七月 21

Soulquarians at Electric Lady Studios

当事者たちが振り返るSoulquariansとElectric Lady Studiosの歴史

By Chris Williams

 

1996年から2002年にかけて、Questlove、D’Angelo、Common、Erykah Badu、James Poyser、J. Dilla、Bilal、Q-Tip、Mos Def、Talib KweliがニューヨークのElectric Lady Studiosを拠点に革新的な音楽活動を行った。彼らはこのスタジオを中心とした環境からインスピレーションを得て、歴史に残る数々のアルバムを生み出した。彼らが訪れる前のElectric Lady Studiosはしばらくこのような盛り上がりからは遠ざかっていた。かつてこのスタジオではStevie WonderやDavid Bowieなどによる時代を象徴する数々の名作がレコーディングされたが、Russell Elevado、Questlove、D’Angeloがここを拠点にし始めた頃は、経営はややスランプ状態にあった。今回はQuestlove、Russell Elevado、Bilal、James Poyserの4人が、非常にクリエイティブな盛り上がりを見せた当時のスタジオと個々の活動を、自分たちの言葉で振り返った。

 

Russell Elevado

ある日、D’Angeloと俺はレコードを聴きながら、アルバム(のちの『Voodoo』)のアイディアを練っていたんだ。その時、彼のコレクションの中に『Music of My Mind』と『Taking Book』を見つけた(編注:共にStevie Wonderのアルバム)。俺はこの2枚を引き出して、これらがElectric Lady Studiosでレコーディングされたことを教えた。ちょうど彼がJimi Hendrixにのめり込み始めた頃だったし、俺はレコーディングをElectric Lady Studiosでやろうと持ちかけた。彼はElectric Lady Studiosがまだ機能していることを知らなかった。こうして俺たちがStudio Aに入ると、そこは床と壁1面以外は昔と変わりなくて、グッドバイブスを感じることができた。あそこに再び息吹を与えたのは俺たちだって自信を持って言えるよ。当時あのスタジオは人気がなかった。でも、あそこの歴史を振り返れば、1996年から大きく変化したことが分かると思う。俺たちがあのスタジオのFender Rhodesやマイクの埃を払い落としたのさ。

 

 

 

D’Angeloが「Electric Lady Studiosへ行くぞ。あそこは神の祝福を受けている。あそこに行かないとダメだ。行って然るべきなんだ」って言ったんだ

- Questlove

 

 

 

Questlove

The Rootsのニューヨークの拠点はBattery Studiosだった。Battery Studiosを選んだ理由は、Q-Tip、Ali Shaheed Muhammad、Phife DawgがA Tribe Called Questのアルバムをあそこでレコーディングしていたからさ。ある日、Battery StudiosでD’Angeloと一緒に奴の映画のサントラ用トラックのセッションとレコーディングをしたんだ。俺は出来上がったトラックを聴いて興奮していたが、D’Angeloは「俺が求めているバイブスが感じられないな。でもいいや。来週Jimiが作ったスタジオに行くからな」と言った。俺が「え?」って驚くと、彼は「そうさ。Electric Ladyに行くんだよ」と返してきた。俺は「Battery Studiosだって沢山のクラシックなレコードを生み出しているのに、なんでわざわざElectric Lady Studiosへ行く必要があるんだ?」って思ったよ。でも、D’Angeloは俺より少し先を歩いていたんだ。奴はあそこが神聖な場所だってことを知っていた。それで「あそこは神の祝福を受けているんだ。あそこへ行かないとダメだ。行って然るべきなんだ」って言ったのさ。

 

俺はElectric Lady Studiosの歴史にそこまで明るくなかった。でも、あそこへ行った瞬間、その不思議なデザインに圧倒されたよ。あそこのオリジナルデザインは円形で、地球みたいな形をしていた。本当に美しかったね。奇妙だったのは、俺たちが使った初日が、その昔のデザインの最後の週だったってことさ。というのも、Electric Lady Studiosを購入した一族が、Jimi Hendrixがスタジオの入り口のためにわざわざあつらえたその美しい円形のブロックを取り壊すことを決めたんだ。新しいオーナーは普通の入り口にしたかったんだと思う。彼らの中では、もしスタジオビジネスが失敗してビルを売ることになっても、入り口を直しておけば普通の店舗としての価値を十分残しておけるという話になっていたんだろうな。

