五月 25

The History of Teddy Riley & New Jack Swing

当事者たちが振り返るニュー・ジャック・スウィング

By Chris Daly and Zilla Rocca

 

現在、ラップはあらゆるプレイリストのユビキタス的存在になっており、この世に存在する音楽の全サブジャンルに取り込まれているように見えるが、そうではなかった時代もある。ラップがRun-DMCやLL Cool J.などの台頭によってよりメジャーな存在になろうとしていた1980年代中頃、この新たなアートフォームはファンキーではあったものの稚拙でルーズだったため、基本的には “ストリート” な表現方法として考えられていた。

 

ラップの逆側に位置していたR&Bは同じことを繰り返していた。記憶に残らない楽曲を大量生産するだけだったため、このジャンルのファン以外の層にそこまで大きくアピールできていなかった。“クワイエット・ストーム” のフォーマットがこのジャンルを支配しており、Freddie Jackson、Peabo Bryson、Anita Baker、Teddy Pendergrassなどのオーバープロデュースされた都会的でスローテンポなヒット曲が売上を支えていた。そしてそのような状況の中、放置されていたシャーレーの中のように、既存の音楽ジャンルが融合と再生を開始し、新たなアートフォームが生まれていった。

 

 

 

"ハーレムで産声を挙げたこのローカルサウンドは、少なくとも10年間に渡って米国の意識の中に浸透していくことになった"

 

 

 

そのジャンルこそ、ラップ、ダンスポップ、R&Bをミックスし、ディスコ、ソウル、ロックンロールの要素を僅かに加えたニュー・ジャック・スウィング(New Jack Swing)だった。ハーレムで産声を挙げたこのローカルサウンドは、Al B Sure!、Bel Biv DeVoe、En Vogueなどのアーティストを世界に紹介しながら、少なくとも10年間に渡って米国の意識の中に浸透していくことになった。また、Bobby BrownやJanet Jacksonなどのアーティストはこのジャンルによって新たな生命を授かり、Michael JacksonやSheena Eastonなどのよりビッグなアーティストたちも、このジャンルを取り入れたアルバムや楽曲をリリースすることになった。しかし、ニュー・ジャック・スウィングというジャンルを定義する作品群と音楽的個性を誰よりも備えていたのはハーレム生まれのアーティストTeddy Rileyであり、このジャンルを商業的成功とメディアからの高評価に導いていった。

 

最初は音楽的方向性のひとつに過ぎなかったニュー・ジャック・スウィングは、すぐに映画(『House Party』)、TV番組(『In Living Color』、『Martin』)、ファッション(Cross Colours)など、当時を彩っていたありとあらゆる時代精神に取り入れられていった。今回は、ニュー・ジャック・スウィングに関わったTeddy Rileyをはじめとするキーパーソンたちに話を聞き、このジャンルの黎明期、中期、末期、苦難、そしてTeddy Rileyのレガシーなどについて振り返ってもらった。

 

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登場人物(登場順)

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

Notorious B.I.G.、Boyz II Men、Brandyなど、数々のプラチナアルバムに携わったレコーディングエンジニア。

 

KWAME

「Oneovdabigboiz」や「Ownlee Eue」のヒットで知られるラッパー

 

HANK SHOCKLEE

ヒップホッププロデューサー / Bomb Squadメンバー

 

DOC ICE

WhodiniとU.T.F.Oのメンバー

 

MARKELL RILEY

Wreckx-N-Effectメンバー / Teddy Rileyの弟

 

TEDDY RILEY

ニュー・ジャック・スウィングの生みの親

 

DAE BENNETT

Hillside Sound Studio創設者 / ドラマー / プロデューサー

 

BRUCIE B

ニューヨークのクラブ / ミックステープDJ

 

BOSKO KANTE

1990年代のヒットTV番組『In Living Color』の音楽を担当

 

TJ WALKER

Cross Colours 共同クリエイター

 

JEFF ADAMOFF

MCA Records クリエイティブサービス部門責任者

 

ANGELA HUNTE-WISNER

スタイリスト

 

APRIL WALKER

Walker Wear クリエイター

 

 

 

Part 1:ニュー・ジャック・スウィング以前

 

現在、ラップとR&Bはもはや一心同体に見えるが、そうではない時代もあった。1980年代の中盤から終わりにかけては、ヒップホップが初の成功を味わう中、R&Bはかつてのような勢いを失っていた。この2つのジャンルが交わることはなく、ヒップホップシーンは自分たちのことを「ソフト」なR&Bの連中に加わるには「ハード」すぎると考えていた。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

1979年頃にラップが生まれた頃からラップとR&Bは別々の存在だった。ラップは若者のムーブメントで、R&Bは歴史のある古い音楽だった。

 

