四月 06

A Guy Called Gerald「Voodoo Ray」誕生秘話

1988年にリリースされ、UK産ハウス / テクノブームを生み出した名曲について本人と関係者が振り返る

By Matt Anniss

 

A Guy Called Gerald「Voodoo Ray」は今や誰もが知る名曲だけに、このレコードが衝撃的でフレッシュだった時代があったことをイメージするのは難しい。しかし、1988年の夏、マンチェスターの名門レコードショップSpin Innの店頭にA Guy Called GeraldのデビューEPのホワイト盤が並び始めると、このレコードは常連客から異例の興味を持たれることになった。

 

その第一の理由は、このレコードを生み出したのがGerald Simpsonという常連客のひとりだったということだ。当時のGeraldはプロデューサーとしては駆け出しだったが、マンチェスター界隈ではよく知られていた。彼は1980年代初頭からマンチェスター市内のクラブに出入りしており、ジャズダンサーやブレイクダンサーたちと競うようにフロアでムーブを繰り出していた。また、昼夜問わずパーティが続いていた当時のマンチェスターの活気溢れるソウルシーン、そして地域をまたいだダンスバトルの人気のおかげで、Geraldはイングランド北部で活動する数多くのDJやダンサーたちにも知られていた。

 

Spin Innの店頭に「Voodoo Ray」が収録されたホワイト盤12インチが並び始めた瞬間から、このトラックは急速に独り立ちしていった。このEPに収められた魅惑的なタイトルトラックは瞬く間に英国全土のクラブで定番の人気トラックとなり、1989年の夏までには英国のあらゆる場所で耳にできるユビキタスな存在になった。そして、膨大な売上枚数を記録したこのシングルはUKシングルチャートにも食い込んだ。

 

「Voodoo Ray」が当時も今も変わらずスペシャルなレコードであることは疑いようもない事実だ。このトラックを構成するいくつかの要素には当時のシカゴやデトロイトからの影響がはっきりと感じ取れるが、全体はそのどちらにも属さないサウンドに仕上がっている。「Voodoo Ray」は英国のダンスミュージック史における重要な分岐点になったトラックとも言える。このトラックが世に出るまで、これほど強烈なオリジナリティを持つトラックをプロデュースした英国のハウス / テクノプロデューサーはいなかったが、このトラックを機に英国ならではのユニークなサウンドを持ったレコードが続々とリリースされるようになった。そして、その多くは、Geraldの友人や、当時のイングランド北部でのダンスバトルを通じて彼を知った人たちによって生み出されたものだった。

 

今回紹介するのは、「Voodoo Ray」を生み出したGerald本人をはじめ、このトラックをプレイしたDJや、このトラックにインスパイアされて独自のサウンドを作り上げたプロデューサーたちによる貴重な証言集だ。この証言集は、Geraldをはじめ、共作者Aniff AkinolaとColin Thorpe、Jive TurkeyのレジデントDJだったDJ ParrotとWinston Hazel、そしてNightmares on WaxのオリジナルメンバーGeorge “E.A.S.E” EvelynとKevin “Boy Wonder” Harperなどに対してDJHistory.comのBill BrewsterとFrank Broughtonが過去に行ったインタビューを元に構成されている。

 

GERALD SIMPSON(aka A Guy Called Gerald)

俺はかなり早いうちからジャズやジャズファンクにどっぷり浸かっていたんだ。当時のダンスクルーの中ではThe Jazz Defectorsがビッグだったが、その他にも沢山の人気クルーがいて、俺たちは彼らの動向をフォローしていた。クラブに遊びに行けば有名クルーのメンバーがダンスしていた。クラブはいつも多くの客で賑わっていたし、一晩のうちに色んなことが起こっていた。

 

ANIFF AKINOLA(「Voodoo Ray」共作者)

アシッドハウスがGeraldのようなシリアスなダンサーたちの心を掴んだ理由のひとつは、彼のようなジャズやエレクトロで踊り慣れていた連中があの独特のリズムに何の問題も感じなかったからだと思う。マンチェスターのクラブThe Berlinには1981年か1982年頃から1985年にかけてジャズダンスシーンがあって、Geraldもそこへ通っていた。

