十一月 11

 INTERVIEW:DOMMUNE 宇川直宏  

コンテンポラリー・アーティストとしての宇川直宏とDOMMUNEの今

By Kiki Kudo

 

80年代後半からBoredomsのVJとして活動をはじめ、日本のミュージック・シーンにおいて視覚からグルーヴを生み出すVJという地位を確立したのはまぎれもなく宇川直宏である。グラフィック・デザイナー、文筆家、大学教授、クラブ・オーナー、番組プロデューサー、パーティー・オーガナイザー、映像作家、そして、ミュージッククリップ・ディレクター。Boredoms、The Orb、電気グルーヴ、スチャダラパーなどなど様々なアーティストのMVをこれまでに100本近く監督するなど、幅広く極めて多岐に渡る活動を行い、自らをメディアレイピストと称していた現在の宇川の肩書きはDOMMUNEだ。

 

 

 

DOMMUNEは、2009年10月から実験配信を繰り返し、2010年3月から渋谷地下スタジオを個人で開局した、ソフトバンクの出資によるUstream Asia設立よりも2ヶ月早く、Boiler Roomよりも半年先にはじまった、ライヴ・ストリーミング・スタジオの先駆である。そのプログラムは、80年代から東京のナイトクラブ・シーンに精通し、サブカルチャーに造詣の深い宇川ならではのラインナップで、前半は、Alexandro Jodorowsky(アレハンドロ・ホドロフスキー)からHermeto Pascoal(エルメート・パスコアール)、脳科学者から社会学者、前衛画家まで世界各国の文化人が登壇するトーク・プログラム、後半は、Derrick May、Nina Kraviz、Carsten Nicolaiから、Merzbow、灰野敬二、DJ Nobuなどなど国内外で活躍するコアなDJ/ミュージシャンたちによる音楽配信という2本立てのスケジュールで、月曜から木曜まで平日毎日、ライヴ・ストリーミングを通じてソーシャル・メディア上の同時体験として全世界に解放している。スタジオにはイギリスのFunktion-Oneと、オランダのMaster Blasterを駆使したサウンドシステムが構築され、毎日2番組/5時間、宇川自らがカメラワーク/スイッチングに徹し、地下に籠もり配信を続けること5年!既に2,500番組以上/約5,500時間以上のアーカイヴをハードディスクに封じ込め続け、平均して毎日約10,000ヴューワー、トータル視聴者数4,500万ヴューワーの視聴者に向けて、今も配信を続けている。

 

多才な宇川であるが、前述した活動と平行し、2001年からは、コンテンポラリー・アートの世界でも活動をはじめ、国内外でソロ・ショウやグループ・ショウに参加している。その作品の特徴は常にインタラクティヴであり、フェティッシュであり、ナラティヴ。まさにDOMMUNE上でのDJ’sに対する多大なリスペクト、手元にフォーカスしたフェティッシュなフレーミング、そしてカルトなラインナップの前半のトーク・プログラム…ここは、宇川の剥き出しの自我が解放され続けている場所であり、DOMMUNEこそアーティスト宇川直宏の現在進行形のコンセプチャル・アート作品ともいえる。終わりなき日常とばかり続くこのライフワークは、まさに時間や存在をテーマとした河原温『Today』シリーズに共鳴するものだ。本稿では、宇川の過去のアート作品からDOMMUNEへと続く断片を見いだし、コンテンポラリー・アーティストとしての宇川直宏にフォーカスする。

 

 

