九月 01

USミックステープ興亡記

 "エレクトロニック・ミュージック" のミックステープの歴史をUSの視点から追う

By Michaelangelo Matos

 

エレクトロニック・ミュージックにおけるミックステープは長い歴史の中で大きな変化を遂げてきた。クラブで違法にレコーディングされたカセットからスタジオミックスを収録したCD、そしてRealAudioのストリーミングから無料のMP3へとフォーマットを変えながら生き残ってきたその歴史をUSシーンに光を当てながら紐解いていく。

 

 

1971年

 

Tom Moultonはある場所で悪魔と出会い、その後80時間をテープのカッティングに費やすことになった。彼が悪魔と出会った場所はニューヨークのファイヤー・アイランド。ここのクラブでダンスに興じていた彼は、突如として「俺なら、レコードごとに音楽が止まる一瞬をなくすことができる」と閃いたのだった。スリップキューイング(ターンテーブルにフェルト製のスリップマットを敷き、レコードを手で素早く回転させて拍の頭を合わせるテクニック)は当時まだニッチなテクニックで、しかも、MoultonはDJではなかった。しかし、元King RecordsのA&Rだった彼は、テープカッティングを知っていたのだ。とはいえ、彼はその作業が求める労働量については過信しており、45分間のノンストップの音楽を生み出すために丸々2週間をかけなければならなかった。

 

ようやく完成したそのテープを最初に持ち込んだクラブには即座に断られたが、Moultonはそれから1時間以内に別のクラブ、Sandpiperに売り込むことに成功した。その週の金曜日、Sandpiperは早速彼のテープをプレイしたが、オーディエンスにまったく受けなかったので、翌日にもう一度プレイすると、今度は受けた(Moultonは金曜日も土曜日も午前2時にクラブからの電話でその結果を知らされた)。そして、週が明けると、クラブのオーナーはMoultonに毎週新しいテープを持ってくるように頼み込み、Moultonは年に3本(建国記念日、ハロウィン、大晦日)を渡す約束をすると、1本につき500ドルを受け取った。これにより、Moultonはノンストップ・ミックステープというひとつのフォームを作りあげ、更には破格な値段をつけることにも成功した。ミックステープ1本につき500ドルという取引はこれ以降行われていないはずだ。

 

 

 

その後、Moultonはそのミックステープ制作の才能をスタジオワークに活かすようになり、B.T. Express「Do It (‘Til You’re Satisfied)」を手掛けるなど、商業的な成功を収めるようになると、1974年にミックステープ制作をやめた。そして同年、MoultonはAl Downing「I’ll Be Holding On」のテストプレスを7インチではなく12インチで制作し、そのサウンドの重さと奥行きでシーンに衝撃を与えることになった。そして1976年には、初のオフィシャル12インチシングル、Double Exposure「Ten Percent」(SalSoul)がリリースされた。

 

 

1979年

 

ニューヨーク出身でシカゴに移住していた24歳の若者Frankie Knucklesは、2年前からループ(※)にあったプライベートディスコ “The Warehouse” でDJとして活動しており、サウンドエンジニリングを学ぶ友人のErasmo Riveraと共にフロアでプレイするトラックを長尺にすべく、テープエディットを行っていた。この年の7月12日、The Warehouseの逆側に位置するComiskey Parkでは、ラジオDJのSteve Dahlが何千枚ものディスコレコードを破壊するデモ(Disco Demolition Night)を扇動して暴動が発生。『Chicago Tribune』紙に「草色の荒涼とした風景」と表現した、野球場で起きたこの騒動は、結局は茶番に過ぎなかったが、シーンを変える発端となり、それから1年以内も経たないうちに、メジャーレーベルは、警察に踏み込まれた際にコカインの乗ったスプーンを床に落として誤魔化そうとするかのように、次々とディスコを自分たちの元から切り落としていった。

※:ループとはシカゴの高架鉄道がループ状になっているエリアを指す。日本で言う山手線の内側。

 

