十二月 01

息子が語るCurtis Mayfield『Super Fly』

Curtis Mayfieldの息子Toddの著作『Traveling Soul: The Life of Curtis Mayfield』(音楽ライターTravis Atriaとの共著)の中から、名作『Super Fly』にまつわるエピソードを抜粋

By Todd Mayfield and Travis Atria

 

1971年の暮れ、ニューヨークとシカゴの間の上空のどこか − 飛行機の座席に座った僕の父Curtis Mayfieldは、膝の上に『Super Fly』の脚本を乗せ、自分の内面からとめどなく音楽が溢れ出してくるのを感じていた。父は「すごく興奮していたよ。ニューヨークからシカゴに戻る機内の中で、俺は早速1曲書き上げた。曲を書くための準備なんてものはほとんど必要なかった。すべて自然に俺の中から溢れてきたんだよ。俺は、あの映画の脚本を読んで即座に曲を書き始めたのさ。音符を書き連ねていくうちに、どんどん曲になっていったのさ。俺にとって、あれは素晴らしいアドベンチャーだったな」と言っていた。

 

仮脚本を読み進めていくうち、父は主人公Youngblood Priestに感情移入していった。Priest(司祭)という名前からも分かる通り、このキャラクターは当時のゲットーに跋扈していたあらゆるドラッグディーラーやピンプたちのイメージを全てごちゃ混ぜにして典型化したものだ。しかし、現実の彼らとの一番の違いは、Priestがゲットーの生活から足を洗いたがっていたということだ。父はこう言っていた。「俺にはPriestを馬鹿にすることはできなかった。奴はただゲットーを出たがっていただけさ。やり方は必ずしも褒められたものじゃないが、奴は金を稼ぐことができたし、それに知性もあった。しかも、奴はゲットーで生き残った。俺はこのキャラクターにリアリティを感じ取ったんだ」

 

父がPriestよりもリアリティを感じたのが、Priestに騙される役割を演じるFreddieという人物だった。「脚本を読み進めていくうち、俺はFreddieを心底気の毒に思うようになっていった」と父は言っていた。「友人関係にしろ、パートナーや女との関係にしろ、彼は追い詰められていた。『Freddie’s Dead』はすぐに思い浮かんだよ。お前はピンプやドラッグディーラーと知り合いになったことはないはずだから分からないだろうが、俺たちはFreddieみたいな男をたくさん見てきたのさ」

 

 

父は当時僕たちが住んでいた3階建の家の地下にあるベッドルームに閉じこもり、Fender Rhodesを弾きながら「Freddie’s Dead」を書き上げた。とはいえ、父が言うには曲を仕上げるのに5分ほどしかかからなかったらしい。父は僕たちが寝入った後も深夜遅くまでずっと作業をすることを好んでいた。朝になって目を覚ますと、父が一心不乱に作曲に取り組んでいたであろう痕跡をしばしば目にしたものだ。僕の兄Tracyはこう証言している。「床の至るところに丸められた紙くずが転がっていたのを覚えているよ。そのうちひとつを拾い上げてみると、“Freddie’s Dead(Freddieは死んだ)”となぐり書きされていたんだ。僕は『誰だよFreddieって? 一体誰が死んだって言うんだ?』と首をかしげたものさ」

 

その頃、父の手元には「Ghetto Child」という曲がすでにあった。これは『Super Fly』の前年に発表された1971年のアルバム『Roots』のレコーディングセッション時に父が録音しようとしていた曲だった。この曲は『Super Fly』の脚本にぴったりとフィットしていたので、父はこの曲を「Little Child Runnin’ Wild」と改題することにした。父は「あの曲を作り始めたのは『Super Fly』より3年も前のことだったが、中々形にならなかった。だが、俺が『Super Fly』のスコアを制作していると、突如として曲がひとつにまとまっていったのさ」と説明していた。

 

 

 

