四月 21

声なき者の声:マリ共和国のヒップホップシーン Part 2

マリの政治、経済、伝統の中心に位置するヒップホップカルチャーを追った渾身のレポートを2回に分けてお送りする。Part1はこちらから。

Sidiki Diabateにインタビューをするために彼の自宅へ向かった私は時間通りに到着したが、結局1時間半ほど待たされることになった。通された2階の部屋は、分厚いカーペットと豪華なダマスク織のソファ、シャンデリア、高価なクッションや水たばこなどが置かれた、まるで謁見室のようなサロンで、壁には高位のマラブーもしくはムスリムの聖職者たちと一緒にいる父Toumani Diabateのポートレートや、メッカの彫刻、フェズとバザンを身に着け、グリオとミュージシャンに囲まれた祖父Sidiki Diabateの古い写真などが飾られており、奥にはボーイフレンドがイグアナに変わってしまったボーイフレンドを持つ女の子が主人公のフランス製シットコムが流れている巨大なプラズマTVが置かれていた。多種多様な文化が生み出す不調和が待たされている私の退屈しのぎになった。 


「ウチは3軒あるから、どの家であなたが待っているのか分からなかったよ」とSidikiは遅れた理由を説明した。

Sidikiは、Iba One、そしてアゴヒゲを生やし無表情な目をした長身のMemo All-Starと呼ばれる男性などを含むMC仲間や友人たちと共に現れると、「ウチは3軒あるから、どの家であなたが待っているのか分からなかったよ」と遅れた理由を説明した。Diabate邸の敷地はSidikiの祖父がマリの初代大統領Modibo Keitaによって与えられたもので、地元では「権力の丘」と呼ばれているKoulouba Hillの崖の下にあった。この丘の頂上には首都のどこからでも確認できる白い柱列が特徴の大統領官邸が建っている。Diabate邸のロケーションは「グリオはパトロンと主人に仕える存在」という事実を如実に物語っていた。

Iba One and Sidiki Diabate in the studio / Credit: Andy Morgan

MylmoやMaster Soumy、そしてAmkoullelがTata Poundの血を引いた存在、つまり地元メディアが言うところの「道徳主義的ラッパー」であるのに対し、SidikiやIba Oneはさしずめ「大衆主義的ラッパー」というところだろう。 道徳主義的ラッパーたちが影響を受けたアーティストとして、Public Enemy、Snoop Dogg、NWA、Notorious B.I.G、NTM、I AM、そしてTupac(必ず名前が挙がる)などの名前を挙げるのに対し、SidikiやIba OneはDMXやMary J Blige、Alicia Keys、Lil Wayneなどの名前を挙げており、Sidikiが父親Toumaniから与えられた機材を使ってホームスタジオで制作されたヒットトラックの数々には、必ず甘いフックや贅沢なピッチシフト系エフェクト、そしてハーモニーが盛り込まれている。

「Master SoumyやMylmoには独自のスタイルがある。でもマリでスタジアムを満員にするのは俺たちさ」Sidikiは冷静な、むしろ挑戦的とさえ思える眼差しで私にこう言うと、念を押すかのように、「マリでスタジアムを満員にするのは俺たちなんだ」と繰り返し、「別に彼らに対して敵意はない。真実を言っているだけさ。俺たちが他と一番違うのは、コーラを使っているかどうかだね。俺はグリオだし、まずはコーラを使って表現する。それをピアノやシンセに置き換えているんだ」と続けた。



Sidikiも父親と同様コーラの名手になる才能を持っており、彼の素晴らしい演奏がIba Oneとのトラックにマリらしさを加えている。しかし、この手法は彼らだけのものではない。マリのラッパーたちは1980年代後半からマリの音楽をヒップホップの中に取り入れている。しかし、Sidikiが他とは違うのは、彼がマリの文化を守る役割を背負ったグリオとしての義務とプライドからコーラを弾いているという点だ。彼の血がコーラを弾かせるのだ。

「俺たちはコーラをメインの楽器として使用しているけれど、カラバッシュタマダンダンも使っている。マリらしさを俺たちの音楽に盛り込もうとしているんだ。Lil Jonには敵わないからね」