 

Bilal

あそこの前は何回も通り過ぎていたが、Electric Lady Studiosだってことは知らなかった。俺の通っていた大学があの通りのすぐ先にあったんだ。いつもあのビルの前にいたのに、あそこが何かは知らなかった(笑)。

 

Questlove

初日のレコーディングが午前3時に終わったのを憶えているよ。それでD’Angelo、Russell Elevadoと俺の3人で「Jimiのヴィジョンを台無しにさせる訳にはいかないよな」って話し合った。その日はスタジオの壁の絵やコラージュを尊敬の眼差しで見て過ごしたよ。俺たちは感服していたんだ。あのビルに入るのは宇宙船の中に入るようなものだった。で、朝9時に起きて、ビルの前に立って解体をやめさせるぞって話になった。俺たちは本気で解体用の鉄球を相手にする気だったんだ(笑)。その話が終わったのが朝の4時で、俺は目覚ましを8時に仕掛けた。翌朝起きた俺はD’Angeloに連絡して、最終確認をしようとした。その時、俺はParamount Hotelに泊まっていて、俺が電話すると、奴は半分寝ぼけていた。それで俺が「これからやるだろ?」って確認すると、「やるって何をだよ?」と返してきた。それで「だから鉄球を相手にするんだろ?」って言うと、「やめやめ。ちょっとまた寝るわ」って言いやがった(笑)。

 

 

 

ひたすらジャムとレコーディングに費やした。あの1年でテープ200本分をレコーディングした

− Russell Elevado

 

 

 

Russell Elevado

1996年の年末から最初のセッションを始めた。俺たちは早めに動いて、1997年の年始頃からStudio Aを約1年押さえた。その間ミキシングは一切行わなかった。1年をただひたすらジャムとレコーディングに費やしたんだ。レコーディングは大量に行ったね。あの1年でテープ200本分をレコーディングした。Electric Lady Studiosに入ったタイミングが良かったね。昔、あそこにはレギュラークライアントがいたが、俺たちが入った頃はそこまで忙しくなかった。それで俺たちが使い始めると、みんなが顔を出すようになった。俺たちの噂が広まったんだ。だから、Mariah Carey、Lauryn Hill、Q-Tip、Eric Clapton、Chris Rock、Rick Rubinのような大物をはじめ、『Voodoo』の制作に参加してくれた素晴らしい仲間やミュージシャンたちが来るようになった。

 

Questlove

毎日がアドベンチャーだったね。例えばPino Palladinoが「2週間いるから、有効利用しよう」って言ってくる時があれば、Charlie Hunterが来る時もあった。彼は3週間空いていても、その後はツアーに出てしまった。俺もそんな生活のリズムだった。でも、あそこで起きていた魔法は一瞬たりとも見逃したくなかった。俺が家へ帰るとD’Angeloが電話をしてきて、「なぁ、昨晩の俺とCharlieのセッションは聴くべきだぜ」なんて言ってきた。それを聴いた俺はジェラシーを感じたよ。その魔法の瞬間に居合わせられなかったからさ。俺にはどんなアルバムになるにせよ、歴史的な作品になるってことがすぐに分かった。直感さ。だから一瞬たりとも逃したくなかった。たとえ同じスタジオで長時間過ごすことになるとしてもね。結局そうなったんだけどさ。

 

Bilal

俺はあのスタジオに寝袋を置いていたんだ。なぜなら帰りたくなかったからさ。あそこに住みたかったんだ。

 

