七月 12

Electrifying Mojoのレガシー

デトロイトのエレクトロニック・ミュージックに大きな影響を与えたミステリアスなラジオDJの素顔に迫る

By Ashley Zlatopolsky

 

デトロイトのテクノアーティストに何から影響を受けたのかと訊ねれば、誰もが、ラジオがまだかなり自由だった頃のデトロイトの放送電波を支配していたSFヴィジョナリー ― Electrifying Mojo ― のストーリーを語ってくれるはずだ。Juan Atkinsは「彼はアンダーグラウンド・カルトヒーローだった。毎晩彼を崇めながら番組を聴いていた」と表現する。

 

徹底的にエニグマな存在であり続けたMojoはほとんど公に姿を見せず、写真を撮られることを拒み、インタビューも数えられるほどしか受けなかった。まるでオズの魔法使いのように、Mojoは常にどこかから届く声、彼の場合で言えば、ラジオマイクの向こうから届く声だけの存在だった。

 

しかし、このように謎めいていたMojoだったが、デトロイトテクノに与えたその影響は明瞭だ。Mojoは世界初のテクノレコード ― A Number of Names「Sharevari」とCybotron「Alleys of Your Mind」 ― をラジオでオンエアした他、ギターファンクとマシンファンクの強固な基盤を作り上げ、テクノの発展に大きく寄与した。Carl Craigは「Electrifying Mojoがいなければ、俺たちが知っているデトロイトテクノは生まれていなかったと思うね」と語っている。

 

 

 

“Mojoがプレイするレコードをトランス状態で待っていた”

Juan Atkins

 

 

 

Mojo(本名:Charles Johnson)は、1977年にAM放送からFM放送に切り替わったばかりのラジオ局WGPRの番組で話題になった。当時はまだFM局が数えられるほどしかなく、法整備もほとんどされていなかった。Atkinsは「Mojoはアルバム片面(最長12分)をそのままオンエアしていた。音楽的実験を繰り返していたね。彼には縛りがなかったし、その幅の広さが人気の理由だったからさ」と振り返っている。

 

元々、WGPRはアーバンコンテンポラリー、R&B、ソウル、ゴスペル、そして様々なエスニック番組を中心としたブラックコミュニティ用ラジオ局だったが、Mojoはそのようなフォーマットの中に自分を固定しなかった。これはWJJB、WHYT、WMXDを含む彼のラジオキャリアを通じて確認できた彼の特徴だった。

 

結果、彼のファンベースの人種は実に多様だった。ラジオ局が人種別に厳しく分けられていた時代の中で、これは非常にレアなケースだった。放送1回の間に、MojoはPeter FramptonからGenesis、Human Leagueまでをカバーしたあと、Parliament FunkadelicPrince、Kraftwerkまでをカバーしていた。PrinceやMichael Jacksonのトラックだけを3時間に渡りひたすらプレイする夜もあった。Atkinsは「Mojoがプレイするレコードをトランス状態で待っていた」と続けている。

 

 

 

 

Mojoの番組は《The Landing of the Mothership》と呼ばれる、 “宇宙船に乗ったMojoが地球に降下するシーン” を表現する一連のスペースサウンドから始まった。Mojoはしばしばデトロイトのダウンタウンに位置する高層ビル群のひとつ、Penebscot Buildingの屋上に降下する設定を採用していた(Mojoのこの宇宙船のアイディアは、Parliamentのアルバム『Mothership Connection』から着想を得たものと思われる)。

 

ある晩の《The Landing of the Mothership》で、Mojoは時のデトロイト市長Coleman Youngを出演させた。Colemanは遠い宇宙を想起させるエコー処理がされたマイク越しに「こちらはColeman Young市長。Mojoの宇宙船に同乗している。わたしはこの街を美しく保ちたいと思っているのだが、君たちも力を貸してくれないだろうか? Mojo、デトロイト上空を飛んでくれないか。東西南北あらゆる方向に。今、Young市長とMojoの宇宙船が…」と話すと、「着陸した」を言い忘れたかのようにここで声が途切れた。

 

 

《The Landing of the Mothership》:Coleman Young出演回

 

 

Mojoと思われる別の天の声がこれに続いた。「この地球に暮らす幸運な民たちよ。今から100年前、君たちの星に住んでいた何百万人もの人たちが美しい空を見上げて神々に訊ねた。“1981年の世界はどうなっているのでしょう?” と」