KWANE

当時のラジオ局は、朝6時から夕方6時まではヒップホップをオンエアするのを嫌がっていた。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

1979年から1984年までがいわゆるヒップホップの第一世代だった。そのあと、1987年頃になるとPublic Enemyと共に第二世代が台頭した。1987年頃のヒップホップはとにかく “ハード” で、1990年までは “ラッパー = サグ” と思われていた。ラップには “サグい” というステレオタイプが存在していたんだ。その一方、R&BはTemptationsやFour Topsが活躍していたジャンルだった。誰もがステップを踏むような音楽だったのさ。

 

HANK SHOCKLEE

ヒップホップとR&Bは違う星、別々の世界だった。ニュー・ジャック・スウィングは、自分たちが好きだったストリートの音楽に、昔から好きだったR&Bがミックスされているような音楽だった。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

1985年までにファンクが消えて、ヒップホップが台頭していった。そのような状況の中、1990年にTeddy Rileyがアグレッシブなヒップホップビートにシンガーを加えたグループをプロデュースしたんだ。当時は多くのシンガーが胸を撫で下ろしていたよ。「また若者と繋がれる音楽、自分たちが歌える音楽を生み出してくれた」ってね。

 

KWAME

俺が初めてニュー・ジャック・スウィングを知ったのは、The Classical Two「New Generation」だった。あの曲がニュー・ジャック・スウィングを世に送り出したんだ。世間がこのジャンルに気付く前にね。「New Generation」とKool Moe Dee「Go See The Doctor」がニュー・ジャック・スウィングの始まりだったのさ。もちろん、そのあとでGuyがトップに立つんだけどさ。

 

DOC ICE

ニュー・ジャック・スウィングが出てきた時、誰もが違う音楽だということを理解した。好印象が持てた。エナジーに溢れていて、俺はこのジャンルをきっかけにヒップホップシーンのダンサーたちをリスペクトするようになった。

 

HANK SHOCKLEE

1980年代にリリースされたレコードの多くは非常に音楽的だった。複数のパートが組み合わさっていて、ブリッジがあったし、多種多様な音楽的要素がちゃんと構成されていた。一方、Teddy Rileyの作品は音数が少なくてミニマルだった。彼の音楽にはストリートのフィーリングとフレーバーがあった。

 

MARKELL RILEY

ニュー・ジャック・スウィングの人気が高まっているのは知っていた。ハーレムを走っている車からTeddyが手がけた曲が聞こえていたからさ。Teddyがメジャーな存在になる前のニュー・ジャック・スウィングは、兄貴にとってのハーレムを反映させたローカルなものだった。ユニークな音楽だってことは分かっていたけれど、世界と繋がるのかどうかは分かっていなかった。

 

 

 

 

Part 2:ニュー・ジャック・スウィング・サウンド

 

TEDDY RILEY

ニュー・ジャック・スウィングっていうサウンドは複数の背景から生まれたわけだが、ひと言にまとめることもできるし、延々と説明することもできる。ニュー・ジャック・スウィングには人種の壁がない。そしてこれは “表現” のための音楽じゃない。 “機会” のための音楽なんだ。ラップと歌のコラボレーションで、様々なジャンルとスタイルをひとつのバッグに詰め込んだ音楽なのさ。俺に言わせれば、ニュー・ジャック・スウィングはあらゆる音楽をひとつにまとめたヘヴィなR&B、ヘヴィなリズム・アンド・ブルースってところだな。

 

KWAME

Guyがデビューすると、ニュー・ジャック・スウィングのR&B的要素が人気を獲得したんだ。

 

DAE BENNETT

Guyの「New Jack City」を手がける前のTeddyは、基本的にはラッパーのプロデュースをしていた。スポットで雇われる立場だった。

 

 

Guy "New Jack City" (1991)

 

 

BRUCIE B

Teddyの音楽はローラースケートパーティのようなもんだった。全てにリズムがあった。Doug E. Fresh「The Show」を聴けばそれが分かる。彼のヒップホップビートの中にさえもニュー・ジャック・スウィングの要素が感じられた。

 

HANK SHOCKLEE

TeddyはR&Bとヒップホップのハイブリッドだった。ストリートを感じ取れる若さと、R&Bがどんなストリート感覚を必要としているかを理解できる音楽的知識を備えていた。この特徴が彼をユニークな存在にしたのさ。

 

DAE BENNETT

ニュー・ジャック・スウィングは、Teddyの人間性と彼のミュージシャンシップが生み出したものだった。このジャンルはここに尽きると思う。当時のTeddyは他の誰よりも真似されたアーティストだった。

 

HANK SHOCKLEE

1980年代のR&Bはドラムを前面に押し出していなかったが、Teddyはドラムを前面に押し出した。彼の曲はドラムのプログラミングとビートメイクがまず耳に残る。あとはメロディセンスも良かった。彼の生み出すメロディはシンプルだったが効果的だった。