 

GEORGE “E.A.S.E” EVELYN(Nightmares on Wax)

ノッティンガムのRock Cityなどで開催されていた昼夜ぶっ通しのファンク / ソウルパーティに通っていたのを憶えているよ。イングランド北部のあらゆるダンスクルーが集まっていたんだ。Adonis「No Way Back」みたいなシカゴのオリジナル・アシッドハウスを聴いて「一体このトラックは何なんだ?」と思っていた。俺たちからしたら、エレクトロやファンクの突然変異種のように聴こえたんだ。ポッピングもフュージョン、フットステップなど様々なダンススタイルに合わせられたし、バトルも楽しめた。1984年から1987年末、1988年初頭の頃に “ハウスミュージック” なんて呼び方は存在しなかった。ただクラブトラック… ダンストラックと呼ばれていた。

 

DJ PARROT(当時シェフィールドを中心に活動していたDJ)

ハウスは、それまでにあったエレクトロなどのダンストラックの進化版という感じだった。新しいダンス、新しいスタイル、新しいサウンドが登場したんだ。誰もが口々に「これからは断然ハウスだぜ」って言っていたよ。

 

ANIFF AKINOLA

様々な世代のダンサーがハウスへ夢中になっていった。マンチェスターだと、Foot Patrolというクルーがその代表だった。

 

 

 

 

 

ダンサーからプロデューサーへ

 

GERALD SIMPSON

あの頃の俺は金がなかった。ダンスのムーブを習得するのに精一杯で、とても機材やレコードを買う余裕はなかった。レコードを買える余裕ができたのはカーペット業者の仕事に就いてからだった。そのあとはMcDonald’sでも働いたよ。それでようやくA1 MusicやJohnny Roadhouseなどで機材を買えるようになった。当時はこれで食っていこうなんて気はさらさらなくて、音楽(エレクトロニック・ミュージック)を作りたいというクリエイティブな衝動にただ突き動かされていただけだ。

 

COLIN THORPE(「Voodoo Ray」共作者)

当時は、仲間内で機材に熱中している奴はほとんどいなかったけれど、Geraldは機材にかなりのめり込んでいた。彼の家を初めて訪ねた時のことを覚えているよ。当時、彼は母親と同居していたんだけど、作業台の上にTR-808やSH-101、TB-303などRoland製の機材が並べられていてね。まるで何かのデコレーションかと思ったよ。

 

GERALD SIMPSON

機材を集め始めた頃、俺はエレクトロを作っていた。だから、アシッドハウスを聴くようになった時点で、俺は既に808や303のサウンドに慣れ親しんでいたんだ。最初にアシッドハウスを聴いたのはラジオだった。「なんてこった、これは俺が持ってるベースシンセと同じサウンドだ」と思ったが、アシッドハウスのTB-303は完全にぶっ飛んでいた。

 

ANIFF AKINOLA

当時は頻繁にラジオを聴いていた。Mike Shaftとその番組の後任だったStu Allanは、ラジオでアシッドハウスを大量にオンエアしていたんだ。

 

GERALD SIMPSON

それで俺もアシッドハウスの真似事のようなジャムをカセットに録音し始めた。そのカセットをSpin Innに持ち込んでは、店のスタッフに聴かせていたんだ。自分の作ったトラックを他の人に聴かせたくてたまらなかったんだ。当時、Piccadilly Radioにデモテープをオンエアする番組があった。確か日曜日で、Stu Allanが担当していた。彼はいつもローカルリスナーのデモをオンエアしていたんだ。

 

