八月 07

ルーツ・オブ・テクノ: デトロイトのクラブシーン(1973-1985)

デトロイトテクノ誕生に関わったクラブとDJの忘れ去られた歴史

デトロイトテクノが生まれる以前のデトロイト、つまりデトロイトテクノのムーブメントを生み出したディスコ/ポストディスコ時代は、テクノ誕生秘話の影に隠れている。この街を代表するDJのひとり、Mike “Agent X” Clarkは言う。「インタビューの度に触れようとするが、テクノ以前の話なのでカットされてしまうのさ。ようやくテクノ以前のデトロイトについて触れてもらえたのは嬉しいね」

モータウン時代から1980年代中頃のテクノ誕生の間のデトロイトの音楽史は、書類や資料が手に入りにくく空白があるため、1972年にモータウンがデトロイトを去った時点で、デトロイトの音楽シーンはその後約10年間、テクノの誕生によって復活を遂げるまで「死んでいた」と思われているが、それは事実とはかけ離れている。Dan Sickoの著作『Techno Rebels』の一部と、その他のいくつかの記事を除き、非常に興味深いこの時代のストーリーは語られてこなかった。1973年から1985年にかけてデトロイトで花を咲かせていたダンスミュージックカルチャーは大きな影響力を持った時代だったが、その影響力にふさわしい評価を得ることはなかった。

ティーンエイジャーたちが開催していた数多のディスコパーティー、行政側がColeman Young市長の指示の元で看過したアフターアワークラブの急増、The B-52’sなどをデトロイトのクラブへ通わせた短期間のニューウェーブブームなど、こういった流れはすべてその後のテクノの誕生によって忘れ去られてしまった。今回は、1980年代後半にデトロイトがテクノシーンを生み出した背景をより深く理解するために、Ashley Zlatopolskyが当時のデトロイト出身のDJやプロデューサーたちに話を聞いた。



ディスコが世間でブレイクする前、デトロイトにはファンクバンドのシーンが存在した。当初、街中には4人組のR&Bグループが溢れており、やがて各グループがトランペット、トロンボーン、ドラム、ギター、ピアノ、ヴォーカルなどを加えたフル編成のバンドへと変化していくと、ストリングスの導入と共にディスコサウンドが生まれていった。「クラシックな音楽をフル編成のファンクバンドに組み合わせれば、ディスコサウンドが生まれたのさ」長年デトロイトで活動するDJ、Felton Howardが説明する。

クラブオーナーたちはこの新しいサウンドに気付くと、このサウンドがモータウンのアーティストたちの溜まり場として有名だったウォーレンと14thストリートの角にあったクラブ、The 20 Grandで話題になっていることに注目した。その真向かいに住んでいたFelton Howardは、The 20 Grandがファンクからディスコへ移行した頃を次のように振り返る。「ファンクバンドのギャラが500ドルだったのに対し、ディスコDJのギャラは50ドルだったから、ファンクバンドは追い出されたのさ。DJは人気盤を持っていたし、バンドに金を支払う必要なんてなかった」

Millie’s、Ethos、Wash’s Flamingo、Pink Poodleなどのデトロイト市内の他のファンククラブもすぐにその流れに乗った。Zana Smith(ハーモニー・パークに存在したクラブSpectaclesのオーナー)など、パーティーのプロモーターたちはDownstairs Pubなどのディスコクラブを開店し、Dale Willis、Bruce Moore、Carleton Northern、そしてジャマイカ人Effieなど、デトロイトの初期ディスコパーティーにおける重要人物たちが、1晩で2000人程を集客していた。またもうひとりの重要人物であるCharles Loveは、Fun Time SocietyというイベントをNorthville Hilton Hotelなど郊外の人たちが通いやすいロケーションを使って開催していた。