 

BRUCIE B

ニュー・ジャック・スウィングを取り入れたR&Bがどれだけ違うのかは、Keith Sweat「I Want Her」を聴けば分かる。

 

DOC ICE

1989年から1990年に入ると音楽が変わり始めた。パーティで楽しい時間を過ごすための音楽から、ハードコアなウェストサイドのヒップホップに変わっていった。この頃にTeddy RileyはGuyをプロデュースして、ニュー・ジャック・スウィングを打ち出していったんだ。彼がこのサウンドを世に出したあと、俺のプロデューサーを担当していたFull Forceもこのサウンドに注目した。それで俺たちは「Word to the Wise」をリリースしたんだ。スウィング感を強めた「Word to the Wise (Funk Swing Mix)」もリリースしたよ。

 

BOSKO KANTE

ハードなヒップホップビートとR&Bの歌唱を組み合わせた音楽という意味では、Full Forceも貢献していたね。

 

DOC ICE

俺たちはニュー・ジャック・スウィングをしっかりと理解していた。あの音楽にはヘヴィなエナジーがあった。Juice、Wiz、俺の3人はこの音楽にのめり込んでダンスしていたから、俺たちのダンスムーブはヒットしたんだ。世間の多くが俺たちのムーブの真似をし始めた。でも、彼らは以前からニュー・ジャック・スウィングのファンだった。だから、俺たちは音楽的には後追いの形になったんだ。だが、その存在には随分前から気付いていた。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

俺が知りたいと思っていたのは、世間がニュー・ジャック・スウィングと呼んでいるドラムパターンをTeddy Rileyがどうやって生み出しているのかってことだった。MPCには16分音符にスウィングを加えられる機能があった。だから、俺も同じMPCを使って、Teddy Rileyがどうやってビートメイクしているのかを突き止めようとした。

 

DAE BENNETT

Guyのファーストアルバムはライブレコーディングだった。あのアルバムが素晴らしいのはこれが理由だ。あのアルバムの素晴らしい魅力のひとつは、今でもそこにちゃんとフィーリングがあるのが分かるという点だ。あれは基本的に「Teddy Rileyのライブアルバム」だ。彼が全パートを演奏していて、即興も数多く盛り込まれている。もちろん、当時はまだテープを使っていたから、カッターでテープを切って編集していた。シーケンサーのような機材はまだ持っていなかった。

 

HANK SHOCKLEE

ニュー・ジャック・スウィングをニュー・ジャック・スウィングたらしめていたのはスネアだった。スネアを汚して、他の楽器と音程がズレた形でラウドに鳴らしていた。あのスネアがニュー・ジャック・スウィングを他とは違う音楽にしていた。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

Yamaha DX100はミニ鍵盤の小さなキーボードだった。その中のひとつのベースサウンドをHeavy Dのアルバムに使ったんだが、あのサウンドは元々Keith Sweatの作品に使われていたものだった。俺にはとても身近なサウンドだったから、聴けばすぐに分かる。俺たちはこのサウンドを「LatelyBass」と呼んでいた。プリセットがそう名付けられていたんだ。あのベースサウンドはスペシャルだった。

 

 

Guy "I Like" (1988)

 

 

DAE BENNETT

Guyのアルバム『Guy』に収録されている「I Like」で、バッキングヴォーカルをサンプリングしてE-Mu Emulator IIに突っ込んだのを覚えている。それまでは、バッキングヴォーカルをテープにレコーディングしたあとでバウンスして、それを更に2トラックにバウンスした。そのあとでオープンリールを使って、タイミングが合うまでひたすら回したんだ。サンプラーが登場する前はこうだった。ちゃんとしたサンプラーが登場してからは、毎晩のようにサンプラーをいじって新しいサウンドを生み出そうとした。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

俺はAKAI S950を持っていたから、自分のヴォーカルを録音して色々と試していた。それで「TeddyがGuyの作品でやっているようなサウンドになったぞ!」なんて思ったものさ。

 

TEDDY RILEY

父親に買い与えてもらったTelstarのキーボードから俺の全てが始まったんだ。Telstarのキーボードを持っていたのは遠い昔の話だ。そのあとで、Fender Rhodesを初めて手に入れたんだ。俺は新しい機材を手に入れるたびに、それで新しい音楽を作ろうとしていた。

 

 

 

 

Part 3:ニュー・ジャック・スウィング・ルック

 

世の中に受け入れられたムーブメントはどれもユニークなルックスを備えている。ハーレムから始まり、のちに世界を席巻することになるこの小さなムーブメントも、レインボーカラー、水玉模様、そしてポジティブなムードという外見的な特徴があった。

 

