十月 01

誰だってPrinceになりたい : パープルの彼がダンス・ミュージックにもたらしたインパクトとは

Prince以上にダンス・ミュージックにインスピレーションをもたらしたと言える者は少ない。Michaelangelo Matosがここに紹介するように、それはハウスとテクノの黎明期にまでさかのぼる。

By Michaelangelo Matos (Translation by Yuko Asanuma)

 

 

"Walk around like you're bigger than Prince(Princeより大物ぶって歩き回っている)"と、Green Velvetとして知られるCurtis A. Jonesが歌う現在のヒット曲、「Bigger Than Prince」は批判のように聴こえるが、実のところは助言である ―― YouTubeなどで書かれる悪口をかわす方法のひとつとして、Jonesはこう続ける。"What they say is cra-zay(あいつらの言うことはクレイジー)"(この言葉選びにも、Princeに関連した含みがある。「Crazay」とは元The Time(Princeによって結成されたバンド)のギタリストであるJesse Johnsonが、Sly Stoneをフィーチャーして1986年に出したシングルのタイトルだ。)


いずれにせよ、この忠告は少しふざけてもいる。ひとつには、Prince Rogers Nelsonは身長が5フィート2インチ(約157cm)しかなかったので、歩き回るときにはよくヒールのある靴を履いていたこと。そしてもうひとつには、このトラックがミネアポリスの奇才の象徴的な80年代サウンド ―― LinnDrumでプログラムされたフラットなダウンビートにスウィングのあるアクセント、『1999』の頃のスペーシーさを思い出させる不気味なシンセ音、さらにApollonia 6(Princeがプロデュースした女の子グループ)の楽曲「Sex Shooter」の一部をそのまま引用しているところもある。


「Bigger Than Prince」を単なる懐古主義のダンス・ミュージックだと片付けてしまうことは出来る。明らかにそうである。しかし、それはこの曲に限ったことではない。Shonky、Dyed Soundorom、Dan Ghenaciaが運営するフランスのレーベルApolloniaは、映画『パープル・レイン』の中で登場するPrinceの恋人の名前に由来する。その2012年のファースト・リリースはShonkyのEPで、『The Minneapolis Touch』というタイトルだった。その3年前にはシカゴのFelix Da Housecatがはっきりと、「We All Wanna Be Prince(誰だってPrinceになりたい)」と言い切ったシングルを出している。


それどころか、これらはむしろ長く続く伝統の一部に過ぎない。エレクトロニック・ダンス・ミュージックは、その始まりからPrinceにどっぷりと染まってきたし、その後ハウス/テクノ音楽の子孫たちが様々な方向へと拡散していく中で、彼のDNAも共に受け継がれていった。UKハードコアにおいては、「Let's Go Crazy」を執拗にサンプリングし、Warpスタイルのブリープ音にダンスホール・ヴォーカル、疾走感のあるブレークビーツと掛け合わせたRagga Twinsの「Hooligan 69」があるが、これはShut Up And Danceによってプロデュースされた、ドラムンベース誕生前夜の重要な布石だったと言える。


ダブステップと「それ以降」を象徴するレーベルHyperdubも、2004年に(*原文では2006年となっていますが間違い)Kode9による「Sign "O" the Times」の煙モクモクなカバー、「Sine of the Dub」によってスタートしている。間もなくして、それに続くようにブリストルのダブステップのプロデューサーJokerは、自らのダブがかったネオンのようにギラギラしたシンセが特徴的なサウンドを、Princeのテーマ・カラーである「パープル」と呼んだ。Joker & Ginzの2009年のダブステップ・アンセムは、いみじくも「Purple City」と題され、まるで「Jack U Off」か「D.M.S.R.」のデモテープをサンプリングしたかのような、鋭いキーボード音を前面に押し出している。ポップ市場でのPrinceのポジションは時代ごとに変化してきたかもしれないが、ダンス・カルチャーにおいては最初から揺るぎなかったのだ。

 


