十月 30

The Rise and Fall of French Touch: Part 1

RBMA PARIS 特集 PART4:フレンチ・タッチの隆盛と没落のストーリーを2部構成で紹介する。Part 1では、レイブ時代の熱狂と終焉までを追っていく。

By Raphaël Malkin

 

彼は走っていた。死にものぐるいで、息を急き切らせながら。まるで、彼の人生すべてが懸かっているかのように。彼の上着のポケットから紙幣が飛び出し、一瞬スローモーションのように空中を舞ったのも束の間、朝露でしっとりと濡れた草の上にふわりと落ちていった。彼の背中に覆い被さるシャトー・ド・ヴォー・ル・ペニルの建物の影が次第に遠ざかっていく。長い歴史を誇り、川沿いにその堂々たる姿をたたえるシャトーも夜明けを迎えたばかりでまだ半分眠りの中にいるようだった。

 

やがて明るい朝日が周囲を包み込むと、そのシャトーの歴史が視界いっぱいに広がった。マルヌ川に面し、1000年の歴史を持つこの建物は、かつてフランス宗教戦争において襲撃を受け、その後アンリ4世によって平定される。さらに後の時代になるとルイ15世の妃の相談役を務めていた人物による所有を経て、ナポレオン帝国崩壊後にはロシア皇帝アレクサンドル1世の指揮本部が置かれた。言うなれば、この衛兵詰所や城の地下室の冷たい壁は、数々の歴史を目撃してきた生き証人ということになる。しかし、そのすべての歴史の中で、1996年6月のある一夜以上にこの壁を揺るがした出来事はあっただろうか?

 

シャトー・ド・ヴォー・ル・ペニルでたった1度だけ行われたあるパーティが、時代精神と共にこの建物が持つ1000年の歴史を遠くへ押し流した。Xanaduというパーティを仕掛けるイカれたプロモーター、Frédéric Agostiniがこの歴史的遺産でもある石の柱廊を巨大で狂乱に満ちたダンスフロアに変貌させてしまったのだ。この夜、シャトー・ド・ヴォー・ル・ペニルには数百人のパーティマニアが集結した。ある者はパリ郊外からシャトルバスに乗って、ある者は友人たちと相乗りしシャトーに面した林にクルマを停めてこのパーティへ向かった。かつてアンリ4世が臣下たちと謁見していた大広間では、Motorbassの片割れであるZdarがプレイするシカゴ・ハウスのリズムに合わせ、クラウドが狂乱じみた歓声をあげていた。

 

 

 

“そのパーティにはパリのハウスシーンに関わるすべての人間が集まっていた”

 

 

 

Frédéricはこのパーティで数人の顔見知りに出くわした。パリの小規模なハウスシーンに属する全員が顔を出していた。片隅で大きな身振り手振りで会話に熱中しているのは、David Blot。Radio Novaでとびきりクールなパーティを仕掛ける、シーンの守護聖人だ。おそらく、会話の中身はクラブカルチャーにおけるマンチェスターブームの影響についての終わりのない議論だろう。またドアを抜けると、Pedro Winterがその痩せっぽちな腕を絡み付けてきた。この男は、いつだって何かに対して興奮している。ガソリンスタンド店員の帽子をきゅっと被り、顎には山羊のような髭をたくわえてニカッと歯を剥き出して笑いながら、PedroはFrédéricの手に1枚のフライヤーを渡した。

 

Pedroが「次はパリのLe Palaceでパーティをオーガナイズするから、そこで会おう」とFrédéricに伝えようとしたその時、周囲の人々が一斉に駆け出した。人々が一目散に向かうその先は、レセプション・ホールの真下。2人組の男 ― ひとりは少し太り気味で、もうひとりは長身で痩せ型。共に揃いのきらびやかなテディスーツに身を包んでいた ― がDJブースで彼らの出番を目前に控えて準備していた。このパーティの注目の的がいよいよお出ましだ。

 

 

しばらくの間、その風変わりな2人組の名前 ― そう、Daft Punkだ ― の名前がフロアの至るところから聞こえ、ダンスフロアはざわめいていたが、この2人のキッズによるメガヒット「Da Funk」の最初のキックがスピーカーからはじき出されると、ダンスフロアは突如として爆発した。Frédéricの表情に思わず笑みがこぼれる。彼の目前では何人もの若い連中がワイルドな狂乱を享受している。彼らは熱狂に浮かされ、眩く光るミラーボールを夜の太陽に見立てて掴もうとしている。

 

誰かがFrédéricの肩にポンと手を置いた。振り返ると、興奮した汗まみれのクラウド2人に挟まれるようにしてZdarが立っていた。彼はちょうどDaft Punkの直前にプレイしていたが、まだまだプレイし足りない様子だった。彼は夜明けを迎えるその時までレコードをプレイすることを望んでいた。下のDJブースでは、Daft Punkの次に控えるJef K.がプレイ前からすっかり疲れ果てた様子で佇んでいたが、Zdarは彼の出番を奪ってしまおうと目論んでいたのだ。パーティはまさに最高潮を迎えていた。

 