ANIFF AKINOLA

ある日、Stuの番組を聴いていると、“Housemaster G” と名乗るリスナーが作ったトラックがオンエアされたんだ。「なんじゃこりゃ!」って思ったよ。急いで自転車に乗ってPiccadilly Radioに直行して、ドアをノックするとそこにはまだStuがいた。彼がくれたカセットテープを見ると、連絡先の電話番号が書いてあった。それで電話をかけてGeraldに連絡を取ったんだ。そのあとで、Colinに「母親と一緒にモスサイド地区に住んでるらしいから、会いに行ってみる」って伝えたのさ。

 

COLIN THORPE

Aniffと僕は、数年前から一緒にスタジオでトラックを一緒に作っていたんだ。最初はChapterっていう名前で、そのあと、Chapter And The Verseに変えた。AniffはリヴァプールでインディーレーベルSkysawを運営していた2人の男と知り合いだった。Skysawの2人はヒップホップにかなり没頭していて、サブレーベルRham! Recordsを立ち上げようとしていた。その頃の僕たちはMantronixが大好きだったから、エレクトロを作ってみたいと思っていた。ソウルが感じられるエレクトロニック・ミュージックをね。僕たちは “ハードボトム&ソフトトップ(低域はハードに、中高域はソフトに)” という合言葉でトラック制作をしていて、ガッツのあるリズムにスウィートな上物を乗せるのが好みだった。Skysawの2人はその方向性が気に入って、僕たちにサブレーベルのA&Rを任せてくれたんだ。Geraldと出会ったのはその頃だった。

 

ANIFF AKINOLA

2度目にGeraldの自宅を訪ねた時、彼から4~5曲入りのデモテープを貰ったんだ。僕たちはGeraldにスタジオへ来てもらい、その中からどれをリリースしたいのか選んでもらうことにした。僕たちは「Voodoo Ray」のデモバージョンを初めて耳にした時から、「これは絶対に入れないと」と思っていたけどね。

 

 

スタジオにて

 

COLIN THORPE

GeraldのEPに収められた全4トラックは、マンチェスターのMoonraker Studiosで2日間費やして仕上げた。営業時間外の時間を使わせてもらったんだ。

 

ANIFF AKINOLA

当時は、営業時間外を利用したレコーディングが割と一般的だったんだ。Moonraker Studiosはコメディアン兼フォークシンガーのMike Hardingが所有していて、普段はフォークのレコーディング用にセットアップされていた。でも、僕たちはそこで夜中にハウスミュージックを作っていたんだ。

 

COLIN THORPE

基本的にはエンジニアのLee Monteverdeの手が空いている時間に入っていた。だから、レコーディング費用をかなり抑えられたんだ。EP全体で75ポンド(1988年当時のレート換算で約1万7千円)ほどしかかからなかったんじゃないかな。

 

GERALD SIMPSON

「Voodoo Ray」はデモから生まれていった。ベースラインとドラムパターンはデモの時点で出来上がっていた。スタジオに入ってから、まず303を重ねたんだ。

 

 

 

"Geraldはトラックの展開を全て記憶しているように思えた。彼がメモに書き留めることは一度もなかった"

Colin Thorpe

 

 

 

GERALD SIMPSON

スタジオに入った日はすごく興奮していたし、圧倒されてもいた。数枚のレコードも一緒に持ち込んだ。スタジオにサンプラーがあったからさ。そのサンプラーの旧モデルは前に見かけたことがあったが、そこに置かれていたのは最新モデルだった。それで、自分の持ち込んだレコードを試しにサンプリングさせてくれと頼んだんだ。16トラックが使えるスタジオは初めてだったから、色々なサウンドをチャンネルに立ち上げようとした。

 

COLIN THORPE

Geraldが、Pete and Dud(編注:1960年代~1970年代に英国で人気を博したコメディアン・デュオ)のレコードから “Voodoo Rage” というセリフを見つけたんだ。かなりクールに聴こえたから、自分たちでサンプリングしたんだ。スタジオには2台のサンプラーがあったけれど、僕もエンジニアのLeeも使い方を良く知らなかった。それで、Leeがサンプルのトリムをミスして “Rage” の最後を削除してしまって、“Voodoo Ray” になったんだ。それを聴いた僕たちは「こっちの方がクールだな」と思ったのさ。あのEPは実験の連続だった。「これは何の機能だろう?」なんて言いながら色々試していたんだ。