 

"1981年" のデトロイトは、音楽が変化・進化を続けるエキサイティングな時代を迎えていた。ディスコシーンはニューウェーブ / プログレッシブシーンに変化を遂げていたこの年は、テクノが生まれた年でもあった。

 

デトロイトは1967年の暴動とMotownの移転のダメージからまだ立ち直っている最中だったが、この都市の音楽カルチャーは活気に溢れていた。《The Landing of the Mothership》の次に用意されていたコーナー《Awesome》は、リスナーに当時萌芽しつつあったデトロイトのアンダーグラウンドサウンドと、のちに世界各地でヒットすることになるファンクやシンセトラックを紹介していた。

 

このコーナーでMojoは初期デトロイトテクノトラックをオンエアしていた。1980年、A Number of Namesが「Sharevari」のデモをMojoに渡し、Mojoが定期的にオンエアしたことで、このトラックは1981年の正規リリース前にダンスフロアヒットとなっていた。

 

Cybotron「Alleys of Your Mind」で同じような経験をしているAtkinsは、自分の音楽がMojoへ渡った経緯について次のように振り返っている。

 

 

 

 

「このデモを制作していた頃の俺はMojoの大ファンだったから、トラックができたらオンエアしてもらいたいと思っていた。当時、Derrick(May)は俺の親友で、奴はMojoが番組を持っていたラジオ局WGPRがあったEast Jefferson Avenueから1本入ったところに住んでいたんだ」

 

「で、当時のMojoは番組を終えるとWGPRの近くにあったカフェで休んでいた。当時はアーケードゲームが大人気で、レストランやカフェには必ず『パックマン』や『ディフェンダー』の筐体が数台置かれていた。Derrickは『ディフェンダー』のファンだったから、そのカフェで『ディフェンダー』をプレイしながらMojoが来るのを待っていた。するとある日、当然のことながらMojoがやって来た。それでDerrickが “なあ、俺のダチが作った音楽があるんだ。聴いてもらえないかな” と言ってテープを渡してくれたのさ」

 

「その頃のMojoはレゲエ周辺を掘っていた。彼はいつも様々なスタイルの音楽を聴いていたんだ。それで後日、俺とDerrickで彼のオフィスへ向かうと、そのオフィスのターンテーブルにはレゲエのレコードが載っていた。Mojoはそのレコードをかけながら “君のトラックを聴いて、このレゲエレコードをターンテーブルから外したくなったら、君のトラックはヒットする” と言って、レゲエレコードをプレイしながらデモテープをプレイしたんだ。そして、ターンテーブルから針を上げて “気に入ったよ” と言ってくれたのさ」

 

それから2日後、「Alleys of Your Mind」はMojoの番組でオンエアされた。

 

未来のトレンドを見抜く才能を備えていたMojoは、のちにデトロイトテクノとして世界から神聖視されることになるシーンとカルチャーをプッシュしていた。Craigは次のように語る。

 

「Mojoは素晴らしいヴィジョナリーだった。彼はスピリチュアルでインターギャラクティックな才能を備えていた。商業的な意味ではなく、創造力と精神に大きなインパクトを備えている世界中の音楽をプレイしていたよ」

 

 

 

 

《Awesome》の次のコーナーが《Lover’s Lane》で、ここではスロージャムが短時間オンエアされていた。しかし、Mojoの番組で最も有名だったコーナーはその次の《Midnight Funk Association》(Mojoが担当したすべての番組に用意された唯一のコーナー)だった。《MFA》と略されていた《Midnight Funk Association》には熱心なファンのためのスペシャルメンバーカードが用意されていた。

 

Mojoはこのコーナーの冒頭で「今、デトロイトのメトロエリアでは何千人もの人たちが参加中だ。Midnight Funk Associationのメンバーはご起立願おう」と低い声で話しかけ、自分たちの結束を示すために、リスナーにポーチライトを点け、車のクラクションを鳴らすように促した。

 

ラジオパーソナリティーのLisa “Lisa Lisa” Orlandは「本当にみんなポーチに走り出てライトを点けたのよ。車に乗っている人はヘッドライトを点滅させてクラクションを鳴らした。Mojoはリスナーに《MFA》は実在すると思わせたの」と振り返っている。