しかし、Knucklesは違った。彼は往年のディスコヒットを長尺のリエディットに変換しながら、そして、遠く離れた街や国に眠る新しいサウンドを探しながら、状況に適応していった。やがて、KnucklesのDJカセットテープはシカゴ市内で取り引きされるようになり、The Warehouseのメンバー以外のリスナーにも届くようになっていった。その仲介役となったのがダウンタウンのブティック群だった。当時のオシャレ自慢の店員たちはDJの友人たちのディスコセットが録音されたカセットテープを聴きながら仕事をしていたのだ。また、これは偶然だが、Knucklesがテープカットを始めた年は、音楽を他人の邪魔をすることなく個人で簡単に楽しめるようになった年でもあった。Sony Walkmanがデビューしたのだ。

 

 

1985年

 

この頃になると、シカゴハウスという言葉は「Frankie KnucklesがThe Warehouse(もしくは1982年以降のPower Plant)でプレイする音楽」以上の意味を持つようになっていた。1984年のJesse Saunders「On and On」のヒットもあって、完全にひとつのスタイルとして成立していたのだ。当時のシカゴハウスの大半はドラムマシンに多少のサウンドが加えられただけのもので、当時郵便局員だったMarshall Jeffersonの初期作品群もそれらと変わらなかったが、1985年8月、Jeffersonは「Move Your Body (The House Music Anthem)」のデモを作り、そのようなベーシックなリズムトラックからの脱却を図った。Jeffersonはこのトラックをシカゴ唯一のプレス工場Precision Record LabsのオーナーだったLarry Shermanに渡して1000ドルを支払うと、PrecisionのオフシュートハウスレーベルTrax Recordsから1000枚リリースするように頼み込んだが、そのサウンドを気に入らなかったShermanには断られた。そこで、JeffersonはこのトラックをMusic BoxのDJ、Ron Hardyに渡すと、Hardyには気に入られ、「他の誰にも渡すなよ」と念を押された。しかし、その約束は意味がなかった。というのも、このトラックが収録されているHardyのDJセットが収録されたテープがすぐに市内へ行き渡るようになり、Frankie Knucklesもすぐにこのトラックの存在を知ることになったからだ。そして、このトラックがヒットしていることに気付いた(Jefferson談)Shermanは、Jeffersonの許可なくTrax Recordsからリリースした。

 

 

 

Phutureの「Acid Tracks」も同じだった。アシッドハウスの創始者であるDJ Pierreは当初このトラックを「In Your Mind」と呼んでいたが、Ron HardyがMusic Boxでプレイし始めると、ミックステープ経由で熱心なファンの元へ届くようになり、アンダーグラウンドヒットとなった。このトラックを「Ron Hardy’s Acid Track」と呼び、更にはマイクロカセットレコーダーに自分で録音したMusic BoxのRon HardyのセットをDJ Pierreに本人に聴かせようとした熱狂的なファンもいた。こうしてアシッドハウスは世界に広まっていった(UKの海賊ラジオのDJ、Jazzy Mは、ニューヨークのLarry LevanからテープをもらっていたイビサのDJ Alfredoから孫コピーを受け取ってこのトラックの存在を知った)。

 

 

1990年

 

ブルックリンのシープスヘッド・ベイ出身のFrankie Bonesはこの前年にUKで開催されたEnergy 2と呼ばれるパーティへ出演したことで、レイブカルチャーを目の当たりにしていた。AtomosphereやFourth FloorなどのNorthcott Productions傘下のレーベルからリリースした作品群がUKでヒットした関係でレイブに呼ばれ、エクスタシーを摂取しながら夜明け前に25,000人を目の前にDJをした彼は、元々多弁だったこともあり、帰国後はレイブカルチャーの伝道師となった。そして、Bonesはそのレイブカルチャーへの愛を広めるべく、3種類のミックステープ(『Groove Promo 1-3』)をそれぞれ500本制作し、ニューヨークの86番街通りの高架下、Avenue Uにあった話題のレコード店で無料配布した。そのスポットこそ、Bonesが所有していたGroove Recordsで、ミックステープにはその住所も記されていた。「店に来た奴らには片っ端からテープを渡していた。奴らはそのテープを聴いたあと、レコードを買いに戻ってきた」

