二月 17

Thurston Moore’s Musical Education

Sonic YouthのギタリストThurston Mooreが幼少時代やバンド初期について語った

By Thurston Moore

 

シンガー・ソングライター、ギタリスト、アヴァンギャルド/オルタナティブ系ロックのカリスマのThurston Mooreをあえて詳細に説明する必要はないだろう。今回紹介するRBMAのラジオインタビューからの抜粋では、コネティカット州で過ごした10代の日々や、ニューヨークのシーンと密接に関わるようになっていった70年代中頃以降の様子を彼本人が語ってくれた。New York DollsやThe Dictatorsが人気を博す中、Teenage Jesus And The Jerks、James Chance、The Contortions、Mars、DNAなどに代表される“ノーウェーブ”が台頭してきたニューヨークでGlenn Brancaのギターオーケストラに参加していたLee Ranaldoと出会ったMooreは、1980年にMooreの妻となるKim Gordonと共にSonic Youthを結成。結成当初ドラマーは流動的だったが、80年代中盤にSteve Shellyが加入し、現在のラインアップが固まった。

 

 

音楽的影響について

 

1968年、僕は10歳だった。この頃からロックンロールを意識するようになった。The BeatlesやThe Rolling Stonesの話が耳に入ってくるようになり、『The Ed Sullivan Show』のようなテレビ番組に出演していたロックンロールバンドを見るようになった。The Beatlesをテレビで見た記憶はあまり残っていないが、1968年頃にテレビで見たバンド、Credence Clearwater RevivalやThe Mamas & Papas、Sonny & Cherなどに惹かれるようになった。週末にはロックンロールのバンドがプレイされるAMラジオの番組もあり、Paul Revere & The Raiders、The Dave Clark Five、Nancy Sinatraなどを聴いていた。

 

僕は幼い頃からロックンロールが好きだった。テニスラケットでエアギターをしていた僕は、その後兄からエレキギターを譲ってもらった。それ以前は兄がいない時に黙って借りて、弦を切ってしまった状態でこっそり元に戻すこともよくあった。兄はいつもギターの弦が切れているのを不思議に思っていた。1966年か1967年に兄が買ったThe Kingsmenの「Louie Louie」が初めて家に来たロックンロールのレコードだったと思う。今まで聴いたことがない最高のレコードだと思い、もっと聴きたいと思った僕は兄がもっとレコードを買って来ないかと期待していた。結局、兄が買ったレコードは徐々に増えていった。5歳年上だった兄の存在は大きかった。

 

 

1968年に教師だった父の仕事の関係でフロリダ州マイアミからコネティカット州へ引っ越した。ニューヨークまで1時間半の距離に近づいたおかげで、ニューヨークの情報が比較的簡単に手に入るようになった。1970年代初期になると、David BowieやT. RexなどUKの音楽を意識するようになっていた。同時に、ニューヨークにもThe New York Dolls、The Dictators、Waine Countyなどもっと”ワルい”音楽が生まれていて、カレッジラジオの深夜番組でThe Velvet Underground & NicoやThe Stoogesなどを聴くようになっていった。

 

『Rock Scene』や『Cream』といったロック雑誌の存在は凄く重要だった。『CREAM』はデトロイトの雑誌なので、MC5やThe Soogesの写真が沢山掲載されていた。当時の僕は彼らの音楽がどういうサウンドなのかは知らなかったが、ルックスが最高だと思えたのでレコード屋で取り寄せてもらった。The Stoogesの『Fun House』などを買った。

 

 

こういうバンドのアルバムは凄く大きなインパクトがあった。当時実家にあったThe Beatlesの『Abbey Road』やJefferson Airplaneなどのアルバムと比べると完全に別物だった。僕はAlice Cooper、The Stooges、MC5などにのめり込んでいたので、破壊的なバンドであればあるほど、僕は興味を持った。その理由は分からないが、多分エキサイティングなアイディアが詰まっていると感じたのだろう。Roxy MusicやSparksにも惹かれていき、彼らのレコードが欲しいと思っていた。

 

ここに挙げたすべてのバンドが幼い僕に大きな影響を与えた。ニューヨークの音楽を聴くようになっていった僕はPatti Smithのことを読んで知った。Patti Smithは自分で記事も執筆していた。彼女やLester Bangs、Richard Melzerのようなライターは凄く重要な存在で、僕は『Sounds』や『Melody Maker』で彼女たちの記事を読むようになっていった。こういう雑誌はニューヨークまで学校の遠足で行った時に買っていた。その後、16歳で運転免許を取得すると、ようやく自力でニューヨークへ行けるようになった。

 

 

ニューヨークについて

 

