四月 20

Vinylmaniaの歴史

1980年代のニューヨークのダンスミュージックシーンを牽引したレコードショップの歴史をオーナーと元スタッフが振り返る。

By Oli Warwick

 

クラシックなディスコサウンドがエレクトロニックな方向へシフトしていった1970年代後半から1980年代にかけてのニューヨークは、ダンスミュージックカルチャー、ナイトクラブ、そしてDJというアートフォームの最先端を行く都市だった。Paradise GarageとLarry Levanが台頭し、イタロやHi-NRGのようなヨーロッパの音楽や、自国生まれのMoogを前面に押し出したブギーやフリースタイルがひしめく中からハウスミュージックの原型が作られていった。また、Danceteria、The Saint、Studio 54、Zanzibar、12 West、Fun Houseなどは毎週ダンサーたちで溢れかえり、DJたちは彼らのためにプレイする最新のレコードを探し回った。

 

ヴァイナルカルチャーが発展していったこのユニークな時代の中心に位置していたのが、Vinylmaniaと呼ばれるレコードショップだった。マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジの中心でCharlie Grapponeがスタートさせたこのレコードショップは、12インチシングルやプロモ盤のカルチャーのスタートと共にオープンした。Larry LevanやTony HumphriesをはじめとしたDJたちに最新の輸入盤を提供しながら、1980年代中頃のハウスミュージックの誕生を支えていったGrapponeとスタッフたちはニューヨークのダンスミュージックの歴史において大きな役割を担った。1990年代を経て2007年に閉店するまで、Vinylmaniaはニューヨークが誇るナイトライフを作り出した人種、社会的立場、性別が異なる多種多様なDJたちの要求に応え続けた。DJ Historyに掲載されたGrapponeのインタビューやその他の独占インタビューをベースに当時のスタッフのコメントなどを組み合わせたこの記事は、音楽ファンの安息の地のストーリーだ。

 

登場人物紹介:

Charlie Grappone:Vinylmania創始者・オーナー。

Johnny De Mairo:1990年代に勤務。Henry Street Records共同経営者。

Franklin Fuentes:元スタッフ。のちにプロデューサー・DJとして活動。

Manny Lehman:Vinylmaniaのカウンター担当(1981年ー1989年)。のちにA&M Recordsに勤務。

Joseph Longo:元スタッフ(1985年ー1988年)。のちにプロデューサーPal Joeyとして活動。

Susan Morabito:メールオーダー担当(1987年ー1990年)。BPM Records経営後、DJとして活動。

 

 

Charlie Grappone

私は5歳の時からレコードを集めていたんだ。ブリティッシュ・インベイジョンに影響されてね。The Beatles、The Rolling Stonesなどを集めながら、レコード収集に夢中になっていった。マンハッタンに住んでいた頃に、私のアパートの地下でプロモ盤を売っていた人物からレコードを買い集めていたんだが、1978年にグリニッジ・ヴィレッジに家賃300ドルで借りられる物件を見つけた。それでそこに店を開いて、元々持っていたコレクションと買い集めたプロモ盤を売り始めたのさ。

 

Johnny De Mairo

30A Carmine St. FirstにあったVinylmaniaはロックを扱っていて、その隣の30Bがディスコを扱っていた。2店舗体制だったんだ。1981年に初めてこの店を訪れた時はショックだったね。Charlieのコレクションには度肝を抜かれたよ。Charlieは最高に賢いオーナーだったと思う。Vinylmaniaにはすべてが揃っていて、Charlieはあらゆる人物と繋がっていた。彼はライターやエディターもみんな知っていたから、誰にも負けない品揃えを誇っていたのさ。

 

Franklin Fuentes

Vinylmaniaに初めて行ったのは、Paradise Garageでひと晩踊り明かしたあとだった。Paradise Garageから数ブロックの距離にあったからね。クラブを出てからすぐに店を訪れるのは最高だったよ。音楽がすごくフレッシュに聴こえたからね。その朝は、たしかGwen Guthrieの「Seventh Heaven」、Baricentroの「Tittle Tattle」、Taana Gardnerの「Heartbeat」を探していたんだ。あの店で初めてレア盤についてスタッフに色々訊ねるようになった。あの店はあらゆる音楽について知っていたし、しかもその96%を扱っていたんだ。