こう話したSidikiに対し私は訊ねた。「アメリカ人のようになりたくないのですか?」

「それはないね! 俺たちは彼らとは違う。俺たちは何よりもまず、自分の国のためのメッセージ、明確に定義されたメッセージを自分たちの生活や自分たちの今のために発信する。若者たちについても取り上げているよ」この説明を聞いた私は、グリオを「声なき者の声」ではなく「権威側の声」だと批判しているラッパーがいることを持ちだしてみた。

「違う、違う」Sidikiは言った。「君にそう言った人は、優秀なグリオを知らないのさ。グリオは第一に友人であり、親友なんだ。グリオは血であり、蜜であり、塩なんだ。真実を伝えられないグリオは何かしら制限をされている。自分が必要なものを手に入れるためにウソをつかなければならないのさ」

「アメリカ人のようになりたくないのですか?」「それはないね!」

この話を聞いた時、私は世界各国でコンサートを開催している著名なグリオが紛争勃発後のタイミングで私の友人に対し、「今はグリオが口を開く時ではない」と言ったという話を思い出さずにはいられなかった。言い換えればそのグリオは、前大統領とパトロンが彼の周りにいた時代こそが多くのグリオにとって良き時代で、今は身を潜めるタイミングだと考えていたのだ。

Sidikiたちは、たとえ自分たちが望んだところで決してアメリカ人にはなれないと考えているが、その一方で彼と彼のラップ仲間たちはアメリカのウェストサイドとイーストサイドの抗争と同質の、無意味でグロテスクな争いを生み出した。2000年代中頃にIba OneがTal-B HalaことYoussouf Traoreや他のB-boy(Kappa Flow、Ox-B、Flay、Bechirなど)、そしてSidikiと共にラップクルーGeneration RRを結成した。



結成当初、このクルーはその名前(RRは “Rap and Respect”の略)通りの活動を展開し、両親をリスペクトしろ、アルコールを摂取するなと若者たちに説いていた。しかし、徐々に好戦的なMCであるGapsiと先ほどDiabate邸のサロンで会ったMemo All-Starに率いられたライバルクルーGhetto Kafriとの抗争が生まれていった。

抗争は定期的に行われる「クラッシュ」と呼ばれるセッションで過熱していった。このセッションはライバルクルー同士がフリースタイルのラップと煽りでバトルするという形式が取られていた(クラッシュを行うラッパーはクラッシャーと呼ばれる)。「世間で言うところの、『競争がなければ成長はない』って奴さ」−Sidikiはその抗争がダーウィンの進化論上不可避なものだと言わんばかりにと私に説明した。そしてこの「クラッシュ」は急速にマリのラップシーンに広まり、家族、特にライバルMCの母親への中傷が一般的なものになっていった。



そしてIba OneとTal-Bが不仲になったことで事態は悪化する。2013年4月、Tal-BはIba Oneに向けて殺害予告を送りつけ、Iba Oneが即座に憲兵隊に訴状を提出するという事件が起きた。これにより地元のコミュニティのリーダーたちが巻き込まれ、各クルーの支持者たちはネット上に辛辣な言葉と卑劣な行動を投稿した。またIba Oneの祖母も国内及び国外の識者に対し、自分の孫を殺し、家を燃やすTal-Bを見届けるよう懇願する公式声明を発表した。

多くのラッパーたちと国民はこの悪趣味で下品な抗争に腹を立てたが、ラッパーに憧れる若者たちがこの抗争を真似始めたたことで更なる反感が生まれていった。この頃、ラッパーMobjackがオンライン上に「勝手にクラッシュをやればいい。ただ親に対するリスペクトを忘れるな!」と投稿している。

「グローバリゼーションなどの流れを受けて、俺たちは世界に向けてオープンにならざるを得ない。俺たちは世界とシェアし、コラボレーションしなければならない状況にある。でも外の世界からただ影響されて、自分が元々持っていた何かを失ってはいけない。自分を差別化する方法と同時に他人と上手く混ざる方法も学ばなければならない」 − Master Soumy

