四月 16

声なき者の声:マリ共和国のヒップホップシーン Part 1

マリの政治、経済、伝統の中心に位置するヒップホップカルチャーを追った渾身のレポートを2回に分けてお送りする。

マリ共和国の伝統音楽の文化は非常に豊かで、世界的にもよく知られている。しかし、数年前の政府崩壊の際、時代を映す鏡となり、国民の声となったのはこの国のヒップホップだった。音楽の政治的価値は過去のものになりつつあるが、マリの民主主義、グローバリゼーション、そして伝統に関する議論の中心にはヒップホップが位置している。

マリ人ラッパーMylmoに会った時に私が あらかじめ知っていた彼についての情報と言えば、彼がその晩、マリ国内のフェスティバル「Festival on the Niger」のメインステージにライブアクトとして出演するということだけだった。Mylmoに インタビューを行った川沿いの土手にあるレストランの屋内は人が殆どおらず、常連客の多くは屋外のテラスで昼間の日差しを楽しんでいたが、私はそのインタビューを終えて初めて、この物腰が柔らかく、礼儀正しい青年がマリ国内の若者から崇拝されている存在だということを知ることになった。

レストランを出て数メートル進むと、「Mylmo!Mylmoだ!我が友Mylmoよ!」と叫ぶ声が聞こえた。そして私たちが少し進むたびに、10代の若者たちの興奮する声がどこからか聞こえ、その声の主たちは私たちの元へ歩み寄り、握手や自撮り、集合写真を求めてきた。レストランからわずか50メートルほどの距離にあるフェスティバルの会場へ着く頃には、私たちの歩みは集まる人たちに押されて遅くなり、Mylmoに群がる人たちはもはやコントロール不可能な状態になっていた。Mylmoのマネージャーで紳士的な人柄のAdboulayeが心配そうな顔をする中、ファンの叫び声は続く。「Mylmo!Mylmo!Mylmo!」、「写真を頼むよ!」、「握手して!」、「ハイファイブだ!」、「お願い!」—Mylmoがかぶっていたピンクのベースボールキャップは人混みの中に埋もれ、私と彼との距離がどんどん開いていくと、私はすぐに彼を追うのを諦め、眉の汗を拭いながら道端でその光景を眺めることにした。まるでスコールのように人の波が私の元から離れていく光景に私は興奮を覚えた。

私はマリの音楽について多少は理解しているつもりだった。Toumani Diabate、Rokia Traore、Oumou Sangare、Salif Keita、Vieux Farka Toure、Tinariwen — 彼らがこの国を代表するミュージシャンであり、英雄であり、ポップアイコンのはずではなかったのか? もちろんマリにラッパーがいることも知っていたが、それは「アフリカにラッパーがいる」と同レベルの認識に過ぎなかった。彼らがマリを席巻する存在だということは全く知らなかったのだ。

Mylmo and fans
Mylmo and fans / Credit: Andy Morgan

「Mylmoは最高さ」Aboubacarは老木が植わった大通りを歩きながら私に説明した。この大通りはマリ第3の都市セグーの目抜き通りで、この先には毎年開催されているFestival on the Nigerの会場がある。「彼は他のラッパーやその家族をディスるようなことはしない。そういうラッパーもいるけれどね。彼のリリックにはきちんとした意味がある。Mylmoは腐敗した政治家や搾取など、この国が抱えている問題を取り上げているんだ」底が薄くなったビーチサンダルで歩きながらAboubacarは険しい顔をした。Aboubacarはドゴンの出身での商人で、渡航勧告を無視してこのマリの「危険地帯」と言われるセグーのフェスティバルを訪れていた旅行者などに、神像やアクセサリーを売って暮らしを立てていた。

しかし、2012年春、マリ北部で起きたトゥアレグ人による武装蜂起により、マリ軍がイスラム過激派勢力に破れ、イスラム過激派はマリの北部の3分の2に対してシャリーアの普及を求め、コーランを唱える以外のありとあらゆる音楽形態を禁止したことで、マリは1960年のフランスからの独立以降、最悪の事態に陥った。Aboubacarを始めとした多くの人たちにとっての生命線だったこの国の観光事業は突如として停滞し、絶望の時が訪れたのだった。

