十一月 15

ダブのルーツ − The Roots of Dub

非常にユニークなサウンドを持つジャンルの誕生の瞬間と発展の歴史を探る

By Kirk Degiorgio

 

非常に影響力の強いジャンルでありながら、ダブの起源やその主唱者たちについてはほとんど知られていない。ダブの歴史探訪は、ワンオフのダブプレートと埃まみれの45回転の世界へ向かう、素晴らしいがチャレンジングな旅だ - ジャマイカ・キングストンにおけるダブの誕生とそこからの発展を確認できる証拠類は、詳細に記された書類よりも民族史の口頭伝承に近い。

 

経験豊富なレコードコレクターのトレインスポッター的スキルも、この世界では大して役に立たない。レコードのラベルやアートワークに記されているクレジットを頼りにダブの発展のタイムラインを遡ろうとすれば、入手しづらい7インチシングル群を探し求め、そこからリリース日とプロデューサー名のクレジットをかき集める作業に追われることになる。また、同じ内容が複数のレーベルからリリースされていて、それぞれに記されているパトワ語の情報が矛盾しているケースも少なくない。

 

 

 

“音楽スタイルで見られる他の多くの変化と同じで、ダブの誕生も録音技術のイノベーションから生まれた”

 

 

 

音楽スタイルで見られる他の多くの変化と同じで、ダブも録音技術のイノベーションから生まれた。マルチトラックレコーディングが誕生していなければ、音楽的要素を分解することは不可能だった。2トラックレコーディングでさえも、レコーディングエンジニアがリズムをひとつのトラックに入れて、ヴォーカルやソロ楽器をもうひとつのトラックに入れることを可能にした。そのように分けてレコーディングされたリズムトラックは再利用が可能で、これがレゲエの伝統「ダブバージョンやトースティングバージョンでのリズムトラックの使い回し」に繋がった。

 

このテクニックは、キングストンとロンドンのトップサウンドシステムの人気によってインストゥルメンタル・リズムトラックのニーズが高まっていたこともあり、1960年代後半までにはジャマイカ国内の様々なスタジオで採用されるようになっていた。その中のいくつかのスタジオはカッティングレースを用意して、サウンドシステムのセレクターたちが好んでいたエクスクルーシブなワンオフダブプレートを手軽にプレスできるようにしていた。世界初のダブアルバムについてはDavid Katzの記事に詳しいが、ダブの音楽的発展に関しても、その魅力に負けず劣らず、関係してきたプロデューサーたちの矛盾した発言や反論が存在感を放っている。ジャマイカンダブはそういう世界なのだ。

 

 

 

 

“バージョン” を初めてフィーチャーしたサウンドシステムの称号を争っているのは、DJ Hugh Roy(U-Roy)を擁するKing Tubby’s Home Town Hi-FiとRudolph “Ruddy” Redwoodだが、このようなバージョンは、オリジナルバージョンの聴き慣れているサウンドと新しくてストリップダウンされたサウンドの間で絶妙なバランスが取られている必要があった。これはヒットシングルを生み出す秘訣であり、スタジオとサウンドシステム間で生まれたアレンジ・イノベーションでもあった。

 

CoxsoneやKing Tubbyが率いていた、ダブプレートの先駆けとなったサウンドシステムは、DJの急速な人気高騰を受け “インストゥルメンタル・バージョン” を必要とするようになった。レジェンドU-Royが考案した、サウンドクラッシュ中にアドリブで言葉を紡ぐ “トースティング” の人気が、ヴォーカルの邪魔が入らない、人気トラックのリズムオンリーバージョンのニーズを生み出したからだ(ダブ誕生前の1970年代初頭には “DJバージョン” と呼ばれるバージョンが大量にリリースされた。DJがヴォーカルの隙間をスキルフルに埋めていくAサイドも存在する)。

 

 

 

 

Dennis “Alcapone” Smithは、Derloy Wilsonとの「It Must Come」などのトラックで、そのような初期 “DJバージョン” の好例のひとつを示している。Dennis “Alcapone” Smithの人気は、El Paso Hi-Fiをジャマイカ屈指の人気を誇るサウンドシステムに押し上げることになった。

 

インストゥルメンタル・リズムトラックは先駆的、もう少し新しい言葉を使うなら “プロト” だ。その多くは、楽器だけでシンプルに構成されているが、中には、ヴォーカルバージョンのコーラスだけを残していたり、メロディカのソロだけを残していたりするトラックもある。Little Roy「Hard Fighter」をAndy Cappがミックスしたバージョン、Hippie Boys「Voo Doo」(1971年 Syndicate)のストリップダウンされたドラムとベースは、ダブの重要な転換点として語られることがあるが、ダブを定義する決定的な要素の多くを欠いている。

 