Mylmoは「Bidenw」というトラックでアルコールと快楽に溺れる若者の増加を批判した。「子供たちが学校に行きたがらないんだ。全員がクラッシュに参加したがっている。10000CFAフランを勝ち取って、スタジオに入り、他のクラッシャーやラッパーの母親をディスりたいんだ。これはアメリカの 影響さ。これは人を導くものではなく、破壊するものだよ。かつてはスタジアムを満員にするのにラッパーが必要になるなんて誰も思わなかった。グリオでさえスタジアムを満員にはできないからね。政府はラップが巨大なシーンになってきていることを理解しなければならないし、俺たちもラップを正しい方向へ導かなければならない」

戦場と化したライブもあった。若者たちが石を投げ合い、暴力事件を起こしたのだ。実際、私がFestival on the NigerでMaster Soumyに会った時も、丁度Orangeがスポンサーについていたステージでの彼の出演がキャンセルになったところだった。石を投げ合う若者たちが機材の破壊を始めて警察が介入する騒ぎとなり、ステージの進行が中止になったからだ。

「彼らの行動の原因は何ですか?」と私が訊ねると、Master Soumyは次のように答えた。「俺が言えるのは、彼らがアメリカ人の真似をしているってことだけだね。グローバリゼーションなどの流れを受けて、俺たちは世界に向けてオープンにならざるを得ない。俺たちは世界とシェアし、コラボレーションしなければならない状況にある。でも外の世界からただ影響されて、自分が元々持っていた何かを失ってはいけない。自分を差別化する方法と同時に他人と上手く混ざる方法も学ばなければならない。これはAimée Césaireが言っていたことさ。俺たちの文化の根底には規律、尊敬、伝統がある。でもそれを捨てて、「自分はアメリカ人になりたい。クラッシュをやりたい。人をディスりたい」と言う奴がいるんだ。でもマリは世界有数の貧困国のひとつなのさ。クラッシャーには悪いけれどね!」

Master Soumy / Credit: Andy Morgan

これがマリのヒップホップにおける道徳的義務感の根底にあるものだ。マリのラッパーたちは元々一部のアメリカ人ラッパーのように粗暴で物質主義ではない。他人をディスるような素地はないのだ。国民の大半が非常に貧しい暮らしをしている非常に信心深いこの国には、指を立てて他人を罵るような余裕はない。そうではなく前向きで建設的になり、そして批判的にならなければならない。The Notorious B.I.G.やTupacよりもProfessor Griffに近づかなければならない。つまり、既存のシステムのルールに沿った勝者になる代わりに、そのシステム自体に挑む挑戦者になければならないのだ。

しかしながら、マリのヒップホップシーンにおいてThe Notorious B.I.G.の人気は高く、Tupac Shakurも崇拝されている。特にTupacはバラク・オバマ米大統領やウサマ・ビン・ラディン同様、 マリ国内では長年に渡りTシャツに描かれ続けているお馴染みの顔だ。酒、ドラッグ、セックスにまみれ、ライバルをディスり、ミュージックビデオで女性をはべらかしていたギャングスタ・ラップのTupacが何故マリで人気なのだろうか?

それは、Tupacが元々はシェイクスピアを読み、アートスクールに通っていた非常に繊細で知性ある少年だったということに また 彼の母親が元ブラックパンサー党員で、1960年代に公民権運動と黒人の地位獲得に深く関わっていたことにある。その複雑なバックグラウンドを持つTupacのトラックは甘いメロディーと辛かった時期について書かれたハードなリリックが絡み合ったもので、牛の革のようなタフさと、聖母マリアのような優しさが同居している。この特徴がマリのヒップホップシーンに受け容れられた。マリのラッパーたちはTupacのタフさに同調し、彼の優しさをリスペクトしているため、その他の部分を許しているのだ。

「みんな自分のやりたいことをやればいい。でもマリの文化はアメリカのそれとは違う」Sidikiが言う。「マリの教育はアメリカの教育とは違う。俺たちは家族、そして母親を尊敬するように教えられる。そして自分も尊敬されるようになりなさいと教えられる。マリはムスリムの国だ。俺たちはアメリカ人と同じ生活はできない。俺たちもナイスなミュージックビデオや車、ゴールドチェーン、巨大なステージは好きさ。でもそれよりもバザンや礼拝用マット、コーラ、そしてソース・アラシッドが好きなんだ。伝統的なものがね。そっちの方が好きなのさ」