Frédéricは無心で踊っていた。セキュリティを委託していた警備員が彼にある事を耳打ちしにやって来たのはそんな時だった。シャトーの門の前に、制服姿の男たちが何十人も待機しているというのだ。文字通り、シャトーは彼らに包囲されていた。ブーツを身につけたアンリ1世の取り巻きたちなどではない。本物の警官隊だ。彼らによるとこのパーティは違法であるから中止を命ずる、とのことだった。Frédéricはプレイ中のDaft Punkの2人にこの緊急事態を伝え、間もなく音が止まった。ついさっきまで最高潮を迎えていたクラウドは、全員退去させられた。

 

混乱の中、Frédéricはクラウドの中に警察関係者を示す赤い腕章を付けた者が数名いることに目ざとく気付いた。彼らは既にパーティに潜入していたのだ。Frédéricはとっさにクラウドの中に紛れ込んだ。もし警察に身柄を確保されてしまえば、取り調べを受けてしまう。彼はその夜の売上金を掴み、出演したDJたちに幾ばくかの紙幣の束を渡し、ガールフレンドたちには小さなドアの抜け道を教え、「外に出たら全速力で逃げろ」と伝えた。彼はシャトーからなるべく遠くに逃げようと走り始めたが、どこに向かうかは彼の知ったことではなかった。とにかく彼は走った。近くの森に身を隠すこともできただろうし、マルヌ川を泳いで渡ることもできただろう。バリケードの強行突破さえできたかもしれない。とにかく、彼の頭の中はひどく混乱していた。

 

Pedro Winter

 

夜も明けようとする頃、ひたすら走り続けるFrédéricの前に1台のオースティン・ミニが現れて助手席のドアが開いた。Frédéricが運転席を見ると、そこにはPedro Winterが座っていた。Frédéricはようやく走るペースを緩め、残りの札束を握りしめてPedroの助手席に転がり込んだ。シャトーの入り口あたりを通り過ぎる時には、ほとんどグローブボックスの下に収まるほど身を小さくして隠れた。検問の網をかいくぐり、パリ市内に戻ってくる頃には朝日が街を照らしていた。PedroはFrédéricに向かっておなじみの屈託のない笑顔を見せた。

 

すっかり疲れ果ててぼろぼろになり、ストレスでむくんだ目をしたFrédéricはカンカンポア通りにある彼の小さなフラットに戻って来た。そこには、アメリカ人ガールフレンドが彼の身を案じながら待っていた。そして彼が倒れ込むように眠りに落ちようとしたその瞬間、誰かが部屋のドアを激しくノックした。Frédéricはもう動けないほど疲れていたが、飛び起きるようにして立ち上がり、ずるずると身を引きずるようにして玄関へ向かった。ドアの向こう側では、震えるような声で「Jérômeだよ!」と叫ぶ声が聞こえる。まてよ、この声はJérômeじゃない。確かにJérômeはRadio FGで記者として勤務している友人だが、こんな耳障りな声はしていないはずだ。ちくしょう、警察がここを突き止めやがったんだ。

 

下着姿のままで立ち尽くしていたFrédéricは、どうすべきか考えていた。彼はベッドで眠っているガールフレンドの方をちらりと見やった。この時、彼は部屋の鍵をかけ忘れていたことにまだ気付いておらず、ドアの向こう側にいる警官も、それに気付いていなかった。そして鍵がかかっていないそのドアを突き破って部屋に押し入ろうとした警官たちは、勢い余ってFrédéricの足元で転倒してしまった。Frédéricは目の前で派手に転んだ警官たちを見ながら、下着姿のままでこみあげる笑いを押し殺していた。

 

レイヴに熱中した日々

 

1990年代初頭、パリは変革の時代の真っただ中にあった。かつて「光の都」と呼ばれたこの街は、巨大なミラーボールと化していた。英国やベルギー、オランダといった隣国をはじめ、遠く海を挟んだニューヨーク、シカゴ、デトロイトといった都市でこの時期に勃興したテクノムーブメントに刺激されたのはこの街も例外ではなく、パリはテクノカルチャーの一大消費地となり、テクノに熱中した小さなコミュニティがやがてレイヴという形で周囲を巻き込んでいくのは必然だった。

 

 

Philippe Cerboneschiがレイヴというものの存在を知ったのは1991年のクリスマスイブだった。この蒼い眼をした若者がフレンチアルプスのサヴォイという田舎町からパリに出てきて数年後のことだ。テクノが持つサウンド、グルーヴ、そしてメロディに心奪われたPhilippeは、複数のレコーディングスタジオでエンジニアとして働きはじめる。とはいえ、仕事としてテクノの重厚なベースを扱う機会はなく、彼はフランスのラッパーMC Solaarのデビューアルバム『Qui sème le vent récolte le tempo』のためにジャズサンプルをミックスすることに数ヶ月を費やしていた。

 

1991年12月のクリスマスイブの夜、Roussiaというモデルの友人からの勧めでPhilippeはレイヴというものをひとつ体験してみようと出掛けることにし、同僚のスタジオアシスタントでヴェルサイユ出身のÉtienne de Crécyという若者が同行した。Phillippeが見つけたのは、セーヌ川沿いに係留された平底船で開催されたTrance Body Expressというレイヴだった。その夜の初めてレイヴを体験した彼は、これまで隠されていて知らなかった本質的な世界に触れ、これまで感じたことのない胸の高なりを覚えた。その日を境に、彼とその友人Étienneはテクノとレイヴのためだけに生きることにした。平日は薄暗いスタジオで仕事をこなしながら、2人はRadio FGで毎週金曜日に放送される「Rave Up」(主なレイヴの情報はもちろん、アフターパーティの情報も充実していた)という番組に興奮しながら耳を傾け、週末のプランを話し合った。ミニタリーウェアにキャップ、わざと大き目のサイズのジャケットを身につけた彼らは、まるで最前線に向かう兵士のごとくレイヴに繰り出し、いつも泥だらけになるまで踊った。そして優秀な兵士が装備を怠らないのと同じで、彼らもドラッグという装備品に関してはまったく抜かりがなかった。