映画のスコアに使用する残りの楽曲を仕上げるため、父は撮影済みシーンのラッシュ(*1)を受け取り、巨大で重いプロ用機材Sony VO-1600(*2)でチェックした。ラッシュが収められていたのは3/4インチのビデオカセットで、それはまるで立派な本1冊分ぐらいの大きさだった。ラッシュの下側にはタイムラインが表示されていたので、父はそれに合わせてシーンごとに曲を同期させることができた。父は自宅スタジオの中にこのビデオプレイヤーを置いていたので、時々作業中に映像を見せてくれた。またある時には、父が居眠りしている間に兄と僕の2人でスタジオにこっそり忍び込んで、あの有名なバスタブでのラブシーンをドキドキしながら楽しんだ。

 

(*1)音声の入っていない未編集プリント。

(*2)1971年当時発売されたばかりのUマチック規格ビデオ録画再生機。

 

僕たち兄弟はまだ幼かったとはいえ、父がたくさんの機材に囲まれて作業している様子を眺めることが習慣化していた。父は僕たちにもできる限り自分の仕事を見せようとしてくれていたし、時にはCurtomスタジオでの録音現場にも僕たちを同席させてくれたが、誰かが作曲している様子を見るのは、完成した作品を聴くときほど興奮できるものではないということもすぐに学ぶことになった。

 

しかし、父は『Super Fly』のサウンドトラックの制作に興奮していた。父にとっては初めてのサウンドトラックだった上に、脚本にはThe Curtis Mayfield Experienceとしてのカメオ出演も組み込まれていて、初めての銀幕デビューを飾ることになっていたからだ。スケジュール進行のゴタゴタにより、父のバンドはアルバムのレコーディング前に撮影に臨まなければならなくなった。そして、1971年も暮れに差し迫った12月、父はメンバーのCraig McMullen(ギター)、Joseph Lucky Scott(ベース)、Master Henry Gibson(パーカッション)、Tyrone McCullen(ドラム)を呼び出すと、いつものように唐突な口調で「おい、みんなでこの映画に出るから、これからニューヨークに行くぞ」と告げた。

 

父は自分たちの出演シーンのために「Pusherman」という曲を書き上げていたが、スタジオでのレコーディングはまだ終わっていなかった。しかし、監督のGordon Parks Jr.はシーン撮影のために完成した音源を必要としていたので、バンドはニューヨークのBell Sound Studiosを借りて録音することにした。ギターを担当していたCraigは「スタジオには夜に入ったんじゃないかな。というのも、その次の日にはシーンの撮影が予定されていたからね」と振り返っている。この時点ではバンドメンバーは、父が「Pusherman」以外の曲はまだ耳にしていなかったが、この1曲は、このサウンドトラックが特別な作品になることを感じさせた。

 

 

Craigは撮影現場に到着した時のことを「あの時に映画の撮影現場がどんなものかを初めて理解したのさ。僕たちを定位置に立たせ、スタッフがひたすら照明の当たり具合を調整するんだ。光の角度や量などをとにかく最善の状態にしようとしていた」と振り返っている。俳優たちがOKテイクを出すまでバンドは同じ曲の当て振りを何度も繰り返し、その作業は翌日も続いた。父はかつて在籍していたThe Impressionsの最初のツアーで「外部からは華やかに見える世界でも、近づいてみれば地味なもの」という事実を痛感したそうだが、映画の撮影現場もまさにそうだった。

 

シーンの撮影は若干退屈ではあったものの2日間で終わり、その後バンドはヨーロッパツアーへ向かった。そして、それが終わると、父は古巣のThe Impressionsの元へ向かった。The Impressionsは1970年に『Check Out Your Mind』を発表して以来レコードをリリースしていなかったため、メンバーはFred Cashの自宅スタジオで新曲のリハーサルを繰り返した後、本格的なスタジオでのレコーディング作業に入った。Leroy Hutsonをリードシンガーに迎えたそのアルバム『Times Have Changed』で、父は全8曲中7曲の作曲を手掛けた(*3)。その中には、当時の米国の社会情勢を反映した「Stop the War」も含まれており、Sam Goodenの印象的で情熱的なヴォーカルを押し出したこの曲は、父が手掛けた全作品の中でも最もパワフルな反戦ソングとなった。

 

(*3)1970年の『Check Out Your Mind』発表後CurtisはThe Impressionsから独立しソロ活動を開始したが、以降も楽曲提供者として関わり続けた。

