十月 30

The Rise and Fall of French Touch: Part 2

RBMA PARIS 特集 PART5:フレンチ・タッチの隆盛と没落のストーリーを2部構成で紹介する。Part 2では、Respectの隆盛からフレンチ・タッチ・ブームのその後までを追っていく。

By Raphaël Malkin

 

『The Rise and Fall of French Touch: Part 1』はこちら

 

Respect

 

Thibault Jardonはある悩みを抱えていた。シャンゼリゼのゲイクラブ、Queenのアーティスティックディレクターを務めていた彼は、水曜日のブッキングを埋める最善の方法を考えあぐねていた。1週間の真ん中にあたる水曜は、週前半には近すぎ、週末には遠すぎたため、この日の夜のQueenには、ふらりと迷い込んでくる数人のゲイ以外、客がほとんど寄り付かないのが現状だった。

 

丁度その頃、Radio FGはパリのテクノカルチャーにまつわる情報発信基地としての立ち位置を確立しつつあった。そこで、ThibaultはRadio FGのスタッフにQueenでの水曜夜のブッキングを任せてみてはどうかと思いついた。彼らについているリスナーたちがQueenへ足を運んでくれるかもしれないと考えたのだ。Radio FGにはネットワークがあり、パリのDJたちもよく知っている。とにかく、Thibaultには失うものはなにもなかった。彼はさっそく連絡先リストを隅々までチェックし、Radio FGで毎晩さまざまなパーティ情報を伝える「Plans Capitaux」という番組のホスト、Jérôme Viger-Kohlerに連絡を取ってみることにした。幸い、JérômeはThibaultのアイディアに興味を示してくれた。

 

David BlotはJérôme Viger-Kohlerという名前こそ知っていたが、まだ面識はなかった。それぞれ違うラジオ局で同じような内容の番組を手掛けていたにも関わらず、直接顔を合わせたことはなかった。彼らは同じレコードショップや同じパーティに出向いており、お互いの存在には気付いていたが、せいぜい遠くから会釈する位だったのだ。Queenからのコンタクトがあって数日後、Jérômeは自宅アパートメントのあるモンマルトル通りの近所を散歩していた。Davidもまた、この近所に住んでいた。この2人のラジオ司会者は、マンダー通りですれ違った。Jérômeは思い切って、通りを挟んだ向こう側にいるDavidに対してQueenでのイベント・プロジェクトについて大声で話した。要するに、Davidに対して一緒に何かやってみようと誘いをかけたのだ。DavidはちょうどFrédéricと共にXanadu以来となる新たなパーティを仕掛けたいと考えていたので、これはDavidにとっても願ってもない機会になった。

 

David Blot & Frédéric Agostini

 

Davidにとって、Queenというクラブは良い思い出のある場所だった。David GuettaがQueenのアートディレクションを担当していた頃、DavidはここでDavid MoralesやLittle Louie Vegaといったアメリカの大物ハウスDJたちのプレイを初めて聴いた。Queenはパーフェクトなクラブだった。ハウスカルチャーと繋がりの深いゲイの人々が運営の中枢に関わっていたので、ここでは常に最先端のハウスが体験できた。そして新たなプロジェクトに更なる活気を注入するため、FrédéricはPedro Winterを参加させることを提案した。Hypeを通して多くのフォロワーを獲得していたPedroは参加に合意し、数日後にThibault Jardonと連れ立ってシャンゼリゼのQueenを訪ねた。店内にはダンスフロアに通じる巨大な階段があり、左側にはバーカウンター、そしてVIPルームの天井づたいには網が垂れ下がっていた。Pedroの脳裏にはあるイメージがすぐさま浮かんだ。それは、最近彼が見たビデオに登場したスケートランプをフロアに設置するというものだった。

 

プロジェクトの詳細を詰めるためのミーティングを計画していた時、PedroにThomas Bangalterから1本の電話がかかってきた。そう、Daft Punkのひとりだ。彼はPedroに直接会って話したいことがあると言ってきたので、Pedroは「一体何事なんだ?」と訊いた。しかし、Thomasは直接会って話すとしか言わなかった。PedroとThomasの2人は、その1年前にロンドンで出会って以来親しくしていた。その時Daft PunkはMinistry of Soundでのライブが予定されていて、Pedroも現場にいた。英国人だらけの中で出会った同郷のパリジャン同士というだけで彼らは妙にシンパシーを覚え、友情が生まれた。その結束は明快で、もはや有機的なつながりとも言えた。Daft Punkの2人とPedroは、お互いをまるで昔からずっと仲の良い友人同士のように感じ、屈託のない笑いを共有した。

 