The Electrifying Mojoは、アーカンソー州のリトル・ロックでチャールズ・ジョンソンとして生まれたが、長い間公共の電波で電話に応えてきた。それはデトロイトのWGPR(107.5FM)の深夜番組内の重要な一部分で、彼は毎晩それを「マザーシップ(母艦)の着陸」と呼んでいた。彼は効果音や『スターウォーズ』のテーマ、それに見事な声の演技で、聴衆に懐中電灯を点けるよう指示したり、お気に入りの曲は何度も繰り返しかけたりした。例えば、MojoはPrinceの「Controversy」を何の迷いもなく3回続けてかけた。


「デトロイトは僕の故郷のようだ。本当にそう思っている。アップタウンでパーティーをすることも出来たけど、僕はこっちに来てみんなとパーティーしたかったんだ」- Prince、1986年6月7日デトロイトのCobo Hallにて


Mojoは自分自身については、その謎めいた存在を守るため(Prince自身と同じように)秘密主義だったが、電話をかけてくるファンに対しては気さくで親しみ易かった。最も有名となった意外な出来事は、1986年6月7日の早朝に起こった。30分で前売券を完売した、デトロイトのダウンタウンにある1万2千人を収容するアリーナ、Cobo Hallでのコンサートを控えたPrince自身が電話をかけてきたのだ。彼は、Mojoに、デトロイトで誰もかけていない頃から彼の音楽を放送してくれたことに感謝し、何気なくまだ未発表の曲が320曲スタジオに眠っていることに触れた。それはPrinceの28歳の誕生日当日で、その夜彼は観衆に向かってこう言った。「去年のパーティーも楽しかったけど、今日ほどではなかった。」


Princeはデトロイトを愛し、デトロイトもその愛に応えた。彼にとって初の大規模なUSツアーで、Rick Jamesの前座を務めた1980年にも、Coboに出演していた。そして1983年にはヘッドライナーとして、4日間6公演のために戻って来た。(彼はその『1999』アルバム・ツアーの最後に、Joe Louis Arenaでの公演も追加した。)Princeは『Purple Rain』ツアーをCoboからスタートし、その7公演は全て売り切れた。


PrinceのMojoへの電話が貴重だったのは、『Rolling Stone』誌の巻頭記事として掲載された1985年と1990年のインタビューの他には、これが唯一だったからだ。しかし、それは驚くべきことではなかった。なぜなら、Mojoのオーディエンスへの影響力は絶大たったからだ。そして、彼がその多くのオーディエンスに紹介したアーティストはPrinceだけではなかった。『Controversy』が発表されたのと同じ年、MojoはCybotronの「Alleys of Your Mind」とA Number of Namesの「Sharivari」という、デトロイト・テクノ誕生への道を切り開いた二つの重要シングルをプレイした。それどころか、A Number of Namesというユニット名を考案したのも彼だった。


デトロイトのダンス・ミュージックが挑戦的なDIY精神の下に生まれたのは、デトロイトそのものがDIYな街だったことと、80年代になってシンセサイザーやドラムマシンといった機材が安価になり入手しやすくなったからである。しかし、Princeという先例と彼のグルーヴは、重要な役割を果たした。Brendan M. Gillen(BMG)が2003年のケープタウンでのRed Bull Music Academyレクチャーで触れている通り、Princeは「全てを自分自身でやらないと気が済まないコントロール・フリーク、独りでオーケストラをやれる人物であり、デトロイトの才能たちにとっての守護聖人となった」のだ。Juan AtkinsがパートナーのRick DavisとのCybotronを解散し、Model 500として制作を始めた1985年、彼はPrinceのやり方を倣ってソロ・アーティストとしてテクノを形づくった。

 


Princeのキャリアはデトロイトのその他のアーティストにとっても理想となった。彼がポップ界の他のどんなミュージシャンやプロデューサーよりもドラムマシンやシンセの扱い方を心得ていたからだけでなく、彼は妥協なきビジョンを貫くというモデルを提示したのだった。「俺は大手のレコード会社とどうしようもなく面倒な状況に陥ったことがあり、そのときにメジャーは、アーティストとは違う思考回路で動いているということを理解した」と1997年にDerrick Mayも『Mixmag』誌のTony Marcusに語っている。「俺はアーティストとして行ったのに、相手には突然起業家であれと言われた… アーティストというのはPrinceみたいな、言いたいことを、言いたいように言えて、なおかつ金も稼げる奴のことだ。」


