十一月 12

武満徹と映画、音と音楽

小沼純一が紐解く映画音楽の巨匠とその進歩的アプローチ

By Jun'ichi Konuma

 

武満徹(1930-1996)が他の映画音楽を手掛ける作曲家と区別されるところはどこだろう。作品の多さだろうか。いや、もっと多く書いている映画専門の作曲家はいくらでもいる。コンサートで演奏される作品を自らの軸にしていながら、映画の音楽を多く手掛けていることだろうか。そうかもしれない。それもほかにいくらも例があるだろう。

 

武満徹と映画の音楽というつながりにおいて重要なのは、おそらく、映画における音楽、のみならず、映画における音と音楽、あわせてのアプローチということになるのではないか。映像が出来上がり、編集もほぼ終えて、最後にただ音楽をつける作業が残っている。武満徹は、そこでただ課されたしごとを果たすというだけではなく、もっと制作に踏みこんだかたちで、映画全体における音楽と音を扱っていくことが多かった。そして、映画のなかの音、のみならず、人にとっての音、ということもつねに考えていた。視覚性や動きと音、時間ということについてもつねに意識しつづけていた。

 

 

こうした映画への音・音楽上のアプローチは武満徹が幼少期から映画に親しみ、馴染み、また愛しつづけてきたこととけっして無縁ではない。自身こんなことを言っているのを想起することができる------「僕は映画音楽をたくさん書いてきましたが、その理由はまず第一に映画が好きなこと。第二は映画というメディアが音楽家にとって面白い場であること。第三はたくさんの人と共同で仕事できることです。」(ひとはいかにして作曲家となるか)

 

第二次世界大戦が終結し、1950年代に音楽に携わり始めた1930年生まれの武満徹。作曲家が1960年に発表した文章を読んでみよう。

 

 「ぼくは、一九四八年のある日、混雑した地下鉄の狭い車内で、調律された楽音のなかに騒音をもちこむことを着想した。もう少し正確に書くと、作曲するということは、われわれをとりまく世界を貫いている《音の河》に、いかに意味づける(シニフィエ)か、ということだと気づいた。」(ぼくの方法)

 

このエッセイの終わりちかくには、この一九四八年、フランスでミュジック・コンクレートが発明されたことを後に知り、偶然を喜んだと記されている。楽器の音のみならず、現実にあるすべての音は音楽の素材になりえ、そうした音素材を録音して音楽作品をつくりだそうとしたのがミュジック・コンクレートだ。

 

 

武満徹のいう「音の河」。それはメタフォリックにとらえてみるなら、一本の映画のこと、ひとり人間の生のことともいえるだろう。音楽の河ではなく、音の河と呼ばれていることにも気をつけておきたい。個々の音は生まれて、消える。しかし、その音たちが同時に、また少しずつずれながらそれぞれに生まれ、また、消える。そしてその音たちの生と死がひとまとまとまりになって河となっている。楽音も騒音も、音として、ひとつの河のなかに、いや、河そのものをつくっている。

 

映画のなかの音は、大雑把に分けると、人の声(によるセリフ)と諸々の現実音と、(いわゆる)音楽と三つからなっている。いわゆる音楽といっても、楽器によるものがあり、声があり、電子音によるものもある。ヨーロッパ由来のもののみならず、日本そして世界のさまざまな伝統楽器、民俗楽器による音だってある。だが、こうしたすべての音は、音楽であろうと雑音であろうと声であろうと、音として事実上ヒエラルキーを持っているわけではない。映画を観ていると、セリフがまず耳にはいり、音楽がその背景でひびき、物音は何かを実証するためにあるように感じられる。日常生活でも同様だ。しかしそれは人の、というか、生きものの心理によっているわけで、物理的には声であろうと物音であろうと、おなじ資格であるはずだ。それらがすべておなじフィルムという媒質に定着され、ひとつの河となって時間のなかを流れる。

 

武満徹の「音の河」は、この作曲家に言及する際しばしば引かれてきたことばにほかならない。自身も何度もつかっている。このことばを、敢えて映画に結びつけて考えてみると、どうだろう。武満徹という作曲家における音・音楽に対する感受性と思考、ミュジック・コンクレートにおけるテープと映画におけるフィルム、媒質に定着されるイメージと音、そのヒエラルキーのなさとは、重なりあってはいないだろうか。

 

 たとえば『怪談』(監督小林正樹、1965)の第一話「黒髪」。長らく離れていた家に戻って一夜をあかした武士は、朝、廃屋で目覚める。そして、手にした黒髪が髑髏からはえていることに気づき、からみついてくるこの黒髪から逃れようと、七転八倒する。そこでひびくのは木を素材にしたさまざまな音である。大きさや太さの異なる木を叩いたり折ったりし、それをテープ編集する。それが胡弓ののびてゆく音と重なり、映像に、わずかにずれを伴いつつ、衝撃音を加えてゆく。