 

Mojoの最も有名なセリフは《Midnight Funk Association》の途中で聴くことができた。それは「掴み続けるな。離してはいけない。ロープの端にぶら下がっているように感じても、決して手を離してはいけない。結び目を作り、そこにぶら下がり続けるんだ。そして思い出そう。君ほどクールな人はいないってことを」という内容だった。

 

《Midnight Funk Association》がスタートし、Mojoが「May the funk be with you(ファンクが共にあらんことを)」と宣言すると、彼はParliament「Flashlight」やGary Numan「Cars」のようなファンクやニューウェーブをプレイした。Stacey “Hotwaxx” Haleは「Mojoはわたしたちがニューウェーブを知らない頃からニューウェーブをプレイしていた」と振り返っている。

 

MojoはB-52’sのサポーターでもあった。定期的に「Mesopotamia」をプレイしていたMojoはバンドを一度番組に呼んでいる。B-52’sのフロントマンFred Schneiderは次のように振り返る。

 

「僕たちが特定のオーディエンスのために音楽を作ったことはなかった。Mojoが僕たちの音楽をブラックのラジオ局でオンエアしていたことについて、僕たちのマネージャーは快く思っていなかったけれど、僕たちは気にしなかった。僕たちはパーティしたいと思っている人や僕たちの音楽が好きだという人に届けば良いとだけ思っていた。Mojoはそのひとりだった」

 

 

 

 

MojoはKraftwerkをプッシュしたことでも有名で、ドイツが生んだこのエレクトロバンドのドラムマシンのリズムに埋め込まれているファンクの影響を明らかにした。Craigは次のように語っている。

 

「Mojoは俺にモダンなエレクトロニック・サウンドを教えてくれた。1970年代はエレクトロニック・ミュージックが常にどこかしらで流れていた時代だった。今よりも新しい音楽だったのさ。Gershon Kingsley “Popcorn” の時代さ。その時代にMojoはKraftwerk “Numbers” をヘヴィローテーションして、ヨーロッパのエレクトロニック・ミュージックを紹介してくれたんだ」

 

 

 

 

このようにMojoのレガシーに関する会話にはB-52’sとKraftwerkがしばしば登場するが、Mojoのレガシーの中で最も良く知られているのは、モーターシティにPrinceを紹介したことだろう。

 

Craigは「Princeが『Dirty Mind』をリリースする前から、MojoはPrinceをヘヴィローテーションしていた」と振り返っているが、MojoはPrinceのヒットトラックよりもBサイドやレアトラックを好んでプレイしていた。Terrence Parkerは「Mojoの番組で9分バージョンの “Sexy Dancer” を聴いたよ」と振り返っている。

 

Mojoが番組にゲストを呼ぶことは稀だったが、1986年にCobo Arena(デトロイトにかつて存在した収容人数約12,000人の多目的アリーナ。2010年にクローズ)のコンサートを終えたPrinceとインタビューを行っている。以下に紹介するこのインタビューの最後にはお互いへの愛情が感じられる。

 

 

Prince:実はさ、今夜はこれからみんなで『Purple Rain』を鑑賞するんだ。

Mojo:そうなのかい?

Prince:そうなんだ!

Mojo:私はもう12回観たよ。

Prince:僕ももう何回も観たよ。でもまた観たいんだ。

Mojo:私は12回観たが、今夜また観ることにするよ。というより、この番組を聴いているみんなに『Purple Rain』を観るように伝えよう。君は何時に観るつもりなんだい?

Prince:約3分後だね…。実はもうドアをノックされてるんだ。そうだ、こうしよう。明日また電話するよ。4時半くらいに電話してちょっとしたメッセージを残すよ。“パープル・ピープル” のためにね。みんな分かってくれると思う。とにかく電話するよ。番号は持ってるから。

Mojo:了解だ! Prince、今日は話せて良かったよ。言葉では説明できない素晴らしい時間だった。デトロイトがPrinceをどう思っているのかについては言葉では説明できない。最後にデトロイトのみんなへ何かメッセージをお願いするよ… 番組は君のものだ。

Prince:(唇を使ってキスを真似る音を5回立てて)キス!