Pedroが約束のランチの場所へ出向くと、Thomasは単刀直入に話を切り出し、自分とGuy-Manuelの2人は現在ファーストアルバムの準備を進めていて、スケジュール管理やマネージメントに関する諸々をヘルプしてくれる人物が必要だ、それを任せられるのはPedro以外に考えられない、と持ちかけてきた。ThomasとGuy-Manuelの2人はPedroを信頼した上でこんなお願いをしているのだ。Pedroは思わず手に握っていたカトラリーを落とした。彼はまだ21歳になったばかりで、これからDaft Punkの2人がどんな方向に向かって活動していくのかも知らなかった。第一、アルバムにどんな曲が収録されるかも知らず、どこのレコード会社とどんな契約を交わすつもりなのかについても到底考えが及ばなかった。しかし、Pedroはそんなことは気に留めなかった。単純に面白そうだと思った彼は、Thomasからの申し出を快諾することにした。一緒にパーティのプロジェクトを進めていたDavidやFrédéric、Jérômeにとっては気の毒だったが、彼らはPedroの決断に理解を示してくれた。この当時、Daft Punkに関われることほどエキサイティングな仕事は他になかったからだ。

 

 

 

“Fatienは「これがパリのナイトライフの未来を担う新世代だ!」と口走り、興奮のあまりテーブルに拳を叩き付けた”

 

 

 

一方、David、Frédéric、Jérômeの3人はQueenの有名なボス、Philippe Fatienのオフィスで面談していた。乗馬で鍛えた肉体とサントロペの海岸沿いでこんがりと日焼けした肌、櫛でふんわりと後ろに流したブロンドの髪を持つこの男は、小さな階段の上で3人に謁見する機会を与えた。Fatienは噂に聞く時代の寵児、Pedro Winterと会えることを心待ちにしており、「これがパリのナイトライフの未来を担う新世代だ!」と口走り、興奮のあまりテーブルに拳を叩き付けた。

 

しかし、Thibault Jardonから、お目当てのPedroが今回のプロジェクトのメンバーから結果的に外れたことを知らされた途端、Fatienの態度は一変した。じゃあ、この残りの3人は何のためにのこのこやってきたんだ? このプロジェクトはWinterありきのものだろう? そう言って彼は3人を苦々しい表情で一瞥した。彼はこの3人の素性などまったく知らず、何も話す価値はないと決め込んでいた。Jérômeがおそるおそる自分がRadio FGで働いていることを話しても、Fatien氏は顔をしかめるだけで、Davidが同様にRadio Novaでの自分の仕事内容について話しても、依然として彼の態度は変わらなかった。Winterがいないのならば、パーティも無し。そう言わんばかりだった。その時、電話が鳴った。電話の主は、Fatien氏の息子の主治医だった。Fatienは電話を終えると、3人の訪問客に対し、手のひらを返してがめつい表情でこう言った。「さあ、パーティをいつから始めようか?」

 

第一回のパーティは1996年10月2日水曜日に決定した。パーティ名はこれから正式に決めることになっていたが、「Respect」でほぼ決まりだった。Ivan Smaggheが持ち込んだ「Respect The DJ」が元々のアイディアだった。Rough Tradeの顔とも言えるSmaggheは、再びDJの存在をクラビングの中心に据え、夜の裏方的な立場から更に上のステータスを目指したいという考えをもっており、このモットーはDavid、Frédéric、Jérômeの3人の考えと共鳴するものだった。

 

また、Respectトリオはデザインというメディアをパーティにとっての新たなコミュニケーション手段として使いたいと考えていた。そこで彼らは小さなトレーディングカードを数種類作ることにした。裏面には、その夜のラインナップを紹介する短い文章が記され、初回のパーティに関しては、Respectというパーティのコンセプトと、フランスが持つテクノとクラブの伝統遺産に誇りを持つことを促す文章が載せられた。

 

Respectのトレーディングカード

 

その初回のパーティ当日、シャンゼリゼ通りには長蛇の列が出現した。それはまるでパリのクラバーたちが新しく新鮮なクラブ遊びの機会をずっと待ち構えていたかのようで、客はFrédéricがパリ市内全域をスクーターに乗ってばら撒いたトレーディングカードをエントランスで提示しながら、クラブの中へ入っていった。フロアではまずイビサのCafé del Marの看板DJ、José Padillaがバレアリック流儀のウォームアップ・セットを披露し、その後、Daft Punkの2人がブースを引き継いだ。DJブースに向かう前、Guy-Manuelは胃痛のふりをして、バケツを用意しておくよう頼んできた。Davidは思わず面食らった。まさかあのバースデイ・パーティの泥酔ぶりをこの大事なパーティで再びやらかしてしまうのではないかと気が気でなかった。パーティの未来のために、Daft Punkの2人にはしっかりとプレイしてもらう必要があったのだ。いとも簡単に自分の悪ふざけに引っかかり、気を揉んでいるDavidを見て、Guy-Manuelは満足げに笑みを浮かべた。

 

フランス 99

 

Respectの第一回目の夜、Pedro Winterもその場にいた。彼はこのプロジェクトを途中で降りたが、それでも友人たちをサポートしたいという思いでQueenに足を運んだ。それに、彼がマネージメントする2人組もこの夜出演することになっていた。この頃、Pedroは1年の大半をDaft Punkのために費やしていた。Daft Punkの2人と共同で立ち上げた小さな事務所、Daft Traxではすでにもうひとり別の従業員も雇うようになっていた。事務所を立ち上げた当初、PedroはThomasの父親である元La Compagnie Créole(注4)のプロデューサー、Daniel Vangardeと共に業務をこなしていた。

 

注4)フランス国内で人気を博したポップ・バンド

 