Questlove

D’Angeloはヴォーカルをレコーディングする時は、ひとりになりたがった。『Voodoo』の大半は2インチテープにレコーディングした。奴がPro Toolsを使う場合は、レコーディングに9時間ってところだったが、2インチテープだと、複雑で細かい言葉やヴォーカルが組み込まれたトラックを4日分レコーディングする感じだった。だから、奴がヴォーカルをやるって日は、俺はフィラデルフィアに戻ってThe Rootsのレコーディングをしていた。しばらくするとそれに疲れてしまって、Studio Bを使い始めたんだ。D’Angeloと一緒にスタジオ作業をする時は大体午後6時頃から始まった。奴は「午後2時からセッションだ」って言っていたが、俺たちはそれが午後6時か7時になるってことは分かっていた。俺はStudio Aにセットを組んでいたから、その空いた時間を有効活用しようと思った。みんながあのスタジオの匂いを嗅ぎつけだしていたからね。

 

Electric Lady Studiosの作業が本格化したのは1998年の初頭だったと思う。その頃の平均的なElectric Lady Studiosの1日は、D’Angeloとの作業って意味では午後6時位から始まったってことなんだが、奴はジムに寄ってからスタジオに来ていた。憶えているかも知れないが、あの頃の奴はかなり鍛えていたんだ。あの時に初めて低炭水化物ダイエットって言葉を知ったよ。休憩所に行くと、ターキーベーコン20枚と大量のレタスが置かれていた。これがD’Angeloのスナックだったんだ。俺はそこで長時間過ごす時があった。あそこにはTVやビデオもあったからね。YouTubeが登場する前は俺がYouTubeだった。俺はヨーロッパやアジアへ出掛けては、Princeのライブや『Soul Train』(編注:伝説的な音楽TV番組)、Michael Jacksonのライブ、Al Green、Stevie Wonder、Marvin GayeのライブのVHSテープを40本から50本バッグに詰めて持ち帰っていたのさ。

 

 

 

QuestloveとD’Angeloの2人と一緒にレコードショップへ行った時、彼らが2000ドル分のレコードを買っていたのを憶えている

− Russell Elevado

 

 

 

Russell Elevado

みんな色々学んでいた。その中で、D’AngeloはJimi Hendrixの影響がなければPrinceはPrinceとして成立していなかったってことに気が付いた。George ClintonからStevie Wonderまで、ありとあらゆるアーティストがJimi Hendrixの影響を受けていることに気が付いたのさ。Jimi HendrixはD’Angeloが好きだったすべての音楽の中心だったんだ。この頃、Erykah BaduとCommonはLed ZeppelinとPink Floydを聴くようになっていた。Jimiが作ったスタジオに行くようになって、サイケデリックロックに興味を持ちだしたんだ。あと、全員がMarvin Gayeのファンク/ソウル感を身に付けようとしていたね。本気で習得しようとしていたよ。あと、QuestloveとD’Angeloの2人と一緒にレコードショップへ行った時、彼らが2000ドル分のレコードを買っていたのを憶えている。彼らはスタジオへ戻って聴くのが待ちきれないって感じだった。スタジオでレコードを聴き始めると、即興のジャムセッションが始まったんだ。

 

Questlove

大半の時間は座ってPrinceのライブ映像を見ていた。それを終えてから制作が始まったんだ。午後7時から午後9時まではTVの前に座って、何回もPrinceのパフォーマンスを見た。俺たちはそうやって盛り上がっていったんだ。音はスピーカー経由で大きかったし、コンサートみたいな感じだったね。D’Angeloは「そうだ! 俺がやりたいのはこれだよ!」って言っていたな。『Voodoo』の制作は、言ってしまえば『Voodoo』の “ライブ” を作り上げることだった。そのためには、ライブを補完できるアルバムを作るしかなかった。俺たちはPrinceの映像を見る度に、Princeはアルバムをアルバムらしくまとめる一方で、コンサートではそれをネクストレベルで表現しているってことに気付かされた。

 