僕らは開局前からライヴ・ストリーミングだけではなく、アーカイヴ用の利用許諾番号もJASRACに認定して頂いていましたが、これまで、それをあえて利用していませんでした。なぜなら、開局当時(2010年)は「ソーシャル・メディアの夜明け」と言われた時代で、ライヴ・ストリーミング自体が最新鋭の表現で、黎明期だからこそ、現在時間共有を世界と図ることに拘り続けました。お茶の間にまだホームビデオが割り込む以前の、あの幼少期の昭和の民放テレビ原体験が沸々と蘇り、ソーシャル・ストリームによる共時性の具現化をコンセプトとしてDOMMUNEを立ち上げました。つまりSNS元年とも言える2010年は、ツイッターで「なう/NOW」というワードが『ぎんざNOW!』(1972年)以降、再浮上した年だと思いますが(笑)、その呟きに象徴されるように、DOMMUNEは、現在時間を国境を超えた不特定多数の人々と共有するものにしたいと考えていました。「なう」=「今」。つまり「今、疑いなく生きている映像」を映し出すことが、僕はライヴ・ストリーミングのアウラだと捉えていたので、アーカイヴを残しては"いまここ"が、失われるのではないか?と言う危惧があったのです。そんな事情のもとに、5年間で5,500時間の番組をハードディスクに記録してきましたが、これまで敢えてサイバースペースには解放してこなかった。また、当時は、寧ろDOMMUNEこそが「民放」なのだ!と定義づけていました(笑)要するに配信だから可能になった、電波法を越えた時空から「世界の民(たみ)」に向けた番組配信を心がけていたのです。

 

サイバースペースをデジタル・ネットワーク上の「公共」と捉えるならば、僕らは番組を国境なきストリートに解放していることになる。つまりライヴ・ストリーミングは黎明期における街頭テレビですよね。例えば、Lumière(リュミエール)兄弟が発明したシネマトグラフ(1894年に開発された最初の映画撮影カメラ兼上映機)が映画の起源だとすると、スクリーンに投影された映像を闇の中で大衆が共有する…そのDNAは日の光を浴びて、街頭テレビに受け継がれました。しかし、その後TVは家電化されお茶の間の主役となり、時を経て小型化され、個人の生活空間に入り込み、ブラウン管から脱皮して、デジタル放送時代が到来し、いまやラップトップやスマホで鑑賞する時代となった。そして、現在のライヴ・ストリーミングの環境は、映画前史の1891年にエジソンが発明したキネトスコープ(覗き穴から映像を一人で楽しむ映写装置)まで遡ったと僕は思いめぐらせました。つまり一人で覗き見るキネトスコープがラップトップに復権し、ソーシャル・メディアによる共時性を纏い、異形の進化を遂げたと僕は考え、ストリーミング黎明期の混沌を、よりカオティックに掻き混ぜるべく(笑)DOMMUNEを開局したのです。

 

 

例えば、2005年に台頭したYouTube。この登場は革命だと思いました。なぜなら"レア"という価値観が無効化された歴史的瞬間でもあったからです。映像における所有の概念が崩壊し、共有が現実化していたからです。かつては、貴重な過去の映像や音源を個人所有することで、そのこと自体が自己表現と密接な関係にあることを意味しました。しかしその秩序がYouTubeによって崩壊した。僕の映像は君の映像、君の映像は僕の映像!僕の時間は君の時間、君の時間は僕の時間!そう、サイバースペースに於けるアーカイヴの豊かさとは「過去の時間」の共有でした。YouTubeにアップされると、内容問わず「いつか見ることが出来る映像」と化します。つまり誰かが所有しているという事実は、自分が所有していることと等しく、「いつか見ることが出来る映像」は「いま、見ない」と同義なのです。だから僕はアーカイヴを残すことを拒絶し続けました。その代わり平日毎日配信するからと…過去ではなく、現在、「いましか見ることが出来ない映像」!「現在の時間」を共有しようではないか、と!僕の時間は僕の時間、君の時間は君の時間!そう「時は金なり」!日常時間だけは、貴重で有効な、個人の所有物なのです。

 

そして僕は、開局当初から、このスタジオで日々ストリーミングし続けている、これら番組の、撮影行為、配信行為、記録行為を、自らの「現在美術」作品であると位置づけました。現代アートのスピードでは追いつけない速度、つまり"現代"ではなく"現在"を扱った、DOMMUNEが世界の側に配信するプログラムは「いま」と「ここ」の一回性が生み出す、生の作品である為です。1929年。Dziga Vertov(ジガ・ヴェルトフ)は『カメラを持った男』という作品で「キノグラース(映画眼)」というコンセプトを提案しました。ならば僕は『カメラを仕掛けた男』を自称しようと…。全ての番組は、平日毎日同じキャンバス、同じライティングで撮影された、同時代を生きるアーティスト達のハイ・フィデリティなポートレイトであり、定点観測である為です。これは「映画眼」ではなく「観測眼」であり、究極のドキュメンタリーなのです。つまりDOMMUNEはSNS時代のネオ・キノグラースであって、自らのリアルタイム・スイッチングはライヴ・ストリーミング世代のボスト・モンタージュという位置づけです。