 

彼らはよくPhilippeのフォルクスワーゲン・ゴルフに友人5、6人を詰め込んで深夜のドライブに出かけ、朝日が昇るのと共にUnderground Resistanceの曲を聴くのが大好きだった。北環状線からポルト・ドーベルヴィリエとポルト・ドゥ・ラ・シャペルの間をぐるぐると周回しながらドライブするのがお決まりのコースだった。その区間ならRadio FGを聴きながら朝食を摂れたからだ。そして、朝を迎えても彼らのハイな気分は収まる気配がまったくなく、夕方にはPhilippeの小さなアパートメントに集まり、そのまま夜通しでパーティを続けた。

 

 

 

“Bob Sinclarは、DJ Gilb’rが選ぶレコードの内容を神経質にチェックしていたが、そのDJ Gilb’rも、視線の片隅ではDJ Gregoryがどんなレコードを買うかを注視していた。そして、この3人のうち誰かが「このレコードを買う」と決めるや否や、店内にいた他の客も同じレコードを競い合って買い求めた”

 

 

 

また、Philippeはバスチーユ地区のBeat Bonusなどのレコードショップでも数えきれないほどの時間を過ごした。のちに店名をBPMに変更したこのショップは、その近くに新たにオープンしたRough Tradeと共に、最先端シーンのファンにとって欠かせない場所となっていった。実際、そこにはあらゆる人物がいた。Philippeのようにこれから本格的にDJを目指す者はもちろん、数多くの有名DJや、DJをかじりかけのにわか連中なども集まっていた。ほぼ全員が、どこかのレイヴやパーティでは既に会ったことがある仲だった。レイヴに出掛けるのと同じく、BPMやRough Tradeへレコードをチェックしに出掛けることはコミュニティとして同じ精神を共有することを意味していた。

 

UKから新譜がショップに到着する入荷日は、パリ中のハウスDJがひとり残らずバスチーユに集まった。Rough Tradeでは、店員でありシーンの顔役的存在でもあるIvan Smaggheが、その日届いた新譜を1枚ずつターンテーブルに乗せてプレイしていた。プレイされるレコード1枚1枚を誰もが静かに吟味し、他の連中の反応がどう出るかを待っていた。当時 “Chris The French Kiss” という名前を名乗っていたBob Sinclarは、DJ Gilb’rが選ぶレコードの内容を神経質にチェックしていたが、そのDJ Gilb’rも、視線の片隅ではDJ Gregoryがどんなレコードを買うかを注視していた。そして、この3人のうち誰かが「このレコードを買う」と決めるや否や、店内にいた他の客も同じレコードを競い合って買い求めた。こうしてPhilippeの自宅のヴァイナル・コレクションも週を追うごとに増えていき、瞬く間に絵に描いたような「ベッドルームDJ」になっていった。

 

レイヴでひとしきり遊んだ後は、Philippeが新たに移り住んだアパートメントがアフターパーティの定例会場となった。この場所はパーフェクトだった。ビルの最上階に位置するこの部屋は、狭い階段を上った先にある跳ね上げ戸を開けると夢のようなロフト空間が広がっていた。朝日と共に踊りはじめると、あっという間に時間が過ぎていった。キッチンカウンターに最後まで残っていた酒を飲み干し、3部屋のベッドルームのうちのどれかひとつに転がり込むまでアフターパーティは延々と続いた。Étienneはもちろん、彼らのガールフレンドや友人たちも一緒だった。それはまさにパリジャン的生活だった。

 

大いなる空想

 

当時22歳のDavid Blotは、マリー・ステゥアルト通り沿いに面した古い木造の梁があるアパートメントに暮らしていた。1968年のパリ5月革命の時には既に高齢だったトロツキー主義の老闘士を両親に持つ彼は、まだ自分が何をしたいのか分かっていない青年で、音楽を除いて彼の心をときめかすものはほとんど存在しなかった。そして元々New Orderを信奉するロックファンだった彼は、やがてアシッドハウスに夢中になった。ダヴィエル通りにある彼の実家にはフランスの音楽誌『Inrocks』が山積みになっていたが、テクノの到来に適応できなかったこの雑誌に対しDavidは早々に愛想をつかしてしまい、やがて『Inrocks』に取って代わって英国の『The Face』や『NME』といった雑誌がスペースを占領した。彼の部屋の床には、バスチーユで毎週末買いあさった音楽誌やレコードが散らかっていた。

 