 

 

Charlie Grappone

当時は教育委員会と兼業で、店は数時間の営業だった。当時のグリニッジ・ヴィレッジはイタリア系のエリアだったんだが、土曜日の朝10~11時頃になると、沢山のアフリカ系がぞろぞろと地下鉄の駅へ向かって歩いていたんだ。それで、その連中が店に入ってきて「Larry(Levan)がプレイしたレコードは置いてあるかい?」と訊ねてくる時があった。最初、私と妻は「Larryって誰だ?」って感じだったが、彼とParadise Garageのことを知ったあとは、12インチシングルを置くようにした。それで一気に人気が出たんだ。それから数年で私はディスコのエキスパートになったのさ。

 

最初のレコードプール(編注:当時はDJ共用のレコードがレコードショップに置かれており、DJはそこからレコードを抜いてクラブでプレイしていた)を用意したタイミングでJose Bonillaという男を雇うと、そのプールに置いてあったプロモ盤の価値を色々説明してくれた。それで貴重なレコードを店内に吊して売ることにしたのさ。Candi Stantonの「Victim」は25ドルの値段を付けた。Linda Cliffordの「Runaway Love」はTony Humphriesが50ドルで買っていったよ。すると、『Billboard』誌でライターを務めていたNelson Georgeが店にやって来て、私がレアなプロモ盤を売っていることを記事にしたんだ。それでコネティカットやペンシルヴァニアをはじめ、全米各地からレア盤を求めて人が訊ねてくるようになった。

 

Johnny De Mairo

俺はLarry Levan派というよりはStudio 54派だった。だが、Vinylmaniaのすぐ近所にParadise Garageがあったから、Larryは良く店に来てManny(Lehman)からレコードを買っていったよ。

 

Charlie Grappone

私はParadise Garageにはさほど顔を出さなかった。基本的にナイトライフとは無縁だったからね。その頃にManny(Lehman)と出会ったのさ。彼はルームメイトのJudy Russellと一緒に店へやってきて、15ドルで売っていたGeneral Johnsonの「Cant’t Nobody Love Me Like You Do」を買った。すると、Bobby Shaw(MCA Records)が「今さっきGeneral Johnsonのレコードを買ったガキは求職中なんだ」と言ってきたから、「レコード関係の仕事に就いた経験はあるのかい?」と返した。するとBobbyは「いや、経験はまったくないんだが、あいつはLarryの親友なんだよ」と教えてくれた。私にはそれで十分だった。当時は、色々外を出歩いてる人間がレコードを売ってくれると考えていたからね。それでMannyを雇うと、彼が店内でプレイするレコードは5分間で30枚も売れるようになった。閉店の時間までその勢いが続いたよ。彼は素晴らしいスタッフになってくれた。ニューヨークの誰もが彼を知っていたよ。MannyとJudyはParadise Garageに毎週末通っていたから、私の元には、Larryが何をプレイしていたのか、彼がそのレコードをどう感じていたのか、彼は次に何が来ると思っているのかなど、あらゆる情報が届いた。最高だったね。

 

Manny Lehman

僕はParadise Garageマニア、Larryマニアだったから、連中とすぐに懇意になったんだ。それで、Larryが店に来るようになった。CharlieはLarryがクールなレコードをクラブでプレイできるように手配してくれていたから、金曜の午後に店にやってきたLarryに僕がクールな新曲を渡していたのさ。それで素晴らしい関係を築くことができた。

 

Vinylmania、Larry、ポップシーンは強力な関係を築いていた。そのパワーを示すひとつの例が、Nu Shoozの「I Can’t Wait」だね。これはある金曜日の午後に輸入盤として店に入ってきたんだ。それで、偶然その日に店にきたLarryに聴かせると「キュートだね。2枚頂くよ」と言ってくれたんだ。彼は金土と2日連続でこの曲をプレイしてフロアをノックアウトしていたよ。それで、この曲が話題になると、Atlantic Recordsに勤めていた僕の友人のLarry Yasgarが月曜日に店にやってきて「あの曲はなんだったんだ?」と訊ねてきた。こうしてあの曲はナンバーワンに輝いたのさ。こうやってヒット曲が生まれていったんだ。