BRUCIE B

ストリートレベルでは、ファッションとダンスが上手く一緒に組み合わさっているように見えていた。Teddyはいつも高級車や高級服、ジュエリーと一緒だったからさ。

 

TJ WALKER

音楽、パフォーマーを含め、当時は全てがとにかく派手でカラフルだった。カラーが中心に据えられていた時代だった。歌詞の中には様々なカラーが登場し、カラーをテーマにしている曲もあった。カラーが曲名になっているものもあった。

 

JEFF ADAMOFF

当時はミュージックビデオがプロジェクト成功のカギを握っていた。

 

TJ WALKER

全てが大げさで過剰だった。全てが面白おかしかった。「面白おかしい」時代だったんだ。

 

ANGELA HUNTE-WISNER

わたしはGuyやTeddy Rileyをはじめとするあらゆるニュー・ジャック・スウィング系アーティストと仕事をしたけれど、『Juice』、『Above the Rim』(邦題『ビート・オブ・ダンク』)のような映画作品は、ニュー・ジャック・スウィング系アーティストたちがミュージックビデオで身に着けていた衣装に影響を受けていたわ。音楽と服が一緒になっていた。1950年代から1970年代にかけては音楽からファッションが生まれていたけれど、ニュー・ジャック・スウィングは音楽とファッションが補完し合っていた。軍服、コンバットジャケット、バンブーイヤリング、キャップなどが一般的なファッションになっていったの。1990年代にタイトで小奇麗なスパンデックスドレスを着ている女の子はいなかった。近所にいそうなくだけた服装の女の子(Around the way girl)の方が断然ホットだった。だから、LL Cool Jも「Around the Way Girl」をリリースしたのよ。

 

BRUCIE B

ハーレムの連中は落ち着いているんだ。スムースなブラザーなのさ。粗野じゃないんだ。ハーレムの連中はすぐに分かるね。

 

DOC ICE

兄貴のPhilipに良くハーレムのクラブへ連れて行ってもらった。兄貴はいつもバックパックを背負っていた。俺が「何が入っているんだい?」と訊ねると、「服だよ」と答えるから、「服? なんで服なんて持って歩いているんだ?」と思っていた。兄貴はクラブに到着すると、トイレに入って服を着替えていた。それでフロアへ向かって汗だくになって踊ったあと、またトイレに戻って着替えて「よし、次のクラブへ行くぞ」なんて言っていた。

 

APRIL WALKER

当時は音楽とファッションが手を取り合っていた。今でもそうだけど、1990年代は創造性に溢れていたのよ。

 

TJ WALKER

Calvin Kleinのようなデザイナーズブランドが俺たちのカラーリングやスタイル、シルエットに似せたオーバーサイズの製品を作り始めた時、自分たちが世間に受け入れられたと感じた。俺たちがブランドを立ち上げた当時は、服屋はどう売り出して良いのか分かっていなかったんだ。Carl(Jones。Cross Coloursの共同設立者)がバイヤーと話をする時は、いつもそこが大きな問題になっていた。「あんたたちの服はどの服の隣に置けばいいんだ?」って訊かれたのさ。Carlは「隣に置く必要はない、俺たちだけのコーナーを作ってくれ」って返していた。

 

BOSKO KONTE

当時の俺の髪型はハイトップ・フェードだった。Kid ’n’ Playみたいな髪型さ。楽しい時代だったよ。ファッションはその中でも特に楽しかった。スプレーでタギングされたパンツは良く覚えているよ。

 

KWAME

映画『House Party』には、俺そっくりの奴が出演しているんだ。だから、本当に出演しているのか良く訊かれたよ。俺は「出演していないぜ。撮影現場にはいたけどさ」と説明していた。奇妙な感じだったよ。Salt-N-Pepaの話と同じだったからさ(編注:『House Party』の主演を務めたKID ‘N PLAYは、Salt-N-Pepaの「Get Up Everybody」のミュージックビデオに端役として出演していた)。俺たちの仲間の多くが撮影現場にいたけれど、どういう理由か本編には出演できなかった。俺たちみたいな格好をしているエキストラの連中を見るのは奇妙な気分だったね。

 

 

 

 

Part 4:大企業の参入

 

シーンの金回りが良くなってくると、大企業が一枚噛もうとして参入するようになった。ニュー・ジャック・スウィングはテレビ、映画、ラジオ、MTVなど至るところに露出していた。ここから墜落が始まる。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

Teddyがプロデューサーとしてたったひとりでブラックミュージックシーンを再興させると、他の連中もそのサウンドを利用するようになった。ラジオでオンエアされる15曲全てがTeddyのプロデュース作品だった時もあったね。ニュー・ジャック・スウィングはTeddyがほぼたったひとりで起こした社会現象だったのさ。

 