やがて、Daft Traxはモンマルトル地区のデュランタン通りに事務所を移転した。事務所は2つの部屋で構成されており、奥の部屋ではGuy-ManuelのルームメイトであるGildas Loaecが沢山のレコードが入った箱に囲まれながら、Daft Punkが運営する2つのレーベル ― RouléとCrydamoure ― のディストリビューション業務を行っていた。そこには彼らの古くからの友人であり3人目のDaft Punkとも言える存在、Cédric Hervetもいた。Pedroはもうひとつの部屋にまずデスクとターンテーブルを置き、壁にはカレンダーを貼った。Faxもあるにはあったが、すぐにPowerBookが1台導入され、PedroはこのPowerBookを使って、Eメールの送信方法を学んだ。

 

Pedro Winter @ Daft Trax 

 

PedroはThomasと一緒に電器店のDartyに向かい、Itinéris製の携帯電話を揃って購入した。彼らの電話番号は、下2桁が違う以外は同じ数字が並んでいた。Pedroはこの携帯電話を使ってVirginのマーケティングチームと頻繁に連絡を取り合いながら、音楽業界のビジネスがどのようにして動いているかを毎日肌で学んでいった。たとえヘマをしても、Thomasの父親がいつもうまくカバーしてくれた。

 

 

もはや、Pedro Winterの生活のすべては、Daft Punkと一蓮托生になっていた。それ以外は彼の生活に存在しなかった。彼は1996年の9月から法科大学院で法律を学び始めることを両親と約束したはずだったが、それもいつの間にか立ち消えになった。あれほど心血を注いだパーティ、Hypeのことも彼にとってはすでに過去の話だった。クラブでも事務所でもVirginのオフィスでもどこでも、彼とDaft Punkの2人は行動を共にした。家に居る時でさえも一緒で、Daft Punkの2人はPedroが当時住んでいたアパートメントに時々立ち寄り、下の部屋に住む住人とも仲良くなった。Pedroのよき友人でありサーフィンマニアでもあるStéphaneというこの青年は、DJ Falconという名前で音楽活動もしていた(のちにRouléから作品を発表している)。

 

ThomasとGuy-Manuelの2人はPedroにとって直属の上司だったが、同時に同僚であり一番の親友で、事実上、家族に等しい関係といっても良かった。1997年1月にDaft Punkのファーストアルバム『Homework』が全世界でリリースされると、業務の忙しさは瞬く間に限界値を超えていった。レコードの売り上げは世界中で雪だるま式に膨れ上がり、彼らの元にはブッキングのリクエストが殺到した。PedroはDaft Punkのツアーにたびたび帯同し、ブランケットやバスタオルでくるまれたドラムマシンやサンプラーがぎっしり詰まったDelsey製の巨大スーツケースに囲まれながら世界各地を移動した。

 

一方、ルピック通り66番地にあるPhilippe Cerboneschiのスタジオは、お祝いムードとは違う空気が支配していた。ここでのストーリーは終局を迎えようとしていた。Étienne de Crécyが彼のガールフレンドと共にこのロフトを出て行くことを決めたのだ。Philippeにとって、盟友であり、プロダクション・パートナーであり、かけがえのないDJパートナーでもあったÉtienneとの別離は辛いもので、まるで、自分の身体の一部を切り落とされるような気持ちになった。Étienneがいないロフトは、以前とはまったく違うものになった。天窓の下に置かれた機材と2人で格闘したあの終わりのない夜や、キッチンカウンター越しに世界を作り直していたかのように思えたあの楽しい夜は、もう二度と戻らないのだ。

 

 

 

“Motorbassは突然の終わりを迎えた。別離の瞬間は唐突かつ静かに訪れ、思いは胸に仕舞われたままだった”

 

 

 

Philippeは「まだ僕らにはやり残したことが沢山ある」と言って、Étienneを引き止めたかったが、彼にはできなかった。PhilippeがÉtienneと仕事場のスタジオに入ると、Étienneはひとりで制作を進めていた、あるトラックをPhilippeに聴かせた。PhilippeとÉtienneの2人は無言でそのトラックに耳を傾けた。それは一分の隙もない、うねるようなロッキング・ハウスで、にわかにPhilippeの表情は笑顔を取り戻した。まさにMotorbassにぴったりのトラックだったからだ。しかし、ÉtienneはすぐにそのPhilippeの情熱に水を差した。このトラックはÉtienne自身の新しいソロ・プロジェクトのために作ったもので、Super Discountというプロジェクト名も既に決まっていた。Philippeはショックで思わず言葉を失った。1996年秋に『Pan Soul』というアルバムを発表したMotorbassは、この時突然の終わりを迎えた。別離の瞬間は唐突かつ静かに訪れ、思いは胸に仕舞われたままだった。Étienneは、Motorbassという名義をPhilippeが独占していたことをはじめ、いくつかの恨みを抱えていたことを本人に伝えるつもりはなかった。

 

Étienneがルピック通りのロフトを出て行った後も、Philippeはしばらく過去を引きずったままだった。Motorbassは、ロフトの天窓の下での循環作用によって成立した有機的なプロジェクトだったが、Étienneが部屋を出て行った今となっては、もはやMotorbassはしおれて枯れていくしかなかった。Motorbassは2人が共同で生活し、日がな夜がな互いに手を取り合ってこそ生まれた産物だった。あのロフトの空間はもう元に戻ることはない。やがて、Philippeや他のルームメイトたちもスーツケースに荷物をまとめてこの部屋を離れていった。

