八月 12

The History of Ambient House:1988-95 (Part 2)

アンビエント・ハウスとは一体何だったのか? チルアウト・ミュージックにおける隆盛と没落のストーリーをPART 1&2に分けて紐解いていく

By Matt Anniss

 

テクノやハウスが台頭してメインフロアを激しく沸かせていた1980年代後半から1990年代中盤、サブフロアを担っていたのがアンビエント・ハウス/チルアウト・ミュージックだった。その短くも美しいひとつの時代をシーンの顔役を担ってきた人物たちと共に振り返っていく。Part 2となる今回は、アンビエント・ハウスのピークから終焉までを追っていく。(編注:本特集のPart 1及びPart 2の段落間に挿入されているテキストは発言者が明記されていない限り、KLFのアルバム『Chill Out』に挿入されていたインフォシート『AMBIENT HOUSE – THE FACTS』からの引用) Part 1はこちら

 

 

 

"アンビエント・ハウスは風と愛を交わし、星たちに語りかける"

 

 

 

1990年から1993年の僅か3年間で、英国のダンスミュージック・シーンは恐るべきスピードで進化した。テクノやその周縁に広がるジャンルがBPMを速くしてハードさを志向する一方、その反作用としていわゆる「チルアウト・ミュージック」の人気も高まり、両極に向かって成長を続けるシーンはプロデューサーやクラブに活況をもたらした。「あの時代は、すべてがスピードと激しさを増していた」と回想するのはJonah Sharp。この時代におけるアンビエント・テクノを決定づけたプロジェクト、Spacetime Continuumとして活動していたプロデューサーだ。「そうした状況だったからこそ、アンビエントやチルアウト・ルームが必要だったんだ。あの時代、メインルームの音楽はきわめて激しくハードなものだったから、そこから逃避してチルアウトできる場所がなければならなかったのさ」

 

当時のロンドンにおけるチルアウト・ルームの盟主として君臨していたのがMixmaster Morrisだった。1990年にMadlandsでレジデントを務めていた彼は、もはや「アンビエントDJといえばMorris」と言われるほどの信頼を勝ち得ていた。当時のアンビエント・シーンを題材に扱った今回の記事を執筆するにあたっても、彼のフレンドリーさや情熱、そして広範にわたる音楽的知識に満ちたコメントが大いに役立ったことを記しておきたい。

 

1993年からMorrisが運営に関わっていたパーティ、Telepathic FishについてKevin Foakesは次のように語る。「Morrisは色んな人たちが個別にやっていた当時の活動を繋げる触媒の役割を果たして、シーンに属する連中をまとめてくれたんだ。当時のアンビエント・ハウスは大きく分けて2つの勢力に分かれていた。ひとつはAlex PatersonやYouthをはじめとしたThe Orbのコラボレーター集団で、もうひとつがMorrisやその周辺にいた人たちだったのさ」

 

Mixmaster Morris ©Jean-Paul Berthing / MixmasterMorris.com

 

SpacetimeはMixmaster Morrisが初期に担当していたレジデント・パーティのひとつで、この不定期パーティはJonah Sharpとその友人でファッションデザイナーのRichard Sharpeによって運営されていた。RichardはThe Shamenのツアーにも参加した経験もあり、The Shamenの『Top of The Pops』(英BBCの人気音楽番組)出演時の衣装をデザインし、Mixmaster Morrisのトレードマークとなっているホログラム・スペース・スーツのデザインも手掛けている。

 

Spacetimeはイースト・ロンドンのライムハウスにあったウェアハウスの屋上を利用して開催されていた。このパーティはたった1年で終了したが、その評判は伝説となり、ファイナルパーティの際にはJonah Sharpが言うところの「このシーンに関わる全員」が集まった。この頃には、パーティの音楽的趣向はそれ以前とはやや違うものに変化していた。

 