 

そのテープに収録されていた音楽はマンハッタンのクラブでプレイされていたスムースで洗練されたハウスよりもロウでDIYなサウンドだった。一方、1988年にニューヨークへ戻ってきていたFrankie Knucklesは、David Moralesと組んでDef Mix Productionsを立ち上げ、シカゴ時代よりも大きなレコーディングスタジオを使用しながら、メジャーレーベルのアーティストたちのリミックスを手掛けるようになっていた。当時は多くのニューヨークのDJのセットがミックステープとしてストリートで売られていたが、Bruce Tantumは「ビッグネームは違った。たとえば、David Moralesのミックステープはストリートでは一切見かけなかった」としている。

 

Knucklesがニューヨークへ戻ったあとのシカゴのシーンを担ったのが、Bad Boy BillことWilliam Renkosikだった。1980年代中頃から高校生DJとしてキャリアをスタートさせていた彼は、高校3年生の時に自身のレーベルInternational House Recordsを立ち上げると、DJ PierreのPhantasy Club名義のアシッドクラシック「Mystery Girl」をリリースしており、1990年頃には地元ファンに愛されていたWBMXのDJチームHot Mix 5のメンバーとして活動する傍ら、WGCIとB96では自分の番組もホストしていた。また、Bad Boy Billは、ミックステープを収益性の高いサイドビジネスに変えた初めてのDJでもあった。Bad Boy Billはミックスの中に著作権保護がされているヒットトラックを大量に組み込んでいたが、彼のミックステープはオリジナルトラックの代替品ではなかった。彼のミックステープには高々とスローガンを叫ぶ彼のMCが重ねられており、優れたミックステクニックがトラックに勢いを付与していた。こうして、全米各地にレイブが拡散する直前の1980年代後半から1990年代前半にかけて、彼はミックステープシーンのリーダーとして知られるようになり、最終的には権利関係をクリアしたミックスCDのリリースもすることになるが、彼はそれまでの10年間で、100万本を売り抜いたと言われている。

 

 

1993年

 

Steve LevyとJon Levyが主催していたロサンゼルスのインディーレーベル、Moonshine Musicは、ロンドン出身のDJ、Billy Nastyがミックスした78分間のミックステープ『Journeys by DJ』シリーズの第1弾のライセンスを取得して全米でリリースした。このシリーズはUKのメジャーレーベルの役員Tim Fieldingが企画したものだった。Steve Levyは「彼から全米初の合法DJミックスアルバムをリリースしないかと言われたんだ。第1弾はそこまでヒットしなかったけどね」と振り返る。その理由のひとつは、Billy Nastyの米国内の認知度が低さにあったが、もうひとつの理由は「最悪のアートワーク」(Steve Levy談)にあった。しかしながら、20年近くに渡り違法な存在として秘かに愛されてきたものを初めて合法化したという意味で、このアルバムは画期的だった。

 

 

1994年

 

Billy Nastyの『Journeys by DJ』が世に出てから、ライセンスを正式に取得したミックスCDは全米に広まっていき、4月にはKeokiが担当した『Journeys by DJ』シリーズが『Journeys by Superstar DJ』というタイトルに変えられてリリースされた。このようなサウンドを支持した “クラブキッズ” カルチャーは、PLUR(Peace・Love・Unity・Respectの略。Frankie Bonesが提唱したライフスタイル)とはコンセプトが異なっていたが、Keokiの人気もあり、この作品はMoonshine最速のセールスを記録した。Steve Levyは、のちに〈Geraldo〉や〈Phil Donahue Show〉などの全米ネットのトーク番組にも取り上げられるようになる "クラブキッズ" カルチャーの人気に触れながら、「Keokiはクラブキッズ系の他の米国人DJよりも一足早く売れたんだ」と振り返っている。