ある朝、モントルグイユ地区のカフェテラスに座り、父親から失敬してきた日刊紙『Libération』を読んでいた彼は、ある奇妙な折り込みチラシに目を留めた。かの有名なJean-François Bizotが所有し、『Actuel』(注1)の愛読者からも支持を受けるオルタナティブな音楽のためのヒップなラジオ局、Radio Novaが発行する音楽誌「Le France Info de la musique」(フランス・ミュージック・ニュース)の編集スタッフを募集する旨がそのチラシには書かれていた。その業務内容は、最新の音楽イベントの情報を毎日ニュースフラッシュ形式で伝えるというものだった。

 

(注1) ;当時フランスの「アンダーグラウンド」系雑誌の代表格で、これもJean-François Bizotが発行を支援していた

 

一度に4段を飛ばしながらアパートメントの階段を駆け上がった彼は、ほとんど呼吸するのも忘れてフォーブール・サン・タントワーヌ通りにあるRadio Novaの事務所に電話をかけた。電話が繋がり、Davidはこわばった声で面接担当者に繋いでくれるように頼んだ。そうか、そんなまわりくどいことをせずに、番組の担当者に直接話をすれば良かったのに! ああ、僕はなんて馬鹿なんだ。仕方ないな。

 

しばらく待っていると、随分と渋くスモーキーな声の持ち主に電話が代わった。Radio Novaのクールな看板ヴォイス、Loïc Duryだ。Davidは緊張で口ごもりながら、募集広告を見て電話をかけたこと、そしてRadio NovaのFrench music newsのために仕事を希望していることを伝えた。そこで通話は終わった。

 

David Blotのアパートメント

 

ちょうど会議を終えたばかりだったLoïc Duryは、Radio Novaには新しい血が必要だと考えていた。さっき電話をかけてきた、いかにも音楽のことしか頭にない不器用な青年に、Duryは不思議と好印象を持った。こうしてDavid Blotは、Radio NovaのプレゼンターのひとりだったBintouのアシスタントとして雇ってもらえることになった。Bintouはパリで起こっている様々なレイヴパーティから選りすぐった情報を伝える役目を担っており、その番組はパリの街のクラブコミュニティに属する者たちにとって絶好の情報源だった。その情報をもとに、リスナーたちは週末のプランを決めていたと言っても良い。Bintouの直属アシスタントとして最新情報を集めて提出するというDavidの役割は責任重大だった。

 

Davidはそれ以前にも何度かレイヴに足を運んだことはあるものの、決して熱心なパーティマニアというわけではなかった。新たに得たこの仕事が、彼をパリジャン・ナイトライフに向かわせたという方が正確かもしれない。彼はパリのクラブシーンの全容を把握し、行くべき価値があるパーティとそうでないパーティをしっかりと分析する必要があった。1994年には、こうしたパーティ間のクオリティの格差が顕在化していた。Bintouと1シーズンに渡って番組を制作し、次の1シーズンを変人揃いで知られる「La Grosse Boule」(注2)の制作に関わったDavid Blotは、ついに「Blot Job」という自分の番組を持つことになった。平日の午後7:30に放送されていたこの番組で、Davidは自分で選んだおすすめのイベントを紹介した。ただし、レイヴは紹介の対象外だった。時代は既に変わりつつあったのだ。当時のフリーパーティは急転回していた。もはやゴア・トランスや、ハードコアなリズム、澱んだレイヴの時代ではなかった。かつてレイヴで約48時間にもおよぶバッドトリップを経験したことを未だに憶えているDavidも、レイヴとはとっくに縁を切っていた。

 

注2):数々の奇行で知られるEdouard BaerとAriel Wizmanの2人がホストを務めた、Radio Novaの伝説的番組

 

David同様、多くの人々がもはやレイヴを第一の遊び場として選ばなくなっていた。Philippe Cerboneschiもそのひとりだ。サウンドエンジニアだった彼は、ある出来事を持ってレイヴから離れた。それはある日曜日の朝だった。土曜日から夜通し起きていたPhilippeの元に、これからレイヴに遊びに行かないかと2人の友人から朝遅くに連絡が届くと、彼はふたつ返事で手元にあったコートだけを掴んで出掛けていった。胃の中はからっぽのまま、何かを食べる暇もなかった。しかし、レイヴ会場に着いたPhilippeはすぐさま落胆した。ドラッグ効果による多幸感に満ちたドリーミーなプリズムを外して見たその光景は、どろどろとした下品な現実だけだった。その日を境に、Philippeはレイヴに足を運ぶことをきっぱりと止めた。

 

Frédéric Agostiniも、既にレイヴから足を洗って随分久しかった。すっかりBPMレコードショップの常連になっていた彼は新しいタイプのパーティを始めたいと考えていたのだ。彼は自分が辟易していた従来のスノッブなクラブとは正反対の、これまで考えられなかったようなヴェニューにトップハウスDJたちを招いて開催するパーティを夢想し始めていた。そして、その新たなパーティは、“Xanadu” と名付けられ、第一回目は教会を舞台に開催されることになった。

 

自分の番組でほぼハウスばかりをプレイしていたDavid Blotは、すかさずFrédéricを番組に呼び、そのパーティの宣伝をさせた。知識人志向の強いDavidは、Frédéricが自分とまったく正反対と言っていいほど違うタイプの人種だということに気が付いた。髪を短く刈り込み、黒々とした睫毛を持つFrédéric Agostiniという男は、エネルギーの塊のような存在で、常に周囲に気を配って気の利いたジョークを飛ばしながら、巧みに人脈を広げようとしていた。番組のためのインタビュー録りの直前、FrédéricはDavidの隣に座った。スモーカー特有の自信過剰な大きな声で喋り始めた彼は、これがラジオで放送されるという前提をすっかり忘れてしまっていたようだった。レイヴと混同されないことが何よりも大事なはずだったのに、やたら大きくがなり立てる彼の声では逆効果だった!