「Spacetimeのフロアはひとつだけで、パーティの最初と最後の時間帯こそアンビエントがプレイされていたけど、パーティの中盤はテクノがプレイされていた。それは大抵の場合Mr C(The Shamen)の担当だったね」とMixmaster Morrisは振り返る。「もう25年前の話だけど、あの頃は何らかのルールに従わなければいけないというプレッシャーはほとんど存在しなかったんだ。Spacetimeは他のどんな人たちとも違う、何か新しいことが出来る素晴らしく自由な空間だったね」

 

Jonah SharpもMorrisの意見に同意する。「当時は何でもかんでもレイブに関連付けられる時代だったけど、僕らはもっとレフトフィールド的なものに接近したいという思いがあった。たとえばThe Black Dogのような人たちがやっていた音楽にね。個人的には、米国の中西部から生まれてくる音楽に対する英国からのリアクションが僕たちのような新しいスタイルを生み出したんだと思う。それはチルアウト的ではあれど、ニューエイジではなかった。初期のThe Orbの作品群よりもデトロイト・テクノに寄っていたし、僕たちはLarry Heardをはじめとするジャズの影響下にあるディープハウスのレコードもプレイしていた」

 

 

 

"アンビエント・ハウスは過去2年間のダンスミュージックをかなり深くまで掘り下げた人でない限り理解できない"

 

 

 

Spacetimeが提示した音楽的なテンプレートは、チルアウト・ミュージックが拡大しつつあることを明確に示すことになった。アンビエントは宇宙的な要素やデトロイト・テクノの影響下にある未来主義をより色濃く反映するようになり、チルアウトとアンビエント・テクノの境界線は曖昧なものとなっていった。Mixmaster Morrisは、当時のパーティで人々が摂取するドラッグの流行の変化もその要因として指摘する。それまで隆盛を誇ったエクスタシーが徐々に廃れ、LSDやマジックマッシュルームの人気が高まっていた。

 

「アシッドハウスがブームになった頃、サイケデリック・シーンがクソ真面目に “アシッド” を旧来のサイケデリックなものととして解釈したのがその人気の一因さ」と言ってSteve Hillageは笑う。「サイケデリック・シーンは1980年代初頭の時点で既に崩壊状態にあったんだけど、その中にFraser Clarkという面白い男がいてね。彼は1986年に『Encyclopedia Psychedelia』(サイケデリア百科事典)というファンジンをスタートさせた。そのファンジンの中で、彼はエレクトロニック・ミュージックこそが新たなサイケデリアであると一貫して主張してたのさ。要するに、サイケデリック・シーンの一部はかなり前からエレクトロニック・ミュージックを話題にしていたんだ。古くからサイケデリック・シーンに関わってきた人々の中には、90年代初頭になってエレクトロニック・シーンに移行した者がかなりいたはずだよ」

 

サイケデリック・シーンとダンスミュージックの絆の強さを最も強く反映していたのは、Heavenで行われていたパーティ、Megatripolisだろう。このパーティの最大の魅力は、当時の先進的なサイケデリック思想家たちによるゲストレクチャーだった。「Megatripolisのレクチャーには、それこそほとんどすべての重要人物が招かれていた。Terence McKenna、Alan Ginsberg、George Monbiot、それにISDN回線を通じてTimothy Learyが登場したこともあったよ」とMixmaster Morrisは回想し、更に続ける。「Terenceのレクチャーは素晴らしい内容で、彼は並外れたカリスマ性を持っていた。彼はメモを一切見ずに8時間ほど話し続けて、最後にまた原点的な話に戻るんだ。透徹した情熱の持ち主だったね」

 

 

McKennaの特徴的なスピーチとヴォイスはThe ShamenやSpacetime Continuumといったアンビエントの作品群にも数限りなく登場している。とりわけ、Spacetime Continuumが発表したアルバム『Alien Dreamtime』は1993年にサンフランシスコでJonah SharpがMcKennaと共に行ったライブを土台にしている。

 