 

 

旧来の音楽の概念からすると、これは音楽とは呼べないかもしれない。テーマ曲とか、ライト・モティーフとかとは異なっていて、音響効果のように、画面にはたらきかける。だが、単なる効果ではない。これはテープ音楽として、映像から切り離されて聴かれる音楽でもある。

 

映画においては------いや、現実においても、か------たったひとつの音が発されることで、時間と空間が大きく変容することがある。そうした経験は誰もが持っているだろう。だが、それは音であり、音楽ではない。音楽はひとつの音で成りたつわけではない。音楽は、音が複数あり、それらが組みあわされることで生みだされる。文字どおり、com-positionが、複数の音をさまざまに配置し、配置されるものが音楽である。すくなくともそう考えられてきた。

 

だが、ほんとうにそうか。たったひとつの音は、音楽になりえないのか。たしかに音楽ではないかもしれないけれど、その音にふれるものに、何かが感じられる、伝わる、起こる、ことは確かだろう。0ではなく1。その懸隔は大きい。音楽作品としては、多分にコンセプチュアルなものになってしまうだろうが、映画においては、たったひとつの音、たとえば打楽器の一打ちやオーケストラのトゥッティで空間=時間を引き締め、何かを大きく変化させてしまうことが可能だ。それをはたして音楽と呼んでいいのかどうかはまたべつのことだ。

 

武満徹にはこういう文章がある。

 

「音は消える、ということを、本質的な問題として捉え直した作曲家は、John Cageだろう。だが、すべての音楽表現の根底には(消えていく)音を聴き出そうとする、人間の、避け難い、強い欲求が潜んでいるはずだ。」(「消える音」を聴く)

 

 

アメリカ合衆国の作曲家、John Cageは、ある一定の時間、演奏家が何も音を発さない「4分33秒」や、ステージ上に楽器やラジオを含めさまざまな音を発する日常的な素材を持ちだしたりして、その音楽についてのラディカルな思考によって世界に賛否両論をまきおこした。武満徹もCageの音楽にふれ、大きく影響を受けたし、そのことについて発言もおこなっている。だが、もしかすると、それは先のミュジック・コンクレートについてと同様、武満徹が多くの映画に接しているなかで感じてきた、考えてきたことどもが、音楽作品において実現されてしまっていることへの驚きであり共感ではなかったか。Cageは、「4分33秒」はもちろんのこと、音楽作品における始まりと終わり、ひとつの時間の枠ということをつねに意識していた。その意味では、映画もまたひとつの時間を持つものにほかならず、音楽があるところもないところも含め、ひとつの持続によって成りたっている。そして、その一定の持続のなかでは、何もないところも、退屈なところも、事件も、生じる。

 

武満徹の音楽へのミュジック・コンクレートやJohn Cageの影響を、コンサート作品だけではなく、映画のための音楽を含めて考える、あるいは映画のための音楽からみてみると、それはコンサート作品とは異なった相貌があらわれてくる。

 

こういう文章も読んでおこう。

 

「相乗する視覚と聴覚の綜合が映画というものであり、映画音楽は、演奏会場(コンサートホール)で純粋に聴覚を通して聴かれるものとは、自ら、その機能を異にする。飽くまでも、映画音楽は演出されるものであり、そこには、常に、自立した音楽作品とは別の、抑制が働いていなければならない。」(映画音楽 音を削る大切さ)

 

 

映像には映像のテンポやリズムがある。俳優の動きやカメラの動き、モンタージュなどの編集により生まれるテンポやリズムがある。一方、音楽には音楽のテンポやリズムがある。前者を後者が壊してはならない。いや、故意に衝突させることで生まれるものもあるのだが、いたずらに両者を重ねればいいというものではない。武満徹はそのことをよく理解していた。そして映像に余計な音楽は加えないこと、むしろ音楽は削ってゆくこと、それが自らの方針のひとつであった。

 

先に、たったひとつの音が空間=時間を変容させるというようなことを記した。また、音が消えるものであることを意識していることについてもふれた。ひとつの音によって、空間=時間が変容するということについては、たとえば尺八による、琵琶や三味線によるたったひとつの音を発することで、ひとつの世界観が生まれる状態を想起することができる。それは、ひとつひとつの音符にはさしたる重要性はなく、ひとつひとつの音符を組みあわせ、構築してゆくことによって音楽となると考える西洋的は発想とは大きく異なっている。ひとつの音がひびくのは一瞬である。だが、その音が消えさってゆく残響の時間があり、その音が届く空間がある。コンサート作品においては、こうして生まれる時間や空間もまた、前後の音の状態、音によるコンテクストと結びつく。一方、映画においては、映像と映像によるストーリーがコンテクストとしてはつよく作用する。