また、1970年代中期のクラブシーンの台頭と連動し、ラジオ局もディスコブームに乗った。WJLB(FM局に変わる前)、WCHB、WLBS、WGPRはTiger Dan、Jay Butler、Al Perkinsなどは、番組のパーソナリティーやミックスショーを担当していたDJたちをクラブにブッキングし、この流れはやがてDuane “In The Mix” Bradleyなどによって引き継がれていった。「全員がディスコに影響を受けたと思う。ラジオは編成を完全に切り替えて、昼夜問わずディスコをプレイしていた。Ken Collierがデトロイトで知られるようになったのもこの流れがあったからだ」ディスコ/ハウスDJの第2世代にあたるDelano Smithが振り返る。



1996年にこの世を去ったKen CollierはデトロイトのゲイディスコDJの先駆け的存在のひとりで、その後のプログレッシブシーンやハウスシーンを牽引する存在となった。テクノのオリジネイターたちは影響を受けた人物としてCollierの名前を挙げることが多いが、Collierは世界から見たデトロイトの音楽史の中では忘れ去られている。Collierは、ファンクからディスコへの移行が起きた頃、ニューヨークのStudio 54の小規模版、デトロイトのStudio 54でディスコをプッシュした。「Kenはファンクのプレイを拒否した。ディスコサウンドを好んだんだ」

CollierやRonaldo White、Morris MitchellなどのDJたちはTrue Discoというグループを結成し、ディスコを快く受け容れた一方で、Howardのような他のDJたちは慎重だった。「黒人社会ではディスコとファンクをミックスしなければならなかった。Gloria Gaynorの『I Will Survive』をプレイしておきながら、The Commodoresの『Brick House』をプレイしないのは許されなかった」

しかし、ディスコが台頭すると共に、その摩擦は小さくなっていき、1970年代中頃までには全米各地でディスコが聴かれるようになっていた。デトロイトのシーンにおいてStudio 54は重要なクラブだったが、Lafayette Orleans、Boogie Down Lounge、My Fair Lady(後にThe Ladyに改称)などのクラブもデトロイトのストレート層の定番クラブとして人気を集めていった。また郊外に住むストレート層にはスターリングハイツのThe Butterfly、ローズヴィルのLenote、ファーミントンのAngieなどが人気で、デトロイトからカナダ・ウィンザー側に抜ければ、朝6時までオープンしていたカナダ人の人気スポットElmwood Casinoがあった。

Elmwood Casinoの他にも深夜営業のディスコは数多く存在した。これらは特に黒人のゲイコミュニティーの間で人気があった。ディスコミュージックと共に発芽した自由な精神性が彼らの共感を得たのだ。シックスマイル付近のリヴァノイに存在したゲイクラブ、The ChessmateではTrue DiscoのKen CollierとRenaldo Whiteがよくプレイしていた。「The Chessmateでの彼のプレイを聴いて、私はDJになろうと思ったのよ」デトロイト初の女性DJのひとりであるStacey “Hotwaxx” Haleは振り返る。



Studio 54が午前2時に営業を終えると、客はKen CollierがレジデントとしてプレイしていたジェファーソンにあったThe Factoryに向かった。その他にもFamous Door、The Escape、Backstreet、Menjo’s 、Duane BradleyとCollierの弟GregがプレイしていたセブンマイルのTodd’sなどがあった。またシックスマイルとウッドワードの角にあった、アフターアワー用のメンバーシップ制ゲイクラブClub Feverは、場合によっては午前10時まで営業をしていたと言われている。更にその付近にはウェスト・マクニコルズのアフターアワークラブBaysideもあった。「パルマーパーク付近にはゲイが沢山住んでいた。パルマーパークのゲイクラブでは何でもプレイできた」現在Underground Resistance所属で、デトロイトのディスコDJの第1世代のひとりJohn Collinsが説明する。