「あのライブは、サンフランシスコのレイブ・シーンにとって非常に重要な機会となったんだ」とSharpは語る。「辺りではヒッピーたちがツリーダンスをしてたし、それはもう自由そのものだったね。Terenceのパフォーマンスも素晴らしかった。ライブは2時間半ほど続いたから、アナログ機材だけでライブをしていた僕はものすごい集中力が必要になった。あの時会場にいた人たちにとっては、後世まで自慢できる体験になったと思うよ」

 

 

 

"アンビエント・ハウスとは不定形の潜在意識である"

 

 

 

1991年から1994年にかけてのロンドンのスクワット(不法占拠)・パーティも、ハードコアとアンビエントの拡大において重要な役割を果たした。「90年代初頭はカンバーウェル地区だけでも、週末の夜には3つから4つのスクワット・パーティが行われていた」とMixmaster Morrisは語る。「6棟ほどの建物を占拠して、数千人規模のパーティが行われることもあったくらいさ。こうしたパーティでは、有名無名を問わずさまざまなジャンルの興味深いDJたちがプレイしていた。ビッグネームのDJは、他のコマーシャルなクラブでのプレイを終えた朝5時以降に登場することが多かったね。僕が初めてJuan Atkinsのプレイを体験した場所も、こうしたスクワット・パーティだった」

 

90年代初頭のスクワット・パーティの中でも最も強い影響力をもっていたパーティがTelepathic Fishだ。このパーティは、学生の友人同士のグループによって仕掛けられたもので、メンバーの中にはKevin Foakes(Strictly Kev)やChantal Passamonte(後にMira Calix名義でWarpから作品をリリースする)なども名を連ねていた。

 

「最初のパーティは、1992年に僕らが下宿していたイースト・ダリッジの学生寮で開催したんだ」とFoakesは回想する。「それまでの僕らは、レイブで一晩中遊んで朝を迎えては、そのまま誰かの部屋に転がり込んでチルアウトして過ごすっていう生活だった。ゆったりとした音楽をかけて、たまにスポークンワードのサンプルを被せたり、クジラの鳴き声を混ぜたりしながらね。この遊び方をもっと発展させて楽しめないだろうかと思って、自分たちでパーティをやることにしたのさ。いわば、レイブ後のパーティって感じだった」

 

初回のTelepathic Fishは大成功に終わり、すっかり気を良くしたFoakesとPassamonteらはブリクストンのタンストール・ロードにスペースを確保し、早速2回目のパーティを開催した。「アンビエント・ティーパーティ(茶会)」と銘打たれたそれは、日曜の午後に始まり月曜の朝まで続くものだった。初回と同様、ここでもMixmaster MorrisがDJセットを披露し、スペシャルゲストとしてColdcutのMatt Blackもプレイした。

 

「あのパーティは僕に決定的な影響を及ぼしたと思う」とBlackは断言する。「この特別なシーンの一部になりたいって心から思える現場は、僕にとってはあれが初めてだった。Morrisが5〜6時間のロングセットをプレイしている時、僕はその12年前に初めてアシッドトリップを体験したときのことを思い出していた。完全に自分自身が解放された経験だったね。あのパーティで、僕はDJがオーディエンスに対してどれほどの責任を負っているのかを初めて痛感させられた。あの時のMorrisのDJは、その場にいた多くの人々を心理的に繊細な領域にまで連れて行ってくれたからね」

 

Coldcutがその後すぐにアンビエント・ハウスへと傾倒し、Alex Patersonが広めたDJ主体のサンプリングを多用したアプローチへと変化していったことは当然の流れだった。Coldcutは80年代中盤からヒップホップ(後にアシッドハウス)の影響を受けたサンプリング・カルチャーの熱心な支持者だった。

 

「Coldcutは自分たちのラジオ番組『Solid Steel』ではそれほど多くのアンビエントをプレイしていたわけではないけど、たまにプレイしていた」とFoakesは語る。「1991年のクリスマスには、ColdcutとThe Orbの2組で番組を持ったこともある。『Solid Steel』の特別版『Coldcut vs The Orb』は当時もの凄い反響を巻き起こしたんだ」