 

そこで、Davidは悪戯まじりのこんな質問から番組を始めた。「じゃあ、Xanaduは普通のレイヴとは違うんでしょう?」― インタビューが終わると、DavidはDaft Punkのファーストシングルをプレイした。Daft PunkはスコットランドのテクノレーベルSomaと契約を果たしたばかりの新人だったが、すでにDavidのいち押しだった。パーティで、ラジオ局の廊下で、バーのテラスで… どんな場所でも彼はこの曲をプレイしまくった。テンポを100BPMに落とし、フィルターで加工されたサウンドは明快で画期的なコンセプトだった。

 

Daft Punk

 

DavidはDaft Punkの2人を個人的に良く知っていた。DavidとDaft Punkは、バスチーユのレコードショップやWhat’s Upというバーにたむろするハウスミュージック好きのサークルに属していた。Davidが初めてThomas Bangalter(Daft Punkの痩せたほう)と出会ったのは、モンマルトルのノルヴァン通りにあるThomasの両親の家で開かれたパーティだった。元々、Davidは知り合いのSerge Nicolas(Daft Punkの最初のロゴをデザインしたグラフィックデザイナー)に会う目的でそのパーティに出掛けたのだが、DavidとDaft Punkの2人はすぐに意気投合した。Davidが24歳の誕生日を迎えたある日、彼は新しく引っ越したばかりのモントルゲイユ通り沿いのアパートメントでパーティを開いた。ビールの空瓶が無数に転がるキッチンにDavidがふと目を向けると、Guy-Manuel(Daft Punkの小太りのほう)がキッチンの床で泥酔し大の字になって熟睡していた。こうした飾り気のないリラックスした関係が、真の友情に成長していくのにさほど時間はかからなかった。

 

若くして多忙だったPedro

 

Davidが彼の番組「Blot Job」でプロモートしたパーティには、Xanaduの他にもHypeというパーティがあった。「ヒーペイ」と発音するこのパーティは、Le Palaceというナイトクラブの喫煙室で開かれていた。これより15年前は、メインフロアでプレイされるディスコに飽き飽きしていた一部の遊び人エリートのパリジャンたち ― そこには哲学者のRoland BarthesやデザイナーのYves Saint Laurentもいた ― がLe Palaceのバロック調シャンデリアの光でパリのナイトライフを一変させていた。しかし時代が変わり、この頃の人々は酩酊的なハウスビートに合わせて踊っていた。

 

もはや店員がテイラード・スーツで身を包むことはなくなり、前プロモーション担当Fabrice Emaerが付けていたような堅苦しいボウタイで首元を絞める必要もなくなっていた。この頃のLe Palaceのプロモーション担当はストリート的なファッションを好み、痩せ気味のその身体を大きめのバスケットボール・シャツで包み、ガソリンスタンド店員のキャップを被っていた。そして、フォーブール・モンマルトル通りにあるパリ市内随一の知名度を誇るナイトクラブだったこのLe Palaceの中心になるPedro Winterも、以前はパリのスケートボードシーンの第一世代の代表格として知られていた。

 

 

 

"時代精神に敏感なPedroは、自分がオーガナイズするパーティに「Hype」というタイトルを冠した。それが時代に合ったクールな名前だと見込んでいた"

 

 

 

Pedro Winterはラジオ局RTLの広報を務める母親とカナダ外務省に勤務し世界中を飛び回る父親のもと、ひとりっ子として育った。イッシー・レ・ムリノーにある寄宿学校の閉ざされた生活に飽き飽きしたPierre少年(その後1989年のベネズエラへの旅行を経て、Pedroという別名を名乗るようになる)は、すぐにパリを目指した。バスチーユのRough Tradeでレコード棚を隅々まで漁る音楽好きのひとりとなった彼は、Radio FGを占拠してトップDJに交じってプレイしたり、毎週木曜日にRex Clubで開催されていたLaurent Garnierのレギュラー・パーティ「Wake Up」の入場行列にいそいそと並んだり、週末はPigalleなどのクラブで夜ごと仲間たちとつるんだりしていた。彼はこの時まだ18歳にも満たない年齢だったが、パリの小さなハウスミュージックシーンでは誰もがPierreの名前を知っていた。ユーモアのセンスと人懐っこい笑顔、世界のあらゆるものに対する飽くなき好奇心を持ち合わせたこの少年はみんなから可愛がられた。

 

かつてJohn Paul Gauthierで専属モデルを務めていたFolie’s Pigalleのマネージャー、Axel Huyhnも毎週末Pierreの姿をダンスフロアで見かけながらその潜在的な魅力に気付いていたひとりで、彼はまだ若いPierreに1ヶ月2回、木曜日にパーティをオーガナイズさせてみることにした。時代精神に敏感なPedroは、自分がオーガナイズするパーティ名に「Hype」というタイトルを冠した。本人はそれが時代に合ったクールな名前だと見込んでいた。HypeではDJ Gregory、Patrick VidalそしてDimitri From ParisといったゲストDJを招き、平日開催ながら大きな反響を集めた。そして、Hypeの開催を4、5回ほど順調に重ねてパーティの人気がますます上昇してきたある日、パリジャン・ナイトライフ界のある大物から1本の電話が彼へかかってきた。

