十月 11

ベルリン:クラブフライヤー30年史

ドイツ首都を支えてきたクラブカルチャーの歴史をフライヤーコレクションから振り返る

By Mike Riemel

 

東西統一後のベルリンのカルチャーの急速な発展を促した重要な要因は、余るほど大量に存在した居住空間だった。当時のベルリンでは、3ヶ月前までベーカリーだった近所のスペースが突如としてアフターアワーレイブスペースになり、それからさらに3ヶ月後には廃墟になっているのはざらだった。このような都市情勢を構文解析するためには、簡単に配布できるが、警察や関係当局に察知されるほど分かりやすくはない情報が必要だった。

 

1990年を迎えた頃、ドイツの強力なパンクコミュニティがそのような情報に役立つツールとノウハウを提供した。フライヤーを時間をかけずにデザインして配布するパンク直系のDIYアプローチが、黎明期の人気拡大のスピードに合わせて急成長し、その後も安定した成長を続けていくことになるクラブカルチャーの美的感覚の土台となった。

 

そのパンクコミュニティ出身のひとり、Mike Riemelは、偶然にも文化人類学の熱烈なファンであると同時に、熱心なフライヤーコレクターでもあった。彼のコレクションは、2005年に出版された『Flyer Soziotope』にコンパイルされており、同書にはグローバルクラブカルチャー25年の歴史の中で作り出されたオリジナルフライヤーが3,000枚以上収録・解説されている。今回は、Riemelがその中からベルリンのクラブフライヤーを数枚ピックアップし、最近のフライヤーと共に解説してくれた。

 

 

 

 

 

 

「上のフライヤーは1990年代最初期のフライヤーだ。UFOのレジデントDJのひとりがDJ Tanithで、彼はアシッドハウス、EBM、ニュービート、ベルギー産ダンストラックを組み合わせて新しい音楽を生み出した初めてのDJと言えた。彼のこの新しい音楽が、ベルリンにテクノを持ち込んだ最古のクラブのひとつという評価をUFOにもたらした。"Brixton Dance Night" は、実は様々な土地からやってきた複数のDJが出演していたシリーズイベントで、駐在米兵を引き寄せるための米国人DJや、南ドイツ出身のDJ、そしてもちろん、イングランド出身のDJなどがいた。イングランドのブリクストン(サウスロンドン)には素晴らしいサウンドシステムカルチャーがあるので、おそらくパーティ名はここから取られたんだろう。とはいえ、私の記憶では、このパーティでダブやレゲエはプレイされていなかった」

 

 

 

 

「Low Spiritは非常にスペシャルなレーベルだった。DJ DickとWestbamがメインDJで、彼らはMaydayを主催し、レコードを売り、Derrick Mayのようなアーティストを多額の予算をかけて招聘していた。彼らのプロ意識とプロダクションクオリティの高さは時代のかなり先を行っていた。フライヤーに記されている "No More Fucking Rock And Roll" が彼らのスピリットだった。Nirvanaがグランジを世界的に流行させていた時期だったから、彼らはそれに対抗していた。世代交代が起き、スタイルと可能性が次々と生まれ、冷戦が終わり、ベルリンはまだ経済社会ではなかった。『最高じゃないか! これ以上望めないね!』という感じだった」

 

 

 

 

「1991年の年末を迎える頃には、全てが急速に進化していた。1980年代の西ベルリンはスクワットが数多く存在し、サブカルチャー的なものに興味がある人なら、オラーニエン・シュトラーセの名前を知ることになった。この通りには、TrashやSO36などのハードコアなヴェニューが集まっていた。そして、壁が崩壊したあと、このようなヴェニューが急増した。目まいがするほどだった」

 