 

 

アンビエントが広まりを見せていく過程において、ラジオというメディアが果たした役割は決して過小評価されるべきではない。ラジオとアンビエントとの関係性という意味では、Future Sound of London(彼らはスタジオの中にISDN回線を持っており、いわばインターネット・ラジオの原型のようなスタイルで放送を行っていた)が展開した一連のラジオ番組はDJ/ライブ/サウンドデザインの境界線を更に曖昧にしていった。Future Sound of Londonは、1995年に彼らのラジオ・ジャム・セッションを集めたコンピレーション(タイトルは『ISDN』)をリリースした際、次のようなライナーノーツを残している。「ラジオは、耳を積極的に使いたい人たちのための存在として急速に進化した。その結果、我々は最も積極的で最もリラックスした状態の人たち、つまり家にいる人たちにサウンドを届けることができた」

 

Blackと、Coldcutの相方Jon Moreの2人は、クリエイティブなメディアとしてのラジオの可能性についてかなり以前から理解を示していた。彼らは早くからクラシカルな現代音楽 — とりわけSteve ReichやTerry Riley、Philip Glassといったミニマリズム作曲家や初期のBrian Eno — をミックスし、なおかつAlex Patersonが好んでいた悪ふざけにも積極的に取り組んだ。

 

「クラシカルな現代音楽を他のものとミックスして本来の文脈からあえて離れてみる作業には、ユーモアや楽しさ、遊び心が感じられたんだ」とBlackは認める。「まったく異なる2つのものを併置すれば、新たな意味を作り出したり、ファニーな意味を持たせたりすることができるのさ」

 

Blackのアンビエント・シーンへの深い傾倒は、やがてエクスペリメンタルでダウンテンポ中心のエレクトロニック・サウンドのためのNinja Tune傘下のサブレーベルN Toneの設立に繋がっていった。N Toneに所属していたアーティストたち — Journeyman、Neotropic、Burnt Friedman、そしてDrome — は、主にロンドンで発展したアンビエント・シーンから発掘された才能だった。

 

N Toneは当時の典型的なレーベル像を体現していた(このレーベルから2作リリースされたミックスCDシリーズ『Tone Tales from Tomorrow』は今でもクラシックとされている名作だ)。また、ベルギーの名門テクノレーベルR&S Recordsは1992年にアンビエント専門のサブレーベルとしてApolloをスタートさせていた他(初期Aphex Twinの代表作『Selected Ambient Works 85–92』はこのレーベルからリリースされた)、当時のロンドンのハードコア/テクノ・シーンを牽引していたRising Highもアンビエントに対して深い傾倒ぶりを見せた。その証拠に、当時最も強い影響力を与えたアンビエント・コンピレーションとして有名な『Chill Out Or Die!』をリリースしたのはRising Highだった。

 

 

 

"アンビエント・ハウスは90年代における最初の大きな音楽ムーブメントだ"

 

 

 

1994年になると、アンビエント・ハウスはロンドンのクラブの奥にひっそりと佇むチルアウト・ルームから抜け出し、世界的現象として本格的な成長を遂げていったが、そのきっかけのひとつとなったのがThe Orbのブレイクだった。The Orbはアンダーグラウンドの変わり者から出発し、フェスのヘッドライナーやヒットチャートを飾る存在にまで成長した。彼らは1992年6月に放ったシングル「Blue Room」の成功を皮切りに、『Top Of The Pops』への出演(PatersonとThrashの2人が宇宙服を着てチェスをプレイするという奇妙きわまりないものだった)までをも果たし、アルバム『U.F.Orb』は全英アルバムチャート1位を奪取した。

 