 

Charlie Grappone, Jerel Black, Carlton, Tommi Nappi (L to R) 

 

Johnny De Mairo

MannyはVinylmaniaのキャリアが認められてA&M RecordsのA&Rに就いた。Vinylmania時代の彼はカウンターで店番をしていたから、自然とレコードをプレイする係になったんだが、それで力を持つようになったのさ。金曜日に新曲の12インチやテストプレスが届くと、何百枚も売り捌いていたよ。俺は90年代を通じて日曜日にあの店で働いていたんだが、自分がプッシュしたい楽曲をカウンターからプッシュできたのは最高だったね。当時は「Mannyもさぞかし気持ち良かったんだろうな」と思ったもんさ。なにせ80年代は毎日大賑わいだったからね。俺の時も、まだ誰も知らなかったRomanthonyのレコードを「よし、今から売り切ってやる!」と思ってプレイしたら一瞬で売り切れたね。彼のファーストEP「What Price Live?」を日曜日に20枚売ったんだ。

 

Manny Lehman

ブレイクだけを延々プレイして、お客を釣ったこともあったね。みんな「これは最高だ」と言って買うんだけど、あとで「あの時プレイしていたレコードじゃない!」と返品しに来るんだ。それで僕が「いや、同じレコードさ。見ててよ」と言ってブレイク部分を繰り返しプレイすると、みんなは「Manny、このパートはたった1分しかないじゃないか」と言ってきた。僕は「そこを延々に聴かせてこそDJでしょ?」って返したよ。

 

Joseph Longo

Mannyがランチで外出するタイミングで、店番を任せられることがあったんだ。それで、カウンターに誰もいない時は僕がレコードをプレイした。カウンターに入るのを楽しみにしていたんだ。クールな楽曲をプレイして、お客に興味を持ってもらいたかったんだ。

 

Charlie Grappone

Joeyは素晴らしいスタッフだったよ。Vinylmaniaへやって来てPal Joeyに「何がいいかな?」と訊ねるだけさ。試聴はしなかった。Joeyが10~15枚程度を渡せば、みんなそのままJoeyの言葉を信じて買っていった。彼のレコードを聴けばその理由が分かるだろ? 彼は音楽を分かっていたんだ。

 

私がメインバイヤーだった。熱心に買い付けていたよ。店にすべてを注いでいたし、店にレコードを揃える以外の部分も力を入れたよ、ゲイクラブだろうがストレートのクラブだろうが、とにかく出向いて、自分の店に来たDJたちのプレイをチェックした。12 West、The Saint、The Cock Ring… あらゆるクラブへ顔を出したよ。

 

Unknown, Jerel Black, Franklin Fuentes, Pal Joey (L to R) 

 

Manny Lehman

メインバイヤーはCharlieだったけど、輸入盤は僕に任せてくれていたから、月曜と火曜はCharlieに渡された輸入盤のプロモを聴きまくっていた。「良い曲ですね。50枚仕入れましょう」とか、「これも良いですね。もっと売れると思いますよ。200枚仕入れましょう」なんて言っていた。もちろん、ミスをする時もあったけど、音楽的な直感が大事だった。テイストが重要だったんだ。DJ、ショップスタッフ、そしてひとりのお客として… 色々な視点から判断していた。

 

Johnny De Mairo

Charlieはコレクターズアイテムのようなレア盤をフェアに扱っていたから、俺はいつも納得がいかなかったね。最高のレコードをフェアな値段で売っていたんだ。俺が「なんでたったの10ドルで売っちゃうんですか? ひとつ向こうのブロックのレコードショップは20ドルで売ってましたよ!」と言っても、彼はお構いなしだった。他のショップが足元を見ていたのに、彼はそうしなかったんだ。

 

