、オリジナルをいじりすぎることなく、新しくユニークな形に変えることに成功している。そしてその前段階として挙げられるのが、The WizardとしてラジオDJとして活動していた頃のJeff Millsで、Brendan M .Gillenは前述のRBMAのレクチャーの中で1980年代のThe Wizardの番組内で、The WizardがPrinceの「Kiss」をカットアッププレイする部分を紹介すると共に、「1980年代のデトロイトはこうやって音楽を聴いていた。デトロイトは最初からキュビズムだった。俺たちはチョップされた音楽を聴いていたんだ」とデトロイトの特徴を説明している。

 

 

性別や人種の差の線引きを曖昧にしてきたPrinceの影響は、シカゴの初期ハウスシーンではより明確に表れている。「Controversy」はFrankie KnucklesのWarehouse時代のセットを代表する楽曲であり、Ron HardyとFarley “Jackmaster” Funkは「When Doves Cry」の大ファンだった。Ron Hardyが1985年にMusic Boxでプレイしたセット(このページの#461)では、PrinceがプロデュースしたSheila E.の「A Love Bizarre」が初期シカゴハウス(この1年後にTraxからリリースされたJackmaster Dick’s Revengeの「Sensuous Woman Goes Disco」)とPeter Brownの1977年のディスコクラシック「Do Ya Wanna Get Funky With Me」を繋ぐ形でプレイされている。

 

「(Jamie Principle)はPrinceの大ファンで、とにかくすべてを真似していた。だからJamie “Prince”-ipleと名乗っていたんだ」(Frankie Knuckles:2011年)

ハウスのオリジネイターのひとりであり、Trax Recordsとヴォーカルトラックに特化したレーベルPrecisionを立ち上げたVince Lawrenceは、Princeのサウンドを真似るためにLinn Drumを購入している。また、1985年、Precisionは地元のアーティストDezz 7の「Funny Love」をリリースしたが、Dezz 7という名前はこのアクトの中心だったSidney Wintersが「Dez Dickersonに気味が悪い位似ていた」(Lawrence談)ためにつけられた名前だ(DickersonはPrinceのバンドThe RevolutionにWendy Melvoinの前任として1979年から1983年まで在籍していたギタリストで、Princeの1983年の初のトップ10ヒット「Little Red Corvette」でソロを弾いている)。またLawrenceの回想によれば、Dezz 7はペイズリー柄の服を愛用しており、また彼の作品では、後にハウスをベースにしたクロスオーバーヒットを飛ばしたTen Cityでヴォーカルを務め、後年はNervous Recordsでもソロアーティストとして活躍したByron Stinglyがリードヴォーカルを務めていた。

 

DancerやFat Albert名義で1980年代後半にTraxから数々の12インチをリリースしたWintersがPrinceのギタリストを名前に用いていたのに対し、Byron WaltonはPrince本人からアーティスト名義を拝借した。「彼はPrinceの大ファンで、とにかくすべてを真似していた。だからJamie “Prince”-ipleと名乗っていたんだ」とFrankie Knucklesは2011年にStephen Titmusに対して説明している。言うまでもないが、Jamieという名前もPrinceのTime、Vanity 6、Shelia E.のプロデュース/楽曲提供用の別名義Jamie Starrの名前から取られている。

 

 

PrincipleとKnucklesのコンビはシカゴハウスの初期名作群を生み出したが、その中で最もPrince的なトラックは1987年の「Baby Wants to Ride」だろう。これはTimeの「Wild and Loose」のような短いスタッカートのベースラインの上に揺れるコードという構成で、Princeの人を食ったようなシンセに加え、彼のヴォーカルスタイルと歌詞も真似されている。「When I go to bed at night / I think of you with all my might」(ベッドに入る時は/激しく君を思うんだ)と歌われるこのトラックは、アルバム『Dirty Mind』からそのまま抜き出したかのような楽曲で、更には「Controversy」へのリスペクトである「I wanna fuck you – Whoo!」というフレーズや、南アフリカのアパルトヘイトへ抗議するシャウトも盛り込まれている。