このジャンルのリリースが増え、レーベルが次々に生まれていたロンドンでは、専門のレコードショップさえもオープンした。そのショップはAmbient Sohoと呼ばれ、ベリック・ストリートの端にひっそりと店舗を構えていた。Chantal PassamonteとKevin Foakesの2人は、このショップで店員として働いた経験を持つ。

 

 

Foakesは「Ambient Sohoはすごく小さな店でさ。最初はヒッピー向けのビーズなんかの雑貨を売る店だったんだ。そのうち、ヒッピー・シーンにいる人たちが好みそうな一風変わったカセットテープやCDをカウンターに置くようになった。アンダーグラウンド&ローファイな、今にも崩れそうなボロボロの店だったけど、セレクションは素晴らしかったよ。Ambient Sohoは当時のアンビエント・シーンにおいて大きな役割を果たしたと思う。僕らも自作のファンジンを置かせてもらったり、パーティの宣伝をさせてもらったりした。当時あのシーンにいた人なら、誰もがあの店の世話になったんじゃないかな」と振り返っている。

 

シーンがある程度まで成熟すれば、世界中に波及するまではあっという間だ。1993年、Mixmaster Morrisは日本をツアーして、この国にロンドンスタイルのアンビエントを持ち込んだ。彼はYellowでプレイしたあと、レストランの裏庭で開催された日本初のアンビエント・パーティでもDJを行った。当時の日本のアンビエント・シーンは既に世界的に引けを取らない高い成熟度を誇るものに成長しており、テツ・イノウエや竹ノ内裕治といったアーティストたちはFAXやApolloといった海外のレーベルからも作品を発表し高い評価を得ていた。ある一時期には、月刊のアンビエント・ミュージック専門誌が日本国内で発行されていたほどだ。

 

一方、ドイツでは80年代の終わり頃からアンビエントはエレクトロニック・ミュージック・シーンの一部としてすでにその存在感を確立していた。Thomas Fehlmannは次のように回想する。「かなり早い時期から、Love Paradeはもとよりベルリンの小規模なイベントなどの場においても英国のアンビエントDJを招いたパーティが開かれていた。特にAlex PatersonやMixmaster Morrisはドイツでプレイする機会も多かった。ベルリンにはクラウトロックの伝統が脈々と流れていたので、アンビエントのサウンドは抵抗なく受け入れられた。テクノのクラブにおいてもManuel Göttsching『E2-E4』の影響力は絶大で、よく耳にしていたことを覚えている」

 

ベルリンのシーンで古くから活動していたFehlmannはこの街を拠点とする主なテクノ・アーティストたちとは旧知の仲で、彼はベルリンとデトロイトのアーティストたち双方をつなぐリンク的役割も果たしてきた。Fehlmannは続ける。「TresorやPlanetなどのビッグクラブの多くにもチルアウト・ルームが備えられていた。Tresorのセカンドルームでは、フランクフルトのPete Namlookが手掛けていたような実験的なアンビエント作品を耳にすることができた」

 

Pete Namlook ©Geir Jenssen / Dan Correia Flick

 

Namlookはドイツのアンビエント・シーンでは絶大な影響力を持っており、80年代後半以降のアンビエントのサウンドの変遷を反映させた音楽を展開していた。彼のサウンド面におけるトレードマーク — 伸張するコード、宇宙的なムード、泡立つようなリズム — は、同時代のPatersonやCautyが展開していた悪戯めいたサンプリングを多用した方向性というよりは、むしろEno的ともいえるクラシカルなアプローチやデトロイト・テクノの未来主義と共通する部分が多く見られた。

 

また、他者とのコラボレーションを好んでいたNamlookは、Mixmaster Morris、Richie Hawtin、Higher Intelligence Agency、David “Move D” Moufangなど、当時のテクノ/アンビエント界における著名アーティストたちと数多くのコラボレーション作品を残してきた。尚、Move DことDavid Moufangはのちに友人Jonas Grossmanと組み、Deep Space Networkとして非常にディープで想像力豊かなデトロイト影響下のアンビエント作品を生み出すことでキャリアをスタートさせている。Moufangもまたコラボレーションに積極的なアーティストで、彼にとって刺激的と思えるアーティストたちと共にジャンルの垣根を越える共同作業を展開してきた。