 

GERALD SIMPSON

当時の俺はアシッドハウスと並行して、ヴォーカリストのNicola Collierと一緒にS.O.S Bandのようなストリートソウル的なトラックの制作にも取り組んでいたんだ。スタジオに彼女と作ったデモトラックを持ち込んでいたから、「Voodoo Ray」をレコーディングする時も彼女がスタジオにいた。Nicolaのヴォーカルを加えるのはどうかと提案したのを憶えてる。

 

ANIFF AKINOLA

Nicolaはソウルシンガーを目指していたから、ハウスはそこまで好きじゃなかった。だから彼女の良さを引き出せずにいた。僕はトイレに行って、どうやって彼女をノセたら良いのか考えていた。当時はBoy Georgeがビッグだったから、「彼ならどんなパフォーマンスをするだろう」と考えてみた。すると、“Oooh、ooh-ooh、aah-aah yeah!” ってフレーズが突然降ってきたんだ。すぐにスタジオに戻って、そのフレーズをNicolaの前で叫んだよ。

 

GERALD SIMPSON

俺たちは彼女のヴォーカルをサンプラーに取り込み、リバースさせた。リバースはまだ新しい機能だったから、どんな素材にも試していた。ヴォーカルをリバースさせたヴォーカルと重ねて再生した時に「ワオ! こいつはワイルドなサウンドだ!」と思ったのを憶えている。

 

COLIN THORPE

誰もAKAI S-950の使い方を分かっていなかったから、Geraldもサンプラーの前に座ってひたすらリバースボタンを押し続けていたんだ。あのトラックのスタブパターンはそうやって生まれたんだ。そもそも、GeraldはNicolaが録音したヴォーカルを気に入っていなかった。

 

GERALD SIMPSON

あれは結果的にグッドアイディアだった。トラックの機械的なフィーリングを減らし、奇妙なフロウをキープしてくれた。Nicolaのヴォーカルを再生しながら、そこにそれをリバースしたサンプルを重ねることで、このトラックの奇妙でヒプノティックなフィーリングが生まれたんだ。このトラックを初めて聴いた人はアジア的なイメージを持っていた。マントラに近いサウンドだからだ。だが、実際はNicolaのヴォーカルの順再生と逆再生をしているだけだ。リリックもないし、同じフレーズの繰り返しだ。

 

ANIFF AKINOLA

それが最高に聴こえたんだ。

 

 

 

 

 

サンプリング・マジック

 

COLIN THORPE

僕たちは全ての素材をテープに落とさなければならなかった。Geraldが全ての機材を6分ほど同期させて走らせて、そこにマニュアル操作でサンプルを重ねていた。そして、Leeがそこにディレイをかけたり、全体のバランスを整えたりしながらミックスを仕上げていった。

 

GERALD SIMPSON

スタジオにはありとあらゆるエフェクトが揃っていた。エンジニアのLeeは、スタジオ作業のいろはを教えてくれた俺にとっての最初の先生だった。彼にエフェクトを頼めば、俺の望み通りにエフェクトをパッチングしてくれた。

 

COLIN THORPE

LeeはShep Pettibone(編注:Madonnaとの仕事で知られる1980年代を代表するリミキサー兼プロデューサー)とPet Shop Boysの大ファンだった。彼はクリーンで磨き抜かれた、モダンなデジタルサウンドに仕上げたがっていた。結果として、仕上がったレコードは、LeeのアプローチとGeraldのアナログ的アプローチが同居するものになった。

 

GERALD SIMPSON

スタジオにしばらくひとりで籠もって、ミックスやバウンスを色々試した時間もあった。

 

COLIN THORPE

僕が憶えているのは、Aniffと僕でスタジオの外に出て、駐車場でサッカーボールを蹴っていた時のことさ。45分くらい経ってからGeraldが出てきた。その間に「Voodoo Ray」を6バージョン用意していたのさ。彼はひたすらスタジオに籠もって、トラックの抜き差しをやっていたんだ。彼は最初から展開を作り直したんだ。