この急転直下を味わうまで、マリはアフリカ随一の民主主義国家として知られ、治安も良く、多数の音楽やアートのフェスティバルが通年で開催される文化国家だった。またマリ国民もそのホスピタリティーとユーモア、寛容性から高い評価を得ていた。

マリ国内では対外的に高評価を得ていた自国の民主主義が無関心と無能と腐敗によって、随分前から崩壊していたことは周知の事実だった。

しかし、2012年3月、銃や制服などが不足し、ろくな装備も与えられないままイスラム系勢力とトゥアレグ独立推進派に対して立ち向かっていた現状に疲れたマリ軍兵士と下級士官が首都バマコ郊外で蜂起し、セグー出身で英語教師としての資格を持ち、アメリカで軍事演習を受けた経歴を持つAmadou Tounami Toure大統領を追放する事態が起きた。

諸外国やマリ近隣諸国の多くはこの事態を予測していなかったが、マリ国内では対外的に高評価を得ていた自国の民主主義が無関心と無能と腐敗によって、随分前から崩壊していたことは周知の事実だった。しかし、政府に対する国内の抗議運動 − 特に音楽における抗議運動はどうだったのかと言うと、マリ国内のアーティストの大半は、マリの伝統文化である「目上への配慮や追従」を言い訳にしたり、無口な音楽家の常套句である「音楽は音楽で政治は政治だ」や隠喩を用いたりすることで、内に秘めていた不満を明確に表現することはなかった。

しかし、ヒップホップとレゲェのアーティストは違った。もし諸外国の外務大臣や外交官、ジャーナリスト、アナリストたちがMylmoや彼の世代のラッパーのトラックを事前に聴いていれば、アフリカにおける民主主義の手本とさえ言われていたマリについて国民がどのように考えていたのかが事前に把握できていただろう。1980年代後半のChuck Dの言葉を引き合いに出しながらMylmoは次のように言った。「ラップを聴くことはテレビでニュースを見るのと一緒なんだ。この国で何が起きているのかはラップを聴けば理解できるのさ」



2011年、Mylmoはデビューアルバム『Wilbali』をリリースしたが、このタイトルは、マリ南部に多いバンバラ族の言葉で「真実」を意味しており、このアルバムの1曲目「Bandjougou」はマリの若者たちが日々直面している失業や不満、強制移住などの問題を包み隠すところなく語っている。また「Vie Contraire」ではマリの世代間闘争の核心へ切り込み、若者たちの悲しみを理解しない親の世代を糾弾している。

Snoop Doggを若くして健康的にしたような細身のルックスで、 病んだ瞳の代わりに知性に溢れた鋭い目が特徴のMC、Master Soumyもマリのラップシーンの新世代を代表するひとりで、2007年にリリースしたアルバム『Toukaranké』(冒険者)は若者の強制移住や町の治安などをテーマに取り上げており、2009年に他のラッパーたちと組んでリリースしたアルバム『Revolté 』(反乱)では、警察の腐敗やマリ人の偽善に切り込み、「すべてを止めないと、俺たちが反撃するぞ」というメッセージを全面に押し出している。



そして軍によるクーデターが起きる8ヶ月前には、Amkoullel L’Enfant Peulが扇情的な楽曲「SOS」をリリースしていた。

「SOS、SOS、非常事態だ!
SOS、SOS、変わらなければならない!
国民は怒り狂っている。彼らの夢は破壊された。
何を信じれば良いのか分からない。
過ちが先頭に立ち、真実が埋もれていく。
法律が変わってしまったのか?
このまま希望がなく、何も変わらないのであれば
何かが起きても驚かない…」

結局その「何か」は起きた。そしてこの大規模な運動によってマリは世界中に取り上げられ、世界のメディアはマリに対し、独立後初となる徹底的な調査を行うことになった。

「俺たちが曲を作ると、マリの人たちは『私たちが思っていることを言ってくれている。誇りに思うよ』と言ってくれる」Master Soumyはそう言うと、悲しげな表情で次のように続けた。「でも国は何のアクションも起こさない。そして人々は僕たちを捕まえて、『君たちは色々言ったけれど、何も起きていないじゃないか』と言うんだ」