 

日本には「間」と呼ばれる空間にも時間にも用いられる語がある。それはただの空隙、何もない空間=時間ではなく、そこにべつに「あるもの(存在するもの)」を「不在」によって絶妙なバランスのうえで支えるものだ。あるテンションをつくりだす「不在」と、仮に、言い換えてもいいかもしれない。武満徹のコンサート作品には、しばしば、こうした「間」が訪れる。そして、映画のなかにおいてこの「間」は、映像のなかの人物やモノ、行為といったことどもの相互と時間のながれのなかで生じる。いや、武満徹の音=音楽によって、生じさせられる。それはストーリーのながれを、ときに、断ち切ったり、宙づりにしたりするものとしてある。

 

映画には具体的なモノが映像としてあらわれる。椅子が、テーブルが、食器が。建物が、道路が、服が、髪型が。それらがストーリーと結びつき、観るものにあの場所、あの時代を想像的に立ちあげる。音楽は、それらと避け難く結びつかざるをえない。そしてそれは、コンサート作品とは異なったスタイルやヴォキャブラリーを要求されることになる。

 

 

黒澤明は、『乱』(1985)を制作するにあたり、Mahler(マーラー)の音楽をイメージしていた。そして音楽を担当する武満徹にも、Mahlerの名を挙げながらしごとを依頼した。そうした限定に対して、作曲家はかならずしも同意できないかもしれない。しかし監督の意志を結局は尊重し、自らのセンスと手腕を生かしながらも、あらたなひびきをつくりだすことになる。結果、つぎつぎと武者たちが弓矢に、火縄銃に撃たれ、倒れ、城が落ちてゆくシーンに、はじめこそ現実音を伴いつつも次第に消えてゆき、あとはゆっくりしたテンポの重苦しい音楽のみがひびくという音響上の演出が施されることになるだろう。

 

武満徹がそのほとんどの映画作品の音楽と関わった映画作家といえば、ほぼ同世代の勅使河原宏(1927-2001)を挙げることができる。華道の家元でもあったため、映画作品は多くはないけれども、武満徹と組み、ともに齢を重ね、時代とともに作品のスタイルも変えてきた。

 

ジャズの鋭角的で抉るようなリズムを弦楽オーケストラでプエルトリコ人ボクサーのうごきに重ねたドキュメンタリー『ホゼー・トレス』(1959)。John Cageの開発した、ピアノの絃のなかにボルトやゴムなどをはさんで音色を変え、打楽器のようにひびかせるプリペアド・ピアノや、チェンバロをつかった『おとし穴』(1962)。弦楽オーケストラが細分化され、それぞれグリッサンドの上昇と下降が交差する------この弦楽オーケストラの処理は、「地平線のドーリア」へと転用・発展されることになる------『砂の女』(1964)。映画では、この持続的なグリッサンドに、フルートやバス・クラリネットが、金属打楽器のひびきが打ちこまれ、テンションを高める。また、ラストに近いシーンでは和太鼓のいつ終わるともわからない連打がつづき、ストーリーと相俟って、おそらくエクゾティックでありながらも普遍的な不条理さを観るものに印象づける。『他人の顔』(1966)では、冒頭からワルツがひびき、映画内のビアホールのシーンでは、ドイツ語の歌詞がついて歌われる。これに対して、電子的に音響処理をされた楽器音が、不気味なストーリーの進行と映像のあいだにゆがみを施してゆく。

 

勅使河原宏が時代劇にいどんだ二作品、すなわち安土桃山時代、豊臣秀吉にまつわる人物を描いた『利休』(1989)、『豪姫』(1992)で、武満徹はコンサート作品とつうじる混沌から甘美までのオーケストラ・サウンドを存分にひびかせる。前者では、同時代ヨーロッパにおける初期バロック音楽も用いられる。一方、ドキュメンタリーである『アントニー・ガウディ』(1984)についてもふれておこう。この建築家の姿はあらわれないけれども、その生まれ育ったスペイン、カタルーニャの民謡や古いバロック時代の音楽が素材として用いられて、映像と音楽の調和がはかられている。

 

 