午後9時30分から45分位になるとStudio Aへ入った。D’Angeloはすぐに自分の機材へ向かい、俺も自分のドラムセットへ向かった。俺は小さなポッドのようなものを用意していたんだ。ホームセンターで買える小さなグリーンハウスのようなものさ。その頃はSears(量販店)で買えたんだ。その中にドラムセットを入れていた。だから宇宙船の中の宇宙船みたいな感じだったね。

 

Bilal

スタジオは凄く広かったから、自分たちで色々工夫できた。だからエンジニアにとっては夢のようなスタジオだった。俺たちは腕利きの最高のエンジニアを揃えて、彼らが色々と試していたよ。Questloveは巨大な壁を使った空間を作って、そこにシーツを被せて、中にドラムセットを入れていた。クレイジーだったね。Questloveの姿はほとんど見えなかったし、中は暗かった。彼のドラムの音が聴こえてくるだけだった。

 

 

 

Electric Lady StudiosはD’Angeloや俺を含むみんなに独特のサイケデリックなバイブスを与えたんだ

− Russell Elevado

 

 

 

Questlove

俺が自分のブースに入って、D’Angeloも自分のブースに入ると、それからは2時間ぶっ続けでその前に見ていたPrinceのライブ映像を丸々再現しようとした。そのジャムの途中で、魔法のような8小節が生まれると、「こりゃいいな。これをレコードで聴けるようにエナジーを半分に抑えるにはどうしたらいいんだ? アルバムを半分のエナジーにしておいて、ライブで今みたいな全開の演奏をすれば、観客は盛り上がるぜ」と話し合った。だから、そのあとは1時間位かけて、BPM120で演奏していたものをBPM80に落とそうと格闘したよ。俺たちはその場でトラックを作っていたんだ。マネージメント側は怖がっていたよ。なにせ生々しくてコマーシャルな感じは一切なかったからね。1998年に何が流行っていたか考えてみれば分かると思う。当時は小綺麗なスーツ野郎の最盛期で、典型的なR&BはCarl ThomasやMary J. Bligeだった。

 

そんな感じだったから、Eddie KramerがJimi Hendrixのテープを持ってやってくると、俺たちは「おい! これが俺たちの狙っている方向だぜ!」と喜んだよ。俺たちは7ヶ月間こんな感じだったから、マネージメント側は冷や冷やしていたと思うね。俺たち2人はビデオを見て、バンドの真似をしていただけだった。それで1時間ほどジャムしたら、レコーディングをして内容をチェックした。D’Angeloは「お前がここでやっているのは何だ?」なんて言って、自分たちの演奏をチェックして、のちに『Voodoo』と呼ばれるアルバムに活かそうとした。こんな感じだったから完成までに5年もかかったのさ。午後7時から始まって、朝の5時位まで続けていた。その後に残された選択肢は2つだけだった。ホテルに帰って朝の10時にスタジオに戻ってくるか、休憩室で寝てCommonが来るのを待つかさ。

 

Russell Elevado

色々なアーティストをスタジオに連れてきたのはQuestloveだった。彼があそこで何が行われているかをみんなに教えたのさ。元祖Twitterみたいだったね(笑)。CommonとErykahをスタジオに連れてきたのも彼だった。QuestloveはCommonのアルバム『Like Water for Chocolate』がスタジオの雰囲気に合うんじゃないかと思ったんだ。ErykahとJames(Poyser)の場合も同じだった。Questloveは自分がElectric Ladyで得ているバイブスをみんなにも感じて欲しかったんだ。凄く有機的でソウルフルでサイケデリックなバイブスだった。Electric Lady StudiosはD’Angeloや俺を含むみんなに独特のサイケデリックなバイブスを与えたんだ。

 

 

 

何故か分からないが、突然俺とPrinceで宗教観のディスカッションを始めたんだ。あれはちょっと不思議だったな

− Bilal

 

 

 