 

GERALD SIMPSON

小節の数え方なんて知らなかった。スタジオでひたすらいじっていただけだ。

 

ANIFF AKINOLA

あのトラックはリアルタイムでミックスしたんだ。6本の手でミキシングデスクを操作していた。

 

COLIN THORPE

ミックス作業は、タイミングが来るまで待ってミュートボタンを押したり、ゲインを調整したりするわけだけど、あのスタジオのミキシングデスクはやや古くてくたびれていたから、ガリる時があった。そうなれば、また最初からやり直しだった。正直に言うと、メンタル的には結構辛かったね。

 

GERALD SIMPSON

俺がトラックの構成を仕上げると、Leeが全てのサウンドをじっくりと丹念に磨き上げてくれた。そこに不自然なサウンドは一切なかった。SH-101のベースサウンドを数チャンネル使って重ねていたから、3Dに近い立体的なサウンドを得られた。あと、ベースはチャンネルごとに異なるリヴァーブをかけていたから、金属的と言うかスティールドラムのようなサウンドになっていた。

 

ANIFF AKINOLA

レコーディングのかなり早い段階から、これは特別なレコードになるという予感があった。まず数百枚のホワイト盤をプレスした。あの当時のクラブ業界には明確な序列があって、特定のDJたちにプロモが行き届くようにする必要があった。そうしておかないと、クラブやレコードショップで相手にしてもらえなかったんだ。

 

 

 

"「Voodoo Ray」は最初から全員に受け入れられたわけではなかった。ブリティッシュすぎたんだ"

Colin Thorpe

 

 

 

ANIFF AKINOLA

プロモを最初に手にしたのはラジオDJのColin Curtis、Mike Shaft、Stu Allanの3人だった。あとは、Spin Innのスタッフにも渡した。Mike Pickering(編注:当時の英国のトップDJのひとり)にも渡したね。「Voodoo Ray」は結果的にHaciendaのフロアでもヒットした。Mikeとは別に、僕の友人Hewanもあそこでプレイしていたからね。Mikeは僕たちにとってバロメーター的存在だった。彼は鋭い耳を持っていたからさ。でも、「Voodoo Ray」を聴かせるとすぐに気に入ってくれた。

 

COLIN THORPE

Mikeへの売り込みには何度も失敗していたから、「Voodoo Ray」への好リアクションは驚きだった。

 

ANIFF AKINOLA

Mikeが適当なことを言わないのは知っていた。彼は “イエスマン” ではなかったからね。

 

COLIN THORPE

「Voodoo Ray」が本当の意味でヒットになるまでは結構時間がかかったよ。潜伏期間が長かった。

 

ANIFF AKINOLA

Spin Inn経由で数多くの英国内のトップDJたちが割りと早い段階から「Voodoo Ray」を手に入れていた。1988年の秋頃だね。

 

GERALD SIMPSON

最初は500枚をプレスしたが、あっという間にソールドアウトして、すぐにリプレスされた。Rham! Recordsにとっては初めての出来事だったはずだ。ColinとAniffの2人はすごく興奮していた。

 

COLIN THORPE

「Voodoo Ray」の爆発的ヒットの立役者は、あのJohn Peelさ。ハウスシーンの外側にいる人物がきっかけになったんだ。Peelは1989年10月にGeraldを自分のラジオ番組『John Peel Sessions』に招待した。あれはGeraldのセットアップがあったから実現できたんだ。彼は全ての機材を活き活きと走らせて、ライブパフォーマンスをすることができたからね。

 

ANIFF AKINOLA

「Voodoo Ray」のヒットを受けて、Geraldと一緒に数多くのギグをこなした。メンバーはGerald、Colin、シンガーのNicola、それに僕。4人全員と全ての機材がちょうどColinのFIAT Unoに収まった。

 

 

 

 