 

Princeはクラブ好きだったため、ハウスを聴いていたはずだ。

初期シカゴハウスがアメリカのラジオでエアプレイされることはないに等しかったが、海外ではチャートヒットとなり、1986年と1987年には、Trax RecordsとDJ InternationalがUKでトップ10ヒットを生み出した。また当時のPrinceも映画『Under the Cherry Moon』をフランスで撮影し、アルバム『Parade』と『Sign ‘O’ the Times』のリリースに合わせたヨーロッパツアーを組むなど、ヨーロッパでの活動が増えていた。そしてPrinceはクラブ好きだったため、このようなハウスミュージックを聴いていたはずだ。

 

「Baby Wants to Ride」がリリースされた1987年の年末、Princeは8曲入りのアルバム『The Black Album』を制作し、プレスまでしたが、発売直前にいきなり中止にした。このため、『Sign ‘O’ The Times』のリリースから9ヶ月も経たないうちにサプライズとして急遽リリースされたこの作品は、すぐにブートレグが出回るようになった。このアルバムの収録曲「Cindy C」ではダンサー/ヴォーカルのCat GloverがJ.M. Silkの「Music Is the Key」を多少変えた形でラップを披露している(尚、Gloverは結局実現しなかったデビューアルバムの楽曲制作を808 Stateに依頼したと『Soul Underground』誌が1988年に報じている)が、J.M. Silkの歌詞の使用についてはやや嘲笑的な雰囲気があった。というのも、PrinceはシーケンサーやLinn Drumを見事に使えたが、本人は普通の楽器を演奏できない人も同様に相手にしなかったからだ。Princeは正統派のヒップホップでさえも認めておらず、『The Black Album』の「Dead On It」でそれを嘲笑っている。

 

 

しかし1987年以降、その嘲笑は本人の元へふりかかることになった。ヒップホップとハウスミュージックがポップミュージックの主軸となり、Princeは時代に取り残されはじめたのだ。Princeは1989年に映画『バットマン』のサウンドトラックのメガミックスである「Batdance」をリリースし、全米ナンバーワンを獲得したが、この楽曲はブームに便乗しただけの軽薄さが感じられ、M/A/R/R/Sの「Pump Up the Volume」やColdcutの「Beats + Pieces」(共に1987年リリース)や、言うまでもないがCriminal Element Orchestraの「Put the Needle to the Record」よりも早くに寿命が訪れた。Arthur Bakerは2006年の『Future Music』のインタビュー内でこのCriminal Element Orchestraについて、初期E-mu EmulatorとAkaiサンプラー、そしてPrinceが1986年にリリースした「Kiss」のイントロのギターを利用して、「ラップ抜きのラップを作ろうとしていた」と説明している。

 

Princeのヴォーカルヒップホップへの旅はヒップホップになんとか触れた程度のもので、1995年の「P Control」は良かったが、Tony Mの起用は今ひとつだった。しかし、ダンスミュージックへの挑戦もまたフラストレーションが溜まるものだった。ひとつには、ハウスとテクノも彼が簡単に生み出せたスタイルだったという点が理由として挙げられる。よって、1990年代初期の大半のR&Bアーティストとは異なり、Princeは外部リミキサーを積極的に起用しなかった。その例外と言えるのが1991年の「Gett Off」のSteve “Silk” Hurleyの “Houstyle” リミックスで、これは時代にやや沿い過ぎているベタな感じがある。ちなみにHurley本人は『5』誌のインタビュー内で、当時はレーベル側から必ず「Hurley Sound」サウンドを作るように期待されていたため、そこに縛られていた自分がいたと嘆いている(このリミックスは1991年のDimitri From ParisのDJミックスの11:56あたりから聴ける)。

 