1970年代が終わる頃には、1979年のシカゴのComiskey ParkでのDisco Demolition Nightを受け、ディスコブームは終焉を迎えていた。しかし、ダンスミュージックがなくなった訳ではなかった。デトロイト市内の高校生たちがソーシャルクラブを作り始め、YMCAやThe Roosetertailなどのホールを使用して、Charivari、GQ、Courtier、Schiaparelli、Remniques、Giavante、Ciabittino、Cacharel、Arpegghio、Avantéなど、当時のイタリア人クラブやデザイナーの名前を拝借した名前を掲げてダンスパーティーを開催するようになった。

「音楽は新鮮で、2台のターンテーブルとミキサーを使うミックスが台頭してきた頃だった」当時10代で、学校行事や裏庭のホームパーティーなどでDJをしていたDelano Smithが振り返る。SmithはCourtier及びThe Next Phaseのメンバーだった。「俺たちの仲間の多くはビートマッチがそこまで上手くなかった。出来る奴もいれば、出来ない奴もいた。俺はラッキーなことに最初から上手くプレイできた。当時は自分で機材を持っていなかったから、友人のCarl Martinの家で良く練習をしていたよ。彼とThe Next Phaseの創設者Avon McDanielがSoundwaveという名前のDJクルーを結成して、俺はそのメンバーのひとりになった。デトロイト市内の高校生がオーガナイズする様々なパーティーでプレイしたよ。Carlは当時最高級のモバイルサウンドシステムを持っていた。Ken Collierもたまに彼のシステムを自分のアフターアワーのパーティー用に借りていたよ。俺はCarlを手伝ってスピーカーを運んだりして、Kenのプレイを一晩聴いていたんだ」

また1970年代後半、同じくサウンドシステムを提供していた10代のDJクルー、Direct Driveも結成された。このクルーはその数年後にはデトロイトの初期ハウスシーンで大きな影響力を持つ存在に育つことになる。サウンドシステムのオーナーだったTodd Johnsonは、システムと照明をRafaelのKevin MappやCharivariクルーなど、デトロイトのプロモーターたちに貸し出すことでキャリアをスタートさせた。そして自分のクルーを結成するチャンスがあると感じたJohnsonはDJ Darryl Shannonを引き入れ、その後、CourtierのDelano SmithとTerry Adamsにも声をかけたが、2人が断ったため、最終的にTim SlaterとHassan Nurullahを引き入れて、Direct Driveを始動させた。Direct Driveはその後James Wells、Kevin Dysard、Duane Montgomery、Ray Barry、Alan Ester、Alan Heath、Mike Clark、Mike Brown、Theresa Hill、Jay Ralstonなどを加え、その規模を大きくしていった。



1978年、Mike Clarkは初めてソーシャルクラブパーティーに参加して、そこでDirect DriveのTodd Johnsonに出会ったが、Clarkはまだ12歳だった。Clarkの兄Gilbert ClarkがGentlemen of the 80’sというグループと共にパーティーを主宰していたため、Clark兄弟の母親がMikeを一緒に連れて行くようにGilbertに頼んだのだ。Mike Clarkは当時を振り返る。「最初に聴いたレコードはBlondieの『Rapture』だった。ディスコブームの終わり頃だったから、ビーコンライトやミラーボール、フラッシュライトやスモークがまだあった。全員クレイジーな恰好をしていたね」

ティーンエイジャーのパーティーシーンが1980年代初期に大きく成長するに連れ、Clarkが体験したようなパーティーは市内で頻繁に開催されるようになっていった。Clarkは次のように振り返る。「今はBucharest Grillになっている場所の向かいにPark Avenue Clubというヴェニューがあった。そこはホテルで、2つのホールがあった。両方でパーティーを開催したよ。当時は週イチのペースでパーティーを開催していて、毎回1000人以上が集まっていた。どこでパーティーを開催しようと常にパンパンだったね」