 

元ヒップホップDJのDavid Guettaは、Queenというナイトクラブのマネージャーをしばらく務めた後に、Le Palaceのアーティスティックディレクターの座を引き継いでいたが、そのポジションに就いたばかりだった彼は、新しく自由で軽やかな従来の発想に捕らわれないスピリットの持ち主を探していた。その彼からのオファーをPierreはすぐに引き受けた。Le Paraceの歴史あるロココ調天井の下での新しいパーティの開催は、その歴史を覆せるかのような非常にエキサイティングなものに思えた。この若者は、文字通り全身全霊でこの新しいプロジェクトに没頭した。

 

Hypeのフライヤー

 

Pierreの友人のグラフィックデザイナーLa Shampouineuseが、その新しいイベントがパリのクラブシーンでもひときわユニークな存在感を放つためのヴィジュアルデザインを用意した。数々のプレス資料を参考にしながら、彼らはあえて古めかしくキッチュなイメージをフライヤーに採用した。しかし、実に見事だったのは、すべてをスペイン語で表記するというアイディアだった。そしてPierreはパリのクラブシーンでPedroと名乗るようになった。これはジョークだった。彼らにとっては、ありきたりな退屈さを回避し、笑って楽しむことがすべてだった。

 

こうして新たに似非スペイン人となったPedroは、おなじみの愛車オースティン・ミニに大量のフライヤーを積み込み、何週間もパリ市内を巡った。このフライヤーはイベントへの入場ディスカウントも兼ねていた。この時点になってようやく彼はまだ高校に籍が残っていることに気付いたが、ストリートに飛び出し、ダンスフロアという居場所を得た彼は、高校の卒業資格を落としてもまったく気にしなかった。彼が考えていたのは、パーティの成功とベストDJのブッキングだけだった。Le Paraceの薄暗い喫煙室には、ファッション誌の編集者やスケーター、レコードショップのオーナー、その他正体不明の夜のフクロウたちが集って、興味深いメルティングポットを形成し、Daft PunkやIvan Smaggheをはじめとした当時最もホットなDJたちのプレイに合わせて腰を揺らした。このパーティには、David BlotさえもゲストDJとして招かれた。

 

 

その頃、Pedro Winterはある1曲を取り憑かれたように繰り返し聴いていた。「Flying Fingers」というその曲は、ハウスのベースラインにスクラッチやヒップホップが塗りまぶされた、あらゆるジャンルを解体する素晴らしいトラックだった。このトラックを作ったバンドはまだほとんどシーンに知られていなかったが、その名前からはダークでインダストリアルな近未来からやってきた軍隊のようなイメージが連想された。そのバンドは、Motorbassといった。いつものようにRadio FGで仲間たちとつるんでいたある夜、Pedroは悪戯めいた青い眼をした小柄な茶髪の男と出会った。Philippe Cerboneschiと名乗り、職業はサウンドエンジニアだと説明したその男が、Motorbassの中心人物だった。なんてこった、あの「Flying Fingers」は君が作った曲だったのか! Pedroは大興奮した。当然、Philippeはその場でHypeでのゲストDJをオファーされた。

 

ほどなくして、Le Palaceで開催されたHypeにゲストDJとして招かれたPhilippe(ソロDJの際は「Zdar」と名乗っていた)は、このパーティのマッドで楽しい雰囲気にぴったりのある曲を4回も5回も繰り返しプレイした。その曲とは、ニューヨークのプロデューサーArmand van Heldenが手掛けたアンセム「Funk Phenomena」で、Philippeはそこにラップを重ねた。その奇妙な組み合わせをDavid Guettaは気に入らず、「ハウスミュージックはかくあるべし」という頭の固い伝統主義者を代表するような調子でPhilippeに向かって怒鳴り始めた。そのPhilippeにとって、DJになることはただひとつの夢だった。音楽をプレイすることに、彼は何事にも代え難い喜びを感じていた。DJの真似事を始めた頃、彼はレイヴで目一杯遊んだ後にコンスタンス通りにある小さなアパートメントへ戻ると、いつも興奮冷めやらぬままの友人たちを前にハイな状態のままレコードをプレイしていた。Philippeは彼のレコードコレクションから数枚だけを抜き出し、友人全員が多幸感に満ちた疲労で眠りに落ちるまで繰り返しミックスを続けていた。

 

 

 

“ある夜、誰かがスタジオのドアをノックする音が聞こえた。スタジオの中にいるのはPhilippeひとりだけだった”

 

 

 