1976年初頭頃の僕は、ニューヨークに出掛けて手当たり次第に音楽を聴くようになっていた。特に目当てのバンドがいたわけではなく、ニューヨークそのものに魅力を感じていた。ニューヨークには学校で同じ趣味を持っていた唯一の友人と一緒に車で向かった。当時、同級生の多くはYesやAllman Brothers Bandを聴いていた。僕もこういうバンドが嫌いでは無かったが、もっと変わったバンドが好きだった。髪の色を染めたTodd Rundgrenの写真などが掲載されていたロック雑誌を読んでいて、周りからは「なんだってこんなゲイ雑誌なんて読んでいるんだ?」とからかわれた。そのTodd Rundgrenの写真を部屋の壁に貼っていたので、同級生たちは僕がゲイじゃないと知りつつも、僕がゲイじゃないかとからかった。僕の唯一の友人はワルい奴だったが、故に親友になり、2人でニューヨークのありとあらゆる物を見て回った。

 

初めて聴きに行ったのは、Max’s Kansas Cityで演奏していたSuicideだった。彼らはエレクトロニック・ミュージックのテロリストのような存在だった。オーディエンスは肉体的・聴覚的に攻撃された。凄まじかった。その日はThe Crampsがオープニングアクトを務めていた。The Crampsは丁度クリーブランドから出てきたばかりで、ヴォーカルもまだいない初期のライブだった。あれは素晴らしい夜だった。その後も何度もニューヨークを訪れた。The Mumpsと彼らのオープニングを務めていたBlondieも聴いた。Patti Smithは何回も聴いた。他にもTelevision、Richard Hell、Talking Headsなどを聴いた。

 

 

当時は無名のバンドが出ては消えてを繰り返していて、1970年代初期の長髪にベルボトム姿で悪質なロックンロールを演奏するバンドもまだ沢山残っていた。ニューヨークパンクの時代は素晴らしかったと言う人が多いが、実際は、酷いバンドを数多く聴かなければTalking Headsを聴けなかった。彼らがシーンに登場した時は本当に特殊な存在だった。

 

その後すぐに、「過去をなかったものにする」という新しいアイディアを打ち出すThe Dead Boysのようなバンドが数多く生まれた。既にニューヨークに住んでいた僕と同世代の人たちが、伝統的なロックンロールに抵抗するバンドを結成し始めていた。Televisionは凄くテクニックがあり、長時間のギターソロを組み込んでいた。Talking Headsは奇妙でアート的な魅力を携えていた。彼らは全員演奏が上手かった。でも僕にとって最高の存在はThe Ramonesだった。彼らは簡単なコードしか弾いていなかった。僕もそれしかできなかったので、親近感を覚えた。「ワオ、簡単なコードだけで演奏しているぞ」とね。凄くパワフルで印象深かった彼らは、すぐに僕の一番のお気に入りになった。「僕でもできる」と思った。

 

実際に自分でもやれると思えたのは、Teenage Jesus、The Jerks、The Contortions、 Mars、DNAなどの同世代のバンドを聴いてからだった。彼らはノー・ウェーブと呼ばれていた。何とも関係していなかったからだ。ニュー・ウェーブではないのでノー・ウェーブと呼ばれていた。彼らには強情で面白いニヒリズムがあった。独自に自分たちのシーンから学んで成長をしていったのは素晴らしかった。

 

ノー・ウェーブの人たちは全員が音楽ファンだった。James ChanceやLydia Lunchはロックンロールに詳しかった。Lydia LunchはかつてKISSのファンクラブに入会していた位で、James ChanceもAlbert Aylerの全作品を持っていた。彼らは音楽に詳しかったが、すべてを灰にして、自分たちで最初からシーンを作りたいと思っていた。それが当時のニューヨークだった。灰化した都市だった。灰になるまで燃え尽きて、何も残っていなかった。世間から無視された貧しい都市で、犯罪も多く、荒んでいた。法律などは存在しなかった。あそこでの生活はある種のおとぎ話のようなものだった。汚くて物価が安かった。アーティストが金銭の心配をすることなくニューヨークで生活できた最後の時代だった。

 

 

僕はSonic Youthの前にもバンドを組んでいた。The Coachmanというバンドに所属していて、1977年から1979年までニューヨークで活動していた。成功はしなかったが、CBGBやMax’s Kansas City、ロフトなどで演奏して、貧しいながらも楽しい生活ができたのは良い経験だった。このバンドの音源は随分後になって、80年代初期にLAで活動していたハードコアバンドBlack Flagが所有するSST RecordsのサブレーベルNew Alliance Recordsからアルバムがリリースされた。New Alliance RecordsはSSTに所属していたバンド、The Minutemanが運営していて、SSTよりも更にアウトサイダーな音源を扱っていた。

 

The CoachmenからSonic Youthを始めるまでの間、僕は様々なミュージシャンやバンドと演奏した。Glenn BrancaやRhys Chathamのようなロックギタリストとニューヨークのダウンタウンで共演した。当時のニューヨークはこういう活動が盛んだった。80年代初頭にはIn Limboという短命に終わったグループでも演奏した。これはLydia Lunchと僕、そしてSonic Youthの初代ドラマーになるRichard Edsonで結成したバンドで、Jim Sclavunosがサックス、The ContortionsのPat Placeがギターだった。一度だけ共演したミュージシャンも沢山いた。だが、徐々にSonic Youthを優先して積極的な活動をしていくと、他のプロジェクトは重要でなくなっていった。

 

ドラマーについて

 