「アーティストというのはPrinceみたいな、言いたいことを、言いたいように言えて、なおかつ金も稼げる奴のことだ。」- Derrick May、1997年


Princeはさらに、MojoからMoodymannに至るまで、デトロイトのDJたちにとって魅力的な素材を提供し続けてきた。後者は『1999』収録曲、「All the Critics Love U in New York」をリエディットし、彼の1997年発表の12インチ、「U Can Dance If U Want 2」を制作 ―― 原曲をより遅く、膨張させ、それを隠すことなく全く新しくユニークな曲に仕上げてみせた。また布石となったのはJeff MillsのラジオDJ、The Wizard名義としての貢献だ。先述のRBMAレクチャーにおいて、GillenはWizardが80年代後半に放送したPrinceの「Kiss」のカットアップ・エディットを流している。「80年代のデトロイトではずっと、僕たちはこうやって音楽を聴いていた」と彼は言う。「最初からキュービストの視点だった。チョップアップされたものが流れていたから。」

 


同じくアメリカ中西部で性や人種アイデンティティーをあいまいにさせたバッドボーイPrinceの、初期シカゴ・ハウス・シーンへの影響力はさらに分かり易い。「Controversy」はWarehouseにおけるFrankie Knucklesのセットの定番であったし、Ron HardyとFarley "Jackmaster" Funkは二人とも「When Doves Cry」がお気に入りだった。Ron Hardyの1085年のMusic Boxでのセット(461までスクロール)を聴くと、PrinceがプロデュースしたSheila E.の「A Love Bizarre」が、極めて初期のシカゴ・ハウス(Jack Dick's Revengeの「Sensuous Woman Goes Disco」、同年Traxよりリリース)とPeter Brownの1977年のディスコ・クラシック「Do Ya Wanna Get Funky With Me」を繋ぐ曲として間にプレイされている。


「(Jamie Principleは)当時、ほとんど何でもかんでもPrinceのやっていることを真似していた… だから名前もJamie Prince-ipleなんだ」- Frankie Knuckles、2011年


ハウスを築いた人物の一人、Vince LawrenceはTrax Recordsと、そのサブレーベルで歌ものを中心としていたPrecisionの共同創設者だが、彼もPrinceのサウンドを真似るためにLinnDrumを買った。1985年にPrecisionは地元のグループDezz 7による12インチ「Funny Love」を発表しているが、このグループ名もリーダーのSidney Wintersが「笑えないほどDez Dickersonに似ていたからつけた」、とLawrenceは言う。(Dickersonは1979年~1983年の間、Wendy Melvoinに交代するまでPrinceのバンドThe Revolutionのリード・ギタリストを務め、Princeにとって初のトップテン入りのヒットとなった「Little Red Corvette」のソロを演奏している。)Dezz 7には ―― Lawrenceによれば「ペイズリー柄」を好んで着ていたそうだが ―― Byron Stingilyという名のリード・シンガーがいて、彼は後にハウスをクロスオーバー・ヒットさせたTen Cityのフロントマンを務め、さらにソロ・アーティストとしてもNervous Recordsで活躍した。


TraxからDancerやFat Albertといった名義で80年代後半にハウス12インチを出し続けていたWintersが、Princeのギター・プレイヤーからグループ名を考案していた一方で、Byron Waltonのアーティスト名は本人の名前そのものに由来している。「彼は当時、ほとんど何でもかんでもPrinceのやっていることを真似していた。彼は本当にPrinceの大ファンで、だから名前もJamie Prince-ipleなんだ」と2011年にStephen Titmusに教えてくれたのはFrankie Knucklesだ。そして、PrinceがTimeやVanity 6、Sheila E.に曲を提供する際に使用していた初期の別名義は、Jamie Starrだったことも付け加えておこう。

 