Clarkは続ける。「1981年頃になると、俺たちはDeep Spaceのような他のDJクルーを招くようになっていった。Kevin DysardやRay Berryもそうだ。彼らはDirect Driveの第2世代さ。1982年以降にDirect Driveに参加したんだ。俺はステップアップしようと思っていたんだが、その中で、Juan AtkinsKevin SaundersonDerrick MayEddie FowlkesのDeep Spaceが出てきた。彼らは新顔だったが、俺たちよりもレフトフィールドなインダストリアル系で、ベルヴィル出身だったから基本的に郊外で活動していたんだ」※1

※1 Direct DriveとDeep Spaceの間でDJコンテストが行われていたという話は長年に渡って様々なインタビューに登場しているが、実際にそれが行われていたのかどうかは証明されていない。しかし、Mike Clarkは以下のようにはっきりと記憶している。「DJコンテストにJuan Atkinsがドラムマシンを持ち込もうとしていたのに俺たちは全く気が付かなかった。なぜなら誰もそれをやったことがなかったからさ。俺とKevin DysardとRay Berryには、クールなタイプライターのように見えたね。でもスタートボタンを押すとビートが聴こえたんだ。言うまでもないが、全員がぶっ飛んだよ」尚、そのドラムマシンは後にシカゴのハウスミュージックのパイオニア、Frankie Knucklesが買い取っている。

デトロイトのポストディスコ/プリテクノ期の音楽は多種多様だった。Howardが説明する。「パーティーに行ったことがない人たちは、パーティーに行くのを本当に楽しみにしていたし、彼らが知らない音楽をプレイすれば彼らを完全にノックアウトできた。Ken Collierや俺はそこを上手く利用した。ラジオ局でかかる楽曲も限られていたから、俺たちは高校のパーティーで彼らの知らない音楽をかけたんだ」

「何が起きるんだろうと不安に感じながらも、ダンスしたいという人たちがいたのさ。彼らはハードにプレイするほど、ダンスしたよ。こうしてルーティンやダンスステップ、ダンスグループなどが生まれていった。ダンスがすべてだったんだ。他に何もなかったからね。ビデオゲームもなかった。ローラースケートかダンスしかなかったのさ。だからパーティーへ出掛けて自分探しをしていたんだ。みんな自分たちが何者なのか、どうなりたいのか分かっていなかった。ただパーティーがしたかった。だから全力でパーティーを楽しもうとしていたんだ」



当時デトロイトで人気があったクラブのひとつが、L’uomoだった。元々はシックスマイルとウェスト・マクニコルズの角に存在していたこのクラブは、早い時間はティーンエイジャーを相手にし、深夜から朝にかけては大人たちを相手に営業していた。L’uomoはその後イーストセブンマイルに移転したが、特に集客には影響はなく、非合法のパーティーを開催する場合は4000人程度が集まることもあった。Delano Smithは新旧両方のL’uomoでレジデントを務めた。「L’uomoは強烈なサウンドシステムを備えたウェアハウススタイルのクラブで、いかがわしいエリアにあった。俺にとっては初めてのレジデントで、あそこでのプレイで自分の名前が知られるようになった。当時、あの手のクラブはあそこしかなかった。17歳の頃、旧L’uomoで水曜と土曜のレジデントを務めている時に、Ken Collierと初めて出会った。俺が2時までプレイして、彼がそのあと6時までアフターパーティーを開催していたんだ」

L’uomoを除き、多くのアフターアワーのゲイパーティーは内密に開催されていた。LGBTに対する風当たりが強かったからだ。しかし、デトロイトには異なる年齢やライフスタイルのためのアフターアワーのクラブも数多く存在していた。「ギャンブル、ダンス… タブーとされるものはアフターアワーのパーティーへ行けば楽しめた。当時のデトロイトの人間は狂ったように夜遅くまで出歩いていたよ」Felton Howardが振り返る。