Steve ShellyはBob Burtの脱退後に加入した。Sonic Youthは最初ドラマーがいなかった。ライブの時は ドラムをひとつだけステージに置いていて、Lee Ranaldoか僕が曲によって叩くだけだった。その後でRichard Edsonが参加した。彼はイースト・ヴィレッジ周辺で名前が知られていた。彼がKONKに参加していたので、僕たちもKONKのスタジオでリハーサルをしていた。マットレスでJean-Michel Basquiatがよく寝ていたので、あのスタジオのことは良く覚えている。Richardは素晴らしかったけれど、KONKが好調だった彼は、Sonic Youthについては奇妙すぎて誰も注目しないと感じ、脱退した。

 


彼らは困った顔をして「どう合わせればいいんだ? 君たちはギターを客席に投げ込んだり、燃やしたりしているじゃないか」と感じていた。

 

そこで僕たちが「Sonic Youth、ドラマー募集」と書いたチラシを作ると、Bob Burtが連絡をくれた。彼はニュージャージー州ホーボーケンに住んでいた。彼を加えた形で、Swansと一緒に東海岸沿いをツアーしたのが最初だった。Bobは良かったが、僕たちはバンドにもう少ししっかりとしたドライブ感を与えてくれるドラマーが必要だと思った。それでBobが去った。悲しい出来事だった。その後何人かドラマーを試したが、全員が去っていった。僕たちのライブが激しすぎたからだろう。Leeと僕は滅茶苦茶だったので、彼らは困った顔をして「どう合わせればいいんだ? 君たちはギターを客席に投げ込んだり、燃やしたりしているじゃないか」と感じていた。僕たちはアンプも客席に落とすようなバンドだった。

 

 

僕は当時アメリカに生まれつつあったハードコアバンドに興味を持っていた。Minor Threatや、Henry Rollinsが初めて組んだバンドS.O.A、Government Issueといった若いバンドに惹かれていた。彼らは全員ワシントンDC出身だったが、ニューヨークにもハードコアバンド、Heart Attack、The Mob、Even Worseがいた。僕はEven Worseと一緒に演奏した。当時の僕はやや年を取っていたが、シーンの一部となっていった。僕はまだ20代前半だったが、ハードコアという意味では年長の部類だった。

 

当時、ミシガン出身のThe Crucifucksという面白いバンドがいた。扇動的なバンド名の彼らは、極左の政治的バンドで、「Democracy Spawns Bad Taste」、「Hinkley Had a Vison」、「Cops for Fertilizer」など素晴らしい曲を書いていた。CBGBで毎週末開催されていたハードコアイベントで彼らの演奏を見た時は素晴らしいと思った。このイベントでは全米のハードコアバンドを聴くことができた。

 

この頃、僕はSteve Shellyと手紙のやり取りをしていた。僕は彼からThe Crucifucksのカセットテープを買っていた。Leeと僕はSteveがThe Crucifucksと演奏するライブを聴きに行った。素晴らしかった。そのツアーが終わった後、彼は僕の元へ「このバンドではもう演奏しないと思う。少し休んでからThe Dicksがいるサンフランシスコへ行こうと思う」と手紙を書いてきた。The DicksはBig BoysやMDCのような、テキサス出身のラディカルで政治的なバンドだった。僕は「ダメだ、君はニューヨークへ来るべきだ」と伝えた。なんでそんなわがままを言ったのか分からないが、「ニューヨークへ来いよ! Kim(Gordon)と僕のアパートに住んでいいよ。僕たちはツアーに出るからさ」と伝えた。すると、「それはいいね」と返事が来たので、「街を見て回るといいよ。僕たちの犬の散歩だけやってくれればいいんだ」と付け加えた。こうして彼は僕の話に乗り、僕たちのアパートへやってきた。そして僕たちはツアーに出たが、そのツアーでBobが脱退の意思を伝えてきた。彼は地下で猫の小便にまみれたマットレスでろくに寝られない生活に疲れ切っていた。

 

 

こうしてBobが抜け、僕たちはニューヨークへ戻ってきた。Kimと僕がアパートへ戻ると、Steveがいた。そこで僕が「Sonic Youthでドラムを叩かないか?」と訊ねると、「いいよ」と返ってきた。初めてのリハーサルで彼が叩いた時、僕は『EVOL』に収録されることになる「Expressway to Yr Skull」を書いた。こうして彼が素晴らしいドラマーだということがすぐに分かった僕たちは、一緒にライブをやるようになった。

 

LAのウェアハウスでSonic Youth、Swans、Saccharine Trustのラインアップでスペシャルライブをやった時を良く覚えている。僕たちの演奏は凄く良かった。LAに移ってきたばかりのJohn Lydonが観に来ていたのも覚えている。この時、SwansのMike Giraが「君たちのバンドはレベルアップしたな。それがなぜだか分かるかい? 優秀なドラマーが加入したからさ」と言ってくれたが、本当にその通りだった。Steveがバンドに力を与えてくれた。この後、僕たちは知名度が高まるようになり、音楽をきちんと聴いてもらえるようになった。