五月 22

Wax Trax! イントロダクション

USにインダストリアルを紹介した伝説のインディーレーベルを紹介する。

By Rod Smith

他のアートと同様、素晴らしいレーベルもまた数十年に渡りカルチャーに動きを与え続ける潤滑油のような形で世界に浸透していくが、今回取り上げるWax Trax!もそのひとつだ。シカゴに拠点があったこのインディーレーベルは、Ministry、Front 242、Revolting Cocks、KMFDM、My Life with the Thrill Kill Kultなどによるインダストリアル系のリリース(及びインダストリアル第一世代の再出発作品)によって高い評価を得ているが、20年以上に渡るWax Trax!の歴史は、Autechre、Juno Reactor、The KLF、Underworldなどによる貢献がなければ、ここまで強く世界に響き渡ってはいなかっただろう。そして創設者2人が意図的にその瞬間の判断で経営を行っていったことが、今でも大きな影響力を持つこのレーベルの放つ存在感に強度を与えている。

「 “Cold Life” でダンスしないのは、身体が不自由な人か興味のない人だけだ」 - Al Jourgensen(1982年)

Wax Trax!は元々Jim NashとDanny Flesherがスタートさせたレコードショップで、オープンから4年後のBrian Eno “The Lion Sleeps Tonight” の海賊版のリリースが、レーベル活動の第一歩となった。このリリースは、レコードショップの評判を良くするために作られたもので、あくまで身内に向けた活動だったが、簡単に手早くレコードが売れたこと、そしてUSツアー中のバンドのシカゴへのブッキングのヘルプが増え始めたことから、NashとFlesherの活動は予想を上回る広がりを見せるようになり、1981年のStrike Under “Immediate Action EP” と“Born to Be Cheap” のリリースでレーベルとしての活動を正式にスタートさせた。

 

 

2人のレーベルは、1:徹底したUK崇拝。彼らはRough Trade、Mute、Factory Recordsからそのすべてを学んだ。2:ショップの販路の急成長が自分たちのやりたいことを表現できる完ぺきな舞台を用意した。という2つの要因がなければ、数千枚ずつのプレスと少ないタイトル数で結果的にレコードレーベルの維持の難しさについて学ぶだけで終わった、20世紀後半の数多のレコードショップ兼レーベルと同じ運命を辿っていただろう。

このレーベルに足りなかったのは音楽だけだった。

初のヒットは自分たちの周りから生まれた。 “I’m Falling” の宅録のデモを聴いたNashは、復活しようとしていたニューウェーブアーティストAl Jourgensenにこのアイディアを発展させるように伝えた。そしてJourgensenは他の4人のミュージシャンと、UKから移住者で、シカゴの初期パンクサウンドの創出に大きな役割を果たしたエンジニアIain Burgessと共にHedden West Studiosに入り、Nashに言われた通りに作業を進めた。こうして、JourgensenがMinistryと名付けたこのプロジェクトはシングル“I’m Falling” をリリースし、世間に対してMinistryサウンドをある程度浸透させていったが、このシングルのB面に収録されていた “Cold Life” がヒットした。結果的にこのEPは10,000枚を売り、多くのDJたちがプレイし、海外でのライセンスも複数獲得することなった。

 

 

Jourgensenはこの曲がヒットすることを知っていた。EPがヒットした直後の1982年、JourgensenはIllinois Entertainer誌のインタビューで、 「この曲でダンスしないのは、身体が不自由な人か興味のない人だけだ」と回答している。NashとFlesherはあえて書面での契約を避けたため、JourgensenがAristaと契約し、『With Sympathy』のレコーディングでボストンへ移った際、レーベル側はそれなりの大金と人気、そしてオリジナリティを得ていた。

“Endless Riddance EP” はWax Trax!がインダストリアルダンスミュージックに特化したレーベルという評価を固める第一歩となった

その後彼らはベルギーに活路を見出した。Front 242 “U-Men” を聴いた後、Nash(落ち着いた人物のFlesherが基本的な部分に注力する一方、Nashは一般にアピールする能力に長けており、レーベルのビジョンの打ち出しを担当していた)は凄まじい勢いで彼らを追いかけた。こうして1983年にライセンスしてリリースした “Endless Riddance EP” はWax Trax!の2枚目のクラブヒットとなり、良くも悪くもWax Trax!がインダストリアルダンスミュージックに特化したレーベルという評価を固める第一歩となった。