「人々は僕たちを捕まえて、『君たちは色々言ったけれど、何も起きていないじゃないか』と言うんだ」− Master Soumy

実は反乱が起きる前から国家に対して異議を唱えていたのはマリ人のラッパーたちだけではなかった。勇敢で見識のある作家やジャーナリスト、ビジュアルアーティスト、そして劇場のプロデューサーたちも自分たちの意見を表明していたのだ。しかし、民の半数が18歳以下で、小学校以上の進学率が30%程しかないこの国で強い力となったのは、口語による伝達力と真実を伝える力を携え、一般人の生活により近い位置にあった若者たちの音楽だった。「マリでは他のアートよりも音楽の方がメッセージを伝えやすい」Master SoumyのマネージャーDoniが説明する。「権威ある人たちでさえも、何か伝えたいことがある時は俺たちの元を訪ねてくるし、企業もそうだ。商品のプロモーションをしたい時は、商品についてのトラックを作ってくれと頼んでくる」

Mylmo
Mylmo / Credit: Andy Morgan

マリのMCたちは「報道の裏に潜む真実を大声で伝える」という自分たちの役割に対し、プライドを持って取り組んでおり、自分たちを「声なき者の声」または「共和国の守り人」という英雄的なフレーズで表現する時も多い。マリには年長者を敬うという文化が存在するため、若者たちや才能ある人たちが自分の能力を証明するのは難しい。そのため仕事やチャンスに恵まれず、年を重ねてしまうことが多い若手のラッパーたちにとって、ラップはプライドの源であり、ラップによって彼らは自分たちが善良な市民、そして誇り高きアフリカ人であること、そして意味のある行動で世界に貢献していることを実感できるのだ。

ヒップホップは遠い「憧れ」と繋がれる、「クール」でグローバルな仲間意識への入り口として機能していった。

しかし、彼らがマイクを手に取り、今のような評価を得るまでにはそれなりの時間がかかっている。何故なら80年代中頃にマリにやってきたヒップホップは輸入文化 であり、しかも当初は裕福な子供たちだけのものだったからだ。フランスやアメリカへ旅行してヒップホップ番組や映画『Wild Style』や『Breakin’』を持ち帰り、それをVHSで楽しめたのは裕福な家庭の若者だけで、MTVが放映されていた衛星放送を持ち、Grandmaster FlashやMC Sollarのリリックを楽しむための語学力を身に付ける可能性があったのも裕福な家庭の若者だけだった。

当時のマリのラッパーたちはそのような海外モデルを真似、アフリカの文化に相反しつつもそこにルーツを持つヒップな「エキゾチックな存在」になることだけで満足していた。マリよりも常に一歩先を行っていたセネガルの人たちと同様、彼らはKurtis Blow、Ice T、Eric B & Rakim、またはLL Cool Jなどのリリックを英語のまま学び、スタジオやレコーディング機材にかける経済力も無かったため、自宅や通りでラジカセから流れるビートに合わせて彼らのライムをコピーしていた。そしてファッション、AdidasやNikeのスニーカー、ゴールドチェーン、ベースボールキャップ、ブレイクダンス(タギングやDJはそこまで人気が出なかった)などは、自国の文化が辺境的で遅れていると感じていた高学歴の若者たちの精神的なエスケープとなり、ヒップホップは遠い「憧れ」と繋がれる、「クール」でグローバルな仲間意識への入り口として機能していった。

しかし、マリのラッパーたちはその後しばらくすると、1980年代初頭にAfrika Bambaataaがフランス人のMCたちに与えた「自分の国の言葉でラップし、自分たちの社会で気がついたことをトピックにすべきだ。自分の国で起きている問題についてラップしろ」というアドバイスを自分たちへ向けられたものとして受け入れ始めた。そして80年代後半に入ると、マリのラップシーンのパイオニアたちはバマナ語でラップを始め、自分たちの言語がヒップホップの必須条件であるリズム感と言葉の躍動感を生み出すのに理想的であることを見出していく。

140416_rbma_3

そして1989年、マリで最も尊敬されていたヒップホップアーティストのひとりLassy King Massassyと、彼の仲間であるTidiane TraoreことMaster Tによるマリ史上初のラップアルバムがリリースされ、Les Escrocs、Zion B、Rubba Boys、Bam Boys、King Daddy、Djata Sia、Fanga Fing、Sofaなど数多くのヒップホップアーティストがマリ全土で活動を開始した。(尚、SofaはLassy King MassassyとMaster Tによるデュオで、この名前は20年後に劇的な形で再び登場することになる)。