 

 

『Times Have Changed』を仕上げた父の元には『Super Fly』の追加ラッシュが届けられたが、父はその内容が気に入らなかった。父は「脚本には『そして彼はもう一度コカインを吸い込む』なんて内容は書かれていなかったからな。それどころか、その1分後にはまたコカインを吸い込むシーンがあったんだ。そのラッシュを見た時、俺は『これじゃコカインのインフォマーシャルじゃないか』と思ったものさ」と言っていた。父は潔癖ぶる人間ではなかったし、僕が知っている限り、コカインと無縁でもなかった。父は『Super Fly』の制作をきっかけにコカインに手を出し、やがて常用するようになったという話を僕は聞かされていた。

 

父はシカゴの低所得層が住んでいたホワイトイーグルで過ごした少年期に、この映画で描写されている惨めな生活を体験していた。「俺は『Super Fly』で描かれた世界観を何の苦労もなく理解できた。というより、他の映画の脚本を理解するよりもはるかに簡単だったんだ。なぜなら、俺自身がこの映画で描かれているような世界で育ってきたんだからな。ゲットーはピンプやプッシャーだけの世界じゃない。ただ、彼らは派手で目立つ存在だったってだけさ。ゲットーの街角に立っていれば、どいつがピンプなのかはすぐに分かる。奴らはギラギラ光っているからな。一般人の顔は5回ぐらい見ないと認識できないが、ピンプやプッシャー以外の2回ほど見ればすぐ顔を覚えて認識できる。そして、どの大都市もその半分が奴らの住むゲットーだってことも知っておくべきだ」と父は語っていた。

 

それでも、父はゲットーを映画のワンシーンたりとも美化したくはなかった。そして父は引き下がる代わりに積極的な行動に出た。父は各登場人物を入念に研究して曲に落とし込み、各曲が映画のミニチュアになるように仕上げた。音楽を映画内のある種の良心として機能させた。父は「曲と歌詞が映画の解説になるようにした。誰かが説明してくれているようにしたのさ。映像へのカウンターとして機能させることが重要だった。キッズたちに『これはドラッグのインフォマーシャルじゃない』ということを説明しようとしたんだ」と説明していた。

 

 

 

伝えるべきメッセージが決まれば、次は音楽をそれにふさわしいものに仕上げることが必要だ。そこで父は、自身の音楽キャリアにおける最大の恩人、Johnny Pate(*4)に協力を請うことにした。Johnnyは当時まだニューヨークに住んでいて、MGM RecordsでA&R・プロデューサー・マネージャーとして働いていた。彼が受話器を取ると、父は柔らかく甲高いお馴染みの声で「君なしでこの仕事はできない」と頼み込んだ。Johnnyは他の仕事を放っぽり出し、すぐにシカゴへと飛んだ。

 

(*4)1960年代初期からThe Impressionsとの共同作業を通じてCurtisと知己を得たアレンジャー。後に『Shaft in Africa』『Brother on the Run』などのブラックスプロイテーション映画のサウンドトラック制作でも活躍した。

 

父はいつも通りギターフレーズやヴォーカルのアイディアの断片を吹き込んだカセットテープを持参した。JohnnyはCurtisが『Super Fly』のために用意した曲を耳にするのは初めてだったが、すでにアレンジのインスピレーションが浮かんだ。「Curtisが聴かせてくれたデモはコード展開も少なく、メロディラインも最小限だった。『Pusherman』、『Superfly』、『Freddie’s Dead』などの楽曲を注意深く聴いてみれば、Curtisはほとんどラップに近いスタイルで歌っていることが分かるだろ」とJohnnyは振り返る。Johnnyはその中で「Eddie You Should Know Better」に感銘を受けた。彼は「あの曲には美しいコード展開、さらに素晴らしいメロディがあった」と説明している。しかし、その他の収録曲はほとんどが2コードのシンプルな構造となっており、Johnnyが得意とするジャズにルーツを持つ豪華なオーケストレーションをすんなりと応用できる余地は少なかった。

 