HANK SHOCKLEE

Bobby Brownのアルバム『Don’t Be Cruel』はタイトルトラックがファーストシングルとしてカットされたんだが、この曲はL.A. Reidの作品だった。このアルバムが爆発的にヒットし始めたのは、Teddy Rileyが参加した「My Prerogative」がリリースされてからだ。

 

KWAME

Bobby Brownは当時最大のスターだった。

 

 

Bobby Brown "My Prerogative" (1988)

 

 

HANK SHOCKLEE

「My Prerogative」が大ヒットして、Bobby Brownは当時世界最大のアーティストになった。R&Bのトップアーティストとか、米国ナンバーワンとかのレベルじゃなかった。インターナショナルなスターになったんだ。彼にスポットライトが当たれば、全世界が注目した。世界中があの新しいサウンドを欲しがっていた。

 

BRUCIE B

誰もがあのサウンドを欲しがっていたよ。

 

TEDDY RILEY

ツアーに出るようになって自分の作品を他の都市でも聴いた時は、「マジか」と思ったね。俺の音楽はWBLS、KISS、WKTU(全てニューヨークのラジオ局)でオンエアされているだけだと思っていたからな。それで「なんだかスゴイことになってるぞ」と気付いた。どこかの都市を訪れれば、空港やラジオやリムジンで自分の曲がプレイされているんだからな。クレイジーだった。

 

DAE BENNETT

Teddy Rileyが成功を収めていく様子は誰もが見ていたはずだ。だから、Jam & Lewisが手がけるアーティストたちが彼のアイディアを大量に拝借するようになり、更にはそのアーティストたちがお互いのアイディアを使い回すようになったんだ。

 

HANK SHOCKLEE

L.A. ReidやBabyface、Jam & LewisがTeddy Rileyを知る前に生み出していたサウンドと、知ったあとのサウンドを聴き比べれば、大きく異なっているのが分かる。彼らがヒップホップビートにR&Bのアレンジと音楽性を加えた瞬間、ニュー・ジャック・スウィングはメインストリームに進出したんだ。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

プロデューサーがスター扱いされるようになったのはその頃さ。

 

HANK SHOCKLEE

俺がプロデュースしている連中が「Teddy Rileyみたいなスタイルの作品にしたい」と言ってきたら、「じゃあ、Teddy Rileyを雇え」って言うね。

 

KWAME

当時のレコード会社は、ラジオヒットやメインストリームヒット、クロスオーバーヒットが必要だと思うと、アーティストたちにニュー・ジャック・スウィングの方向に進むようにプレッシャーをかけていた。当時のレコード会社は十分な予算があったから、自分たちが抱えるアーティストたちに「Teddy Rileyに金を使え」と伝えたのさ。Teddy Rileyのシングルが1枚あれば、メインストリームヒットになったからね…。

 

当時ラジオでオンエアされていた唯一のヒップホップは、Teddy Rileyのビートに乗せて “ちゃんと歌っている” コーラスが入っている作品だった。そして、当時それとは別にオンエアされていたもうひとつの作品が、1990年にリリースされた俺の「Ownlee Eue」だった。でも、「Ownlee Eue」はニュー・ジャック・スウィングの文脈で語られることを目的として生まれた曲じゃなかった。俺は単純に朝6時から夜6時までの間にオンエアされる曲が欲しかっただけだんだ。「歌えるフックとダンサブルなビートだけあれば何でも構わない」と考えていた。

 

 

Kwame "Ownlee Eue" (1990) 

 

 

BOSKO KONTE

俺はGuyのファーストアルバムに収録されている「Piece of My Love」のAaron Hallを聴いて歌い方を学んだんだ。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

GuyのAaron Hallは本当に良い仕事をしていた。彼の歌は実に素晴らしかったし、Teddy Rileyのビートに意味を与えていた。ビートそのものも良かったが、ヒット曲にするためには、良いメロディ、良いパフォーマンスがビートの上に乗せられる必要がある。Aaronの歌声はTeddy Rileyのサウンドに何よりも貢献していた。そのあと、Teddy Rileyは他のアーティストでもその条件を揃えることで成功を収めることができていた。

 

KWAME

俺はGuyと一緒にツアーに出ていたんだ。Teddy RileyはAKAI MPC60をステージの上に置いていた。Avidのコンピューターシーケンサーも置かれていた。ハイテクなショーを展開していたのさ。レコードと同じサウンドのドラムサウンドがシーケンサーで鳴る中、バックバンドがそれに合わせて演奏していた彼らのショーを本当に素晴らしいと思ったよ。あれ以来、ああいうショーは観ていないね。

 

DOC ICE

Teddy RileyがプロデュースしたGuy「Groove Me」がプレイされるたびに、俺たちは大興奮だった。俺たちもクラブヒットを狙っていたけれど、あの曲がクラブでプレイされると、エナジーとフィーリングを感じることができた。あのスウィング感がもたらしていたんだ。圧倒的だったね。全員が盛り上がったよ。