武満徹が映画のために書いた音楽は、おなじひとつの映画のなかでも、しばしば、異なったスタイルの音楽が共存する。かならずしも同時にひびくわけではないが、シーンによって、コンテクストによって、音楽が異なったり、変化したりすることは少なくない。いわゆる「現代音楽」風のところもあれば、ポップ・ソングのようなところがあり、民族音楽や伝統音楽のようなものもある。この作曲家は、音楽作品のなかで複数のことを同時に語りたい、と記したりしているのだが、それはたしかにひとつの音楽作品のなかで、異なった声部が異なった時間をもったり、複数のメロディを奏でたりということはあるのだけれども、それだけではなく、これもやはり映画に照らしあわせて考えてみると、映像に映っているさまざまなこととセリフ、そして物音や音楽が、おなじひとつのシーンなり画面なりに共存していることを、この作曲家は意識していたのではないだろうか。

 

映画のなかで、シーンによって、音楽が変化する。ときにはオリジナルなものだけではなく、何かほかの音楽を模倣したものがあったり、実際に引用・借用したりすることもあったりする。こうしてひとつの映画作品のなかに多くの音楽が共存している。それは、映画としてはごくあたりまえのことだけれども、武満徹は、ときに、コンサート作品において他者の作品からの引用をしたり、あるいは、他者の作品の編曲をおこなったりすることで、確固たる自己、ひとつのかたまった自己だけではない、もっと開かれた存在としての自分、他者とつながった「わたし」を志向していたのではなかったか。それは、また、ただ個のいとなみとして五線紙に音符を書きこんでゆくしごとだけではなしに、映画や演劇のしごとをおこない、コンサートのプログラミングをし、文章を書く、といったことにもつながっていた。

 

武満徹は、ある講演において、こんなことを述べている。曰く、映画を観て、そこでひびいている音楽について、誰の音楽なのかなどと考える人はあまりいない。西洋文化においては個性尊重がずっと続いてきたけれども自分は懐疑的であり、そうしたことを超えたところに音楽はあるはずだ。そしてこのように結ばれる------「つまり、たくさんの個別のものが、それぞれ触れ合って、それが質的に変化を続けていって、それであるひとつの匿名の世界に行きついた時に、音楽は、社会性をもつのだろうと思うのです」(私の受けた音楽教育)

 

武満徹は、映画のしごとについて、コンサート用の作品とはべつに、映像と一体になった、他者との共同作業によって生まれた作品ととらえていたのではなかったか。それはかならずしも生身の演奏家によって再演=再解釈されるものではないかもしれないが、ひとつのフィルムというメディアをとおしてのアートとして、テープ音楽の別種のようなものとして、あったのではないか。たしかに映画は「監督」の名が表面的には流通する作品ではある。だが、それはあくまでとりあえずであり、仮の、代表者の名でしかない。むしろその内実は共同=協同作業、コラボレーション、集団創作的なものだ。たとえば、Merce Cunningham(マース・カニングハム)のダンス作品に、しばしば入れ替わるにしても、ジョン・ケージやデヴィッド・テュードア、小杉武久、Robert Rauschenberg(ロバート・ラウシェンバーグ)、Daniel Arsham(ダニエル・アーシャム)といった名が切り離せないように。何人もの人たちと一緒にしごとをすることで、「わたし」が稀薄になること。固有性が作品のなかに融解すること。固有性から匿名性へとむかってゆくこと。

 

 

武満徹が映画に携わるようになった1950年代、第二次世界大戦が終結し、映画産業においてもまだまだ手探りの状態がつづき、各人が自分の役割以外にも映画の現場では発言したり手伝ったりすることができた時代である。そうしたなか、武満徹は、何人もでしごとをすることが好きだと語っていたことを想いおこしておくことも必要だろう。

 

21世紀を10年以上過ぎた現在、ディジタル化が進んだ現在、武満徹がしごとをした1990年代半ばまでの映画や音楽の状況をおもいおこしてみる。もしかしたら、もしかしたら、だ。写真も映画も、ミュジック・コンクレートや電子音楽も、フィルムというおなじ媒質を持っていなかったとしたら、どうだったろうか。映画がときに「コンテンツ」などと呼ばれてしまうような時代に身をおいていたなら、武満徹は、映画に、映画の音楽にあれほど多く携わっただろうか。もし映画のしごとをするのが、それぞれの職制がはっきりと決まった縦割りの組織で運営されているとしたなら、情熱をもって多くのしごとをしただろうか。

 

映画と音楽、メディアと素材(マティエール)、人と人とのつながりといったところを考慮しながら、あらためて、20世紀の作曲家を再考してみることも無駄ではないにちがいない。

 

 

Title Image: From Hiroshi Teshigahara "The Woman In The Dunes"