クラシックなダブには、ディレイ(エコー)、リバーブ、バンドパスフィルター(EQ)、ドラムとベースを強調したミックスバランスという、“ダブ” を特徴づける非常に明確な要素が含まれている。このような要素は、先ほどから数回名前が挙がっているエンジニアOsbourne “King Tubby” Ruddockのホームスタジオ(住所:18 Drumily Avenue, Kingston)で生み出された。

 

 

 

“1972年以前は、ストリップダウンされたドラムとベース、フィードバックとスウィープがかかったディレイ、ハイパスフィルタリングのユニークなコンビネーションはほとんど存在しなかった”

 

 

 

他でも良くあるように、レコーディングスタジオの技術革新がクラシックダブサウンドの発展に重要な役割を果たした。1972年、ジャマイカ人プロデューサーByron Leeが自分のスタジオDynamic Soundsのミキシングボードを16トラックにアップデートした際に、King Tubbyはチャンスを見出し、元々置いてあった1960年代中期製造のMCI製12チャンネル・4バスコンソールを買い取った。

 

この年が “ダブ元年” となった。謎の山をかき分け、不正確なリリース日やクレジットを精査した結果、“考古学” 上非常に重要な年号が明らかになったのだ。1972年以前は、ストリップダウンされたドラムとベースに、フィードバックとスウィープがかかったディレイ、ハイパスフィルタリングのユニークなコンビネーションはほとんど存在しなかった。これらが単発的に使用されているトラックは存在するが、“ダブオーガナイザー” King TubbyのMCI製コンソールのフェーダーやセンド&リターンを経由した向精神的な五感への絨毯爆撃が確認できるトラックは存在しない。

 

 

 

 

King Tubbyによるスタジオ内の “ダブ・エクスペリメント” が行われる前は、イノベーティブな楽器選択とアレンジがダブの不思議な感覚に最も近いものを生み出していた。その好例が「The Tackro」(1971年 Upsetter)などに代表される、Lee Perryが第1期~第3期Upsetters時代に制作していた奇妙でワイルドなトラック群だ。しかし、1972年以降は、ジャマイカ国内のスタジオ間の激しいライバル意識から、多くのエンジニアとスタジオがエッセンシャルな “ダブワイズバージョン” のテクニックを誰よりも先に手に入れようと躍起になった。そしてその結果、1973年に初期ダブブームが起きた。

 

ダブミックスは “ライブ” で制作されていた。当時はオートメーション機能が備わっているコンソールは存在しなかったからだ。King Tubbyのコンソールは12チャンネル・4バスだったため、特定の楽器をミュートしたり、ドラムのスネアやリムショットなどに独自のチャンネルをアサインしたりできる余裕が十分にあった。さらに、各チャンネルにはリバーブのセンドが用意されていたため、ミックス全体の輪郭をぼやかすことなく、個々のサウンドにリバーブをかけることができた。

 

また、各チャンネルには3バンドEQが揃っていた他、グループにまとめて4バスに送ることもできた。外部テープマシンを使ってフィードバックディレイも加えられた。“Space Echo” として広く知られているRoland RE-201やMaestro Echoplexのようなエフェクター類は、のちにダブサウンドを生み出すための定番機材として人気を獲得するようになった。

 

 

 

 

King TubbyのMCI製コンソールのハイパスフィルタリングのユニークなサウンドについては、熱心なダブファンにより長い時間をかけて研究が行われてきた。このフィルターは、元々はマイク用チャンネルの低域を削るためにカスタムパーツとしてコンソールに組み込まれたものだが、King Tubbyによって、非常に特徴的な、滑らかなフェージングエフェクトを生み出すものになった。

 

高い人気を誇るKing Tubbyのレアトラックの一部では、雷鳴のように轟く金属音が確認できる。そのサウンドは、誰かがエコー室(反響室)で機材を叩いているように聴こえるが、実際、彼はほぼそれに近いことをしてこのサウンドを生み出していた。UKのダブDJ、Nick Manassehは、King Tubbyのスタジオで彼がダブプレートのミックスをしているのを見た経験があるが、King Tubbyがスプリングリバーブのスプリング部分を巨大な棒で叩いてこのサウンドを生み出していたことを認めている。

 

ダブトラックのストリップダウンされたサウンドは、カッティングエンジニアがかなりのコンプレッションをマスターにかける余裕を与えていた。これはダブ名盤の多くに確認できる “見過ごされがちな” サウンド面の特徴だが、ハードコンプレッションは、1975年にリリースされた必聴ダブトラック「King Tubby Meets Rockers Uptown」などのトラックで確認できる力強いスネアを生み出すのには不可欠なテクニックだった。

 

クラシックダブサウンドの基礎は1972年、1973年に作られた。Fe-Me-Time All Stars「Cinderella Version」(1972 Fe-Me-Time)のようなトラックには、リバーブが豊かに盛り込まれた力強いスネアが確認できる。このようなリバーブやディレイは神聖化され、Water House「Dr. Satan Echo Chamber」(1972年 Peaceful Road)やUpsetting Upsetters「Flashing Echo」(1973年 Underground)などはトラック名の中に組み込んでいる。