 

KWAME

ある日クラブへ出向くと、Michael(Bivins)から、Ricky(Bell)とRonnie(DeVoe)の2人と組んで一緒にラップグループを結成することについて意見を求められた。だから俺は「本気かよ? New Editionを抜けるつもりか?」って返したんだ。すると彼は「New Editionの未来は分からないし、俺たちにはまだやりたいことがある。Bobby(Brown)はキング・オブ・R&Bになっているし、Ralph(Tresvant)もソロプロジェクトをやってるしさ」と説明していた。

 

HANK SHOCKLEE

Bell Biv DeVoeのプロデューサーだったHiriam Hicksが俺のところへやってきて「よう、俺のところにNew Editionの3人が来たぜ」と言ってきた。New Editionのメンバーがソロ活動を展開していく中で、Bell Biv DeVoeの3人にはコンビを組めるまだプロデューサーがいなかったのさ。New Editionでは基本的にバックコーラスを担当していたから、グループ内にちゃんとした居場所がなかったんだ。

 

 

Bell Biv DeVoe "Poison" (1990) 

 

 

KWAME

Michael Bivinsが「Poison」のデモをプレイしてくれたんだ。でも、デモのデモって感じのバージョンだったから、俺は最低だと思った。全くピンとこなかったし、「この曲のどこにラップを入れるつもりなんだ?」って訊ねたよ。すると、奴は「何も入っていない空白部分のところさ」と返した。俺たちはDana Dane、Michael、そして俺の友人のDougieと一緒に車に乗っていたんだ。奴は続けて「リリックが必要なんだ」と言ってきた。それでDanaが「俺が書くぜ」と言うと、Dougieもラッパーだったから「俺も」と続けた。それで、車がクラブに着くまでに俺がMichaelにリリックを渡したんだ。Michaelは「何これ?」って感じだったからビートをプレイしてもらって、俺がシンプルなフロウで「 “Poison… deadly, movin’s slow…” こんな感じさ。覚えたか?」と教えたんだ。それでMichaelが「ああ」と答えたから、「よし、これでリリックが揃ったな」って言ったのさ。

 

HANK SHOCKLEE

Bel Biv Devoeに関して最初に頭に浮かんだのは、Michael BivinsとRonnie Devoeをラッパーにして、Ricky Bellをシンガーにするというアイディアだった。R&Bのソロアーティストにラッパーをゲスト参加させてリミックスする代わりに、グループ内で完結できるようにしたのさ。だが、RonnieとMichaelはストリートスタイルのラッパーじゃなかった。だから、俺が考えた “R&Bラップ” というスタイルで打ち出す必要があった。

 

KWAME

ニュー・ジャック・スウィング / R&B系のアーティストはヒップホップの分派って扱いだったけど、それが逆に良かったんだ。彼らはヒップホップアーティストよりも稼いでいたし、スポーツ選手や女優とつるむことも多かった。でも、ヒップホップのラッパーたちはラッパー同士でつるむしかなかったのさ。

 

HANK SHOCKLEE

ニュー・ジャック・スウィング / R&B系のアーティストにはヘヴィでダークなストリートレベルの音楽は無理だった。その方向に進めば失敗した。アーティストについてはちゃんと考えてあげる必要がある。確実に勝てるポジションに置く必要があるのさ。Bell Biv Devoeの3人はラップに姿を変えたR&Bシンガーという立場を貫く必要があった。

 

 

 

Part 5:ニュー・ジャック・スウィングの終わり

 

ひとつのトレンドはすぐに新しいトレンドに道を譲り過去のものになる。ニュー・ジャック・スウィングも隆盛を誇ったが、この運命から解き放たれたわけではなかった。

 

HANK SHOCKLEE

ニュー・ジャック・スウィングのピークはAl. B Sure!のあとだった。Color Me Baddのようなグループが登場した。H-Townもいた。グループが雨後の筍のように出てきた。Color Me Baddが登場した時に「これで公式にメインストリームだ」と思ったね。

 

MARKELL RILEY

正直に言えば、ニュー・ジャック・スウィングの終わりは、Teddy RileyがBlackstreetとして仕事をし始めた1990年代中頃だった。サウンドが変わり始めたんだ。俺たちのようなTeddyが手がけているグループの他に、新しいプロデューサーが手がけたグループも世に出始めた。それで、新しいプロデューサーたちがホットな音楽を送り込むと、世間がそこに群がるようになったんだ。

 

KWAME

Teddy RileyのマネージャーだったGene Griffinが彼に金儲けをするようにけしかけたんだと思う。「またR&Bのグループが必要だ。あのR&Bグループが成功したから、別のR&Bグループを送り出すぞ」ってね。それでTeddyも丁度もっと前に出たいと思っていたから、あらゆるグループに関わったんだ。