 

ZdarことPhilippeは、友人のCédricと共にモンマルトルの丘の下に位置するコイズヴォクス通りの小さなフラットに落ち着いた。そこは、小さな照明しかない、キッチンも揃っていない2階のひと部屋だった。Philippeはすべてを失ってしまったかのような感傷に囚われて、すべてを悔やんでいた。Étienneのこと、レイヴやドラッグのこと、環状線をひたすら飛ばしたあの深夜のドライブのことも。彼はある日、Daft Punkの2人をこの小さなフラットへ夕食に誘った。天窓付きの素晴らしいロフトを持つ以前のPhilippeのアパートメントについて誰もが口々に話していたのを知っていたDaft Punkの2人は、現在のPhilippeのあまりの侘しい暮らしぶりに言葉を失った。Philippeはため息をつき、うなだれていた。

 

この頃、PhilippeはHubertという男と次第に親しくなっていた。MC Solaarのファーストアルバムに参加しUKのMo’ Waxレーベルから作品をリリースした経験もあるHubertは、エンジニアのDominique Blanc-Francardを父に持ち、シンガーのSinclairを兄弟に持つ根っからのブラックミュージックマニアだった。そのHubertがハウスを聴くようになったのは彼のガールフレンドが有名なダンスカンパニー、Alvin Aileyでダンサーとしてニューヨークに滞在していたのがきっかけで、また、それはまだごく最近のことだった。Hubertは、レイヴにこそ足を運んだことはなかったが、ニューヨークのSound Factoryに夢中になると、自分でハウストラックを作るようになっていた。

 

 

 

“Virginは、Cassiusが世界各地で金の卵だった「フレンチ・タッチ」の新バージョンだと確信していた”

 

 

 

PhilippeはHubertの作ったトラックを聴くとすぐに気に入ったが、テンポは若干遅すぎるように思えたため、そのBPMを上げると、L’Homme Qui Valait Trois Milliards(The Three Million Dollar Man = 300万ドルの男)という名義のもと、「Foxy Lady」というタイトルでリリースした。Hubertの登場によって、Philippeは彼が失ったものの半分ほどは取り戻せたような気持ちになった。彼の中で一度は失われたはずの感覚がその音楽にはあった。パートナーとしてHubertの作品を聴きながらアドバイスしていくうちに、2人は自然にデュオを結成し、デュオの名前をCassiusと改めた。そして、マルティエル通り80番地にある彼らのスタジオをVirginのボス、Emmanuel de Buretelが訪ねてきた。そこでデモ数曲を聴いた彼は、Cassiusとの契約を約束した。de Buretelには、世界各地で金の卵だった「フレンチ・タッチ」の新バージョンを見つけたという確信があった。

 

Philippeにようやく心からの笑顔が戻り、コイズヴォクス通りの惨めなフラットをようやく脱出できることを大いに喜んだ。そして彼は、モンマルトルの丘の反対側のラメ通りに憧れの高級アパートメントを見つけた。室内を軽く内覧した後、彼は最寄りのATMに駆け込み、1000フランを手付金として不動産屋に渡した。彼の手にはまだ一杯の札束が握られていた。ほどなくすぐに新居に落ち着いた彼は、頭の中に一杯に詰まったアイディアを吐き出すかのように機材に向かい、“Cassius is in the house”と喋るロボットヴォイスに着想を得てメロディを思いついた。

 

 

そのトラックに合わせ、映像作家のAlex and Martinがカートゥーン調のPVを用意したが、突っ走るようにしてCassiusという新しいプロジェクトにしばらく没頭していたPhilippeだが、ふと冷静になると、そのトラックにはどこか物足りないものがあることに気付いた。コンセプトは良いのだが、何かが欠落している。そこでPhilippeは、Thomas BangalterにDaft Punk名義でリミックスを提供してもらえないか訊いてみることにした。Thomasの返事は「ノー」だった。新しく立ち上がったばかりのプロジェクトにDaft Punkという付加価値をつけて売り出すことは、長い目で見れば自分たちにとって得策ではないというのがその理由だった。落胆したPhilippeは折衷案を思いついた。このトラックを今Hubertが制作している軽快なダンストラックと掛け合わせてみるのはどうだろう? 果たして、このPhilippeの読みは大当たりし、この「99」というトラックはCassius最大のヒットとなった。Alex and MartinによるPVも至るところでオンエアされ、多数のリミックスが制作された。もちろん、MTVでも繰り返しオンエアされた。

 

Respectは燃えているか

 

この頃のパリの政界では、フランス社会党の新首相Lionel Jospinを中心とした左派勢力がブルボン宮の国民議会における大勢を占めていたが、依然としてシャンゼリゼのQueenは盛況を博していた。今や、Respectはパリのクラブシーンきってのベストパーティとしての名声を確立しており、パリにやってくるセレブはこぞってRespectを訪れ、Calvin KleinやQueen Latifah、Malcolm McLarenやJarvis Cocker、誰も彼もが大勢のハウスファンと共にパーティを楽しみ、人々は木曜日の朝がやってくるまで休みなくダンスを続けた。レ・アールの不良たちからサンジェルマンの紳士たち、パリ郊外に住むザズー(注5)の連中や元レイバーなど、様々な出自の人たちでパーティは毎週ごった返した。