2012年に迎えた国家の危機は、多くの意味で国内のヒップホップシーンにとって最良の時となった。ラッパーたちはこの危機が生んだ悲劇を良いものとして受け容れた。この危機は過去10年に渡り、国民に伝えようとしていた彼らの行為の正当性を裏付けるような出来事だったからだ。しかし、彼らはただ過去を振り返り、他人の不幸を喜ぶだけではなかった。アクションを起こす時を迎えていた。

Tata PoundのDixonとRamses、Master Soumy、そして仲間の弁護士やメディア、実業家たちがAmadou Sanogo大尉が権力を掌握した2012年3月の軍部蜂起の数日後に集まった。Master SoumyのマネージャーDoniが当時を振り返って説明した。「さぁ、何をしようか?という感じだった。俺たちは何年もの間に渡って政府を糾弾してきたし、言いたいことはすべて言ってきたけれど、結局効果がなかった。だから今回はひとつにまとまって、圧力団体を作ろうとしたんだ。それがLes Sofas de la Republique(共和国の戦士)が生まれた背景さ」

「Sofa」(ソファ)という言葉は元々13世紀から17世紀にかけて、マリ、セネガル、ギニアの大部分を統治していたマリ帝国の戦士を指す。またソファはマリの歴史的な英雄で、1880年代にマリ南部を統治し、フランス軍と何年にも渡って戦ったSamory Toureの軍の兵士を指す言葉でもあった。2012年前半に起きた、イスラム過激派とトゥアレグ独立推進派によるマリ軍が受けた屈辱は、国の名誉と反撃精神を取り戻す必要性を生み出した。そして現代のマリが失った部分を補うためにこの歴史的なロールモデルが用いられることになったが、Les Sofas de la Republiqueは軍の戦士ではなく、民間の戦士として戦いを仕掛けた。

「銃声が至る所で鳴っていた。俺たちは銃撃の中で活動したんだ」 − Doni

Les Sofas de la Republiqueの最初の活動は、ストリートへ出向き、クーデターを非難する内容のチラシを配ることだった。ラッパーたちの人気が注目を集める助けになったが、反応はおとなしかった。バマコは非常に危険な状態にあっり、またバマコに元々住んでいた人たちはSanogoを支持していたため、チラシの受け取りを拒否したり、配布行動を脅迫したりした。「銃声が至る所で鳴っていた。俺たちは銃撃の中で活動したんだ」とDoniは振り返っている。

そしてその活動を終えた直後に殺人予告が届いた。「チラシを配り終わったタイミングで警察にいる知人から連絡が来たんだ」Master Soumyが振り返る。「自分たちの行動に気をつけないと仲間を沢山失うことになるぞって言われたよ。でも俺は『明日死ぬべき人間が今日死ぬことはない』って返したのさ!」

クーデターから10日後、Les Sofas de la RepubliqueはYouTube上でファーストシングルをリリースした。「Ca Suffit!」(沢山だ!)と名付けられたこのトラックのミュージックビデオは、厳格なムードを出すために黒いTシャツを着たRamses、Dixon、Master Soumyが戦地で亡くなったすべての兵士と、紛争に悩まされている北部の人たちの団結力に対し敬意を述べるラップからスタートし、後半に入るとDixonが「アフリカでのクーデター、亡くなった兵士、日和見主義の政治家たち、もう沢山だ! 扇動的な政治、大衆主義者、腐敗して非自主的な国民、もう沢山だ!」とラップしている。



その後、2012年5月、Dioncounda Traoré暫定大統領がSanogoとその他の政治家たちによって送り込まれた暴徒によって大統領官邸内で暴行を受けるという事件が起きる。Les Sofasはこの事件によってマリが誇るすべての社会的品位が失墜したと考え、 YouTube上でセカンドシングル「Aw Ya To An Ka Lafia」(邪魔しないでくれ)をリリースすると、Sanogoを支持していたすべての政治家と扇情家を攻撃すると同時に、Sonogoに対し民主主義の修復と、北部の沈静化に向けて軍の指導に集中するよう求めた。