Coleman Youngが市長を務めた1974年から1994年の間のデトロイトは、Young自身が夜遊びとギャンブルを好んでいたため、アフターアワーズの営業が看過されていた。そのため、殆どすべての通常営業(21時から2時)のパーティーにはアフターアワーが設けられていた。そして多くのローカルDJたちがそのようなパーティーを通じてキャリアを築いていった。Stacey Haleの最初のギグはエイトマイルとグリーンフィールドの角にあったClub Hollywoodだった。尚、現在この場所には教会が建っている(面白いことに、非合法ヴェニューの多くが後年教会に建て替えられている)。

「Club Hollywoodはメインストリームじゃなかった。ラジオでかかるような曲はプレイしなかったわ。騒音も酷かったけど、別に気にしていなかった。パーティーは愛に溢れていたわ。暴力もなかったわね」Haleが振り返る。

「Ken CollierはデトロイトのFrankie Knuckles、もしくはLarry Levanだったのよ」 − Stacey Hale1980年代に入ると、デトロイトには新たなクラブシーンが生まれた。1980年頃、デトロイトのナイトカルチャーはサウンド・人種・性別などが更にミックスされていった。「ゲイDJのSteve Naderを聴きに行ったよ」Felton Howardが言う。「どんなクラブかはどうでも良かった。ストレートのクラブにもゲイクラブにも行った。黒人のクラブだろうが、白人のクラブだろうが、ラテン系のクラブだろうがどこにでも顔を出したよ。俺たちは普通の黒人のクラブに飽きてきたから、良い音楽を聴きにゲイクラブへ通い始めたんだ。Backstreetへ出掛けて、Steve Naderを聴きながら、ダンスしていたら、奴はなんと『Blue Suede Shoes』をプレイした。俺はElvis Presleyの音楽で踊ったのさ!『こりゃまずい!』と思ったが、内心気に入っていたね」

NaderのようなDJに影響を受けたHowardはウッドワードのCarson’sでプレイを始めた。同時に週末はラファイエットとジェファーソンの間のマウント・エリオット・ストリート上に出来た1500人程を収容する新しいクラブClimax 2でレジデントとしてプレイしていた。1980年代は Warehouse in Woodbridge、Cheeks、The Gas Station、Heaven、The Factory(ジェファーソン)、UBQ、Taboo、Bookie’s(Club 870)、Tremors、The Downstairs Pubなど、数多くのクラブが生まれた。「多くの老舗クラブが閉店したから、プレイできる新しいクラブを探さなければならなかった」Delano Smithが振り返る。

特にThe Gas StationとHeavenの2店舗は、デトロイトの盛況なダンスカルチャーの中でも最も影響力のあるクラブとして知られるようになった。「Heavenは国際的な評価が高かった」John Collinsが説明する。Heavenはセブンマイルとウッドワードにあった駐車場ビルの中に作られていた。その地下には通常営業のクラブThe Gas Stationがあり、Heavenはその真上でアフターアワークラブとして営業していた。Ken CollierはHeavenで長年レジデントを務め、そのプレイは多くの人たちに影響を与えた。「Ken CollierはデトロイトのFrankie Knuckles、もしくはLarry Levanだったのよ」Haleが振り返る。Collierに関しては、伝説のラジオDJ、The Electrifying Mojoでさえも「ゴッドファーザー」と称し、高評価を与えていた。



Collierは地元のシーンだけではなく、ニューヨークとシカゴのダンスミュージックシーンからもリスペクトされており、DJたちが音楽に関わる質問を投げかけるような存在だった。「1982年か1983年頃、ある日曜日の夜にKenに電話をして、『今一番気に入っているレコードは?』と訊ねたんだ」Howardが振り返る。「彼はフロアで受けた曲を色々教えてくれた。当時は3者通話が流行っていた時代で、俺はKenと話ながらFrankie KnucklesやLarry Levanに電話して、みんなで『あの晩のハウスのレコードは…』なんて話をしたよ」