 

(注5) :アメリカのズートファッションに影響を受けて当時流行したフランスの若者たちによる、エキセントリックなファッションスタイルやユースカルチャーを指す

 

David、Frédéric、Jérômeの3人の生活は、パーティのオーガナイズで更に忙しくなっていた。彼らはJérômeの家に集まっては次の水曜日のラインナップについて話し合い、小さなトレーディングカード型のフライヤーを封筒に詰めて何百人もの常連たちに郵送する作業を行った。3人はソファーに座りながら、その多くの時間を議論に費やしていた。

 

依然としてRadio Novaでの仕事が生活の中心だったDavidは、その日常生活がパーティにまつわる雑事のせいでめちゃくちゃになっていると他のメンバーに対して不満を漏らしていた。反対に、恋愛と酒とマリファナで彩られた生活を送っているFrédéricは、その不満を真面目に取り合わず、笑い飛ばすばかりだった。しかし、こうしたすれ違いも大抵はJérômeが間に入るとハグひとつで解決し、3人でマリファナの煙をくゆらせて水に流していた。

 

1997年も暮れに差し迫ったある日、Davidは他のメンバー2人に対してイベントの人気が最高潮を迎えた今のタイミングで終わらせることを提案した。Davidの頭の中にはマンチェスターの伝説的クラブ、Factoryがイメージにあった。人気絶頂で突然クローズしたそのクラブの逸話をDavidは気に入っており、ロマンチックだと考えていたが、Frédéricがその提案を拒否したため、2人は口論になった。しかし、結局Davidが折れた。そして少しずつ彼の生活の中心は更にRespectに寄っていき、間もなくして彼の生活は完全にこの聖なる水曜日の夜を中心に回り始めるようになった。もはや番組のための情報収集を行う余力もなくなった彼はRadio Novaの番組を降板し、また、Radio Novaの仕事はRespectを通して得た知名度やステータスのようなものを自分に一切与えてくれなかったことにも気付いた。Davidはパリで一番ホットなパーティを手掛けるオーガナイザーとして注目を浴びることに喜びを感じていたのだ。そしてここまで喜んでいることに本人も驚いていた。

 

 

パーティの話題性に引き寄せられた複数のレコード会社は、この30歳にも満たない3人の青年たちにこっそりと手付金を渡すようになっていた。Respectはいまや強力なブランドとなっていたのだ。Respectのステッカータグを付けたレコード、グッズ、イベントなどをひとたび売り出せば、それらが持つ市場でのポテンシャルはかなりのものになると見込まれた。そこでDaft Punkからの推薦と助言もあり、3人はVirginと手を組むことにした。そして間もなくして、1枚目のコンピレーションアルバムがリリースされ、Catalan FCによるリードトラック「Respect Is Burning」は各方面で大きくプッシュされた。

 

誰もがRespectのサウンドを待ち望み、誰もが自分の住む街でRespectを開催することを望んだ。David、Frédéric、Jérômeの3人は各都市をツアーして回り、Respectブランドを広めていった。RespectのパーティはブリュッセルのFuseやコペンハーゲンのVegaといったクラブでも開催され、アメリカやアジアからも開催リクエストが届いた。既にインターナショナルなサウンドとなっていたRespectは、折しも空前絶後のブームを迎えていたフレンチ・タッチ旋風とがっちりと結びついた。フランス人は世界各地を飛び回った − Respectの3人がクアラルンプール国際空港で出発便を待つ頃、Cassiusは東京国際空港に着陸し、Daft Punkはオーストラリアをツアーしていた。

 

それは一般人では到底味わえない素晴らしく自由気ままな日々だった。そして彼らはそれぞれ決して忘れることのできない体験を重ねていった。

 

Pedro Winterの手帳

 

PhilippeはCassiusのツアーで訪れたデトロイトで、空き時間を使ってタクシーに乗ると、市内各所を探訪していた。これは長年彼が夢見てきたことだった。Dance Maniaというレコードショップでは、ポストディスコ期の重要なレコードコレクションを丸々手に入れるチャンスに巡り会い、ローンを組んででもそれらを手に入れようとした。Philippeはすっかり有頂天になっていた。妊娠中の彼のガールフレンドをパリに置き去りにして、観たいショウがあるからと言ってオーストラリアまでわざわざ赴いたりもした(結局、このカップルはすぐに別れた)。

 

ベネズエラのカラカスでは、Frédéricが信じられない光景を目にしていた。パーティが開催されている間にイベントのスポンサーがほぼ1時間おきに現れ、そのたびに地元警官たちに現金を握らせて、パーティの続行を約束させていた。近隣に住む早寝のドイツ人大使がパーティを中止させようとしていたからだ。

 

Pedro Winter

 