1990年代初期の大半のR&Bアーティストとは異なり、Princeは外部リミキサーを積極的に起用しなかった。

1990年代中頃のPrinceによるビート主体の音楽への進出は、前述のヒップホップよりは魅力的だったが、問題もあった。1994年に契約条件を満たすためにリリースされたアルバム『Come』の収録曲「Loose!」は今ひとつ力が入っていないテクノトラックで、スピーディでパワフルだがそれだけだ。また1996年に3枚組でリリースされたアルバム『Emancipation』には教科書的なハウスビートに大仰な未来感が乘せられただけのなおざりな「New World」が収録されている。しかし、このアルバムには鋭い輝きを放つ「The Human Body」と「Sleep Around」も収録されている。ダークでジャッキンな「The Human Body」には使い古されたPrinceの喘ぎ声やうめき声などが入っている影響で、やや時代遅れの感もあるが、Ableton世代が丁寧なリエディットを施して今でも使用できるトラックに変えている様子が簡単に想像できるクオリティを持つ。また「Sleep Around」はホーンを用いたディスコハウスで、Masters At Workがリミックスをしていてもおかしくない(ただし、そうなったとしてもPrinceが彼らに使用許可を出したかどうかは分からない)。

 

当時、「The Human Body」と「Sleep Around」の存在を知っていたダンスミュージックファンはほとんどいなかった。その理由は1996年頃までにPrinceはOprahの番組を見ない限りマーケットから殆ど姿を消していたという点、そしてDJたちがアナログレコードをプレイしていたのに対し、『Emancipation』はCDというフォーマットに拘っており、Prince(ここではあえて触れないが、当時はThe Artistと名乗っていた)が各ディスクをジャスト60分になるように調整していたという点にある。そして、この2曲は今でもダンスミュージックファンには殆ど知られていない。何故なら『Emancipation』は長期に渡って絶版扱いになっており、デジタルでさえも手に入らなかったからだ。これはPrinceが デジタルメディアを軽視していると公言していたことに起因する(『Emancipation』 − 解放 − というタイトルは、このアルバムが彼のWarner Bros.との契約終了後、初のアルバムであることに所以している)。それにも関わらず、両楽曲は決して時代を先取りできていたわけではないが、埋もれたクラブクラシックとまではいかずとも、魅力的で称賛に値するPrinceの挑戦と言えるだろう。

 

 

『Emancipation』のリリースから間もなくして、Princeのダンスミュージックにおける影響力は再び大きくなっていった。それはPrinceがかつて「Dirty Mind」や「Controversy」で、ディスコよりもシンプルかつ猥雑なスタイルでR&Bを表現したように、楽曲性を重視したエレクトロとマッシュアップが膨張していたアリーナトランスやフィルターハウスの代わりに台頭し、フロアのテンションを保ち続けることになったからだ。そして、このジャンルの先駆者がPrinceを崇拝しているブリクストン出身の2人組Basement Jaxxで、彼らの初期3枚のアルバム『Remedy』、『Rooty』、『Kish Kash』は、『Purple Rain』以前のPrinceを彷彿とさせるパンク/ファンクなヴァイブスに溢れており、特にNeshell Ndegeocelloが参加している『Kish Kash』の収録曲「Right Here’s the Spot」はまさにPrinceそのものと言える。

 

そしてPrinceの影響を更に奔放な形で表現した例が、2001年にエレクトロプロデューサーの7 HurtzがPeachesと彼女のトロント時代のルームメイトBitch Lap Lapと共にリリースした「Sexy Dancer」のカバーだ(尚、これから6年後、 Bitch Lap Lapは本名Leslie Feist名義のセカンドアルバム『The Reminder』を100万枚売っている)。ヴォーカルの2人はシンプルにカバーする代わりに、歌詞を歌わず、ナイトアウトする際の格好や、ダンスフロアの盛り上げ方、そしてPrinceがフロアで自分たちを眺めていた様子などについてざっくばらんに語るというスタイルが取られている。彼女たちはこの非常にユニークな表現によって、Princeの楽曲を更にダーティな作品に仕立てあげた。詰まるところダンスミュージックはセクシーであるべきなのだ。そしてそれを私たちに教えてくれたのがPrinceなのだ。