 

YCAMDOMMUNE (写真提供:山口情報芸術センター[YCAM])

 

1970年、Jonas Mekas(ジョナス・メカス)はAnthology Film Archivesを設立し、“映像を人々と分かち合う場所”こそが、アーカイヴだと定義づけました。このアメリカ実験映画界のゴッドファーザーは、愛用のボレックスを手にし、自分を探し続け、人生の記録を他者と分かち合うべく、現在も日常を切り取り続けています。Mekasの哲学に賛同する僕は、去年坂本龍一さんが総監督をした、山口情報芸術センター(YCAM)の10周年の記念企画のひとつとして「YCAMDOMMUNE」というプロジェクトを遂行致しました。元マクドナルド、その前は、生協だったビル一棟を1年間限定で借りて、DOMMUNEのサテライト・スタジオ、アーカイヴ・シアター、ギャラリー、さらにバーまで併設し、山口から何度も番組を配信しました。そこでもアーカイヴ・シアターを開設し、過去番組を日夜無料連続上映しました。以前も文化庁の招聘で、ドイツ/ドルトムント「U」というギャラリー内にDOMMUNEのサテライト・スタジオを1ケ月限定で設立し、アーカイヴを解放したことがあります。配信時には、個人の内的体験としてラップトップで鑑賞可能だった作品が、最終的にはオーディエンス同士が、身体の触れ合う距離で、公の場で鑑賞可能になる。アートのアウラを信じている僕は、この鑑賞方法を提唱したいが故、ホワイトキューブに「展示」という形で番組アーカイヴを解放し続けてきました。そう、身体性復権の場です。しかし、複数の現場を体験し、物語の介在しない2時間番組を劇場で共有するには、オーディエンスの集中力として、難易度が高いことに気がつきました。

 

例えるならば、DOMMUNEは「自分探し」ではなく「自分辿り」なのです。言わば、自らと繋がりがあるひとつひとつの番組自体が、モニュメンタルな自分史の欠片であり、ひいてはエポック・メイキングな文化史の一部だと捉えることができる…10年がかりで20世紀の映画史を独自的コンテクストに添ってエディットし尽くした、Jean-Luc Godardに於ける『映画史』(1988年 - 1998年)は、紛れも無く僕にとっての「DOMMUNE」なのです。だからこそ僕は、現在ライフワークとして日夜この作品を拡張し続けています。

 

YCAMDOMMUNE (写真提供:山口情報芸術センター[YCAM])

 

拡張…?ならば、今後、この膨大な作品を何処に拡張して行けばよいというのか? ここでヒントになるのは「なぜ岡本太郎は作品を売却しなかったのか?」という問題です。岡本太郎のオリジナル作品は個人が所有できない。僕はそこに自らが抱えている問題の秘密があるような気がしていました。岡本太郎氏はこの問いに対して「大勢の人に見てもらいたいから、売らなかった。売ると、個人宅に死蔵されてしまう。」という言葉を残していたと伝え聞きます… そして、開局以来、5年の歳月が経ちました。にも関わらず、僕は、太郎氏の発言の中の「死蔵」という言葉に取り憑かれ続けています。真意はどうであれ、この言葉はDOMMUNEで配信した後のプログラムと同様です。換言すれば、"大勢の生きた眼差しを浴びている状況が、作品が生きていると言える状態なのだろう"…と。だからこそ、メカスが提唱する身体性復権の場=ホワイトキューブに、番組を解放し続けてきた訳でありますが、展示が終了すると自由に観覧出来るのは、作品を所有している作家、つまり僕、ただ一人なのです。僕は純粋に「アート」を信じてきたのですが、このエネルギー循環の停滞は、作家自らが作品を「死蔵」していると言えまいか?そういえば、岡本太郎氏の作品にはパブリック・アートが沢山存在する…。パブリック・アートは無料である。そして差別なく、全世界の人類が共有している。そこに「アーカイヴ」の秘密があるのではないか?僕は現代における、もとい、現在における共有の問題を今も考え続けています。