 

 

 

また、6月には自身のレーベルProfileのA&Rを担当するDJ DBの手によってUKハードコアがジャングルとドラムンベースへと変化していった5年間が25トラックにまとめられた『History of Our World Part 1』がリリースされ、8月にはDanny Tenagliaの『Mix This Pussy』、10月にはSashaとJohn Digweedによる『Renaissance』シリーズがリリースされた。ひと晩の流れをミックスCDで表現しようとした『Renaissance』は3枚に分けてリリースされた。

 

『Renaissance』はビッグヒットとなり、プログレッシブハウスの人気上昇に手を貸すことになった。プログレッシブハウスは、イビサでAlfredoが流行らせた、ダブ的なグルーヴに大量のスペースとドラマチックな展開を加えたバレアリックのパンプアップバージョンと呼べるもので、アリーナロック的な手法を持ち込んでいた。AlfredoはU2、Simple Minds、Tears for Fearsなどをプレイしており、プログレッシブハウスの多くはそのようなバンドのスタジアム的な興奮を抜き出して、フロア向きにアップデートしていた。そして、大抵の場合、その “フロア” は、1991年後半にオープンしたMinistry of Soundに続く形でUKを席巻していた “スーパークラブ” のそれを意味していた。1992年5月に開催されたCastlemorton Common Festival以降、屋外レイブの開催が禁止されたことで、派手な遊びが屋内で開催されるようになっていたという背景もあった。

 

 

 

“僕がレコードを買いに行くと、壁には僕の名前のミックステープが大量に置かれていた。『誰がどこでこんなことをやっているんだ?』って思ったものさ”

Sasha

 

 

 

USではこのような作品の露出は少なかった。大手レコードショップはほとんど注目しておらず、小さなダンスミュージック専門店はより収益性の高いローカルDJたちのミックステープに力を入れていた(西海岸のあるショップは1994年の収入の30%~40%がミックステープの売上によるものだったとしている)。Moonshineの広報を担当していたStephanie Smileyは1994年11月の『Billboard』誌のインタビューで「わたしたちの作品の多くは大手チェーン店で扱われているけど、そこでどれだけプッシュされているか知っている?」と疑問を投げかけている。このような状況だったため、DIYミックステープのキングだったシカゴのTerry Mullanが1995年にリリースした『School Fusion Vol.II』は、リリースからたった数ヶ月でKeokiの『Journeys by Superstar DJ』のようなライセンスCDとほぼ同数の1万本を売り上げた。

 

 

 

このような成功はRIAA(全米レコード教会)を危惧させることになり、1994年の夏から秋にかけてのニューヨークとワシントンDCでは、「RIAAが秘密裏にレコードショップやフリーマーケットや露店を捜索して非合法なテープを一掃し、DJやショップオーナーたちに対して刑法と民法の両方で訴訟を起こした」(『Billboard』誌)。また、10月17日にはニューヨーク市長だったRudolph Giulianiが警察を使って、Apollo Theaterの向かいにあるハーレムの125番街通りにあるヒップホップのミックステープショップを摘発した。しかし、ヒップホップとダンスミュージックのミックステープはスタイルと社会的役割において大きくかけ離れていた。ヒップホップのメジャーレーベルはミックステープを歓迎しており、そのようなテープを制作するDJたちにプロモを送ってさえいた。Notorious B.I.G.のマネージャーは『Billboard』誌に「使用されているトラック数が多すぎない限り、アルバムのプロモーションだと考えている」とコメントしている。

 