しかし、ラップは小さなシーンに過ぎず、ポップシーンのトップアーティストであるSalif Keita、Oumou Sangare、Sékouba Bambino、Babani Koné、Mangala Cameraなどが依然としてマリ国内メディアの主役 だった。「すべてのレコーディングスタジオは彼らのような伝統的な音楽をプレイするミュージシャンたちで押さえられていた。誰もラップの構成やビート、そして制作に使用するソフトウェアなどに理解を示さなかったんだ」Master Soumyが振り返る。「だからTupacのビートなんかに自分のラップを重ねただけのアンダーグラウンドなラッパーが沢山いた。マリで一番苦労していたミュージシャンはラッパーたちだった。本当さ!」

1991年3月の有名な学生運動とそれに続くMoussa Traoreによる軍事独裁体制の終焉は、ラップを始めとしたマリの文化や、社会、政治などすべての部分に独立精神と希望を与えることになった。当時Lassy King Massassyは地方都市カティで学生連合のリーダーを務めており、 その他の多くのトップクラスのラッパーたちも高等教育を受けていた。そして学生として世の中が変わる動きを直接経験した彼らは、自分たちの掲げる理想主義的・急進主義的な情熱を音楽に注ぎ込んでいった。

そして複数政党を抱えた民主主義が誕生し、国内のメディア及び電波が自由化され新たなラジオ局や新聞、雑誌が生まれたこの時代は、ラップシーンの爆発的なブームを後押ししたが、その「爆発」の導火線となったのが、古代シカソを植民地時代のヨーロッパ各国の軍隊などの侵略者から守るために作られた高さ7メートル、厚さ3メートルの壁「Tata」をグループ名に冠したラップグループTata Poundだった。

Tata Pound
Tata Pound

Tata Pound(Poundは英国通貨のポンドから取られている)は、グリンと呼ばれる集団から生まれた。別の言い方をすれば、バマコのニジェール川にかかった古い橋の南側にあるエリア、バダラボゴのとある街角に集まっていた男友達のグループによって結成された。「グリン」とはマリ人の社会生活において、家族の次に不可欠な枠組みであり、英国でいうパブ、またはフランスのビストロのような、男性の親友同士が集まる場所のようなものを意味する(女性は室内で集まる傾向がある)。特定の場所に集まってほろ苦いお茶を飲みながら、人生や愛、音楽、政治、社会、世界について延々と語り合う。これがグリンだ。

バマコ市内でタクシーに乗れば、街角や木の下、または日陰など、街中の至る場所でグリンを見かけることができる。彼らはくつろいで無駄話をしながら、世界がゆっくりと変化するのを楽しんでいる。1991年の劇的な変化はバマコやその他の都市のグリンにも影響を与えた。アメリカ人のラッパーが仲間(Homie)をルーツにしているのと同様、マリのラッパーたちもグリンをルーツに持つ。ちなみに現在マリの若者たちの間で流行っているハッシュタグは#Grin223だ。この223は国際電話のマリの国番号から取られている。

大統領選を目前に控えたタイミングでリリースされたTata Poundの「Cikan」は不満を募らせていた若者たちのマニフェストとなった。

Tata Poundは1995年にマリで初めて全国放送されたラップ大会Rap Houseを制したが、この頃までにはRamsesことSidy Soumaoro、Djo DamaことAdama Mamadou Diarra、そしてDixonことMahadamou Dickoによる3MCスタイルが確立されていた。彼らは活動当初から幅広い層に支持され、またその妥協することのない闘争的で辛辣なリリックが話題となっていった。そして1997年、彼らがマリの国営放送局ORTMで「Confrontation」を通じて、国政に携わる政治家と、彼らによる終わることのない内輪もめと論争について批判すると、彼らの知名度は急速にマリ全土のストリートに浸透した。

Tata Poundは2000年のデビューアルバム『Rien ne va plus』(賽は投げられた)と、2002年のセカンドアルバム『Ni Allah sonna ma』(神の思し召し)によって、マリのラップシーンにおけるハーメルンの笛吹きのような存在となり、その評価を高めていたが、彼らが国民の気持ちのより深い部分に入り込んだのは、2002年にリリースしたシングル「Cikan President」(大統領へのメッセージ)だった。大統領選を目前に控えたタイミングでリリースされたこのトラックのリリック「大統領よ、俺達は崩壊を望まない! 縁故主義も望まない! 国による強奪を望まない!」は、不満を募らせていたマリの若者たちのマニフェストとなった。