 

 

《Midnight Funk Association》が午前1時過ぎまで続く日もあったが、それ以外の日は、Mojoが電話をかけてきたリスナーに声をかける《Shout Out》やリスナーが電話をかけてオススメのアーティストを紹介したあと、Mojoがその中からアーティスト3組を選んで、それぞれ35分トラックをプレイする《35-35-35》など、他のコーナーをローテーションさせていた。

 

また、アーティスト1組のキャリアを包括するプレイリストをオンエアしていた《Journey》や、アーティスト2組が “バトル” してリスナーが勝者を選ぶ《Star Wars》などもあった。Interdimensional TransmissionsのBrendan M. Gillenは次のように振り返っている。

 

「俺が好きだった《Star Wars》のバトルはKraftwerk vs. Soul Sonic Forceだった。Prince vs. Rick Jamesも良かったな。これは1週間続いた。Prince vs. Michael Jacksonが熱く盛り上がったのも覚えているよ」

 

《Star Wars》はのちにデトロイト全市を対象にしたDJコンテスト 《Mixadome》へ進化した。Parkerは「まず、MojoがDJたちにミックステープを送るように頼んだんだ。最短15分、最長30分のミックステープさ。それを2本続けてプレイして、リスナーにどちらが優れていたか電話投票してもらったのさ」と説明している。

 

《Mixadome》にはParkerはもちろん、Atkins、Kevin Saunderson、Anthony “Shake” Shakirなども参加した。Atkinsは「クレバーなアイディアだったね。誰かを番組に呼んだり、ミックスショーをしたりする代わりに、DJたちがバトルする究極のミックスショーを展開したんだ」と語っている。

 

ラジオ局やコーナーを問わず、Mojoが掲げていたコンセプト “精神の劇場” はすべてに徹底されていた。このコンセプトを支えていたのは音楽だけではなかった。Mojoが音楽を止めて、犯罪やギャングをはじめとする当時のデトロイトを蝕みつつあった文化的・社会的問題をテーマにした議論や自作の詩を通じてこの都市への思いを延々と述べる時も少なくなかった。Mojoの番組は音楽以上の存在だった。人生そのものについての番組だった。

 

 

 

"『The Mental Machine』は「Mojo マイナス 音楽」だった。そこにいたのは、神話的存在だったラジオパーソナリティーから解放されたCharles Johnsonだった"

 

 

 

1990年代中頃、クラックコカインの蔓延を受けて、Mojoは散文詩を集めた書籍『The Mental Machine』を部数限定で発行した。これはブラックおよび世界のカルチャーに影響を与えている政治的・社会的問題に深く切り込んだ作品で、ティーンエイジャーの銃撃事件、売春、シングルマザー、AIDSの蔓延、ドラッグなどについての詩が集められており、彼の番組でしばしば伝えられていたメッセージの延長上に位置していた。

 

収録されている全作品には、統計データと変化を求めるメッセージが前文として添えられており、妊娠中の女性がティーンエイジャーに撃たれて死亡した事件をテーマにしている詩「$80.00 Mother」の前文には「私たちの社会が暴力的な子供たちを生み出し続けるなら、少年裁判所制度は時代遅れということだ。社会を守るために現実的な見直しが行われなければならない」と書かれている。

 

『The Mental Machine』は “Mojo マイナス 音楽” だった。そこにいたのは、神話的存在のラジオパーソナリティーという役割から解放されたCharles Johnson ― 政治腐敗と暴力に抵抗し続けた情熱的な男性、平和的でポジティブな改革者 ― だった。

 

Mojoは自分のミッションを信じていた。音楽よりトークの方が長いという理由であるラジオ局から解雇された時も、Mojoは送信機の電源を落としてスタジオのドアにチェーンをかけ、誰も入れないようにして放送を中断して抗議したと言われている。これは、ラジオ業界の中で取れる個人行動の中で最悪と言えるものだ。

 

Mojoが今どうしているのかについては謎のままだ。デトロイトのいくつかのラジオ局でプログラムディレクターとして勤務したと言われているが、知らない方が良いのかもしれない。“精神の劇場” の中に残しておいた方が良いこともある。


 

 

※:本記事は『A HISTORY OF DANCE MUSIC RADIO IN DETROIT』の内容を一部流用しています。

※:Elecryfying Mojoの番組の一部はMixCloudやYouTube上にアーカイブされています。

 

 

All images incl. header image:© Abdul Qadim Haqq

 

26. July. 2019