 

宇川直宏の現在進行形のコンセプチャル・アート作品=「DOMMUNE」は、自らを軟禁し地下に籠り続け、現在を切り取るパフォーミング・アートでもある。そこで写し出され、世界に配信し、ハードディスクに記録されたドキュメンタルな番組群は、紛れも無く宇川直宏の作品である。現在5,500時間にも及ぶ、この膨張した映像作品=「DOMMUNE」は、現在も日々尺を伸ばしながら自己拡張し続ける、未完のウルトラ長編である。「現在の時間」にこだわり続けてきた宇川が、ここにきて「過去の時間」の共有に目覚め、アーカイヴの問題を再定義する。これはDOMMUNEのネクストレイヤーであり、新たなアウラ表出の糸口を秘めているのではないか?

 

そのように、アーカイヴに関して自問自答を重ねながら、僕は、今年、UPLINKのはからいで、尊敬して止まないAlexandro Jodorowsky監督と出会うこととなります。そう、来日した氏の番組をストリーミングしたのです。世界中からあらゆるジャンルの巨匠が連夜訪れるDOMMUNEという現場に籠城していると、国境も階層も様式も何もかもが麻痺し、長らく緊張という言葉を忘却していましたが、しかしこの日だけは、背筋が伸びる想いでした。元オウム真理教青山道場(村井が刺殺された場所)から徒歩1分というパワースポットでもあるDOMMUNEに、突如訪れた尊師=Jodorowsky監督と遂に出会うことが出来たのです。僕は師に質問しました!「あらゆるキャリアを断ち切ってここ4年と半年、「現在美術」表現としてライヴ・ストリーミングに日々取り組んでいます。テクノロジーと添寝して「日刊」という消費すらままならない高速なスピードで全世界に配信し、その番組を文化遺産と想定し、日々ハードディスクにアーカイヴする… つまり、妄信的に現在を切り取り続ける、このDOMMUNEという撮影/配信/記録行為はアートなのか?果たして、アートとは何なのでしょうか?」と、Jodorowsky尊師に問うてみたのです。Jodorowsky尊師は答えてくださった。「アートとは"光る虫を飲み込んだカエル"だ!カエルは闇に住み、月に憧れ、発光する虫を発見すると、光に導かれ食べて飲み込む。まるで輝きに魅惑されるアーティストのようだ!光を消化するには時間がかかる…しかし輝くウンコをいつか排泄する!」(笑)Jodorowsky尊師は続けてくれました。「我々動物の排便がそうであるように、それはいつ排泄されるかは判らない…しかし必ずウンコはひり出される!そして謙虚に光り輝くのだ!!!!! それこそが新たな肥料となって土壌を豊かにする筈だ!!!!!!! だから兎に角、種を蒔け…ひたすら無心に、兎に角、蒔け!!!!!!!!!!」と…(笑)

 

with Alexandro Jodorowsky

 

つまりDOMMUNEというメディアはカエルであって、世界中から訪れた芸術家の輝かしい表現を日夜補食し(撮影)、日々消化不良のまま排泄(配信)し、ハードディスクという肥溜めに蓄積している(記録)!この排泄物を「醗酵」=「発光」させ、肥料として「昇華」=「消化」させる!このような熟成の過程を、これまでDOMMUNEは歩んで来たのだ…と。僕は、Jodorowsky尊師の言葉に耳を傾けながら、静かに悟りました。そうだ、いまこそ、世界の側に、蒔くタイミングなのだ!!!!!!!!!!!! と。果たせばDOMMUNEは作品となり、盲目的に蒔き続ける行為自体がアートたらしめる。これぞ、アート・コア・錬金術!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(笑)つまり、いまこそが、アーカイヴを世界に解放するタイミングなのだ、と!!!!!!!! 日本・現代・美術に於ける「悪い場所」の再考も興味深いし、マーケット重視の確信犯的戦略も重要だと思うが、僕はアーティストの端くれとして、Jodorowsky尊師の教義を信じます。”ホーリーマウンテン”から日の出を眺めたいが為に…。

 