そしてこのトラックの反響を知ったAmadou Toumani Toure大統領はバンドをマリのホワイトハウスであるKoulouba Palaceへ招待する。新学年が始まる日に招かれたTata Poundは、「Cikan President」の他にも「Politichien」(政治家と犬を掛けあわせた言葉になっている)など数曲を大統領、大統領夫人、大臣、政府高官などの前で披露した。尚、この2曲はテレビで生中継され、ORTMの意図に反してノーカットのリリックが放送されることになったが、パフォーマンスが終わると大統領はTata Poundに歩み寄って握手し、「私の元へメッセージを伝えてくれたのか!」と言うと、寛大な笑顔を見せ、「ブラボー!」と賞賛した。結局これだけだった。バンドのマネージャーは、「大統領は核爆弾を花火に変えてしまった」という声明をメディアに向けて発表した。

それにも関わらず、しばらくすると「Cikan President」は大統領が年一度行う国民への演説の導入部として国歌のすぐあとにテレビ放映され、大統領もTata Poundから若者たちのメッセージを受け取り、理解したと改めて語った。しかし、状況は変わらなかった。数年後RamsesはウェブサイトMalikoundaで次のように語っている。「でも政府は相変わらずだった。不満だったね」

Toure大統領はTata Poundと握手し、「私の元へこういう形でメッセージを伝えにきてくれたのか! 」と言うと、寛大な笑顔で続けた。「ブラボー!」

Tata Poundは2006年の『Yelema』(革命)のリリース以降、大統領に招かれることはなかった。長年に渡り自分たちのサウンドとフローを突き詰めた結果として生まれたこのアルバムは、マリのラップシーンのターニングポイントであり、Public Enemyの『It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back』に対するマリからの回答として高い評価を得ており、ビート、ライム、そして純粋でパワフルな怒りが、大衆に対してマリの近代音楽史最強の武器として機能した作品だった。そして大統領とその取り巻きをテーマにしたトラック「Fatobougou」(狂人の村)では、 大統領がマリ軍における最高幹部のひとりだった15年前、彼が国民に対し、「狂人か間抜けしかマリの最上層部は目指さない。よって、私は大統領選には出馬しない」と発言をしていたことを改めて取り上げた。

『Yelema』の痛いほどストレートなそのリリックは、多くのマリ国民に衝撃を与えたが、リリース前夜、Tata Poundの元へ匿名の電話がかかり、リリックが変更されるまではリリースされないと伝え、結果的にリリースは遅れることになった。ORTMの最高責任者も新聞を通じて、アルバムは攻撃的だと発言した。

マリ南部のマンディンカ族の人たちの伝統文化では、直接的な非難はタブーとされている。かつてのマリでは、グリオ−マンディンカ族における世襲制の詩人−が、極端な感情を落ち着かせるために優しい言葉を使いながら社会的な論争をまとめていた。「私たちの文化では、名指しで人を批判することはありません」世界的に有名なシンガーソングライターRokia Traoreは言う。「グリオはそのような状況における保証人の役目を担っていました。自分の意志や気持ちを公に伝えたいと思った時は、既にその人は極限の状態にあるということなのです。故にデモは時として暴力で終わるのです」

Rokiaはグリオを説明する際に、バナマ語の「mogoya」という単語を使用したが、これは大まかに言えば自制心と機転を持って感情をコントロールする能力を指す。故にTata Poundに代表されるラッパーたちは、「mogoya」が欠けていると見なされる時がある。しかし、その自制心の欠如は、彼らの才能でもあり、その音楽的な強度とユニークさの源でもある。



何世紀にも渡って保たれてきた伝統と、ミュージシャン、語り部としてのスキル、そして尋常ではない記憶力を持つグリオが西欧社会に生きる我々には興味深い存在だ。その存在感は、マリの著名な作家Amadou Hampâté Baの有名なフレーズを借りれば、「ひとりの老人の死は、図書館が燃えること」ほど大きい。グリオは、白人文明優位説から生まれた植民地主義と人種差別主義的の過大評価に相反する、アフリカには複雑で厚みのある独自の知的文化の伝統が存在するという考えを裏付ける。実際、(特にアフロアメリカ系の)作家や歴史家、文化人の多くは、グリオは現代のラップの遠い祖先であると論じてきた。