Questlove

最初はCommonだった。Commonは「俺はちょっと自分の音楽を整理したいんだよ。ちょっと整理するだけで他の奴らよりも良くなるってのは自分でも分かっているんだ。他の奴らがやっているのは至って普通だが、お前がやっている音楽は未来的で訴えかけるものがある。で、俺もそれを頂戴したいんだ」と言っていた。

 

Bilal

スタジオでPrinceと会った日のことを憶えているよ。PrinceはCommonの『Electric Circus』のレコーディングにゲストで来ていた。俺がPrinceに会った時、彼はエホバの証人に入信していたんだ。俺は彼があの団体に入信しているなんて知らなかったし、当時の俺はまぁ口が悪かった。だから俺の後ろでQuestloveが「やめやめやめ!」って叫んでたよ(笑)。Questloveは俺に文句を言って欲しくなかったんだ。でも、Princeはクールに対応してくれたよ。Questloveは俺がスタジオから蹴り出されるんじゃないかって思っていた。やがて俺も状況を理解して、文句を言うのをやめた。俺がガキだった頃、母親はクリスチャンで、父親はムスリムだった。で、何故か分からないが、突然俺とPrinceで宗教観のディスカッションを始めたんだ。あれはちょっと不思議だったな。

 

Questlove

Commonとのセッションは楽しかった。J. Dillaがリードしていたからね。

 

Bilal

J. Dillaはスタジオに自分の機材を持ち込んでいた。奴がMoogでベースラインを弾いて、Questloveがドラムを叩いていた。J. Dillaの演奏は、Moogが話しているみたいだったね。俺は奴があそこまで凄いミュージシャンだってことは知らなかった。Pino Palladinoみたいな、ベーシストのようなサウンドだったが、DillaはMoogでそういう演奏をしていたんだ。

 

 

Questlove

ある日、退屈した俺たちはビートメイクでバトルをすることにしたんだ。当然俺は負けると思っていたよ。J. Dillaは神だったからね(笑)。奴は俺にレコードを選ばせてくれたが、奴のスキルには完敗だった。一番良い例は、奴が「俺のレコードをお前が選んでいいよ」と言って、俺がRick Jamesの『Street Songs』を渡した時だね。俺はこのレコードのリミテッドのヒップホップバージョンを持っていたが、1981年にリリースされたこのコマーシャルなファンクのアルバムからは何も見つけられないだろうと思ったんだ。で、俺は「Give It to Me Baby」を使うように指示した。

 

俺はあのトラックはピッチが速すぎると思っていた。しかもドラムのブレイクも一切なかった。コマーシャル過ぎたし、ビートはMC HammerやVanilla Iceが使うようなサウンドだった。でも、奴はイントロのベースを正確にチョップして、ピッチを下げた。で、Commonがすぐに「これをアルバムの2曲目に使うぜ」と言ったんだ。俺は「マジ?」って感じだったよ。J. Dillaが作ったそのビートが、『Like Water for Chocolate』の中の「Dooinit」になったんだ。

 

 

その時、俺は世界中のレコードを持っているのに、ちゃんと聴いていなかったってことに気が付いたんだ。J. Dillaは聴いていた。音楽をちゃんと聴いていたんだ。大抵のビートメイカーはさっと聴くだけだ。レコードは買うが、ちゃんと座って30分じっくりと音楽を聴くなんて耐えられないのさ。奴のベストサンプルのいくつかはオリジナルトラックの最後の40秒から取ったものなんだ。Laura Nyroのサンプルがあって、そのオリジナルは9分もある。俺は半分ほど聴いて「使える部分がまったくないな」と言って、飛ばしてしまった。でも彼は5回連続で聴いて、フェードアウトが始まる直前の30秒で魔法を起こした。奴はニンジン1本をちゃんとした食事に変える術を知っていたのさ。

 

James Poyser

スタジオ3部屋でレコーディングが同時進行している時があった。どのスタジオも盛り上がっていたね。

 

Bilal

D’AngeloはMos Defとジャムをしていた。Mos Defがベースを演奏していた。Mos Defがあんなにベースが上手いことを知っている人は少ないだろうね。