MylmoとAmkoullelもマイクを握ることになった。Mylmoはクーデターの4日後にSanogoに宛てる手紙のスタイルを用いた「Couvre Feu」(消灯)をリリースし、「大尉殿、あなたがクーデターを主導したのは事実ですよね。でもそれが何かの解決になるのでしょうか? 国は危機的状況に陥るだけではないのでしょうか?」と訴えかけ、更には退任させられた前大統領支持勢力とSanogoと臨時政府支持勢力の間で、死者の出る戦闘が起きるだろうと示唆した。そしてこのリリースに続く形でMylmoはAmkoullelと組み、YouTube上で「SOS」をリリースした。恐ろしい予言となったこのトラックは、この危機が起きる数ヶ月前にレコーディングされたものだ。危機的状況にあるマリ国内の状況が映し出されたこの映像は、Les SofasとMylmoのクリップと同様、マリのストリートを照らしだした。



尚、Amkoullelは自身が中心となって、抗議団体Plus Jamais Ça!(二度と起こさない!)も結成し、バマコのダウンタウンにある独立記念碑の周囲に集まり、巨大な人の輪を作るという抗議運動を展開した。 「FacebookやSMSを使って広めたんだ」Amkoullelは当時を振り返る。「当時僕たちの電話は盗聴されていたからね。だからこの運動をやると決めたら、あとはスタッフ全員が自分たちの知人の元へ出向いて話をし、それが20人、50人、100人と広がったんだ」尚、Les Sofas de la Republiqueと同様、Plus Jamais Çaも政治や文化、宗教の自由や、国民の責任無関心、意識についての会合や公開討論会を展開している。

このような活動を展開したLes SofasとPlus Jamais Çaの映像は国営放送局ORTMによって放送禁止になった。とは言え、実際は単純に嫌悪感を示されただけであり、「放送禁止」はやや強すぎる表現かもしれない。Amkoullelが説明する。「当時は臨時政府がORTMをコントロールしていた。だから国民はアクションを起こすのを怖がっていたんだ。僕が映像を彼らに送った時、まず通信省がチェックしなければならないと言われた。彼らは僕の映像を見るくらいしかやることがないように思えたよ!」

「大統領が決して忘れられない一言を言ったんだ。『Mylmo、神の名のもとにお願いする。マリ国民に正しい大統領を選ぶ時が来たと伝える曲を作ってくれ』ってね」 − Mylmo

しばらくすると、MylmoはクーデターのリーダーであるAmadou Sanogo本人から会いに来るように要請を受けた。「あの時は本当に怖かったよ。俺が大尉に捕まって牢獄へ入れられたという噂も流れた。最初に男がやってきて、『大尉がお前に会いたがっている』と言われた時は行けなかった。でも数カ月後別の大尉の使いがやってきて、『大尉はお前のファンなので、会いたがっている』と言われたんだ。ファンだと分かったので俺はSanogoに会いに行った。実際会ってみると、彼はクールな人だったよ。俺のリリックの一部『大尉、あなたの部下がストリートで空に向けて銃を撃っていました。でも俺たちの敵は北にいます。今ここで空に向けて撃ったら、北で戦う分の銃弾が残らないのではないですか?』も憶えていた。そして俺たちは話し合ったけれど、その時に彼が決して忘れられない一言を言ったんだ。『Mylmo、神の名のもとにお願いする。マリ国民に正しい大統領を選ぶ時が来たと伝える曲を作ってくれ。衣服や金と引き換えに投票するのは辞めなければならない』ってね。それで俺はトラックを作った。それが『Les Milles Verités』(1000の真実)さ」



またLes Sofasも大尉から招集を受けた。グリオに転身したラッパーの友人がそのメッセージを伝えに彼らの元を訪れると、彼らは十分に話し合い、最終的にSanogoに会い、彼の話を聞くことを決めた。「奴は俺たちの心をコントロールしようとしていたんだ」Doniが言う。「クーラー付きのバスを寄越して、俺たちが到着すると、まずカティの兵舎に案内して、干し煉瓦で作られた古い建物で暮らす兵士たちの生活を見せた。そして彼の本部へ戻ると『来てくれてありがとう。法律を信じる君たちに感謝すると同時に、何故クーデターを起こしたのかを説明したい。我々軍人は酷い扱いを受け、給料も未払いで、嘘さえもつかれた。兵士に食料を買い与えるための大金を預かった将校がいたが、彼らはバマコに留まり、その金を使いきってしまったのだ』と言ってきた。でも俺たちはこう返した。『そうなのかも知れないが、クーデターは解決方法じゃない』ってね。その後、俺たちは話し合いを続けた。そして最終的に彼は『これからは私も君たちと同じSofaだ』と言って俺たちの考えに同調したのさ。それ以降、彼がメディアに出る時は必ず『Ca Suffit!』って言っていたよ」