PrincipleとKnucklesは初期シカゴ・ハウスの最重要曲のいくつかを制作したが、中でも最もPrinceっぽかったのは1987年の「Baby Wants to Ride」だろう。Princeの特徴的なスライダーを駆使したシンセ・サウンド ―― 浮遊感とスイング感のあるコード・リフと、Timeの「Wild and Loose」を連想させる短いスタッカートのかかったベースライン ―― そして、彼のヴォーカルとリリックのスタイルを分かり易く真似てている。「When I go to bed at night/ I think of you with all my might(夜ベッドに入ると/全力で君のことを考えてしまう)」といった歌詞は、『Dirty Mind』に入っていたとしてもおかしくないし、途中で混ざってくる台詞は南アフリカのアパルトヘイトに抗議しながら、軽薄な「I wanna fuck you - whoo!(君とファックしたい、フー!)」という歌詞を被せてくるあたりは『Controversy』を思わせる。


「Princeはナイトクラブの常連だったので、彼もハウス・ミュージックにはかなり触れていたはずだ。」


初期のシカゴ・ハウスがアメリカ国内の電波に乗ることはほとんどなかったが、海外ではポップチャート入りしていた。1986年と1987年に、TraxとDJ Internationalはイギリスのトップテンに入るようになった。同じ頃にPrinceはヨーロッパで過ごすことが多くなり、フランスで映画『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』の撮影をしたり、そのサウンドトラック・アルバムである『Parade』と『Sign 'O' the Times』のヨーロッパ・ツアーを回っていた。Princeはナイトクラブの常連だったので、彼もハウス・ミュージックにはかなり触れていたはずだ。


1987年の終わりには ―― 「Baby Wants to Ride」が発表された同じ年 ―― Princeは『The Black Album』を制作し、製造されたが、すぐに回収された。この8曲入りのファンク・アルバムは『Sign 'O' the Times』から9ヶ月もしないタイミングでの「サプライズ」リリースのはずだったが、すぐに人気のブートレグ盤となった。その中の収録曲のひとつが「Cindy C」だが、ここではダンサー兼ヴォーカリストのCat Gloverが、J.M. Silkの「Music Is the Key」のラップ部分を少し変えて引用しているのが聴き取れる。(1988年の『Soul Underground』誌によれば、Glover自身が808Stateにデビュー・アルバムの楽曲プロデュースを依頼したが実現しなかったと語っている。)J.M. Silkの歌詞の取り入れ方には、嘲るようなニュアンスも感じられた。シーケンサーやLinnDrumの使い手だったPrinceだが、彼は伝統的な楽器の演奏家としてのミュージシャン以外は、真剣に聴こうとしなかった。ヒップホップに対してはさらに冷ややかで、『The Black Album』収録の「Dead on It」はあからさまにそれを表現している。

 


しかし1987年以降は、そんなジョークが天才の方に跳ね返ってくる。ヒップホップとハウス・ミュージックがポップ・ミュージックの未来となり、Princeはそれに乗り遅れた格好となった。1989年に彼は「Batdance」という映画『バットマン』のサウンドトラックのメガミックス曲を出し、アメリカではナンバー・ワンになるも、便乗感は否めず、M/A/R/R/Sの「Punm Up the Volume」やColdcutの「Beats + Pieces」(共に1987年)といった曲と比較しても遅く、質も劣っていた。Arthur Bakerが2006年の『Future Music』誌のインタビューで触れているように、「ラップを入れずに作ったラップ曲」と形容した、初期のEmulatorやAkaiサンプラーとPrinceの1986年のナンバー・ワンとなった「Kiss」のギター・イントロのサンプルを駆使した、Criminal Element Orchestraの「Put the Needle to the Record」には触れるまでもない。


Princeのヒップホップ・ヴォーカルへの挑戦もまちまちである。1995年の「P Control」は良しとしても、Tony M(The New Power Generationのラッパー)は頂けない。しかし、彼のダンス・ミュージックに片足を突っ込んだような関わり方が何だかもどかしいのは、ハウスやテクノは彼が容易に取り入れることが出来たはずのスタイルだからだ。90年代に彼の同業者だったR&Bアーティストたちとは違い、Princeは外部のリミキサーを起用することにも慎重だった。その希少な例外はSteve "Silk" Hurleyによる1991年の「Gett Off」の「Houstyle」リミックスであるが、これもややありきたりなものだった。後になってHurley本人が『5 Magazine』誌のインタビューで嘆いているように、当時彼は「レーベルが毎回求めてくる"Hurley Sound"に縛られていた」というが、この曲でもそれは聴き取れる。(この1991年のDimitri From Parisのミックスの11:56から聴くことが出来る。)