 

James Poyser

俺は大抵の場合2人で作業をしていた。スタジオに行って誰かを捕まえて、一緒に作業していたのさ。

 

 

Questlove

「それ使わないなら、くれないか?」とよく頼まれたよ。その良い例が『Voodoo』に収録されている「Chicken Grease」さ。これは元々Commonのためのトラックだった。で、Commonのアルバム『Like Water for Chocolate』に収録されている「Geto Heaven」は元々『Voodoo』用だった。このトラックでLauryn HillとD’Angeloがデュエットする予定だったんだ。だが、D’AngeloのアルバムにLauryn Hillが参加できないことが分かると、Commonが「俺にあのトラックをくれないか?」って頼んできたんだ。

 

でも、D’Angeloは「なぁ、お前が作ったファンクトラックをあいつに渡す訳にはいかないぜ。奴はあのトラックの扱い方を分かってない。俺はあのファンクが必要なんだ。お前も俺がどういうファンクを欲しているかは良く知っているだろ? とにかくCommonには分からないぜ」と言ってきた。だから俺は平和的に物事を進めなければならなくなったんだ。だからCommonに「お前が『Chicken Grease』をD’Angeloに譲れば、『Geto Heaven』を譲れるよ」って言ったのさ。

 

 

 

James Poyser

Erykah Baduの『Mama’s Gun』の締め切りが迫っていたから終わらそうとしていた時、俺たちはスタジオ3部屋とアップタウンのSony Studiosのスタジオも1部屋押さえていた。ミキシングで1部屋、ヴォーカルで1部屋、キーボードとオーバーダブで1部屋さ。自宅みたいな感覚だったね。「自宅」っていうのがが一番適した表現だと思う。

 

Questlove

笑っちゃうような俺のドラミングが聴けるのが『Mama’s Gun』だね。「A.D. 2000」で、彼女が曲の後半にスキャットしている裏で、俺が20秒位いびきをかいているのが聴こえるんだ。ドラムスティックが床に落ちる音も聴こえる。ドラムスティックが落ちた音で目を覚ましたのさ。俺が驚いたのが伝わると思う。俺はドラムスティック1本で叩いていた。曲の後半でフェードアウトしていったんだ。何も考えてなかった。

 

このアルバムのレコーディングの5週間は、とにかく体調が最悪だった。吐くためのバケツをドラムセットの横に置いていたのを憶えているよ。本当に体調が悪かったんだ。でも楽しかったね。すべてのセッションが楽しかった。

 

 

Russell Elevado

あの頃のジャムセッションはすべて使いたかったよ。それだけでアルバムを作りたかった。本当に素晴らしかったね。でもみんなのテープがどこに行ってしまったのか見当も付かないんだ。すべてがテープにレコーディングされていた。だからその大半はもう見つけられないんだ。

 

Questlove

Electric Ladyはヴィンテージ機材が揃っていたから選んだ。俺はドラムを軽く叩く方法を学ばなければならなかった。試行錯誤の連続だったね。ちゃんと学ばなければならなかったんだ。D’Angeloの「Playa Playa」はその好例だね。俺はファーストテイクで力任せにキックペダルを踏んでいた。ほぼ立った状態で、ヘッドに穴を開ける勢いだったよ。でもRussell(Elevado)に「そういう演奏をする必要はない。軽く叩くほど良いサウンドになるぞ」って言われたんだ。

 

俺たちは超ヴィンテージな機材を使ったんだ。Fender RhodesとクラビネットはStevie Wonderが『Talking Book』の「Superstition」などで使ったのと同じものだった。まだスタジオに残っていたんだ。D’AngeloはそのクラビネットとFender Rhodesとヴィンテージのグランドピアノを使っていた。でも、奴のヒップホップ魂がASR 10を手元に置かせていた(笑)。今でも奴はASR 10とフロッピーディスクを使っているよ。俺は1968年製のLudwigのキットを使った。Pino Palladinoは1950年代のFender Precision Bassを弾いていたね。Russell Elevadoはいつも古いRoyerのマイクを使ってレコーディングしていた。