例えばBoiler Roomは当初からネットワークに拘り続けて来ました。ワールドワイドなネットワークに於ける番組共有は、時差を埋める為にもアーカイヴが重要だった。僕らDOMMUNEがアーカイヴを解放しなかった理由は、先述のとおり、現在時間の共有を頑なコンセプトとして打ち出し続けたからです。しかし、SNS自体が常態になってしまった今、言い換えれば、"現在時間の共有"が当たり前になってしまった今、僕らもここに来て、追体験できるシステムを考えていこうと…。 そんなタイミングで僕は、Jodorowsky尊師から直々の教えを蒙り、心打たれたのです。僕はいままで、5年の歳月をかけて、排泄物を蓄積し、発酵させ続けていました(笑)。現在、アーカイヴは、奥ゆかしくもコクのある圧倒的な臭いを放っています!(笑)。つまり今までホワイトキューブでブチまけて来た過去の番組は、まだまだ生暖かい排泄物だったわけです。それらを発酵させ、肥料として昇華し、全世界のヴューワーに蒔き続け、血肉に至るまで消化頂かないといけない(笑)。その熟成の過程を今までDOMMUNEは歩んできた。

 

そこで重要になってくるのが開局当初から維持している前半トーク・プログラム、後半は音楽プログラムというフォーマット。これは発明だと考えています。その2つの栄養バランスでいままで成り立っていて…つまり、前半で、体と脳を作る栄養素=タンパク質やビタミン、ミネラル、食物繊維を配給し、後半で、エネルギーになる栄養素、つまり、炭水化物や糖質を配給している。そうなんです。これら養分が醗酵し、アーカイヴは有機肥料となる!今考えると、僕らが世界に配給した後半の番組=音楽配信が言語を越えたエネルギーとして浸透し、それを吸収し垣間みた人々が、世界でいろんなタイプの音楽配信をはじめたのだと思います。

 

 

例えば今年、DOMMUNEとBoiler Roomはコラボレートし、リーダーのBlaise(創設者)と共に東京で何度か配信を行いましたが、メンバーのSofieは、DOMMUNEの方が半年先にスタートしていると言ってくれました(笑)。確かにオリジネイターとして、エネルギーの世界拡散は嬉しく思うのですが、ただ同じ時代に、同じテクノロジーを与えられた人類が、同じ発想をするというのは当然で、例えばParadise GarageとWarehouse、どちらオリジナルか?といっても、それは問題じゃない。まず、コンセプトが違うので、どちらも世界史には名が残る。Boiler Roomが素晴らしいのは、やはり、ワールドワイド・ネットワークに目を向けていたことでしょう。僕らDOMMUNEは彼らのネットワークにも接続し、今後もコラボレートして行くつもりです。そしてDOMMUNEになぜ多くの視聴者が集うかと言えば、それは今だ「レア」であるという価値を秘めているからだと考えます。ステーキの焼き具合でも、軽く火を通した生に近い状態をレアといいますが、現在、価値あるもの、即ち「見るべきもの」は「今」味わわないと、明日完全に腐ってしまう「生」の映像、つまり「まだ生きている映像」のことを指すのではないかと。そう「疑いなく、今、生きている。」それこそがライヴ・ストリーミングの力ではないかと考えています。

 

そしてこれは僕の最新の美術表現でもある。毎日毎日、同じキャンバスの元に、同じライティングを施して、同じスタンスでカメラを仕込んで、同時代を生きるアーティストたちの"生きたポートレイト"を撮っている…これが「現在美術」たる所以なのであります。そして「DOMMUNE」は、僕自身のコンセプチャル・アート作品であり、パフォーミング・アート作品でもあります。

 

 

Boiler Roomはパブリックに世界のフロアを接続した。そして、DOMMUNEは今も宇川直宏の極私的空間と日常を全世界に公開している。実は、宇川によるこの発想は、DOMMUNEをもってはじまったのではなく、過去の宇川直宏自身の多くのアート作品に、既にその片鱗は見受けられる。定点観測と収集、盗撮と監視、意識と無意識、パブリックとパーソナルの接続…そして数字に対するフェティッシュなまでの愛に司っている。これらは宇川のアート作品の特徴だといっても過言ではない。

 