そしてニューヨークでは、その乱痴気騒ぎのワイルドなパーティぶりでその名を轟かせるVirginのビッグボス、Nancy BerryのチャーターしたリムジンにPedroがひとりで乗せられていたが、Nancy Berryの度を過ぎたパーティ癖について、PedroはDaft Punkの2人から事前に教えられていた。

 

Davidはカンヌ国際映画祭の期間中、カンヌの丘の上で行われたLars Von Trierの監督作品『Dancer in the Dark』の記念パーティを自分たちでオーガナイズした後の出来事を今でも憶えている。ぎらついた地中海に朝日が昇ると共に、Respectの3人はニース空港に猛ダッシュで向かい、途中パリで乗り換えて一路ニューヨークへと飛んだ。泥酔したままわずか数分の間に飛行機を乗り換える彼らを、機長や乗務員は驚きの眼差しで見つめていた。

 

また、オーストラリアツアーのエピソードは語り草で、Frédéricはこの話を幾度となく持ち出してはそのたびに抱腹絶倒する。彼らはシドニーのボンディ・ビーチでRespectのテントを深夜に設営した後すぐさま飛行機に乗ると、メルボルンのクラブには午前2時に到着し、そこでDJした後は午前5時からシドニーで始まるアフターパーティのために再び飛行機で移動した。そのアフターパーティはボウリング場で開催されていたが、3人揃ってストライクを出した。

 

このように世界各地で行われていたRespectのパーティでは、しばしばフレンチ・タッチのキーパーソンが全員集結した。総勢15人で飛行機に乗り込み、喫煙エリアではみんなで煙突のごとく煙草を吸いだめした。マイアミで行われたWinter Music Conferenceでは、宿泊していたNational Hotelのオリンピックプールで全員泳いでからIggy Popのライブへ遊びに出掛けた。

 

この時期、RespectチームはかのTwiloでのレジデンシーも任されていた。かつてはSound Factoryという名で知られていたTwiloは、ニューヨークのハウスシーンにおける最も伝説的なヴェニューで、その名声ぶりは世界中のクラバーが知っていた。27番街西530番地に位置するTwiloは荘重な威容を誇るウェアハウスで、その巨大な内部には白い梁が渡されていた。Respectチームはここで毎月パーティを開催し、彼らの他にDaft PunkやCassiusも出演した。世界中のさまざまなクラブを見てきたPedro Winterも、Twiloほど美しいクラブは見たことがなく、憧れのアイドルたちがプレイしてきたこの歴史的殿堂を目の当たりにした彼はただただショックを受け、「これでもういつ死んでも思い残すことはない」と思うほどだった。ZdarもTwiloのサウンドシステムが生み出すあまりにも淀みの無い完璧な音に接し、その興奮で思わず過呼吸になった。ZdarはDJブースの裏側で、アルプスのスキーリゾート、ヴァル=ディゼールで彼の父親が経営していたホテルの地下ディスコにあった古いAltec Lansing製のスピーカーから漏れる貧弱なサウンドを思い起こしていた。

 

 

 

“彼らは自分たちを「極貧ジェット族」と自虐的に名乗り、新手の会員制秘密組織のメンバーを気取っていた”

 

 

 

そんなTwiloでのある夜、ZdarはPedroにあるひとりのパリ出身の若手DJを紹介した。聡明な表情をしたその若き天才DJはIdéal Jというラップグループで活動しており、誰も真似できないセンスでサンプルループを料理する才能を持っていた。ZdarとそのDJは、MC Solaarの最新アルバムで共同作業をした経験があったため、Zdarがニューヨークに誘ったのだった。DJ Medhiという名のその若手DJにPedroもすぐに惚れ込んだ。これからしばらくのち、PedroはDaft Traxから独立してMehdiと活動を共にすることになるのだが、終生続く友情の始まりとなったのが、この夜だった。

 

ほとんどの場合、David、Frédéric、Jérômeの3人は他人の経費で移動していた。ビジネスクラスで世界中を飛び回り、宿泊するホテルや食事をするレストランはどこも5つ星クラスだった。しかし、人が羨むような億万長者のような上流生活に見えていた反面、意外なことにRespectの3人には実収入が殆どなかった。Respectというブランドネームを背負って世界中でパーティを展開しながらも、彼らの財布や銀行口座の中身は空に近く、クレジットカードは一度もまともに機能しなかった。彼らは窮屈なアパートメントに住み、その床は黄ばんだフライヤーで埋め尽くされていた。彼らはそんな自らの境遇を笑い飛ばし、自分たちを「極貧ジェット族」と自虐的に名乗り、新手の会員制秘密組織のメンバーを気取っていた。

 

マイアミでのディナー 

 

3人は、何かと理由をつけてはパリから離れていた。延々と続く同じ作業の繰り返しにすっかり飽きてしまった彼らは、パリでのRespectは既に終わらせていた。パリではセンスのない連中がフレンチハウスを自らの手でパロディにしつつあり、フロアはDJのちょっとした努力さえも必要としない形でひとり歩きを始め、フレンチ・タッチのブームの旨味を一滴残らず吸い尽くそうとするレコード会社が、没個性的で才能のないバンドにさえ契約を持ちかけるようになっていた。

 