インダストリアルミュージックは1970年台中頃にロンドンとシェフィールドからThrobbing GristleCabaret Voltaireによって認知されたものであり、1983年の時点では特に目新しい音楽ではなかった。このジャンルの音楽に共通していたのは、パンクの反抗精神よりも、意識の目覚めや動員にフォーカスしていたという点、規格外の楽器構成(エレクトロニクス・缶や箱などの変則的な打楽器)を好んだ点、そしてダンスフロア向きという点だった。Cabaret Voltaireは結成当初からダンスグループであることをアピールしており、Throbbing GristleもUKのタブロイド紙に「文明の破壊者」と非難されるようなショック戦略を常に用いていたものの、Giorgio Moroderへのトリビュートである “Hot on the Heels of Love” で顕著に現れているように、ポップな側面も随所で見せていた。

 

 

1980年代初頭の頃になると、新世代のインダストリアル系アーティストが古い世代が試みたように、活動当初からダンス性を強調するのはお決まりとなっていた。Front 242もその中のひとつで、超然としたポストパンクなヴォーカルと、レゴのキャタピラのような強靭なベースラインを備えた “U-Men” は、当時の典型的なダンスロックのシングルだったのかもしれないにせよ、耳障りでキーキーと鳴るシンセはジャンルの再構築を促すに十分な摩擦音だった。強烈な本能と洗練された感覚を持っていたNashとFlesherは、たとえ彼らのロールモデルだったRough TradeとMuteがそこまでインダストリアルに力を入れてなかったとしても、この音楽を取り入れていたはずだ。(尚、レーガン/サッチャー時代がダークな音楽にとって良い時代だったということは周知の事実だ)。

レーガン/サッチャー時代がダークな音楽にとって良い時代だったということは周知の事実だ

Wax Trax!を語るにあたり、何よりも重要な点は、インダストリアルダンスミュージックがクラブヒットはレーベル成功への第一歩であると考えていた実践主義のFlesher、そして レーベルを実験、本能、閃きの場所として考えていた理想家のNashという2人に対し、お互いが歩み寄れる空間を提供したことにある。NashとFlesherはショップとレーベルの人気が高まるにつれ、計画的にそのリーチを伸ばし始めた。Front 242のベルギー側のレーベルPlay It Again Samとの共同ディストリビューションだけでは満足しなかった彼らは、Minimal Compact “Next One Is Real” をブリュッセルに拠点を置くCrammed Discsからライセンスし、同時に アルバム2枚分のうちの半分を終えた段階でシカゴへ戻ったAl Jourgensenによるゴシック系のアンセムと今でも評価されているトラック “Everyday (Is Halloween)” をリリースした。

 

 

“Cold Life”同様、 “Everyday” と1985年の “The Nature of Love” は、レーベルの海外での評価を固めるのに大きな役割を果たした。“The Nature of Love” はJourgensenが初めてインダストリアル系のサウンドをMinistryに持ち込んだ作品であると同時に、MinistryのWax Trax!における最後のシングルとなった(尚、Jourgensenはこの後も長年に渡り、様々なサイドプロジェクトの作品はWax Trax!からリリースし続けた)。しかし、Ministryの離脱は彼らにとって大きな問題にはならなかった。この頃になるとショップは特定の音楽を求めるファンのメッカとなっており、レーベルの国内におけるディストリビューションのネットワークもUSのインディーレーベルとしては非常にレアとも言える状態にまで成長していたからだ。

「彼らはビジネスプランというようなものは一切持っていなかったが、それを情熱でカバーしていた」 - Richard Eliof

いくつかのディストリビューターはこのレーベルを初期から支持していた。「Divineのシングルの頃からWax Trax!との仕事をスタートさせた」Richard Eliofが振り返る。今はミッドセンチュリーモダンの家具と音楽グッズのディーラーとして活動しているEliofは、当時のWax Trax!の最も熱心な(そして実効的な)支持者であり、中堅ディストリビューターTwin City Importsの中心人物として働いていた。 「Jimはショップのバイヤーだった。だからお互いに売買する奇妙な共生関係にあった。僕たちはお互いに1950年代の家具や、Roxy Music、David Bowie、エレクトロニックミュージック、アートなど様々な共通点があったから、最初から上手く関係が築けた。Jimは僕にとっては兄貴のような存在だった。彼とDannyは僕をシカゴまで呼んでくれた。一緒にショップで過ごして、ライブへ出かけて、夜通し遊んで、翌日に気持ち悪くなってね。最高だった。彼らから沢山のことを学んだ。彼らはビジネスプランというようなものは一切持っていなかったが、それを情熱でカバーしていた。独特の美学と強い個性の持ち主だったよ」

その強烈な個性はレーベル初期のセールスポイントになった。Wax Trax!のネームヴァリューは、彼らより一回り大きなUKのレーベルと同様、個々のアーティストやグループよりも高くなり、2人の立ち上げ当初の目的は達成された。ダンスミュージックに一時的に興味があるだけの人たち、そして普段はあまり聴かない人たちも、自分たちが新鮮で面白い作品を買っているのだという確信と共に彼らのレコードを買い求め、ジェネラリストなDJたちもこのレーベルを賞賛し、わざわざダンス的ではない作品でさえもプレイしようと試みていた。