COLIN THORPE

結局、「Voodoo Ray」は1989年にUKチャートのトップ20に食い込んだんだけど、半日で12万枚売れた日もあった。Geraldはすぐに印税を受け取ることを期待していたはずだけど、残念ながらそうはいかなかった。当時のRham! Recordsはディストリビューターが倒産したことで問題を抱えていたんだ。

 

GERALD SIMPSON

ゴールドディスクさえ受け取ってない。何か手を打っとくべきだった。

 

ANIFF AKINOLA

多くの人が「Voodoo Ray」を非常にユニークなブリティッシュサウンドだと言っていた。デトロイトやシカゴのサウンドとは違うし、かといって英国産のサウンドにも聴こえないってね。僕はこのトラックのベースラインを聴くと、Fela Kutiの古いレコードを連想するんだ。

 

COLIN THORPE

親指ピアノのようなサウンドに聴こえるんだ。

 

ANIFF AKINOLA

「Voodoo Ray」は米国人にも英国人にも未知のサウンドだった。Geraldの才能の証さ。彼は様々なサウンドを重ね、その上で303を “喋らせ” ていた。まるでアシッドを摂取した2台のマシンの会話を聴いているようなトラックだった。

 

 

 

"まるでアシッドを摂取した2台のマシンの会話を聴いているようなトラックだった"

Aniff Akinola

 

 

 

DJ PARROT

「Voodoo Ray」は、当時の俺たちがJive Turkeyでプレイしていたような米国産のハウスにも難なく溶け込んだが、そのサウンドは明らかにユニークだった。まるで仲間の誰かが作ったトラックのように聴こえた。サウンドやミックスの中にそれを感じることができた。

 

WINSTON HAZEL(当時シェフィールドを中心に活動していたDJ)

「Voodoo Ray」は地域性を感じさせないサウンドだった。とはいえ、マンチェスターというよりはシェフィールドに近いサウンドだけどね。このトラックをプレイすると、フットワークダンサーの連中がクレイジーになったものさ。

 

GERALD SIMPSON

「Voodoo Ray」を制作していた当時、俺はダンサーを意識していた。マンチェスターのFoot Patrolというクルーを意識しながら作っていたんだ。彼らの高速のステップに合うトラックを作ろうとしていた。

 

DJ PARROT

「Voodoo Ray」が世に出る直前のマンチェスターは変化を迎えていた。当時マンチェスターのDJたちはピアノハウスやヨーロッパ産のレイブサウンドに夢中だった。一方、ペナイス山脈を挟んで東側のシェフィールドは、若干遅れていたこともあって、Geraldのようにエレクトロやジャズファンクを通過したコアなダンサーたちが依然として存在していたんだ。

 

KEVIN “BOY WONDER” HARPER(Nightmares on Wax 初期メンバー)

Georgeと一緒にいる時だったと思うんだけど、俺たちは借り物のドラムマシンと自分たちのSH-101で遊んでいたんだ。ターンテーブルで「Voodoo Ray」の12インチをプレイしながら、そこにSH-101のシンセサウンドを即興で重ねていた。A Guy Called Geraldのようなサウンドを鳴らしたくて、SH-101を色々いじっていたのさ。

 

GEORGE “E.A.S.E” EVELYN

スタジオに入った時に「Voodoo Ray」をサンプリングしたよ。俺たちがPoverty Recordsからリリースした「Dextrous」(編注:Nightmares on Waxのファーストシングル。後にWarpからもライセンスリリースされた)を聴けば分かるが、そこには「Voodoo Ray」のヴォーカルの断片が入っている。

 

KEVIN “BOY WONDER” HARPER

A Guy Called Gerald、そして『Voodoo Ray』以降の全体の動きから、俺たちや、LFO、Unique 3などは多大な影響を受けたんだ。リーズ、ブラッドフォード、シェフィールド、マンチェスターなどのソロやグループのミュージシャンたちが自分の音楽を作るようになり、ローカルの連中に向けて色々なアイディアを試すようになったのさ。