 

TEDDY RILEY

カントリーの連中でさえ「No Diggity」を気に入っていた。「No Diggity」に合わせてラインダンスをしているのを見たことがある。

 

HANK SHOCKLEE

プロデューサーがアーティストになると、突如としてプロデューサーとしての価値を失うんだ。俺もプロデューサーとアーティストの両立はできなかった。自分を客観的に見るのは非常に難しい。だからこそ、プロデューサーは重要な存在なんだ。プロデューサーっていうのは、アーティストが自分では見られない部分を見てあげるのが仕事なのさ。自分で全てを見られるなら、プロデューサーは必要ない。

 

DOC ICE

Teddy Rileyが様々なグループをプロデュースするようになり、Blackstreetと仕事をするようになると、彼は前面に押し出されるようになった。正直に言わせてもらうと、彼が複数のグループを同時に手がけていくようになるとWreckx-n-Effectが崩壊し、Guyも機能しなくなっていった。ニュー・ジャック・スウィングはリーダー的存在を失って、勢いを失っていったんだ。

 

 

 

"Soul II SoulからMary J. Blige「Real Love」までのほんの一瞬でニュー・ジャック・スウィングは死んだのさ"

Kwame

 

 

 

HANK SHOCKLEE

俺にとってニュー・ジャック・スウィングのピークはJohnny Kempの「Just Got Paid」だった。あの曲のあと、全てが冗長になっていった。ウロボロスのようなものさ(編注:ウロボロスとは自分の尾を食んでいる蛇)。成功の瞬間に戻って、同じ成功を生み出すことはできない。同じジョークで笑えないのと一緒さ。

 

KWAME

R&Bをニュー・ジャック・スウィングから今のようなR&Bへ変えた存在は、Soul II Soulだった。Soul II Soulがデビューした時、俺は「ちょっと待て。ブレイクビートに合わせて歌うのか? ヒップホップ的なサウンドアプローチじゃなくても成立するのか??」って思ったよ。Soul II SoulからMary J. Blige「Real Love」までの間、つまりほんの一瞬でニュー・ジャック・スウィングは死んだのさ。

 

BOSKO KANTE

ホーンやサックスのようなジャズ的な要素が入るようになった。ヒップホップはダークになっていった。Dr. Dreが台頭して、世間は彼のようなサウンドをクールだと思うようになった。一方で、ニュー・ジャック・スウィングのサウンドはハッピーだった。「ハッピー」はクールじゃなかったんだ。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

「Flava In Ya Ear」が1994年にリリースされたが、この曲はPharrell Williamsの「Happy」のように世間を席巻した。あの曲は特に都市部のラジオ局で積極的に支持されて、ストリートレベルまで浸透していった。だが、当時のTeddy Rileyは既に成層圏の住人だった。ストリートから遠く離れた宇宙にいたのさ。

 

KWAME

そしてPuff Daddyが出てきたんだ。Puff Daddyの作品の半分はただのサンプルだった。あらゆる曲がサンプル偏重だった。

 

PRINCE CHARLES ALEXANDER

個人的にはPuff Daddyをミュージシャンとしてはあまりリスペクトしていなかった。彼はプロモーターだからさ。だが、Puff Daddyの活動を長く見ていくうちに、彼のプロモーション能力は非常に高く、あらゆるミュージシャンが必要とするものだということが理解できるようになった。Teddyもそうだったが、彼はミュージシャンだった。Puff Daddyのプロモーション能力は図抜けていたし、Teddyはプロモーションを心の底から楽しんでいたわけではなかった。Teddyは音楽を作るのがが好きで、Puff Daddyは音楽を売ることが好きだった。音楽を売るっていうのは音楽を作るのとは違う。だが、音楽を売るという活動も必要なんだ。Teddy Rileyはプロデューサーで、Bad Boyはレーベルだった。これが全てを言い表している。

 

KWAME

Michael Jacksonが関わるようになると、Teddy Rileyは他の誰とも仕事をしなくなった。Teddy Rileyのビートを手に入れることができるのはMichael Jacksonただひとりになった。Michael Jacksonの能力とTeddy Rileyの才能がニュー・ジャック・スウィングをポップスに変えたんだ。だから、世の中には「Remember the Time」と「Dangerous」しか知らない連中がいる。彼らはGuyが誰なのか知らない。High Fiveが誰なのかも知らない。おそらくTeddy Rileyが誰なのかも分かっていないだろうね。

 

 

Michael Jackson "Remember The Time" (1992)

 

 

BRUCIE B

Teddy RileyがMichael Jacksonと組んだ「Remember the Time」は、聴けば彼の音楽だということが分かった。Michael Jacksonのアルバム『Dangerous』 はその大半をTeddy Rileyが手がけていたが、随所でそれが分かる。あれは素晴らしいアルバムだ。