一方、ダンスミュージックのメジャーレーベルは怒りを感じていた。当時、Tribal AmericaのRob DiStefanoは「ミックステープのおかげで毎週数千ドルも失っている」と糾弾しており、同様にEpic Recordsのクロスオーバープロモーション&マーケティングのディレクター(20年経った今、この役職は荷馬車の御者、つまり “時代遅れ” とされている)も「所属するアーティストについて『シングルは売れていませんが、ストリートでは人気があるんですよ』なんて説明しても上層部は納得しない。ストリートのファンが、自分たちが支えていると自負しているアーティストが、その “支え” のせいでレーベルから契約を切られることになる」というコメントを残している。

 

メジャーレーベルのサブレーベルがハウスミュージックのメインストリームをリリースしていく中で、ダンスミュージックシーン全体は熱心なDIY活動が主流となっていき。リリース後は二度と目にしないような、500枚から1,000枚程度の12インチをリリースする無数のレーベルが生まれた。そして、この頃のアンダーグラウンドDJにとって、このような形で音楽を広めていくことは何よりも大事だった。Tommie Sunshineは、自分がまだDJを始める前の1990年代前半にシカゴのレコードショップGramaphoneを訪れてレコードを買った際に、周りから「DJに譲らずにレコードを買いやがって」という目で見られたことを覚えている。当時のレコードはDJにプレイされるために存在していた。

 

 

1995年

 

RIAAに加え、トップDJたちも数多くのミックステープを非合法として処分する行動に出た。当時、最も数多くブートレッグが制作されていたDJがマンチェスター出身のプログレッシブハウスDJ、Sashaだった。「プロモーターの連中が僕のセットを録音していたのさ。それで、そのテープのコピーを手に入れた誰かが、ちょっとしたアートワークを加えてパッケージにして、レコードショップで売っていた。僕がレコードを買いに行くと、レコードショップの壁には僕の名前が書かれたミックステープが大量に置かれていた。『誰がどこでこんなことをやっているんだ?』って思ったものさ」

 

しかし、USの東海岸では誰もがSashaのミックステープの出所を知っていた。Raymond Francesという人物がその出所だった。「Francesのミックステープはありとあらゆるパーティで売られていたよ」とDamian Higgins AKA Dieselboyが振り返る。Higgins、そしてHigginsと同じピッツバーグ出身のFrank Glazerは、Francesを “悪人” と表現する。1994年からパーティに顔を出すようになっていたGlazerは「奴はクレイジーな英国人だったね。粗暴で目つきが悪くて、汚い長髪をしていた。ワシントンDCとラトローブ(ペンシルベニア州)を行き来していたな。いつもテーブルの上にミックステープを並べて売っていたよ。特に人と会話をするわけでもなく、ひっそりと隠れながら誰かがそこに来るのを待っていた」

 

 

 

“リリースから20年経った今でも『DJ-Kicks』についてはよく質問されるよ”

Carl Craig

 

 

 

Raymond FrancesはレイブがUKで禁止される前はノーザンソウルのDJとして活動していた。1993年にフロリダ州タンパに住む友人を訪ねるためにUSに入国した彼は、そのままこの国に移り住んだ。USのレイブはUKのそれとは大きく異なっていたが、FrancesはUKのトップDJたちのミックステープがヒットする可能性を見出していた。本人は「UKとUSのDJが俺にテープを渡してきた。俺があらゆるものをプロモートしていたのを知っていたからさ」と振り返っている。1995年に入ると、Francesはボルチモア周辺へ移住し、Bassrushと呼ばれるパーティをスタートさせた。

 

「当時は誰もがFrancesのためにプレイしたいと思っていた」とDieselboyが説明する。「みんなフライヤーに自分の名前を載せたがっていた。奴はUS最大規模のレイブを開催しようとしていたからね。だから、誰もが安いギャラで出演していた。俺も普段の半分のギャラだった。でも、奴は一切の許可を取らずに出演するすべてのDJのセットを録音して、それを1本10ドルで売りさばいて、売り上げを独り占めしていたんだ。コストは1本1ドルもかからなかったはずだ。でも、奴は2000本も売っていた。ひとつのDJセットで18,000ドルから20,000ドルも稼いでいたってわけさ。どのDJに対してもこの手口を使っていたから、最後にはシーンから追い出されたよ。誰であろうと構わずぼったくっていたから、奴のためにプレイするDJがいなくなった」