とは言え、現代の西アフリカにおいて、ラッパーとグリオが対立することも多い。私が今回取材したラッパーたちも、遠回しな比喩的な表現を使い、 相手への敬意と礼儀から真実や感情を抑制するグリオたちには基本的に同意できないとしている。また彼らはグリオが権威側に寄り添っていると考えており、その点に対しても非常に批判的だ。著名なマリ人のある作家もグリオを好まないとし、「なぜならグリオは裕福な層の味方だからだ」と私に説明している。それは真実だ。遠い昔からグリオの主な役割のひとつは、裕福で力のあるパトロンを讃える歌を、彼らの祖先の華々しい功績を振り返りながら歌うことだった。しかし、それだけが彼らの存在理由ではなかったはずだ。多くのグリオは歴史家、ネゴシエーター、ミュージシャン、楽器製作者、工匠などとして活躍している。

「グリオは讃えるために歌う。でも彼らは人間の負の部分を完全に無視する。ラップはその穴を埋めるために存在する」  − Mylmo

「グリオは讃えるために歌う」Mylmoが説明する。「でも彼らは人間の負の部分を完全に無視する。ラップはその穴を埋めるために存在するんだ。僕たちは真実を伝えなければならない。グリオの歌を聴いても、社会の現実は学べない。でもラッパーの歌を聴けば、テレビでニュースを見ているのと一緒だ。僕たちは楽しませるとか、誰かのお金を奪うために存在しているんじゃない」

Master SoumyのマネージャーDoniは、裕福なパトロンたちについて、ラッパーたちのパフォーマンスをやめさせるために全力を尽くす一方で、グリオたちに新車や新居、航空券、そして大金を惜しみなく与えていると興奮気味に説明した。グリオたちが讃えることで金を稼ぐ一方、ラッパーたちは生活するためにOrangeやNescaféなどの企業にスポンサー役を頼んで回っている。現在のマリのレコード業界は海賊版によって壊滅状態にあるからだ。「大金を稼ごうとするならば、グリオのように彼らが聴きたいことをラップしなければならない」Doniはあからさまに嫌そうな顔で言う。「でも俺たちはそういうことはしない。俺たちは声なき者たちの声だからだ。そしてもし俺たちの声を聴く人がいなくても、歴史がその声を証明してくれるだろう」

「mogoya」的な感覚は、最近のマリのMCたちの中から完全に消えてしまったわけではないようだ。Mylmoも次のように言っている。「最初からラップに対する理解はそこまで無かった。なぜなら、Tata Poundが政府を叩きのめして、ラップが不利な状況に追い込まれたからだ。でも俺はMahatma Ghandiのコンセプトで挑んでいる。『非暴力による革命』さ。誰かを泥棒呼ばわりすれば、たとえその人が泥棒じゃなくても、最終的に彼は泥棒になってしまうだろう。何故ならみんなが彼を泥棒だと言うからだ。だから俺は、『大統領、あなたは俺たちから搾取している』とラップする代わりに、『大統領、国民は問題を抱えています。人としてこういう状況に追い込んではいけません。あなたの子どもが同じように苦しんでいたらどう感じますか?』とラップする。『非攻撃的ラップ』って奴さ」

Sidiki Diabate and Iba One
Sidiki Diabate and Iba One / Credit: Andy Morgan

また、グリオから転身したラッパーもいる。実際、マリで最も成功を収めているヒップホップグループにはグリオの家系出身の2人がメンバーとして所属している。Iba OneことIbrahim SissokoのSissoko家は南セネガルとギニア周辺にルーツを持つグリオで、この地域はマンディンカ族のグリオ文化の紋章にもなっている18世紀から知られる21弦のハープ、Kora(コーラ)を発祥の地として知られている。そして、彼のパートナーでビートを担当するSidiki Diabateは、そのコーラの名手で、数々のソロアルバムやBjörkやDamon Albarn、Taj Mahalなどとの共演によって、世界的にその名が知られているマリ人ミュージシャンToumani Diabateの息子だ。ちなみにToumani Diabateの父親Sidiki Diabateもまたコーラ奏者で、1970年代初頭にコーラを世界に広めた人物として知られている。Diabate家は77世代にもわたって続いており、そのグリオとしての知識は口頭で父から息子へと伝えられてきた。

(続く)