「1991年、1993年、1995年、1997年にベルリンを訪れて、レコードショップに顔を出せば、約200種類のフライヤーを目にすることになったが、そのうちの190枚には、自分はもちろん、ショップで働いているスタッフも聞いたことがないヴェニューの名前が書かれていた。見ず知らずの連中がショップにやってきては、最長でも3ヶ月しか存在しない不法なヴェニューで開催されるパーティの情報が書かれたフライヤーを置いていった。アウトサイダーにとっては、そのフライヤーの指示に従って現地に向かうのが面白かった」

 

「フライヤーに、特定の時間に特定の場所へ向かうための情報以上の価値、 "アート" を加えていた “フライヤー・アズ・アート” とでも呼べる当時のムーブメントは、2つの偶然が重なって実現されたものだった。その偶然のひとつは、テクノとエレクトロニック・ミュージックの爆発的な人気で、もうひとつは、コピー機、ホームコンピューター、グラフィックソフトのハードルの低下だった」

 

 

 

 

「Dubmissionは移動型のパーティで、トランステクノの最先端に位置していた。ゴアトランス100%ではなかったが、チューリッヒ出身のMarcos LopèzのようなDJがプレイしていて、サイケデリックトランスをプッシュしていた。このパーティは、宇宙とタイムトラベルを頻繁にテーマに据えていて、このフライヤーからはイビサのヒッピー的意匠も読み取ることができる。1990年代中頃、シーンはインターナショナル化が進んでいて、Dan Curtin、Kevin Saunderson、Baby Fordなどが1ヶ月の間に出演していた。Dubmissionは "自信があるならかかってきな" とベルリンのDJの実力をアピールするスローガンを打ち出していたビッグパーティのひとつで、当時のベルリンに大きな影響を与えていた」

 

 

 

 

「Chromaparkは、音楽、ファッション、空間デザイン、インテリアデザイン、グラフィックデザイン、VJ、インスタレーションなどを全て組み合わせた初めてのエキシビションだった。南ドイツでこのフライヤーを見て驚いたのを覚えている。こんなイベントが開催されるなんて当時は信じられなかった。当時、テクノはまだ誕生から4~5年しか経っていなかったが、会場の壁一面にテクノシーンを捉えた4,000~5,000枚の写真がプロジェクターで投影されていた。まだ始まったばかりのカルチャーをテーマにした奇妙だが美しい回顧展だった」

 

 

 

 

「これはミニフライヤーだ。ミニといっても、3~4cm四辺の極小サイズだ。アシッドのシートのようなデザインだと思うかもしれないが、おそらくそこは意識していなかったはずだ。コピー機による "コピーアート" と言えるフライヤーだが、黄色の紙に赤いインクを乗せている。当時のベルリンでこれができるコピー機は1台くらいしかなかったはずだ。1994年に4色のオフセットは珍しかった。このフライヤーはDJのWolle XDP本人のデザインだ。フライヤーを1時間で用意しなければならない状況で、ShellのロゴとゲストのDJ Hellを結びつけたデザインを思いついたと本人が振り返っていたのを覚えている」

 

「当時のフライヤー群を見てみると、あらゆるブランドロゴが流用されているのが分かる。当時はMarlboroやCamelが冠パーティを開催していて、テクノはマーケティングツールとしてテレビで頻繁に使用されていた。そのため、すぐにこのような流用が目を付けられるようになり、クラブやフライヤーマガジンはブランドの弁護団と頻繁に揉めていたが、それを狙っていたようなところがあった」

 

 

 

 

 

「E-Werkのフライヤーは、裏面はカモフラージュパターンだけで情報は記されていなかった。私はこのアイディアがかなり好きだった。1997年、1998年頃になると、ベルリンのクラブは140万人を集めたLove Paradeで得た違和感をフライヤーやパーティで表現するようになっていた。アンダーグラウンドシーンの中にアンダーグラウンドシーンが作られるようになった」

 