 

 

Soft Cellの のカバーをCoilが更にカバーした “Tainted Love”(オリジナルはGloria Jones)はその好例だ。AIDS募金を目的とした初のリリースとなったこのトラックは、ダンスするにはスロー過ぎた。しかし、ミュージックビデオがこのトラックの良さを十分に引き出すことになった。Coilの創設メンバーで、元Throbbing GristleのPeter Christophersonが監督したこの映像は、 死期が数週間後に迫り、病院の用務係役のChristophersonによって車いすを押されるAIDS患者役としてCoilのJohn Balanceが出演している(尚、Soft CellのMarc Almondも来客役としてカメオ出演している)。アートなシュール感と心が張り裂けそうになる現実を見事に組み合わせたこの映像は、のちにミュージックビデオとして初めてMuseum of Modern Art(MOMA)に所蔵されることになった。

“Tainted Love” が不愉快な程にスローだったのに対し、“Motorslug” は笑える程にスピーディーだった。J. G. Thirlwell(当時既にFoetusとして評価されていた)と元SwansのドラマーRoli MosimanのユニットWisebloodによる約BPM180のこの曲は、ドラマティックであると同時に冷ややかで機械的なロックドグルーヴ的なエンディングが十分にダンス的ではあったが、馴染むのは難しかった。

 

 

UKとドイツにオフィスを構え、ヨーロッパ内の優良レーベルの数々との連携体制が取れていた1986年頃のWax Trax!には余裕が生まれていた。NashとFlesherは 魅力的なライセンス作品のリリースを定期的に行っており、海外のアーティストたちはWax Trax!に将来性を見出すようになっていた。その好例が当時Fini Tribeに所属していたChris Connellyだ。彼は当時エジンバラを拠点に活動していた自身のバンドFini Tribeの契約の可能性を確かめるためロンドンのオフィスを訪れて契約を勝ち取ると、最終的にはシカゴへ移り住み、Revolting Cocks、Ministry、Pigfaceなどの主力メンバーとして活躍した。

Connellyは2008年に出版した回顧録『Concrete, Bulletproof, Invisible, and Fried: My Life As A Revolting Cock』の中で、当時の様子について詳細に振り返っている。最終的には様々な局面で過剰さが目立って周囲から辛辣な批判を受け、離散してしまったこのシーンだが、その勢いこそがその魅力だった。Jourgensen、彼の共同作業者(長年に渡るパートナーであるPaul BarkerとBill Rieflinを含む)、またレーベルに所属する他のアーティストたちは定期的にChicago Trax Studiosに長期に籠って制作を行っており、施設内の複数のスタジオで同時に制作が行われている時もあった。そしてPailhead(JourgensenとMinor Threatの創設メンバーIan McKayeによるプロジェクト)やRevolting Cocksの作品など、素晴らしい作品が数多く生まれる一方で、酷い作品も数多く生まれた(スタジオのスタッフがバンドメンバーと同様の酩酊状態の時は特にそうだった)。
「Wax Trax!側はかなりアンチハウスだったね。Al Jourgensenは特に嫌っていた。嫌悪していたよ」 - Chris Connelly

当時お互いに4/4のキックと「x」の文字を好むWax Trax!とTrax Recordsの間にはある程度の交流があったはずだ、また少なくとも盛り上がりを見せていたシカゴのハウスシーンに関わっているWax Trax!側の人間がいたと考える人は当然いるだろう。シカゴの数々のクラブ(ジュースバーMedusaも含む)もこの2つを組み合わせてそれなりの成功を収めていたが、実際の両者の関係はそうではなかった。

「かなりアンチハウスだったね。少なくともシカゴではそうだった。Al Jourgensenは特に嫌っていた。嫌悪していたよ。俺はシカゴへ移る随分前の段階で、Fini Tribeはシングル “De Testimony” でクロスオーバーを楽しんでいたんだ。でもUSのクラブカルチャーはUKやヨーロッパで起きていたサマー・オブ・ラブには興味がなかった。要するにコカインとエクスタシーの違いさ」

しかし、そのドラッグの違いなど全く気にしなかったNashとFlesherは、ヨーロッパのレイヴ感を備えたトラックをすぐにリリースしようとし、元Throbbing GristleのGenesis-P-Orridgeが率いるPsychic TVとKLFの作品をリリースしていった。Coil “The Snow” もWax Trax!のテクノ期におけるベストトラックとして、またドラッグに対する豪快な祝砲として認識されている他、インダストリアルカルチャーのゴッドファーザーであるWilliam S. Burroughsと共に、マリファナもMeat Beat Manifestoの『Storm The Studio』で賞賛された。このアルバムは当時のレーベルのリーチの長さを非常に良く表している。これはインディーからのビッグリリースであり(これまでで最も残忍なヒップホップアルバムであることは言うまでもないが)、UKに拠点を置くグループがWax Trax!を通じてライセンスなしでワールドワイドにリリースされたのだ。