「90年代に彼の同業者だったR&Bアーティストたちとは違い、Princeは外部のリミキサーを起用することにも慎重だった。」


Princeの90年代半ばのビート重視のトラックものは興味深くもあり、困惑させるものでもあった。1994年の契約上のつなぎ的アルバム『Come』収録の「Loose!」は、いい加減なテクノの試みで、テンポが速く殺気立ってはいるが、それだけの曲だった。1996年に出した三枚組の『Emancipation』の3枚目は、Princeの大げさな未来の約束の地についての歌を、ありきたりなハウス・ビートに乗せた「New World」で期待できない感じに幕を開ける。しかし、このディスクには驚くほどシャープな「The Human Body」や「Sleep Around」も収録されている。前者はダークでジャッキンな鼓動にやや時代遅れなアクセント(Prince自身のうめき声などが使われている)を合わせたものだが、センスのいいモダンなAbleton DJなら上手いリエディットで生き返らせそうだ。「Sleep Around」は滑らかにスイングするディスコ・ハウスで、Masters At Workを思わせるホーン使いが印象的だ。


当時「The Human Body」と「Sleep Around」を知っていたのは数少ない筋金入りのダンス・オタクだけだった。なぜなら(a)1996年までに、テレビ番組『Oprah』の視聴者でない限り、Princeは商業的に成功しているスターではなくなっていた、(b)DJはヴァイナルをプレイしていたのに対し、『Emancipation』はCDというフォーマットに固執した作品で、アーティスト本人(しかもこのとき、彼は自身をThe Artistと呼んでいたが ―― ここで詳しく説明する必要はなかろう)が、各ディスクをぴったり60分間になるよう作り上げていた。現在、筋金入りのファンたちの間では、『Emancipation』が、流通していた期間よりもデジタル音源でさえも廃盤になっている期間が長いため、逆に有名となった。Princeの、広く知られることとなったデジタル・メディア蔑視も、その理由のひとつだ。(彼がアルバムを『Emancipation(解放)』というタイトルにしたのは、彼のWarner Bros.との契約が終わって最初の作品だったからだ。)いずれにせよ、この二曲は見過ごされたクラブ・クラシックスとまではいかなくとも、時代の先をいくとまではいかなくとも、歩調を合わせた素晴らしい試みだった。

 


『Emancipation』からそう経たないうちに、Princeのダンス・ミュージックへの功績がまた大きくふくらむ出来事が起こる。かつて『Dirty Mind』と『Controversy』が、R&Bをディスコ以上に、よりエロく引き締まった音楽に書き変えたように、アリーナ・トランスとフィルター・ハウスの蔓延が、エレクトロとマッシュアップという反動を引き起こしていた ―― フロアの鼓動を持続させながらも歌を重視するスタイルだ。これの先駆者となったのがBasement Jaxx、Prince崇拝を公言していたブリクストンの二人組である。彼らのファースト・アルバム、『Remedy、Rooty and Kish Kash』には、『Purple Rain』以前のパンク・ファンク期のノリを呼び戻し、Meshell Ndegeocelloを起用してあからさまに彼の真似をさせた「Right Here's the Spot」が収録されている。


さらに卑猥なのが、2001年にエレクトロのユニット、7 HurtzがPeachesと彼女のかつてのルームメイトで、トロント出身のBitch Lap Lap(彼女は、後に本名Leslie Feistとして発表したセカンド・アルバム『The Reminder』を100万枚売ることになる)をフィーチャーした、「Sexy Dance」のカバーである。単なるカバーに留まらず、彼女たちは歌詞を無視して自分たちがその夜どう振る舞い、ダンスフロアで目立ち、Princeに見つめられたかという話しを始める。これはユニークな功績を残した ―― 彼らはPrinceの曲を、さらにダーティーにしたのだ。何といっても、ダンス・ミュージックはセクシーであるべきなのだ。Princeは、それを私たちに教えてくれた。