和声の動きよりもリズムを強調したこのようなシンプルな構造は、当時父がすでに推し進めていた自らの新たな音楽性を反映しており、それはJohnnyのアレンジ手法にも大きな影響を与えた。アレンジ作業は決して簡単にはいかなかったが、楽曲のシンプルさゆえに、Johnnyは各楽曲に壮麗で複雑さが光るバックドロップを加えてみせた。彼が施したハープやオーボエ、ストリングス、ホーン、ベル、そしてフルートといったアレンジは、父の書いた詞と同レベルで楽曲に彩りを添えた。

 

 

 

 

このアレンジメントは、父とJohnnyが過去に手掛けたどの作品も及ばないほど緻密な音のタペストリーを織り上げた。その緻密さの一因となったのが、この作品のレコーディング手法だった。Craigは「僕たちは生のオーケストラと共に録音作業を行う機会を得た。フルオーケストラがそこにいるという状況のメリットは、即興でフレーズを弾いても決して唐突に聞こえてしまうことがないってことかな。全てがすんなりと溶け込んでいってくれるんだ」と振り返っている。彼らはわずか3日間で全ての楽曲のレコーディングを終えると、そのあとで父がヴォーカルを吹き込んだ。こうして完成したこの作品に対し、関係者全員が尊敬の眼差しを向けた。

 

脚本に沿いながらも各登場人物の別の素顔を描き出す作業は、本人は意識していなかったと思うが、父にかつてないほど自伝的要素の強い歌詞を書かせることになった。父はPriestやFreddie、つまり、麻薬中毒者やプッシャーたちのことだけを頭に浮かべて詞を書いたわけではなかった。父の頭の中には自分自身と自分の幼少期のイメージがあった。父はホワイトイーグルで過ごした少年時代に見てきた光景について書き、北部で最も人種隔離の厳しい街での自らの原体験や、ジム・クロウ法(*5)が公然と施行されていた暗黒時代に南部を旅した時の経験を元に詞を書き上げていった。父の自伝的要素は、表題曲「Superfly」の一節にも如実に表れている。

 

(*5)1876年から1964年まで米国南部の一部の州に存在した黒人隔離法。

 

 

Hard to understand

What a hell of a man

This cat of the slum had a mind

Wasn’t dumb

 

His mind was his own

But the man lived alone

 

Can’t be like the rest

Is the most he’ll confess

 

分かりっこないだろうな

とんでもない悪人で

スラムに住む奴が人並みの心を持ち

愚鈍じゃなかったってことは

 

奴は自分の考えってのを持っていた

だが奴はひとりぼっちだった

 

「ゲットーの他の連中みたいになりたくないのさ」

奴は神にこう告白するだろうね

 

 

また、父はラッシュ映像の中に当時の自分自身の姿を重ねた。劇中では、あるストリートギャングがPriestに近づき、用心棒代を巻き上げようとするシーンがあるが、当時の父もちょうどこの状況を経験したばかりだった。ある日、父がCurtomスタジオに入ると、当時シカゴで悪名を馳せていたギャング集団Blackstone Rangersが待っていた。彼らは金を要求した。かつてニュージャージー州のアトランティックシティでプロモーターに銃を突きつけられた時のように、父は悪名高きギャングの脅迫にも平然としていた。父は、自分のデスクの引き出しに護身用の銃を入れていた。白いハンドルが付いたシルバーのリボルバー銃だ。父はこうしたシチュエーションに備え、しばしば手の届く場所に銃を置いていた。自宅でも、マットレスの下に入れておくか、ベッドサイドの引き出しにしまっていた。家族で出かける時でさえも銃を携帯している時があった。僕に銃を見せて、「これが何だかわかるだろ?」言い、「絶対に触るんじゃないぞ」と念を押した日もあった。

 

しかし、Blackstone Rangersと同じ “枠” に収まるつもりはなかった父は、取引を持ちかけた。「お前らに金をやるつもりはない。だが、俺はシカゴでコンサートをやる予定がある。お前らはその売り上げを持っていってもいい。ただし、その金はお前らの地元で困っている人たちを手助けするために使え」− このあと、彼らは二度と父に迷惑をかけなかった。