そこで、Respectチームはフレンチ・タッチを大陸から大陸へと広めながら、旅を続けることにした。1999年12月31日、PedroとDaft Punkはロンドンにいた。そこにはCassiusも同行していた。その夜、Virginの経営首脳陣の招待により大規模な晩餐会が催されたのだが、彼らフランス人は英国人の取り巻きたちにフランス国歌「La Marseillaise」を大声で歌わせた。前年のワールドカップで優勝したサッカーのフランス代表同様、フレンチ・タッチ・ブームも絶頂を極めていた。

 

Dimitri From Paris @ Playboy Mansion 

 

世界に冠たるフレンチ・タッチ・ブームを象徴する出来事がさらにその1年後にもあった。老齢のためロサンゼルスの豪邸マンション(Playboy Mansion)で療養中の元祖プレイボーイ、Hugh Hefner(訳注:アメリカの実業家にして雑誌『PLAYBOY』の発刊者)のためにRespectチームが招かれてパーティをオーガナイズした時のことだ。DJはおなじみDimitri From Parisだった。Frédéricは時折バニーガールたちにウィンクを飛ばしながらバスローブ姿でマンション内をうろつき、DavidはSpike JonzeやSofia Coppolaが興味津々の目を向ける中、Hefner邸の洞窟プールでひと泳ぎした。そこにはKylie Minogueの姿もあった。Frédéricはその前日にもクラブでKylieに会っており、その日の午後は彼女の所有するヴィラのプールで隣人がバーベキューを焼く匂いにまみれながら泳いだ。Respectチームは思いっきり泳ぎ、思いっきり日焼けし、思いっきりコカインを吸引して楽しんでいた。しかし、楽しい時間は続かなかった。

 

崩壊の時

 

2002年のFIFAワールドカップ日韓大会、フランス代表はグループリーグで無残に敗退した。1998年の前大会を制覇し、その2年後のEURO2000でも優勝したあのフランス代表が突如として崩壊し、あっけなく姿を消したのだ。時を同じくして、フレンチ・タッチも突如として巻き起こったネオロック旋風によって苦境に立たされつつあった。世界はThe Strokesのファーストアルバムにすっかり夢中になっていたのだ。

 

この頃、PhilippeとHubertはCassiusとしてのセカンドアルバム『Au Rêve』の最終段階に入っていた。大成功を収めた前作『1999』で確立された手法をさらに押し進めたこのアルバムについて、彼らは自分たちの望むすべての要素が融合された最高傑作だと自負しており、内容について何の疑いも持っていなかった。このアルバムは大ヒットするはずだ。ファーストアルバムがあれほどの成功を収めたのだから、今回はそれ以上になるのが当然だ。言うまでもないが、歴史というものは論理的な道筋に沿って進むのだから。

 

 

しかし、悲しいかな、Philippeたちの期待に反し、『Au Rêve』に寄せられた関心は当時人気絶頂だったThe StrokesやThe Offspringといったバンドへの注目度と比較すると微々たるものでしかなかった。Philippeの記憶によると、前作『1999』のリリース時に彼らが受けたインタビューの数は優に120件を超えていたが、今回のニューアルバムでは、ロンドンで1日だけプロモーションが行われただけだった。当日、このデュオにインタビューするためにVirginのオフィスにやって来たジャーナリストは僅か4名で、その内訳は雑誌のライター1名、ファンジンの編集者1名、ウェブサイトのライター2名だった。すべての取材は1時間で終了した。

 

Cassiusの2人は『Au Rêve』のリードトラック「Hi Water」を完成させた時、達成感で涙を流さんばかりに喜び合ったが、リリース後はありきたりの使い古されたフレンチハウスだと批判の的に晒された。ほんの1、2年前には予想さえ出来なかったことだ。歴史は必ずしも論理的には進まず、理不尽で手痛いしっぺ返しをすることさえある。結局、Cassiusは2006年に「Toop Toop」というシングルを発表し、再起動することになった。

 

Respectの3人も、既にパーティのオーガナイズからは手を引いていた。狂気じみたオーストラリアツアーとビバリーヒルズでの体験を経て、David、Frédéric、Jérômeの3人はすっかり幻滅しきっていた。かつてあれほど殺到していたパーティのブッキングオファーも極めて稀になっていた。乗り継ぎに次ぐ乗り継ぎを強いられる終わりのない旅に、3人はすっかり疲れ果て、すべてに対して無気力になっていた。ベルギーのゲントで行われたあるパーティでバーカウンターにもたれかかっていたDavidは、自分がどこにいるのかまったく分かっていないことに愕然とした。周りではフランス語を話すのが聞こえたが、フラマン語(訳注:フランドル地方で使われるオランダ語の諸方言)も聞こえた。そして彼は酔いながら死んだような感覚に陥った。このブラックアウト状態は数秒間続いた。

 