 

この発言について、Francesは「なぁ、DJのミックステープを売って生計を立てるためにパーティを開催することの何が悪いってんだ?」と辛辣に回答している。また、彼はセットを録音したDJたちについても「ちゃんとギャラを払ったし、言ってくれば追加のギャラも払ったぜ」と説明し、DJセットの録音を嫌がっていたのはサンフランシスコのDJ GarthとDieselboyだけだったと付け加えている。尚、Dieselboyも「今振り返ると、ギャラはもらえなかったにせよ、俺のキャリアには大きな助けになったのは確かだね」とFrancesの存在をある程度認める発言をしている。

 

 

1996:次世代のミックスCD

 

1995年9月、ベルリンに拠点を置くレーベルStudio !K7がC.J. Bollandのミックスを用意して、当時はまだシリーズ化されていなかった『DJ-Kicks』としてリリースした。そして、それから半年後にCarl Craigによる第2弾がリリースされると、このシリーズは一気に人気を獲得した。当時のライセンスされたオフィシャルミックスCDはPro Toolsで編集されたものが多かったが、Craigの作品は違った。本人は「あれはテープだったんだ。Derrick Mayのラジオ番組と同じ感じで、レコードをプレイして、そのあとでテープエディットしてひとつの作品にしたのさ。基本的に、あれはスタジオアルバムのような手法で制作した。間違えれば、そこに戻ってやり直せば良かった。あれはいわゆるDJミックスじゃないんだ」と説明している。

 

 

!K7が手掛けてきたこのシリーズは、この記事の執筆時点(2016年6月)では最も長く続いているDJミックスシリーズとして記録されている。Carl Craigが続ける。「リリースから20年経った今でも『DJ-Kicks』についてはよく質問されるよ。音楽の素晴らしさは、時代に関係なく出会えるところにある。本当に酷い作品でない限り、消えてなくなることはない。その寿命は作り手には判断できない。レコードショップのエサ箱に入っている1枚のレコードを見つけた奴が次のSeth TroxlerやRicardo Villalobos、Just Blazeになるかも知れないだろ? 音楽の歴史を積み上げていくっていう意味で、そういう出会いは重要なんだよ」

 

 

1997年:インターネットの登場

 

1997年3月1日、Derrick Mayはサンフランシスコのウェアハウスから毎週木曜日に放送されていたストリーミングサイト〈Beta Lounge〉のゲストとして出演した。このサイトはそれから2年前、紙媒体『Wired』が立ち上げた初のウェブマガジン『HotWired』でJonathan Golubが働き始めたことがきっかけとなって生まれたものだ。Golubは『HotWired』について「『Wired』誌はデジタル革命について取り上げていると言われていたが、『HotWired』はデジタル革命そのものだった。『HotWired』は大金を生み出したが、それでもピーク時の雑誌には届かなかった」と説明する。

 

〈Beta Lounge〉はその『HotWired』とは完全に異なる団体として、GolubがIan Raikow、David Goldberg、Zane Vellaと共にスタートさせたものだったが、『HotWired』の機材を正規に借りていたことが後押しとなり、ひとつの正式なビジネスとして認められるようになった。「とはいえ、当時は友人たちのためのサロンのようなものだった」とGolubは振り返る。〈Beta Lounge〉はその後、長年に渡りビジネスを順調に成長させ、表向きには今も順調だ。しかし、現在の〈Beta Lounge〉のサイトからは1990年代のアーカイブがすべて消えている。〈Beta Lounge〉がDJカルチャーの最も優れたアーカイブのひとつと考えられていたことを考えるとこれは非常に残念だ。RealAudio経由でストリーミングされていた当時のセットの多くは、それらをカセットテープに録音していたファンによる "再" デジタル化によって、インターネット上にアップされている。