 

 

レーベルの勢いは継続し、Front 242の『Front by Front』は90000枚を売り上げた。しかし、それに伴いレーベルのキャッシュフローが徐々に悪化し、最終的には悲惨な状況に陥ってしまう。人気の上昇は制作とプロモーションの費用の増加を意味し、当然のことながら、アーティストへの支払いも大きくなっていった。そしてディストリビューターの支払いの遅れもあり、NashとFlesherはその場しのぎとして自分たちの資産を持ち出すことになっていく。これはその後のWax Trax!の終焉に繋がるひとつの原因となった。

「父とDannieはレーベルに融資が必要になると、ショップの積立金からその分を抜いていったの」Jim Nashの娘であり、1987年からレコードショップのマネージャーを務めるJulia Nashは振り返る。「更に厄介だったのは、私が毎月店から大量にWax Trax!の商品を買わなければならなかったことね。勿論、お金は長期貸出だったけれど、結局2人はショップから持ちだした大金を一銭も返さなかったのよ」

Eliofも振り返る。「僕たちは彼らに借金をしていた。そしてJimはそれを回収しようと電話をかけてきていた。申し訳ない気持ちで一杯だったよ」

「結局どういう形であれ、メジャーと組むことは厄災を意味していた。奴らはデブの酔っぱらいが操縦するヘリコプターのようなものさ」 - Chris Connelly

また、海外進出によって地元出身のアーティストの作品のライセンス先を見つける必要性が淘汰されてしまったことも、レーベルの経済的な問題を悪化させた。自分たちで直接扱うディストリビューターの数が増えると同時に、支払いが遅れるディストリビューターの数も増えていったのだ。またレーベルに所属するアーティストたちの人気が高まるにつれ、アーティストとの関係も不安定になっていき、メジャー系がアーティストを奪い始めたことでFront 242を失った後はそれが顕著になった。Wax Trax!とアーティストたちが法的にしっかりと結びついていれば、こういう状況にはならなかったのでは?と考える人もいるだろうが、当時のメジャーレーベルは羽振りが良かったため、アーティストに対し気前良く支払っていた。

「どうだろうな。結局どういう形であれ、メジャーと組むことは厄災を意味していた。奴らはデブの酔っぱらいが操縦するヘリコプターのようなものさ。別にインディーの方が良かったと言いたい訳じゃないが、メジャーがウロウロし始めた時、みんなよだれを垂らして契約を欲しがったんだ。そして数週間後に、奴らがいかに間抜けで、無知なのかを知る羽目になったのさ」(Connelly)

Julia Nashも「Wax Trax!はファミリーだった。だから重要なリリースでも『契約なし』が上手くいったのよ。メジャーレーベルについて唯一私が憶えているのは、父がビッグレーベルの社長の真似をして、『この子の足は綺麗だな』と言ってバカにしたことだけよ」(Julia Nash)

Wax Trax!は1992年に破産申請を行ったが、それで終わった訳ではなかった。Nine Inch Nailsの成功によって大金を得たTVTがWax Trax! Recordsを買収し、再びNashとFlesherにクリエイティブな権利が与えられると、2人は素晴らしい音楽をリリースし続け、それは1995年にAIDS関連の合併症でNashがこの世を去った後でさえも続いた。そして2001年にTVTがWax Trax!を完全に終わらせると、Flesherは引退した。

 

 

2010年にFlesherが死去すると、Julia NashはMetro ChicagoのオーナーJoe Shanahanに連絡を取り、15年前にShanahanが提案していたレーベルの活動を振り返る回顧イベントの話を持ちだした。Front 242、My Life with the Thrill Kill Kult、Connelly、Luc Van Acker、そしてRevolting CocksとKMFDM(w/ Mona Mur)がラインアップとして発表されたこのイベントのチケットは即座にソールドアウトとなり、後日発表されたありとあらゆるレビューが、老若男女の観客が恍惚の表情をしていたと報じた。

しかし、Julia Nashはこれで終わりだとは考えていなかった。来年は長編のドキュメンタリーが公開される予定になっている他、トリビュートサイトwaxtraxchicago.comの運営も行われている。「父とDannyは、レーベルが今でも意味がある存在として扱われていると知ったら誇りに思うでしょうね。2人はひとつの遊び場を作った。そしてその遊び場で今も楽しんでいる人たちがいるのよ」