当時のデトロイトにはSteve NaderとJerry Johnsonが管理していたDance Detroitや、Tyrone Bradleyの管理するUnited Record Poolなどのレコードプールが存在していたが、Collierは自分用のレコードコレクションを所有しており、仲間とそれをシェアしていた。「俺はDirect Driveの連中を通じてCollierと会ったんだ。何故なら彼らはいつもパーティーにCollierを呼んでいたからね。そしてCollierと話してみると、彼が俺のすぐ近所に住んでいることが分かった。彼はよく自宅で自分のレコードを売っていた。俺、Norm Tally、Tim Mitchellなんかはいつも彼の家へ行って、沢山のレコードを買って帰った。彼はよく俺たちと一緒にDJもしてくれたよ」Clarkが振り返る。

Collierはデトロイトのダンスミュージックコミュニティをまとめようと努力し、DJたちにライバル意識を持たせる代わりに、DJ間の友情やネットワーク作りを進めていた。また、Heavenでホイッスルやエアホーンを吹いたりしながら何時間もノンストップで踊っていた数千人の客を魅了していた彼のプレイは、Stacey Haleたちにやる気を起こさせた。「私がCollierに、『女性のDJは存在するのかしら?』と訊ねたら、いないと言われたわ。だから『私があなたのナンバーワンになるわ』と答えたの。当時女性のDJは他にもいたけれど、彼女たちはミックスをするスタイルじゃなかった。私はラジオにも出たし、色々とシーンを切り開いたのよ。実際、B-52’sを紹介したのも私よ。私が彼らをクラブへ連れて行ったの」

デトロイト市内のラジオ局で働いていたHaleは、他のミックス番組のDJたちと共に音楽業界の重要人物と出会うチャンスに恵まれたが、デトロイトのラジオDJを代表するひとり、The Electrifying Mojoほど彼女に大きなインパクトを残した人物はいない。未だに世間にその姿を公表していないラジオ業界のミステリーであるMojoは、『The Landing of the Mothership』や『Midnight Funk Association』といった70年代後半から80年代前半にかけての深夜番組で絶対的な人気を誇り、ファンのリスナーたちは、鳥肌が立つほどに魅惑的なイントロに続いてMojoがプレイしたファンク、ソウル、ニューウェーブ、ロックなどジャンルを横断するミックスを、「母船(Mothership)」に招集されるかのように聴き込んだ。※2 若きPrinceに称賛され、The B-52’sとKraftwerkをデトロイトのラジオシーンに紹介したMojoは、Studio 54に代表される当時のクラブで主流だったディスコの次に起こりつつあったニューウェーブもプッシュした。Haleが振り返る。「彼はニューウェーブが何なのか私たちが知る前からプレイしていたの。いつもB面のような、他とは違った楽曲をプレイしていたわ」

※2 「離すんじゃない。諦めるな。ロープの終わりだと思っても、その手を離さずにしがみつけ。頑張れ。誰もが君と同じひどい状況にあるということを忘れるな。International Midnight Funk Associationの開会をここに宣言する。議長はこのElectrifying Mojoが務めさせてもらう。ファンクの御加護がありますよう」とMojoは低い声でリスナーに語りかけた。

その頃、CheeksではJeff MillsがWizardとしての人気を獲得し始めていた。Cheeks は80年代のデトロイトを代表するクラブのひとつで、John CollinsとStacey HaleもMillsとAlan Esterと共にここでレジデントを務めた。このクラブは、Anita Baker、Aretha Franklin、そしてNBAピストンズのメンバーなど、セレブリティたちが訪れる場所としても知られていた。



MillsはCheeksからキャリアを築いていった。Cheeksでプレイされていた初期ハードテクノのようなサウンドは、実はディスコ系トラックのイントロを連続的に高速でカットインやスクラッチを繰り返すというMillsのプレイスタイルが生み出したものだった。「ディスコ系のイントロは1分から1分半あった」Felton Howardが説明する。「Jeffにはイントロだけをプレイできるスピードがあった。ディスコ系のトラックを聴けば、最初にリズムだけのパートがあるのが分かるはずだが、Jeffはその30秒から45秒を使って、別のレコードをミックスして、歌が入ってくる前に他のレコードをミックスしていった」