しかし、やがてPhilippeの中にはもうひとつの夢が芽生え始めていった。より大きなパーティで沢山のクラウドの前でプレイしたいと真剣に考えて始めていたのだ。DJとしてクラウドをロックすることこそが彼の夢だった。とはいうものの、DJとして名前を売るためには、レコードをプロデュースする事が一番の近道だ。そう考えていた彼は、完ぺきなタイミングでÉtienne de Crecyと出会った。サウンドエンジニアとしての仕事上のアシスタントで、やがてルームメイトとして一緒に暮らすことになるÉtienneは、Philippeと共鳴するクリエイティブ志向の持ち主で、2人はテクノとハウスをクロスオーバーさせたトラックの制作をスタートさせた。Motorbass誕生の瞬間だ。ルピック通りにスタジオ兼住居を借りた彼らは、部屋の片隅にまず2台のサンプラーを設置した。シーケンサーのAtari 1040と2台のAkai S1000、Roland製のJunoシンセという簡素なセットアップには、やがて同じくRoland製のドラムマシンTR-808が加わった。PhilippeとÉtienneの2人は、夜な夜なこのプライベートスタジオでマシンと格闘しながら、昼間は仕事場(かの有名なPlus XXX)に向かいスタジオワークに磨きをかけるという生活を続けていった。

 

サウンドエンジニアとしてのPhilippeは、主にラッパーのMC SolaarとLes Sages Poètes de la Rueの作業を担当していたが、ジャンルの畑が違う彼らやその取り巻きたちに対して自分とÉtienneが取り組んでいるプロジェクトについて話すことはなく、たまに顔を出すレコード会社のプロジェクトマネージャーに厚かましく売り込むようなこともしなかった。この時代のメジャー音楽業界では、エレクトロニック・ミュージックに対してまだ根強い偏見があったのだ。エレクトロはゲイやドラッグ中毒者のための音楽、または車のハンドルにカーペット生地のカバーをかけてArbres Magiques(注3)を集めている北部の田舎者が聴く音楽だと見下されていた。Philippeは、そのような状況の中、仕事が終わり、他のスタッフたちが引き上げると、必ずスタジオの防音ドアの向こう側にひとりでこもり、スタジオの大型ミキシングコンソールを独り占めしながら夜を徹して自分のプロダクションの作業に勤しんだ。

 

注3)車のルームミラーに吊るして使用する、ツリー型の使い捨て芳香剤

 

そんなある夜、誰かがスタジオのドアをノックする音が聞こえた。ノックの主はMC Solaarのプロデューサー、Jimmy Jayで、スタジオの中にいるのはPhilippeひとりだけだった。Jayは「君が隠れて進めているその曲を聴かせてくれよ」と頼みこんできた。Philippeは諦めまじりに視線を逸らすと、トラックを再生しボリュームを上げた。Jayは途端に満面の笑みを浮かべ、興奮で爆発した。そのトラックがあまりにも素晴らしかったからだ。執拗でダークなメロディ、小気味良いクラップ、その隙間に散りばめられた完ぺきなリフ。そこにはすべてが揃っていた。Jayはふと思いついたようにミキシングコンソールの周りを物色しはじめ、ターンテーブルをセットするとPhilippeのインストトラックの上にスクラッチを重ね始めた。

 

「Flying Fingers」というタイトルがつけられたそのトラックは、やがてMotorbassのファーストシングルのリードトラックとして世に出ることになった。PhilippeはパートナーのÉtienneと共に自腹を切ってレコードをプレスし、自分たちでスリーブのデザインも担当した。こうして出来上がったばかりの45回転7インチを自分の小さなフォルクスワーゲン・ゴルフに積み込んだPhilippeは、まずアムステルダムへ向かってOuter Limitsにレコードを卸し、そのままアントワープへ向かってUS Importにも卸した。そしてパリに戻ると、バスチーユのRough Tradeはまだ開店前だったので、Philippeはレコードに埋もれながら仮眠した。Rough Tradeでは毎度おなじみの通過儀礼だが、このショップでレコードを取扱ってもらうには、まずIvan Smaggheの品定めにパスしなければならなかった。Smaggheは「Flying Fingers」の7インチを半分ほど聴くと、数枚を取扱うことに同意したが、それらは1週間も経たないうちに完売したため、Philippeの元にはRough Tradeから緊急バックオーダーの連絡が届いた。結果的にこのシングルは数千枚を売り切り、小規模ながらも決定的な成功を残したPhilippeとÉtienneは、一躍パリのエレクトロシーンにその名を知られるようになった。

 

 

「Flying Fingers」のリリースから数週間が経ち、PhilippeがいつものようにRough Tradeのレコード棚を物色していると、スコットランドのテクノレーベルSomaからリリースされたばかりのDaft Punkのデビュー・シングルが彼の目に留まった。そのスリーブにはDaft Punkのロゴがフロリダ調の蛍光オレンジ色のバックに鮮やかなブルーで描かれていた。盤面には「Da Funk」と「Musique」という収録曲のタイトルの他、同じく鮮やかなブルーのインクでクレジットが記されていたが、Philippeはある短い一文を発見した。そこには「Much respects to: Motorbass」(=Motorbassに大いなるリスペクトを)と書かれていた。

 

Philippeは思わず周囲を見回した。店内のちょうど反対側では、Thomas Bangalterが猫背気味になってシカゴ産テクノの12インチが詰まった棚を一心不乱にチェックしていた。PhilippeとThomasが出会ったのはこの時が初めてだった。Thomasに話しかけてみると、彼はMotorbassの「A Place Like Home」というトラックの印象的なハイハットがどれほど素晴らしいかを熱っぽく語り始めた。この「A Place Like Home」はMotorbassの2人にとってPIASとのアルバム契約にも繋がる重要な1曲になったが、Philippeにとって何よりも重要だったのはDJで自分の曲がプレイできるようになったことだった。彼は名実共にDJとなったのだ。Hypeへの出演後、PhilippeはFrédéric Agostiniから次回のXanaduでのDJをオファーされた。時は1996年6月。パリ市内から数km離れた郊外にあるシャトーでのパーティの計画が進められており、誰もがそのパーティに行く予定になっていた。