Manny Lehman

エイズが猛威を振るっていた頃、多くの人たちが僕たちの店にレコードを売りにきたり、タダでくれたりするようになっていたから、信じられないような素晴らしいレコードに出会う時があった。僕さえも欲しいと思うようなプロモ盤やテストプレスが店に届いたんだ。それで僕が「オーマイゴッド! Charlie、このレコードを僕に譲ってくれませんか?」と頼むと、Charlieは「ダメだ。良い作品だし、店で売ろう」と言われたよ。彼はお客のことを考えていた。たとえば、ブルックリンのJoe Schmoeが探していたなんて言ってね。

 

店を構えるっていうのはそういうことなんだよ。お客がナンバーワンなんだ。Vinylmaniaは、『Cheers』(80年代を代表する米国のシットコム。ローカルバーが舞台)の歌詞みたいなもので、“そこへ行けば誰もが自分を知っていて、友人の家に遊びにいったような感覚が得られる” 店だった。味気ない店じゃなかったんだ。週末は飲み物を振る舞う時もあったよ。大賑わいだったからパーティをしたのさ。

 

Charlie Grappone

Vinylmaniaはみんなの家のような場所だった。近所に住んでいて毎日来るお客もいたよ。私はイタリア系の白人ばかりが住んでいたブルックリンの出身だが、Vinylmaniaは多種多様だった。黒人も白人もストレートもゲイもトランスジェンダーもいたよ。最高だったね。Vinylmaniaのあのバイブスは29年も続いたんだ。あそこで働いていた元スタッフの誰もが、あそこの雰囲気を気に入っていたと言うだろうね。

 

Joseph Longo

Charlieは最高のボスだった。タダでプロモ盤をくれる時があったし、僕たちが買うときはディスカウントしてくれたんだ。

 

Manny Lehman

Charlieは僕をファミリーに迎え入れてくれた。僕は彼に手ほどきを受けたし、彼と奥さんのDebbieは僕を信用して店を任せてくれた。リアルなファミリーのバイブスがあったね。Pal Joey、僕、Susan Morabito、Jerel Black、そして僕の親友のJudy Russellはチームとして働いていたし、仕事が終わったあとも一緒に遊んでいたんだ。

 

Charlie Grappone, Debbie Grappone, Bobby Shaw (MCA Records), Stephanie Mills, Manny Lehman, Judy Russell (L to R) 

 

Charlie Grappone

Vinylmaniaのスタッフの大半は「働かせて欲しい」と言ってきたのを私が雇ったんだ。そのひとりがSusan Morabitoさ。彼女は数少ない女性スタッフのひとりだったが、彼女はウチで働くためにクリーブランドからニューヨークへやってきた。

 

Susan Morabito

トラックからレコードを降ろしているCharlieに「あなたの店で働きたいんですけど」って話しかけると、Charlieには「あんた誰だい?」って言われたの。だから、自己紹介をして志望動機を伝えたわ。

 

Charlie Grappone

私は「そのためにそんな遠くからやってきたのかい? 採用だ」って返したよ。

 

Manny Lehman 

SusanはThe Saintや12 Westのようなゲイクラブでプレイしていて、店ではメールオーダーを担当していた。お客のことを良く理解していたね。Hi-NRGのようなヨーロッパのテイストを店に持ち込んだのは彼女だね。

 

Johnny De Mairo

Mannyが辞めたあとはJerelがカウンターを担当したんだ。Mannyはたまに偉そうにする時があったけど、Jerelは愛想が良くてね。お客の中にはMannyを怖がっている人がいたんだ。Mannyは自分の立場を分かっていたのさ。だから、JerelはそのMannyの担当を引き継いだことを光栄に思っていたんだろうね。Jerelはライナーノーツに詳しかった。アルバムのクレジットやバージョン違いについての知識が豊富だった。

 

Manny Lehman

Vinylmaniaはヒップホップがブームになった時に初めてヒップホップ担当を雇った店だった。彼はEmersonって名前だったね。Fun Houseに通い詰めていたPaulとJoeyやハウスとポップに詳しいJerelもいたし、スタッフ全員ですべてのジャンルをカバーしていたんだ。

 

 