CheeksはMillsなどがプレイしていたことから、デトロイトテクノが初めてプレイされたクラブのひとつとして引き合いに出される時が多いが、デトロイトテクノというムーブメントの成長を促し、具現化させていった始まりの場所でもあり、The Music Instituteと共にデトロイトテクノ/ハウスの中心として進化していった。実際、Kevin SaundersonもCheeksでプレイしていたJohn Collinsに「Big Fun」と「Good Life」の最初のプロモを手渡している。「Cheeksの歴史は美化されているね」Cheeks初の黒人DJだったCollinsが振り返る。「最初からいた俺はあそこがどんな場所だったか知っているよ」

「Cheeksの歴史は美化されているね。最初からいた俺はあそこがどんな場所だったか知っているよ」 − John Collinsアンダーグラウンドシーンは初期Cheeksを重視していなかった。「80年代前半にCheeksがオープンした時は、シェーファー・ハイウェイの近くのウェスト・エイトマイルにあった白人オーナーの白人用クラブだった」Collinsが振り返る。「Cheeksは洒落たクラブで、みんなが行きたがるような場所だったが、オーナーのひとりが酷く傲慢な弁護士で、嬉々として客を追い出していたんだ。彼らは4年程営業した後、ポンティアック郊外に規模を大きくしたMenagéというクラブをオープンすることにしたのさ」

その後すべてが変わった。The WarehouseのオーナーだったLarry HarrisonとMarshall Jacksonがこのクラブを買い取り、この場所をヴェルベットが似合う、選ばれた人しか入れない高級クラブから、誰もが入れる活気あるクラブへと変えた。壁をよじ登ってクラブに入る客もいたとCollinsは言う。音楽史ではThe Music Instituteがデトロイトにおけるテクノ生誕の地と言われているが、CheeksがThe Music Instituteがオープンする前からデトロイトのシーンに与えていた影響は忘れ去られている。



デトロイトテクノ誕生の歴史で忘れられがちなのが、ハウス、プログレッシブ、そしてディスコとの関係性だ。「この点は知っておいて欲しいわね」Haleが言う。「私たちがテクノの下地を作ったのよ。自分たちが何をやっているのか当時は理解していなかったけれど、作ったのは私たちなのよ」

「Kevin SaundersonやDerrick Mayの初期作品、例えば『Big Fun』や『Good Life』は4/4のリズムだ」John Collinsが説明する。「そこにキーボードとドラムが入っていて、サウンドはハウスに近い。でも彼らは一歩先に進んでそこにエレクトロニクスの要素を入れたんだ。こういう曲を聴けば、ハウスがデトロイトテクノに与えた影響の大きさが理解できるはずだ。俺のオールタイムファイバリットテクノの1曲『Strings of Life』でさえ、凄くハウシーだ」

「テクノが始まった時、全員がテクノに向かった」Collinsが続ける。「どうして今回の話が今まで語られなかったのか理解できないね。これは語られるべきストーリーなんだ。でも、忘れ去られてしまった。Belleville Threeのようなものさ。 Eddie Fowlkesがそこに含まれなかった時、本人はどう感じたんだろうってことさ」

協力:Stacey Hale、Mike Clark、John Collins、Delano Smith、Felton Howard

フォトクレジット:20 Grand(Old News提供)Chad Novak & Stacey Hale at Metra Picnic(Chad NovakはMenjo’sで最も長くレジデントを務めたDJ。ChadとStaceyは当時Billboard誌のレポーターだった)L’uomoフライヤー(Delano Smith提供)Stacey Hale, Alan Ester, John Collins及びJohn Collins/Cheeks(Detroit Monthly Magazine提供)