 

KWAME

ストリートでは天上人には見えないことが起きている。Michael Jacksonは天上人だった。Soul II SoulのサウンドとUptownのサウンドはストリートのものだった。だから『Dangerous』がチャートから消えると同時に、ニュー・ジャック・スウィングも消えていったのさ。ニュー・ジャック・スウィングはThe Classical Twoから始まってMichael Jacksonで終わったんだ。俺の中では「Remember the Time」がラストワンだった。

 

TEDDY RILEY

ニュー・ジャック・スウィングが衰退したとは考えていない。なぜなら、俺ひとりであの音楽を作っていたわけじゃないからさ。多くの人がこの音楽の命を守ってきた。分かるだろ? だから、消えてなくなったわけじゃない。単純にタイミングの問題さ。音楽ビジネスはターン制なんだ。自分のターンが来れば輝ける。自分のターンじゃなければ、後ろに下がる。自分のターンが来るまでは、無視されないように他のことをしておけば良い。俺はそうしたんだ。

 

 

 

Part 6:今も残る影響

 

TEDDY RILEY

ニュー・ジャック・スウィングは世界中に影響を与えた。なぜか? それは聴けば笑顔になる音楽だったからさ。この音楽を聴けば、自分がいる場所、自分がしていること、自分と一緒にいる人、自分の気持ち、ありとあらゆることが楽しくなったんだ。

 

BOSKO KANTE

ヒップホップをより幅広い層に届けたという意味で、ニュー・ジャック・スウィングは偉大だったと思う。ヒップホップのハードなビートにR&Bの歌を組み合わせた新しいフュージョンだった。Teddy Rileyのトークボックスの演奏と活用方法は俺のプロダクションの大きなインスピレーションになった。Teddyは『In Living Color』をはじめとする俺が手がけた音楽に多大な影響を与えたという意味で、俺のキャリアを大きく変えてくれた人物だ。

 

KWAME

Teddy Rileyはヴァージニア州に移ったあと、Timbaland、Pharrell、Darkchild、Rodney Jerkinsなどと関わりを持つようになった。彼らはTeddy Rileyからプロデュース方法を学んだんだ。Teddy Rileyはアーティストとして活動したかったのかも知れないけれど、俺に言わせれば、TeddyはDef Jamに対抗できるようなレーベルを用意しておくべきだった。偉大なミュージシャンは偉大なビジネスマンである必要があるのさ。オリジナルな才能を持っている天才の場合は特にね。Teddy Rileyが生み出したものは、業界がたった2~3年で食い尽くしてしまったんだ。

 

 

 

"Teddy Rileyの音楽が流れてくると「よし、パーティタイムだ!」って思うのさ"

Brucie B

 

 

 

MARKELL RILEY

個人的なハイライトは、リビングでTeddyの仕事を見ていた時だね。アーティストが次から次へとやってきて、そこでレコーディングをしていたんだ。Teddyはそのリビングに4トラックや12トラックのレコーダーを置いていたんだ。アーティストがバスタブの中で歌う時もあった。俺と友人が外のベンチに座っていると、窓から音楽が大音量で聴こえてきたもんさ。「ワオ、こいつはクレイジーだ。ヒットになるぞ」なんて思ったね。

 

HANK SHOCKLEE

ニュー・ジャック・スウィングはテンプレートとして今も残っている。ただ、昔と姿を変えただけだ。Drakeの音楽も、Beyoncéの音楽もニュー・ジャック・スウィングだし、Rihannaの音楽もそうだ。もちろん、最近はスネアがあそこまで前に押し出されていないし、チューニングも合っているが、バイブスは今も昔も変わらない。

 

BRUCIE B

Teddy Rileyのサウンドはタイムレスさ。これからもなくなることはないね。Teddy Rileyの音楽が流れてくると「よし、パーティタイムだ!」って思うのさ。なにしろ明るくてパワフルだからね。彼の音楽はパーティの前半にプレイされるような音楽じゃない。

 

DAE BENNETT

Teddyとニュー・ジャック・スウィングを振り返ってみると、ストリートから生まれた最後のリアル・グラスルーツだったように思える。今のシーン、ニュー・ジャック・スウィング以降のシーンは全て「不自然」だ。今は企業が我々をターゲットにして用意したものに見える。ニュー・ジャック・スウィングは、コンクリートの歩道を突き破って生えてくる雑草のようだった。

 

 

※:Angela Hunte-WisnerとApril Walkerの発言は『Wax Poetics』の記事内に掲載されていたものを同誌のAndres Torresの許可を得て使用したものです。この場を借りて氏に感謝します。

 

Illustrations © Vince Joy