 

 

 

“映画公開後、あらゆる黒人男性がPriestのヘアスタイルを真似た。“ロード・ジーザス” と呼ばれる、長髪をカールさせてアイロンプレスしたあの髪型だ”

 

 

 

『Super Fly』のサウンドトラックは映画の劇場公開1ヶ月前にリリースされ、瞬く間にR&Bチャートの1位に輝いた。劇場公開に先駆けたリリースは一見奇妙に思えるが、そこには抜け目のない戦略があった。当時はブラックスプロイテーション映画を上映するためには数多くの障害を乗り越えなければなかったため、サウンドトラックを先行リリースして前評判を高めることはその助けになったのだ。脚本のPhillip FentyとプロデューサーのSig Shoreは、ニューヨークで父に脚本を渡した時点でこのことを意識していたはずだ。彼らは世界で最もホットなアーティストのひとりであるCurtis Mayfieldによるサウンドトラックを用意すれば製作資金が引き出せると考えていた。そして実際にそれを成功させた。Fentyがハーレムで人材派遣業を営んでいるNate Adamsに支援を依頼するために訪ねると、Adamsは「俺はストリートの世界を良く知っているが、ビジネスの現場で何が起こっているのかも良く知っている」と言って出資を快諾した。

 

父のサウンドトラックで前評判が高まっていた『Super Fly』は、1972年8月にニューヨークで封切りされた当日に騒動を巻き起こした。「私たちは映画館まで出向き、入場待ちの列を見ることにしたんです」とFentyは回想する。「チケットが売り切れたというのに、映画館の外にはまだ長蛇の列が連なっていました。すると誰かが映画館の脇のドアを破って侵入したんです。それで、そこから無理やり映画館の中へ入ろうとする多くの人たちと制止する警察官たちで辺りは大混乱に陥りました。あの光景は私と監督のGordonにとって、最高のハイライトになりました。自分たちの映画を観るために、映画館に押し入る人がいたんですから」

 

一時的ではあったものの、『Super Fly』は全米興行収入成績においてあの『ゴッドファーザー』を上回り、1972年に米国国内で公開された映画の中で興行収入3位まで食い込む好結果を残した。父は僕とTracy、Sharonの3兄妹をシカゴでのプレミア上映に同伴させてくれた。当時僕はまだ6歳だったが、館内に充満した熱気と興奮を今でも鮮明に思い出せる。映像の多くは父のサウンドトラック制作中に見たことのあるものが多かったが、やはり劇場の巨大なスクリーンで観る迫力とは訳が違う。『Super Fly』が子供向けの作品ではないことは明らかだったが、父は自分の仕事の成果を誇りに感じていたので、わざわざ僕たち兄妹を劇場まで連れていったのだろう。

 

 

 

映画は表面的には、あるプッシャーがストリートの生活からもがき苦しみながら脱却しようとする姿を描いたものだったが、そこに込められていたメッセージは父がそれまで「The Other Side of Town」や「Underground」などの作品を通して訴え続けてきたものと同じだった。つまり、権力を誰が所有し、誰が必要とし、誰がそれらの犠牲になってきたかということだ。

 

また、この映画には道徳観が中心に据えられている。最終的に、Priestは暴力ではなく、あくまでも知性と狡猾さによって勝利を手にする(とはいえ、彼は警察の連中を散々痛めつけてから自分の生命と女、金を無傷のまませしめて退散するのだが)。父は「当時の映画に登場する黒人が演じる役どころといえばピンプか売春婦ぐらいなもので、最後には必ず騙されてばかりだったが、『Super Fly』の主人公には、世間に騙されず、権力者たちに『お前らの考えはお見通しだ』だということを分からせるだけの知性があった」と記している。言い換えれば、従来の他の映画とは異なり、この映画では黒人たちが勝者の側に回ったというわけだ。

 