 

 

1999年

 

ニューヨーク大学に進学し、同校のラジオ局WNYUに参加していたTim Sweeneyは、兄が旅先から買って帰ってきたロンドンの海賊ラジオのテープに触発されると、自身の深夜番組〈Beats in Space〉を立ち上げた(現在も毎週放送されている)。そして、ゲストを呼べる体制が整うと、Sweeneyはインターンとして出入りしていたDFA Records関連のアーティストたちを中心に、様々なアーティストを番組に招聘するようになっていった。「今のWNYUはAMとFMのふたつに分局している。FMは月曜から金曜までの午後4時から午前1時まで。今もWNYUは24時間放送だけど、これ以外の時間帯はAMなんだ。ぶっちゃけ、AMの番組なんて誰も聴かない。でも、誰も聴いていないとしても、僕はゲストを呼ぶことができた。ニューヨークではこの番組以外にこの手のアーティストたちが出演できる番組なんてなかったからね。だから、よっぽど僕の番組やWNYUの状況について事前に細かく下調べされない限り、ゲストを呼べたんだ」

 

また、SweeneyはRealAudioを使った番組のアーカイブ化をはじめ、ウェブサイト上にリンクを張ることも積極的に行った。Sweeneyは5年前から、番組のDJセットをMP3に変換してリニューアルしたサイトに置いている。番組がスタートしてから最初の10年で、DJセットはRealAudio、カセットテープ、DAT、MiniDisc、CD-R、そしてMP3と6つの異なったフォーマットに記録されてきたが、現在、〈Beats in Space〉のウェブサイト上では最初期の数年以外のすべての番組が確認できるようになっている。このアーカイブ化は、DJミックスを小銭稼ぎのツールから無料の共用品に変えることになる重要な一歩となった。

 

 

2002年

 

「最近はどれもこれも特定のジャンルに向けたものになっているけど、ジャンルってのは作品を見つける目安として用意されたただの言葉に過ぎないってことをみんな忘れているよね。国境のようなもので、実際は存在しないのさ」 − Soulwaxとしても活動するDavid Dewaele、Steven Dewaeleのベルギー人兄弟デュオ2 Many DJ’sは、2014年の『Spindle』誌のインタビューの中でこう発言している。この発言は古臭く、偽善的にも感じられるが、ミレニアム頃からDewaele兄弟はこの発言に即した、冗談のような作品群を生み出してきた。あるトラックのヴォーカルと別のトラックのリズムを組み合わせるという、ファイル共有の一般化によって台頭したマッシュアップだが、そのルーツは深い。DJの手によるブレンド、特にヒップホップのブレンドも、長年に渡りマッシュアップと同じ効果を生み出していた。

 

2 Many DJ’sは「Magnificent Romeo」や「Deadlock Women」など数々のマッシュアップの名作を生み出したばかりでなく、それらをまとめたミックスCD『As Heard on Radio Soulwax』シリーズも展開した。サプライズ、ビート、ジョークがひたすら続き、歴史や系譜が完全に無視されているそのミックスCDシリーズのひとつ『As Heard on Radio Soulwax Pt. 2』は、2 Many DJ’sとレーベルPIASが収録曲のライセンスをすべて取得したことで、誰もが耳にするヒットとなった。46トラックが収録されており、そこまでアレンジされていないトラックも、大胆な配置(Dolly Partonの次にRöyksoppが並べられている)によってその魅力が倍増されるように配慮されていたこのアルバムの制作にはかなりの時間と労力が求められたはずで、そのような作品がレコードショップで買えたのは有り難かったが、このアルバムがインターネットの産物だったことは明確であり、結果として、マッシュアップの最後のCD作品的な役割を担うことになった。そして、この作品以降、このような作品をリリースしたいアーティストはオンライン上でリリースするようになっていった。