「俺はSanogoを、保身のためなら躊躇することなく誰かを攻撃するタイプの人間だと感じたよ。俺たちはウソが長続きしないことを知っている。遅かれ早かれ真実は明らかになるんだ」Master Soumyが言うと、Doniが続ける。「奴は俺たちを買収しようとさえしたんだ。帰り際に『ガソリン代にしてくれ』と1000ドルほどを手渡してきた。でも、俺たちはその金を連絡係だった男に『ラッキーだな』と言って渡したよ」

「俺たちはSanogoと話し合いをした。最終的に彼は『これからは私も君たちと同じSofaだ』と言って俺たちの考えに同調した」− Doni

2013年の夏の新大統領選挙は彼らにとっては更に難しいチャレンジとなった。マリ国内の「意識の高い」ラッパーたちは民主主義を情熱的に支持しており、今度こそ正しい選挙が行われなければならないと思っていた。「国民は幻滅していて、クーデターが日常茶飯事になることを認めつつあったんだ」Amkoullelが言う。「非常に危険な状態さ。何故なら民主主義は失敗だという考えが、マリ全体の意識のようになっていたんだから。でも問題なのは政治家たちであって、システムではない。政治家たちが敬意を持って民主主義を扱ってこなかったことが問題なんだ」

Les SofasやAmkoullelたちは、自分たちの立場を上手く使い、国民−特に若者たち−の無関心と幻滅を修復しようと努力した。彼らの目的は若者たちに、生体認証機能がついた高機能なプラスティック製の投票カードNINAを取得させることにあった。そして彼らはこのカードへの関心を高めるため、通常の記者会見や公開討論の他に、Les SofasはNINAカード所有者のみを対象にした慈善公演も開催した。

「投票前日、俺たちはバマコ市内を回って、若者たちに投票の重要性や、何故投票の見返りに金銭を受け取ってはいけないのか、女性ならば何故投票権を譲渡してショールやバザンを受け取ってはいけないのかなどを説明して回った。誰に投票しろとは言わなかったけれど、真のビジョンを持つ真の候補者に投票するように語りかけた。判断基準を教えながらね」とOUsmane Toureが振り返る。

こうして選挙は多少の問題があったにせよ滞り無く終わり、国際監視団によって自由公正な選挙として認められることになった。しかし、選ばれた新大統領Ibrahim Boubacar Keitaは、若者に新しいチャンスを与えて欲しいと願うMylmoたちからは程遠い存在だった。Ibrahim Boubacar Keita大統領は 内閣総理大臣、国民議会議長を歴任した全国レベルの知名度を持つ、老獪な政治家であり、前政権時代の怪しげな噂にその名前が出てくる、クリーンとは言えない人物だからだ。しかし、彼の政権を評価するにはまだ日が浅いと言えるだろう。



一方、クラッシャーたちも新たな社会のムードに飲み込まれ、和解することになった。「世間は俺たちが和解するなんて不可能だと 思っていたんだ」Generation RRのSidiki Diabateは言う。「でも俺は自分に『グリオとしてまず自分たちから動こう。自分たちが言ったこと、やったことを忘れ、前向きに活動しよう。マリのために歌おう』と言いきかせた」こうして抗争は、Ghetto KafriとGeneration RRが共作し、2012年12月にYouTube上でリリースされたトラック「On Veut La Paix」(平和を望む)と共に終わりを告げた。このトラックは粛々としたムードの中、ラッパーGaspiの次のリリックからスタートする。「今は難しい時代だ。準備をしておかなければならない。だが、哀れみこそが最大の施しだ。アラーがお守りくださるだろう」そしてコーラスは熱を帯びながらこう続く。「和解しよう。和解しよう。和解するんだ。憎しみや戦争ではなく!」