『Super Fly』は観客からは好評だったが、批評家たちには受けなかった。とはいえ、批評家たちがこの映画の影響力を止めることはできなかった。映画公開後、あらゆる黒人男性がPriestのヘアスタイルを真似た。“ロード・ジーザス” と呼ばれる、長髪をカールさせてアイロンプレスしたあの髪型だ。Priestが乗り回していたCadillacも、瞬く間に米国中のゲットーのストリートに現れ、周囲に見せつけるためにゆっくりとクルージングするようになった。そして、ストリートハスラー独特のファッションも、メインストリームの流行になった。ワイドな襟の折り返しのついた凝った刺繍のスーツ、ミンク毛皮のコート、3インチの踵がついたプラットフォームブーツなどは、全米各地で大流行した。プラットフォームブーツの流行は、以前からレザーとスエードを組み合わせたブーツを愛用していた身長約170cmの父にとっては絶好のタイミングだった。ブーツを履いた父は5cm~7cmも背が高くなった。もちろん、身長を少しでも高く見せようとしていたアーティストは父が最初でも最後でもない。Bob DylanからPrinceまで、あらゆるアーティストがヒール付きのブーツを愛用してきた。

 

 

 

しかし、サウンドトラックと映画がこのような成功を収めても、批評家たちからの非難は辛辣だった。さすがに普段なら批評家たちの言うことに耳を傾けない父も以下のように反論した。

 

「この映画に対する奴らの考え方は、奴らのストリートへの考え方と一緒だ。奴らの出自は大体分かっているし、奴らが『Super Fly』を所詮ドラッグ映画と見ていることも知っている。だが、『Super Fly』ほど分かりやすいアンチドラッグ映画はないと思う。批評家の連中は映画を見てくれている観客のことを見くびっている。俺が言いたいのは、アンチドラッグCMもドラッグを推奨するCMとして見ることができるってことだ。ドラッグなんて存在しないと偽るなら、ドラッグに対して何もできないってことになる。何が良くて、何が悪いかという判断は、世間を信じて彼らの手に委ねるべきだ。俺が『Freddie’s Dead』をシングルカットしたかったのはこれが理由だ。なぜなら、普通の人間なら、PriestよりもFreddieの方が自分に近いと気付くはずだからだ。Freddieは、間違った人間とつるまなければ生き延びられたかもしれなかった、至って普通の男なんだ。より多くの人が自分自身をFreddieと重ね合わせるだろうし、自分が危険なことに首を突っ込んでいることに注意しなければ死ぬんだってことに気付くだろう。あともうひとつ、批評家の連中が『Super Fly』について見過ごしていることがある。それは、$300,000(*6)以下の低予算ではやれることが限られているってことだ。この映画はストリートに焦点を当てなければならなかった。なぜなら、予算的に撮影できる場所はストリートしかないからだ」

 

(*6)『Super Fly』が劇場公開された1972年7月当時での為替レート($1=約301円前後)で換算すると約9030万円。

 

また別のインタビューで、父はこの議論をさらに展開させていた。「批評家はどうでもいい。この映画について意見を聞くなら、ストリートでの真の生活を知っている人間を捕まえるべきだ。彼らなら、ドラッグカルチャーを誠実に映像化するにはこの映画のやり方しかないってことを知っているはずさ。ジェームズ・ボンドやターザン、フランケンシュタインの映画を “ホワイト・エクスプロイテーション” と呼ぶ人はいなかった。冒険映画が儲かるって言うんなら、黒人がそれを作ったっておかしくないだろう?」

 

最晩年になってからも、父は『Super Fly』を擁護してはばからなかった。亡くなる3年前の1996年に行われたインタビューで、父は「ブラックスプロイテーションは自分たちにとってポジティブなものだった。それ以前の時代は、自分たちの知性を映画で表現することさえできなかったんだ。映画の中の黒人はいつも殺される役だった。だが、『Shaft』や『Super Fly』は違ったのさ」と発言していた。

 

『Sweetback』、『Shaft』、『Super Fly』などの作品と共に、ブラックスプロイテーション・ムーブメントは爆発した。『Super Fly』とCurtisが先鞭をつけた「ワールドクラスのアーティストがサウンドトラックを制作する」と言う形式はパターン化した。そのようなサウンドトラックは映画の興行収入に貢献し、その人気が映画を上回る時も多かった。Bobby Womack『Across 110th Street』、Roy Ayers『Coffy』(パム・グリアの国際デビュー作)、Marvin Gaye『Trouble Man』、James Brown『Black Caesar』などは、サウンドトラックでありながら、それぞれのベストワークのひとつとして評価されることになった。