 

このトラディショナルなインストゥルメンタル・リズムトラックからの進化は、Rupie Edwards All-Stars「Pure Rhythm」(1972年 Success)の中にパーフェクトに捉えられている。実にバージョンらしい形でスタートするこのトラックは、後半に入ると当時新しかったダブ的要素を取り入れており、オープンハイハットにハイパスフィルターが加えられている。のちにこのテクニックは多くのダブクラシックで好んで採用されることになった。

 

マルチトラックテープマシンのキャリブレーションで使用されていたオシレーターのテストトーンも、のちに多くのクラシックダブサウンドで使用される人気の高いエフェクトのひとつとなった。サウンドシステムもすぐにこのようなエフェクトを取り入れて、ダブ特有のバイブスをライブで再現しようとした。DJのマイクチャンネルにリバーブを足し、さらにはサイレンやアラームなど様々な自作電子機器を用意した。

 

 

 

 

このようなスタジオエフェクトのコンビネーションは、マリファナを吸っている人間のマインドを音楽で表現したものだ。ドラムとサブベースへの執拗な拘りは、リスナーを半ば強制的にこれらの要素の虜にする。UpsettersやRevolutionariesをはじめとするトップレベルのリズムセクションが生み出すナチュラルなスウィング感は、リスナーに音楽の最深部まで楽しむことを許す。その場で放たれるセンテンスや単語の一部をエコー処理したヴォーカルの欠片が、現実世界の軽度の妄想や不安をフラッシュバックさせる。フィードバックディレイなどはそのまま “意識の拡大” を表現しており、また、聖書の一部が強調される時もある。マリファナの “宇宙と意識が繋がっている感覚” にまつわるあらゆるクリシェが、このユニークな音楽ジャンルには詰め込まれている。

 

キングストン、ロンドン、ニューヨークのサウンドシステムがダブのホームだった。1970年代中頃までに、レゲエの7インチのほとんどが、Bサイドに “バージョン” を収録するようになっていた。セレクターがヴォーカルバージョンをプレイしたあと、そのままその盤をひっくり返して “バージョン” をプレイすることも少なくなかった。1976年以降は12インチシングルが登場したため、ダブバージョンがヴォーカルバージョンと同じサイドに続けて収録されている長尺の “ディスコミックス” がリリースされるようになった。

 

非常にスピリチュアルでディープなセレクションにフォーカスしながら、Gerrard 4HFターンテーブルに激レアのダブプレートをドロップしていくJah ShakaやジャズやR&Bをきっかけに1957年からサウンドシステムに関わってきた経験とホームスタジオで制作されたダブプレートをリリース前に入手できるアドバーンテージを組み合わせていたKing Tubbyなど、1970年代と1980年代初頭は、サウンドシステムがヘヴィなダブサウンドのメインアウトプットとして活躍した。

 

 

 

 

どのサウンドシステムにも、“サウンドリーダー” の指揮の下でスターが用意された。商業的な成功を収めているシンガーとDJが組むことも少なくなく、多くのサウンドシステムが、人気の高いレゲエアクトと組みながら、他のサウンドシステムとサウンドクラッシュを展開していた。このような様々な関係や繋がりが、競争の激しいサウンドシステムシーンでの王座争いを生み出すことになった。

 

1976年、サウスロンドンのルイシャムでImperial Rockersとして誕生したあと名前を変えたSaxon Soundは、「ファストスタイル・マイクチャット」の生みの親で、Papa Levi、Maxi Priest、Smiley Cultureなどがブレイクするきっかけを作ったDJ Peter Kingを擁していた。

 

また、Cecil Rennieが、長年に渡り高い人気を誇っていたDuke Reid Sound Systemでの修行を経て、1970年代にサウスロンドンのブリクストン周辺で偉大なるダブマスターからインスピレーションを得たKing Tubby’sをスタートさせた。King Tubby’sはのちにSaxon Soundへ移ったMC Tippa Irieがキャリアをスタートさせたサウンドシステムでもある。ロンドンには、1979年にMikey DreadとJah Tがジャマイカを代表するレーベルに名前を敬意を表してChannel Oneというサウンドシステムも存在する。

 

ニューヨークは、Tony Screw率いるサウンドシステムDownbeat Internationalが世界的に有名だが、DJ Kool Hercも忘れてはならない。ジャマイカ出身のDJ Kool Hercはサウンドシステムの哲学をハードヒットなUSフファンクと組み合わせることでヒップホップの誕生を促した。

 

テクノからブロークンビーツまで、ダンスミュージックのほぼ全てのジャンルに影響を与えているダブは、スタジオミュージックの究極形だ。しかし、ダブはライブパフォーマンスにも同等の影響を与えている。今回紹介したサウンドシステムの多くは今も活動を続けており、彼らは40年以上に渡りストリップダウンされたベースヘヴィなダブサウンドを世界中のダンスホールに届けている。

 

 

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