「それで、露出されすぎたテクノへのリアクション、そこからの逃避としてのミニマリズムが音楽とデザインの中に確認できるようになっていった。慣れ親しんでいたレイヴ的シンボルが存在しなかったため、しばらく世間はこの手の音楽に当惑していた。Shy FXとApacheをフィーチャーした “Journey Into Jungle” というパーティ名が確認できるが、ジャングルも受け容れられるまで随分時間がかかった。1992年頃からシーンはあったが、ずっと小さかった。この頃になってようやく受け容れられるようになった。ドイツ人はブレイクビーツの手法をUKベースとは違う、ユーロビート的なダサいものとして捉えていた。ブレイクビーツがScooterと同義でもおかしくなかったんだ!」

 

 

 

 

「Snax ClubはBerghainのルーツだ。Berghainのオーナーのひとり、Norbert(Thormann)のは非常に優秀なフォトグラファーで、Snax Clubのフライヤーで使用されている写真は、全て彼の作品だ。もちろん、見て分かる通り、パーティのテーマは一般人にはややハードコアだ。当時のSnax Clubは、ヨーロッパで最もハードなゲイパーティとして評価されていた。金曜夜のオープンと同時に2,000人のゲイがクラブになだれ込み、月曜昼にようやく帰っていった。その間、客が入れ替わることはなかった。このライフスタイルを楽しむために世界各国から客が訪れていた」

 

 

「このフライヤーのラインアップは興味深い。なぜなら、Benji DFはベルリン最高のハウスDJのひとりだが、DJoker Daanはパンクにルーツを持つ最もラディカルなDJのひとりだからだ。DJoker Daanは、SO36で開催されていたパーティElectric Ballroomのレジデントのひとりで、20年続いたこのパーティでは、毎週火曜朝6時から500人の客がハードテクノに合わせてブッ飛んでいた。正直に言わせてもらえれば、私はDJoker Daanが少し怖かった。彼がプレイするたびに "そろそろ家に帰る時間だな" と思っていた」

 

 

 

 

「上の写真で紹介しているのは、1990年代後半に登場したいくつかのニュースタイルの例だ。中央のRomanthonyがフィーチャーされている1996年のフライヤー(WMF)は、当時のベルリンのクラブが、複数色を使った変形フライヤーを作れるほどの経済力を持つようになっていたことと、よりクリエイティブなフィジカルデザインができるようになっていたことを示している。WMFは移転を繰り返していたベルリンの重要クラブのひとつで、9つのロケーションを渡り歩いたはずだ。あらゆるジャンルにオープンで、グライム、ハウス、ニューディスコ、ドラムンベースなどのパーティが開催されていた。右下のDJ ZincをフィーチャーしているWTFのフライヤーも同時期の作品だ」

 

 

 

 

「Dystopianは、ここ最近のシリーズ系フライヤーの中では力強い作品のひとつだ。Rødhädは、今もベルリンの偉大なアフターアワークラブのひとつに数えられているGolden Gateでこのパーティをスタートさせた。2000年代後半のディストピア的テクノサウンドの復活とタイミングが合致していたこのレーベル / パーティは一気にブレイクした。私は彼らのフライヤーの、イメージ、視点、スタイルのコンビネーションのファンだ。毎回非常に興味深い建築物・建造物をモノクロで表現している。私には丁度良い塩梅だ」

 

 

 

 

「私のフライヤーコレクションの展示でいつも困るのは、展示するフライヤーがほぼ必ずショーケースの中に配置されるので、基本的にフロントデザインしか確認できないところだ。OstgutがBerghainとして再出発した時、彼らは蛇腹に折るフライヤーフォーマットを最大限活用して、フィーチャーしているアーティストやパーティのコンセプトなどについての文章を裏面に印刷することを始めた。Ostgut時代はそのような文章を書くスペースはなかったので、数ページ足したデザインはBerghainの代名詞になった。しかし、私は今もこのOstgutの "Tanzen / Ficken" (ダンス / ファック)フライヤーが大好きだ。シンプルだが非常に効果的だ!」

 

 

 

All images inc. header:© Mike Riemel