Charlie Grappone

色んなタイプのお客が出入りしていた。店にはHi-NRGのコーナーもあったし、その逆側には当時生まれたばかりのハウスのコーナーがあったが、ゲイのお客はまだヨーロッパの輸入盤を好んでいた。1985~1986年頃になると、マンハッタンには沢山のレコードショップができていて、Vinylmaniaから数ブロック先のChristopher StreetにDecadanceというレコードショップがオープンした。この店はゲイコミュニティに特化していて、Hi-NRGやイタロを扱っていた。だが、私は「これからはハウスが来るはずだ。ハウスに力を入れるぞ」と決めたのさ。それでゲイたちはDecadanceへ流れていった。別に追い出したわけじゃない。Marshall Jefferson、JM Silk、Chip EのようなアーティストやTraxのようなレーベルに勢いを感じていただけなんだ。

 

Johnny De Mairo

当時はWard StreetにDowntown Recordsっていうレコードショップもあった。良い店だったよ。一方で、VinylmaniaはMannyが働いていた。彼は初期ゲイガラージのシーンに関わっていたし、みんなに好かれていた。だが、当時はゲイを毛嫌いするイタリア系の連中も出入りしていたんだ。だから、Downtown Recordsがオープンすると、彼らはそっちへ流れていったね。

 

Charlie Grappone

店が有名になると、『Billboard』誌でチャートを抱えるようになった。ダンスミュージックのチャートを毎週提出していたんだ。それでレコード会社がプロモ盤を箱に詰めて大量に送りつけるようになってきた。ウチは業界に大事にされていたんだ。

 

 

 

“Raquel Welchが店にやってきた時は、狭い店がパンパンになった。私の父親も来たよ(笑)”

Charlie Grappone

 

 

 

Franklin Fuentes

Charlieは音楽業界の誰もが知っていて、誰もが尊敬している人物だったし、今もそれは変わらない。その知名度の高さが他のレコードショップに対するアドバンテージになっていたんだ。そのひとつの例が、Scott Blackwallのクラブ4DがVinylmaniaのポップアップショップを店内に出させたって話だね。クラブで聴いた音楽をその場で買えたんだ。Charlieはいつもユニークかつクレバーな形で店をプロモートしていたよ。

 

Manny Lehman

あらゆる人が店にやってきたよ。ロンドンのDJだろうが誰でもね。世界各地からやってきたDJたちはまずVinylmaniaに立ち寄っていたし、帰国する前にも立ち寄っていた。ニューヨーク以外からやってくる人たちは、昔は車のトランクに詰められて売られていたようなクールなインディー盤を買いにきていたんだ。そういうインディーレーベルの連中は500枚プレスすると、まずVinylmaniaに売り込みに来ていた。「何枚買ってくれるかな?」と訊かれれば、「全部買い取るよ」と返していたよ。そうすればウチでしか買えなくなるからね。

 

Joseph Longo

Tony HumphriesやLarry LevanのようなトップDJたちが新しい音楽を探しに店へ来ていた。Toddy Terryは最新作を持ち込んで試していたし、 “Little” Louie VegaがDebbie Gibsonと一緒にやってきて、自分のリミックスをプレイした時もあった。

 

 

 

Charlie Grappone

Dinosaur Lの「Go Bang」はウチの店から生まれた楽曲じゃないが、初めてプレイされたのはウチだった。Will SocolovとArthur Russellがカウンターの横でミックスについて色々議論していたよ。WillやProfile RecordsのCory Robbinsのような連中は最新の輸入盤を試聴してライセンスの取得の話をしたり、UKに向かって話をするアーティストを決めたりしていたね。

 

ブレイク前のアーティストたちが数多く出入りしていた。Louie Vegaに初めて会ったのは彼がまだ16歳だった時だね。Madonnaのインストアライブもやった。当時の彼女はJellybean Benitezのガールフレンドだったから、しょっちゅう店に来ていた。インストアライブで盛り上がったのはRaquel WelchがColombiaから12インチシングルをリリースした時だね。ニューヨークにやってきた彼女は「わたしのレコードを売っている場所でプロモーションをしたいわ」と言ったらしい。それでウチの店に来たのさ。狭い店がパンパンになった。私の父親も来たよ(笑)。

 