2003年に宇川がファッション・ブランドのLad Musician内に併設されたギャラリーで発表し、後に東京都写真美術館でアップデートされた『Daily Psychic TV / Emperor's Dead』では、宇川が収集している70年代の複合家電「ラテカセ(ラジオ+テレビ+カセット)」54台のインスタレーションで、昭和天皇崩御時のNHK番組を延々と受信。ビデオ・トランスミッターを使って電波送信、半径300m以内の隣接マンションの住人たちも、チャンネルを合わせれば会期中、毎日、総尺6時間の天皇崩御番組が受信できたという…ストリーミングならぬ海賊放送!このインスタレーションは、まさにDOMMUNEの原型と言っても過言ではない。そして「現在美術」作品と銘打ってライヴ・ストリーミングを始動したDOMMUNEの番組こそは、宇川の日刊の最新作であるとも言える。

 

すでにDOMMUNEに繋がる作品は過去にいろいろ作っていて、ウチで飼っているウズラの発情時の鳴き声を電子変調させ、自らの鳴き声を聞かせて「鳴きあわせ」のパフォーマンスを監視カメラで鑑賞した「!!!UZULIVE!!!」(2004)、僕自身が即興で語るホラーストーリーを無理矢理聞かされる女性(インタビュアーの工藤キキがモデルとなった)の顔面を撮影した映像を、建築物にマッピングし心霊現象をシミュレートする「SUPERNATURAL DELUSION」(2005)とか?日豪交流年企画の一環としてオーストラリアのメルボルンで発表した「Dr. Toilet's Rapt-up Clinic」(2006) は、マジック・ミラーで連なった5部屋の曼荼羅公衆便所を盗撮する作品でした。物議を醸し出したこの作品は、リアルタイムでインターネットを経由して受信した世界中のテレビ番組の音声(深いディレイがかかってます)と、アルファ波を誘発させる周波数のパルスを同調させたシンクロ・エナジャイザー(宇川自身が施した5時間プログラム)で、観客を公衆便所の個室で瞑想させ、その姿を盗撮、監視カメラ・システムで鑑賞し、ハードディスクにアーカイヴするという大変アイロニカルな展示でした。植草教授の常習痴漢で蒲田駅が盛り上がっていた時期に、メルボルンで日本の恥部を批評する倒錯的な作品でしたね(笑)。この作品はパブリックとパーソナルの壁をボーダレスにする装置でもあり、現代社会の法規網の穴に言及しながら公共空間の私的性/公共性を問うインスタレーションでした。

 

「Dr. Toilet's Rapt-up Clinic」Courtesy of YAMAMOTO GENDAI

 

他にも自然災害をテーマにしたシリーズがあって、森美術館で発表した、台風を「生け捕る」というコンセプトで、ニューオリンズに壊滅的な被害を与えたハリケーン型台風カトリーナと同じ最大風速の再現装置による「A Series of Interpreted Catharsis Episode1: Hurricane - Katrina」。世界中のお札を台風で廻し、その風速を体感するオーディエンスは、定点カメラで監視されていましたし、「A Series of Interpreted Catharsis episode2 - earthquake」は、筑波の地震研究所で、阪神淡路大震災とサンフランシスコ大地震とを、全く同じ震度、揺れ幅、長さで再現し、人工地震を起こし、その状況をハイスピードカメラで捕らえました。

 

「A Series of Interpreted Catharsis episode1 - Hurricane Katrina」Courtesy of YAMAMOTO GENDAI

 

仰るように、DOMMUNEもこれら僕の美術作品と地続きにあるのは間違いないです。因みに現代アーティストで特にシンパシーを感じるのは、先日亡くなられた河原温さんですね。DOMMUNEの日々の配信は、敬愛する文化との緊密な関係による、僕自身のスタジオ拘束パフォーマンスでもあるが為、河原温氏の時間や空間や存在や生存をコンセプトにした作品に深い感銘を受けていました。DOMMUNEも同じく、その日の配信前に僕が死んだとしたら当然、番組は始まらない(笑)。つまり配信されていることが「I AM STILL ALIVE」。そしてDOMMUNEから毎日配信しているプログラム自体が「デイト・ペインティング」もとい、「デイト・シューティング」であり、それを僕は、5年間毎日、現在美術行為として遂行している。なので、僕の最新作は毎日ストリーミングによって、アップデートされていると言ってもいい、でも、「現在美術」の先輩=河原温さんの存在無くしては挫けていたかもしれません。