 

Russell Elevado

オリジナルのElectric Ladyはメインルーム、つまりStudio Aしかなかった。Studio Aに元々置いてあったコンソールはFocusriteのスペシャルなコンソールで、ユニークで素晴らしいサウンドだったね。俺たちの一連のプロジェクトがそのコンソールを使った最後の作品群となった。あれが無くなるのは悲しかったね。本当にスペシャルなコンソールだったから。

 

 

 

Electric Lady Studiosは自分の頭でイメージしているサウンドを手に入れたいと思わせるようなスタジオだった。そのエナジーが当時の俺たちに伝わっていたんだと思う

− Bilal

 

 

 

Bilal

みんなは巨大なレコーディングルームじゃなくて、コンソールルームでレコーディングする方法を見出していた。昔はSly StoneやMarvin Gayeもコンソールルームでレコーディングしていたんだ。Marvinはコンソールの後ろに立って歌っていた。みんなはコンソールルームでフィードバックがない “デッド” スポットを見つけて、そこでレコーディングしていた。そこならスピーカーをオンにしたままでも歌えた。ライブで歌っているような感覚だったね。ヘッドフォンじゃなくてその空間に流れる音楽を聴きながら歌えたからさ。D’AngeloやErykahをはじめ、みんな上手く活用していたな。

 

俺はParliamentやFunkadelicのようなスタイルでヴォーカルやバックコーラスをレコーディングするのが好きだった。だからテープの声を自分でいじったよ。再生スピードを遅くしたり、速くしたりね。高い声が欲しければ速くしたし、低い声が欲しければ遅くしていた。あと、俺はホワイトノイズを乗せるのが好きだから、ホワイトノイズをレコーディングするためにビルの中の至る場所にマイクを立てたよ。あそこは自分の頭でイメージしているサウンドを手に入れたいと思わせるようなスタジオだった。エンジニアのひとり、Steve Mandelは天才なんだが、彼は頭の中にイメージしているサウンドがあれば、1日がかりでそれを見つけようとした。Jimi Hendrixの魂がそうさせたんだと思うね。それこそがJimiがこのスタジオでやっていたことだからさ。Jimiは自分の頭の中で鳴っている新しいサウンドをここで探そうとしていたんだ。そのエナジーが当時の俺たちに伝わっていたんだと思う。

 

 

 

Questlove

CommonがBeyoncé主演の映画『カルメン:ア・ヒップ・ホペラ』のオーディションを受けたんだ。その日の奴は、自分が彼女の相手役になるんだって言い続けていたが、結局その役はMos Defが務めることになった。だからみんなでCommonをからかったんだ。James PoyserがDestiny Childの「Bills, Bills, Bills」のリフレインを弾き続けて、俺はMos Defの「Umi Says」のリフレインを演奏していた。最初の3分から4分はただのジョークだったのに、7分を過ぎるとBilalが入ってきて歌い始めた。その時に俺たちは「こりゃドープだぞ」って思ったんだ。「Sometimes」のイントロが「Bills, Bills, Bills」に聴こえるって言う人がいるが、それはあの曲が元になっているからさ。Mos DefにCommonが負けたことをからかった演奏が、Bilalの最大のヒット曲に繋がったんだ。

 

James Poyser

あのスタジオには明るい茶色の毛をした猫が1匹いて、スタジオ3部屋を自由に出入りしていた。

 

Bilal

みんなは、あの猫にはJimi Hendrixの魂が宿っているって言っていたな。スタジオにいれば、そこの音楽を気に入っているって意味だった(笑)。みんなあの猫を自由にさせていたね。俺もホワイトノイズを入れるためにスタジオのドアを開けてレコーディングしていたから、セッション中にあの猫をよく見かけたよ。

 