 

 

 

『Super Fly』でCurtisと素晴らしい仕事ぶりを見せたJohnny Pateもこの流れに乗り、『Brother on the Run』や『Shaft in Africa』などの傑作ブラックスプロイテーション映画のサウンドトラックを手掛けた。ブラックスプロイテーションの名サウンドトラックは数多くあるが、やはり『Super Fly』の存在感は別格だ。父の作品はその他のブラックスプロイテーション・サウンドトラックとは比べられない形でジャンルや時代を超越した。それは後にも先にも例のないチャートアクションの成功が呼び込んだものなのかもしれないし、映画公開から40年を経た今も(そしてこの先の40年も)妥当性が失われていない自分の人生を赤裸々に語った歌詞が呼び込んだのかも知れない。その理由が何であれ、批評家たちの意見や文化的インパクトにより、『Super Fly』は厳しい競争の中で頭ひとつ抜き出た作品となった。

 

映画がスマッシュヒットしたあと、父のサウンドトラックはさらなる高みへと上り詰めていった。父はR&Bチャートの上位の常連だったが、『Super Fly』サウンドトラックの成功は特別だった。後にも先にも父がこのレベルの成功を経験したことはなかった。1972年10月21日付で発表されたBillboardポップチャートの1位には “Curtis Mayfield, Super Fly” という文字列が堂々と躍っていた。1958年にThe Impressionsに加入して以来、父は数え切れないほどのアルバムやシングルをリリースし、他アーティストへの楽曲提供を行うなど、充実したディスコグラフィーを14年間に渡って築き上げてきたが、全米ポップチャートの頂点を極めたのはこれが最初で最後だった。

 

『Super Fly』のような性格のアルバムと共に全米ポップチャートの頂点を極めた黒人アーティストは父以外に存在しない。このサウンドトラックは、父が作り上げた中でも最も断固たる意志を持ったハードな作品だった。父は当時の黒人が経験していたゲットーの現実 − ドラッグ、ピンプ、プッシャー、抑圧、絶望、破壊 − をひるむことなく描き出し、同胞が抱える問題にこれまで以上にダイレクトに挑んだ。父はこのサウンドトラックの中に、和解のための歌や、平和のメッセージを込めた歌、そして人種間の理解を求める歌は1曲も盛り込まなかった。その結果、父は黒人・白人を問わず幅広い大衆から、ポップミュージック最高のステータスを与えられることになったのだ。

 

この事実は、父以外の黒人アーティストたちがこれまでの歴史を通じて経験してきたものとは対照的だった。50年、もしくはそれ以上の長い間、白人が密かに黒人ラジオ局に耳を傾けていたにも関わらず、「白人は有色人種のレコードを買わない」という社会通念が存在していた。このような社会通念が人種別ラジオ局の背骨を形成していた。よって、黒人アーティストたちがブレイクを果たすには、人種間やそのような社会通念の間に通されている細いロープの上を綱渡りするような表現をするしかなかった。ところが父は『Super Fly』で、それらのロープを断ち切り、そこに新しい表現方法を持ち込んだ。

 

『Super Fly』がなぜこのような結果を生んだのかについては、ほぼ永遠に議論することができる。確かに、1960年代の公民権運動や新たな音楽の萌芽が後押ししたという見方もできるだろう。ハードドラッグや無慈悲な殺し合い、血なまぐさい戦争がはびこっていた当時の社会状況が、世間に『Super Fly』の断固たる誠実さを求めさせたのかもしれない。しかし、理由が何であったとしても、この結果が生まれたことに変わりはなく、1970年代以降、黒人アーティストたちが父と同じような成功を何回も収めることになった。『Super Fly』のようなアルバムの成功がなければ、ヒップホップの恐れ知ずの正直さが郊外の白人層の心を掴み、1980年代から1990年代にかけて世界各地の音楽、文化、ファッション、言語に影響を与えることはなかっただろう。