 

ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン

 

1993年のフランス総選挙で右派勢力が勝利を収めると、Edouard Balladur内閣が成立した。格調高くもこわばった声で話すこの穏やかな首相は、かつて酒造メーカーであるRicard社で勤務していた元ビジネスマン出身の男を内務省に登用した。粗野なコルシカ訛りで話すこの男は、1986年から1988年のJacques Chirac政権下においてフランス国家警察長官を務めていた。民兵組織による反植民地主義運動や原油ビジネスにも関わる、謎多きフィクサー的側面を持つこの男の名は、Charles Pasquaといった。プラース・ボーヴォーにある自分の官舎からは、レイヴの様子が確認できた。レイヴはあまりにも多くのドラッグが蔓延しており、あまりに危険だ。あまりにも自由放任すぎる…。

 

1995年1月、各警察署および市役所にはフリーレイヴを運営しているオーガナイザーとそのスポンサーの一覧リストが配布され、風紀の乱れをいかにして是正すべきかという内容の資料も届けられた。間もなく、警察によるレイヴ摘発が始まった。1996年6月のある夜、パリに隣接したセーヌ=エ=マルヌ県にあるシャトー・ド・ヴォー・ル・ペニルの門に警官が多数配備され、パーティを包囲することになったのは、このような伏線があったからだった。

 

数時間後、4人の警官がFrédéricのアパートメントに強制的に立ち入ると、彼らはアパートメントの室内を捜索した。彼らが探していたのはパーティの売上金だが、ドラッグも捜索対象だった。彼らの所轄内でXanaduなる邪悪なパーティを仕掛けたこの張本人を連行するためのネタを挙げるにはどんな小さなものも見逃さないという勢いだった。彼らはトイレの中まで荒っぽく探しまわり、あらゆるクリーム類の入った瓶の中身までもが床にぶちまけられた。

 

結果として、このカップルはヴォー・ル・ペニルを管轄するムラン市の警察署へ連行された。アパートメントの室内のほとんどが荒らされ、ベッドはひっくり返され、化粧台は中身がすべて引き出され、引き出しはカーペットの上に無残に転がっていた。しかし、玄関の隅にある傘の中に隠されたスピードは手つかずのままだった。Frédéricのガールフレンドは24時間の拘留後に釈放された。

 

Frédéricの場合は、そうはいかなかった。彼の父親が保釈手続きを行おうと警察署に赴いたが、対応した警察官はどんな理由があろうともFrédéricを釈放することはない、と父親に向かって怒鳴りつけた。結局、Frédéricは48時間の拘留後にようやく保釈された。彼の肌には乾ききった汗がまとわりつき、着ている服は48時間以上前にアパートメントから警察署へ連行された際のままだった。彼は拘留のために司法官との面会の機会を与えられ、ようやく保釈されたが、少なくとも17件の容疑をかけられることになった。そこには不特定多数の他者を危険に晒した罪、違法薬物使用幇助、無免許でのアルコール販売、違法雇用などが含まれており、その裁判は後日行われることが決定した。

 

 

 

“多くの人々にとって過去最高のパーティ体験になったはずの最後のXanaduは、ひとつの時代の終わりを告げた”

 

 

 

警察に目を付けられてしまった以上、Frédéricはもはや身動きが取れなくなってしまった。Xanaduは終わりを告げたのだ。しかし、Frédéricは転んでもただでは起きない男で、どんなことをしてでもパーティをやってのける男だった。開催場所を変えてパーティを続ける解決案が必ずあるはずだった。ナイトクラブのダンスフロアはどうだろう? クラブのネオンライトの下にはまだ新しい可能性が眠っているはずだ。そして、David Blotも同じ考えを持っていた。

 

多くの人々にとって過去最高のパーティ体験になったはずの最後のXanaduは、ひとつの時代の終わりを告げた。Pedro Winterが仕掛けるHypeも、フランス人DJのショーケースパーティとして高い評価を得てはいたが、そこから更に一歩先へ進む必要があった。Pedroは、UKのメディアがこぞって「フレンチ・タッチ」というラベルで呼び始めたフランスの新世代プロデューサーたちが形作りつつあったモダンなハウスミュージックを、もっと包括的に提示できるものにしたいと思っていた。

 

UKのみならず、今やヨーロッパの他の国々でもフレンチ・タッチ旋風が巻き起こっており、あらゆるクラブやメディアがフランスの若きイノヴェーターたちに夢中になっていた。多くの人々がDJ Camの名前を口にし、Dimitri From ParisやSt. Germainのアルバムを聴いたり、クラブではDaft PunkやMotorbassのトラックで踊ったりしていた。とはいえ、フランス国内のムードはそうした熱狂とは対照的だった。フレンチ・タッチというレッテルはあくまでもフランス国外からの呼び名に過ぎず、フランス国内で活動する彼らにとっては、従来よりも良い内容のパーティを増やしていくことが目下の課題だった。

 

『The Rise and Fall of French Touch: Part 2』へ続く