James Poyser

あの猫は気に入らない曲があると、飛び上がってスタジオから出て行った。誰とは言わないが、あるアーティストがある曲をプレイして、スタジオのスピーカーが鳴ると、SSLのコンソールに寝そべっていた猫は突然飛び上がって、逃げていった(笑)。あの頃のElectric Ladyはあの “Jimi the cat” 抜きには語れないね。

 

 

 

俺は『Vibe』誌に、「記事を書くのは構わないが、俺ひとりじゃなくてファミリー全員について書いてくれ」と強く念を押したんだ

− Questlove

 

 

 

Questlove

俺とJames Poyserが1月生まれだってのは前から知っていた。それを改めて意識させたのがJ. Dillaだった。ある日、J. Dillaが「ちょっと待ってくれよ。俺は2月7日生まれなんだ」と言うと、D’Angeloが「俺は2月11日生まれだ」と続き、Jamesが「俺は1月生まれだが、水瓶座(Aquarius)だ」と言った。それで俺が「俺は1月20日生まれだ」と言うと、最後にThe Soultronicsのギタリストで今はもう亡くなってしまったJef Lee Johnsonが「俺も水瓶座だ」と言ったんだ。するとCommonとErykahが入ってきて、Erykahが「私は水瓶座から1週間外れているわね。私は魚座なの。でも2月生まれよ」と言ったんだ。で、ひとりだけ仲間はずれになりたくなかったCommonが、「俺は3月生まれだよ。でも俺はお前らに似ているだろ。だから水瓶座みたいなもんだ」と言った(笑)。俺たちの中の6人、7人が水瓶座だったんだ。だから俺たちはひとつのユニットのように感じたんだ。

 

『Vibe』誌のあの写真は終わりの始まりだった。あの号が発売された時、みんなは怒り心頭だったね(笑)。あの号は俺の特集から始まっていたんだ。『Vibe』誌の連中は、俺がD’Angelo、Erykah、The Roots、Jill Scott、Bilal、Mos Def、Talib Kweli、Common、Slum Village、Nikka Costaのアルバムに関わっているのを知っていた。俺が一番忙しかった時は17人のアーティストと仕事をしていた。でも、俺は不必要な称賛には用心深かった。俺はコミューンの人間だし、ひとりでやってきた訳じゃない。だから称号や称賛をもらうのは居心地が悪かった。だから俺は『Vibe』誌に、「記事を書くのは構わないが、俺ひとりじゃなくてファミリー全員について書いてくれ」と強く念を押したんだ。

 

 

俺たちは自分たちをひとまとめに名乗ったことは一度もなかった。だが、俺たちといつも一緒にいたジャーナリストたちが、君たちと同じように俺たちを「Soulquarians」って言い続けていたのさ。俺は違いを説明したよ。Soulquariansは水瓶座の俺とJames Poyser、D’Angelo、J. Dillaのことで、The SoultronicsはD’Angeloのバックバンドだってことをね。だが、撮影が終わって出来上がった『Vibe』誌の表紙を見ると、そこには大きく「The Soulquarians」って書いてあった。その時シカゴにいた俺は、「やばいな。こりゃまずい」って思ったよ。みんなから電話がかかってきて、「どうやら俺はお前のために働いているらしいな。でも、俺は水瓶座じゃないぜ。俺は俺だよ」なんて言われたよ。あれですべてがバラバラになってしまったのさ。

 

その頃の俺たちはDave Chappelleの映画『Block Party』の撮影中だった。俺はあれが俺たち “Electric Eight” が全員集まる最後の機会になることは分かっていた。Mos Def、Common、Bilal、D’Angelo、Erykah、James Poyser、J. Dilla、俺の8人がね。あれが俺たちの葬式になるってことは分かっていたし、次に起きるムーブメントはThe Rootsを中心としたものじゃないってことも分かっていた。マーチングバンドと一緒のKanye Westを見て、次のムーブメントの中心に俺はいないってことが分かった。奴が次のリーダーになるということを俺は理解しなければならなかったんだ。