Franklin Fuentes

ある日、ひとりの男性が店にやって来て、僕にミックステープを作ってくれと頼んできたんだ。そのミックステープは女優のBrenda Vaccaroのためなんだと言っていた。ミックステープは用意したけど、僕は彼のその話は信用していなかった。でも、それから数ヶ月後に店の前にリムジンが止まって、ミンクのロングコートを着たBrenda Vaccaroが降りてきたのさ。それで店の中に入ってきて僕の名前を呼んだんだ。彼女のところへ行くとハグされてね。「素晴らしい音楽だったわ。ありがとう」と感謝して帰っていった。

 

 

Manny Lehman

1986年にLarry Levanの「Love Heartache」と「Jump」をVinylmaniaからリリースした時は誰もが欲しがったけど、Larryとは長年の関係だったし、Judy Russellとも仲が良かったから、あれは家族に自分の子供を紹介するような気持ちでリリースしてもらったんだ。Charlieがレーベルをスタートさせた時、最初は僕がスタジオに一緒に入ることになった。でも、自分が何をしているのかさっぱり理解できていなかったね。エンジニアはBob Blankをはじめ、何人も雇ったよ。Bobと仕事をする機会は多かったな。あとはFascinationの「Why You Wanna Go」と「Don’t You Think It’s Time?」もリリースしたね。この2曲はTodd Terryがプロデュースして、僕がリミックスを担当したんだ。

 

Charlie Grappone

最初は30 Carmine Streetに2店舗を構えていたが、そのあとで52 Carmine Streetの物件を紹介された。そこは元の2店舗を合わせた面積の倍の広さだった。それで元の2店舗も維持しながらその店も経営したんだ。ビジネスは順調で、1985年までにはひとつのブロックに5店舗を抱えるようになっていた。それぞれで異なるジャンルを扱っていたんだ。ジャズ、ダンスミュージック、ロックとね。だが、結局規模を縮小した。1980年代後半は世界的な不況だったし、CDとカセットが台頭してレコードが売れなくなっていったからさ。それで60 Carmine Streetの1店舗にまとめて、21年間そこで営業を続けた。その間にすべてが変わっていったよ。音楽の買い方、プレイ方法なんかがね。私は60歳になるまでレコードショップを続けようと思っていたんだが、57歳で閉めた。2007年に妻に「辞められるうちに辞めよう」と話して、オンラインに切り替えたんだ。

 

Johnny De Mairo

Charlieは昔からメールオーダーを積極的に展開していたからね。とはいえ、店舗が閉まったあとはさすがに少し元気がなかったと思うね。長年続けてきたし、情熱も注いでいたからさ。今は倉庫とインターネットを駆使してDiscogsとeBayで商売を続けているよ。

 

Charlie Grappone

義理の弟がビルを持っていて、タダで貸してくれたから、そこにレコードを運び込んだのさ。今は毎日そこで仕事をしているよ。数え切れないほどのレコード、CD、カセットを扱っている。すべてちゃんと残しておいたからね。極端な性格なんだよ。全部きちんと保管してある。レコードは世界中で売れているね。レコードに代わるものはないよ。レコードは特別なんだ。

 

Manny Lehman

今でもしょっちゅうVinylmania時代のみんなに出くわすよ。DJでどこかに行くと、Vinylmaniaのお客だった人がブースへやって来て「Manny!」って声を掛けてくれるんだ。あの場所は他では得られない貴重な経験ができた。

 

Susan Morabito

VinylmaniaはニューヨークのDJの方向性を定めたのよ。ダンスミュージックのルーツだった。全米のダンスミュージックの礎になったのよ。

 

Charlie Grappone

あそこには何か魔法のようなものが存在していたね。Vinylmaniaという名前は今も残り続けている。2015年10月19日にはリユニオンパーティが開催されたんだ。最高だったよ。何年も見ていなかった連中が顔を出してくれた。私と妻のために多くの人たちが集まってくれて、自分たちの人生に大きな影響を与えてくれたと感謝してくれた。あの店がどれだけ多くの人たちに影響を与え、どれだけ大事にされていたのかをあの晩に知ったんだ。

 

Photo Credits: Charlie Grappone