 

だから尚更、氏の訃報が世に出た時、僕は大変複雑な心境に陥りました。河原温氏のコンセプトならば「中の人」を代理に立て、歌舞伎や落語の襲名制度のように、魂の襷を継承し続けることによって不死であることを可能に出来た筈なのに、と…。そうすれば、「TODAY」は延々と更新され「I AM STILL ALIVE」と永遠に生き続ける。氏は「日付絵画」を発表した1966年以降、インタビューもアーティスト写真も拒んできました。ほとんどの人が彼の存在を確認したことがない。つまり、僕は、河原温は死なないと思っていた。にも関わらず、氏が肉体が消滅した事実を発表したのは、全ての近作の「完成」が「死」を意味していた為なのでしょう。死んだことによって、やっと完成した。つまり「人生」が作品だったと…。DOMMUNEを日夜アップデートし続けていくなか、何を持って完成なのか? そのことはたまに考えたりもしています。作家の肉体は滅んでも作品は生き続ける。厳密に言うと、作家の手を離れた後は、作品は受け手の解釈に存在を委ね、一人歩きして勝手に生き続ける。更に、河原温氏の場合は肉体が消滅したという事実によって完成の日の目を見た。僕、つまりDOMMUNEの場合は?…このことは、たまに頭を過ります。

 

「DJ JOHN CAGE & THE 100 WORLD WIDE DJS」『DOMMUNE University of the Arts -Tokyo Arts Circulation-』 Courtesy of YAMAMOTO GENDAI
 

 

この秋アーツ千代田3331で開催した「DOMMUNE University of the Arts -Tokyo Arts Circulation-」で、はじめてアーカイヴの問題に真っ向から取り組みました。「THE 100 JAPANESE CONTEMPORARY ARTISTS」のタイトルで、現代を生きる(そう、絶命しても生き続ける)100人の日本人アーティストの肖像を、オリジナル作品の展示とともに、併設したDOMMUNE秋葉原スタジオの中で、『いつみても現代美術波瀾万丈』よろしく切り取って(笑)、そして、アーカイヴとして後世に伝承するプログラムです。登場作家は、会田誠、飴屋法水、榎忠、岡崎乾二郎、小谷元彦、(故)河原温、鴻池朋子、小林正人、杉本博司、田名網敬一、chim↑pom、椿昇、中村政人、原口典之、堀浩哉、蜷川実花、毛利悠子、森山大道、ヤノベケンジ、横尾忠則という蒼々たるメンバーです!これは途方もない価値のある文化遺産だと位置づけています。果たしてこれら番組は、椹木野衣氏の名著である『日本・現代・美術』で論じられていた「閉じられた円環」(by 彦坂尚嘉)を世界の側に解放することが出来るのか? それとも<『日本・現代・美術』の「現在」>という速度的パラドックスが新たな歪みを生じさせるのか?展示は大成功を納め、各方面から高い評価を得ましたが、今後、字幕付きアーカイヴを世界の側に解放したときに、再度新たな化学反応が生じる筈だと期待しております。

 

更には、開局以来、4年半に渡って全世界からスタジオにアーティストを招き、日夜、撮影/配信/記録したDJ1000人分のアーカイヴを、ジョン・ケージの指揮のもと同時再生させる怒濤のインスタレーション「DJ JOHN CAGE & THE 1000 WORLD WIDE DJS」を宇川直宏の最新作として発表しました。コンセプトを説明すると今から2時間かかるので(笑)検索してもらうとしますが、これは5年間平日毎日継続してきた現在美術作品=DOMMUNEからの「いま、ここ」についての現時点での回答です。この2つの試みは、美術史に於いて嘗て誰も着手しなかった、全く新しいアウラ表出の現在形だと考えています。100人のアーティストの(うち、今回は20人)リアルな身体の呼吸、そして1000人のDJアーカイヴによる新たな"音像蘇生"を体感頂けたならば、「TODAY」を生き抜く僕も成仏できると思います(笑)。では声高に、I AM STILL ALIVE!!!!!!!!!!!!!!!