また、ローザンヌではこんなこともあった。Davidはコカインで鼻の中を真っ白にして、この上なくハイな状態になっていた。Jérômeを伴っていたDavidが、どこかアフターパーティをやっている場所はないかと周囲に訊いて回ると、ローザンヌは小さな街なのでこの時間に空いている店などどこもない、宿に戻ってさっさと眠るくらいしかないと返された。暗い空に覆われたローザンヌの街には雨が降り始めており、渋々ホテルに戻った彼らは、すっかり雨に濡れてびしょびしょの状態だった。Davidは自分の部屋に戻り、ベッドに横たわると、スイス圏のドイツ語が聞こえるテレビをBGMにいつの間にか眠りに落ちた。数時間後、彼は吐き気と共に目覚め、べたついた指のまま、手元に会った昨日の日付の『Libération』紙をパラパラとめくると、すべてを忘れて、もう一度眠りに戻ろうとしたが、その時に、Davideはこんなパーティ漬けの毎日やナイトライフに関わるすべてのもの、そして世界や感情そのものに対してもう沢山だと感じた。自分の許容量を超えてしまっていた。

 

 

 

“90年代が夢のような多幸感に満ち溢れた時代だったとするならば、00年代という時代はダウナーで、あまりにも残酷な揺り戻しだった”

 

 

 

パリのモントルゲイユ通りにある小さなアパートメントに戻っても、Davidには何もすることがなかった。もはや制作すべきラジオ番組もなければ、郵送すべきフライヤーもなかった。彼はテラスに友人と共に座って時間を過ごすのが好きだったが、そんな友人も今は誰ひとりいない。彼は世界のあらゆる場所を巡ったが、むしろその旅は彼から世界を奪い去っていっただけだった。ついこの間まで一緒にエレクトロニック・ミュージックの進化や現状について漫画化した本を共同で出版していた彼の親友、Mathiasは自殺未遂を図っていた。Davidの人生からは何かが欠落してしまっていた。結局のところ、どうやってこれまで自分の生活を成り立たせていたのかさえも分からなくなっていた。人々は皆、どこかの時点で大人になっていく。

 

徐々に地に足を着けたライフスタイルを取り戻していったDavidは、パリという街の再発見を試みはじめた。しかし、恐る恐る足を踏み入れたナイトクラブPulpでは、かつてDJへの尊敬を希求していたはずのIvan Smaggheが、逆にDJの神秘性を否定する「Kill The DJ」というパーティを開催していた。また、当時ダンスフロアを席巻しつつあったエレクトロクラッシュにもまったく心を動かされず、フェスティバルにエレクトロニックな要素を持ち込んだRadioheadにもたいした興味を覚えなかった。90年代が夢のような多幸感に満ち溢れた時代だったとするならば、00年代という時代はダウナーで、あまりにも残酷な揺り戻しだった。

 

結局、Davidは堕落した生活を続け、金を借りてはひたすら浪費を繰り返した。生活は常にぎりぎりの状態だったが、それはFrédéricも同じだった。彼ら2人は鬱状態だった。30歳をとうに過ぎても子供のひとりもおらず、まったくの独り身だった。永遠のティーンエイジャーたちは何かを見失ってしまったのだろうか? Jérômeがパリの倦怠感に対して早々に見切りをつけて、ニューヨークに新天地を求めた中、パリに残された2人はすぐにRespectの精神を復活させ、Été d’amour(サマー・オブ・ラブ)という名前で、Concorde Atlantiqueというボートの甲板を会場にしたアフタヌーン・パーティを展開した。当然、そのパーティは成功を収めた。2人は少しずつ鬱状態から抜け出し、地に足を着けた生活を取り戻すようになっていった。

 

 

では、Pedro Winterはどうなったのだろう? 2001年、フレンチ・タッチの亡霊から解放されたDaft Punkはセカンドアルバム『Discovery』を発表したが、この頃、Pedroはデュランタン通りにあるDaft Traxから離れて独立した。その引き継ぎの最中、Pedroは地下室で「Around the World」のPV撮影時に使用したコスチュームを発見したが、そのコスチュームはすっかり劣化していた。なんと愚かなことだ! 自分がしっかりと保存していれば、このコスチュームはヴィンテージアイテムになっていたはずだ。しかし、たった5年間でDaft Punkは世界の頂点に登り詰めたそのスピードの中では、仕方がなかった。

 

Daft Traxでの業務をGildas(後にKitsunéを立ち上げることになる人物)に引き継いだPedroは、ラメ通り12番地にある元コンピューター会社を居抜きで借りて小さな事務所にした。ここはCassiusのPhilippeが勧めてくれた物件だった。自分だけの城を手に入れたPedroは、新たなキャリアの準備を始めた。Daft Punkが自分のフルサポートを必要としなくなったことを理由にDaft Traxを離れたPedroは、こうしてHeadbangers Entertainmentというマネージメント事務所を立ち上げた。

 

元スケーター、Hypeのオーガナイザー、Daft Punkの右腕として活躍した男は、Daft Punkのマネージメントをパートタイムでヘルプしながら、独り立ちを始めた。この時、Pedroはまだ30歳にも満たなかったが、既に1000回分の人生を生きてきたかのような逞しさを身につけていた。以前よりも少し髪が伸び、髭も多少たくわえるようになっていたが、彼は相変わらず『Thrasher Magazine』のTシャツを誇らしげに着ていた。そして2003年、PedroはEd Banger Recordsという名のレーベルを自ら立ち上げた。そして最初に契約を交わしたアーティストのひとりが、あのDJ Medhiだった。しかし、ここから先はまた別のストーリーだ。そして、このようなストーリーは他にもまだ沢山ある。