 

「Davidはサンフランシスコにある僕の自宅へいきなりアポなしで訪ねてきたんだ」とJonah Sharpは笑いながら回想する。「彼は『ドイツからやってきました。僕はレーベルを運営しています。あなたのレーベルの作品が大好きなんです』って言ってね。その翌日、僕とDavidは一緒にスタジオに入り、そこで出来上がったのがReagenz名義のファーストアルバムだったのさ。あの作品は、僕らが出会った翌日に制作したものだ」

 

そして、当然ながら、このコラボレーションはPete Namlookからの興味を獲得することになった。Sharpは続ける。「NamlookはDavidと旧知の関係だったし、僕のことも『サンフランシスコでアンビエントのイベントをやっている男』として認識してくれていた。僕は自分のイベントに当時のアンビエント/テクノにおけるベストアーティストを招聘していたからね。Peteは僕に電話をかけてくるや否や、『何で僕をイベントに呼んでくれないんだ?』って言ってさ。彼曰く、飛行機のチケット代は自腹で払っても良いからサンフランシスコでプレイさせてほしいってね。彼はシンセを抱えてはるばるサンフランシスコまで来てくれたよ。僕も誇らしい気持ちでいっぱいだった。彼のレーベル、FAXは当時最も影響力の強いレーベルになりつつあったしね。彼がサンフランシスコで披露したライブショーのひとつは、結果的にそのままアルバムとしてリリースされることにもなったんだ」

 

 

 

"アンビエント・ハウスって何だっけ? 先月に流行った音楽じゃなかった?"

 

 

 

1994年はアンビエントにとって商業的成功/アート性の両面においてピークの1年になったが、その一方で、あらゆる物事が急速な変化を見せ始めていた90年代のスピードに飲み込まれるように、クラブでのチルアウト・ルームは徐々に姿を消しつつあった。

 

「明らかな変化の予感があったよね」とJonah Sharpはため息をつく。「90年代初頭にチルアウト・ルームと呼ばれていた場所は、ドラムンベースやスローハウス、ヒップホップ、もっと後になるとディスコなどがプレイされる場所になっていった。そうしたオルタナティブなダンスフロアを人々が欲していたということなんだろうね。ダンスもせずにゆったりチルする空間なんて、もはや求められなくなっていたのさ」

 

Mixmaster Morrisもまた、変化の匂いを敏感に感じ取っていた。「1995年頃には、シーンがすっかり色あせている様子が感じられたものさ。夏のあいだずっとUKから離れていて、秋にロンドンへ戻ってきた僕は、何かが変わってしまったことを感じ取った。アンビエント・ルームがクラブから姿を消していった理由は納得できるものだったけどね。というのも、当時のDJたちにはとにかく直球のダンスミュージックでみんなを踊らせたいという欲求があったし、そのプレッシャーが結果的にチルアウトの居場所を奪っていったのさ。結局、クラブではどのフロアへ行ってもダンスミュージックが鳴っている状況になっていった」

 

「チルアウト」というタームはすっかり風化し、色褪せてしまった。その理由のひとつは、メジャーレーベルが大挙して参入し、チルアウトという売り文句を謳った質の低いコンピレーションなどを濫造したことにもあるはずだ。商業的なアピールを希求してきたはずのアンビエント・シーンは、コマーシャリズムによって破綻へと導かれることになってしまった。

 

 

 

"90年代初期、メジャーレーベルはアンビエントやテクノには見向きもしなかったが、そんな状況が一変して彼らが参入してくると、今度はシーンに問題をもたらすようになったのさ"

Mixmaster Morris

 

 

 

「90年代中頃にメジャーレーベルがメディアを牛耳り始めると、インディペンデントで小規模なレーベルは雑誌やラジオなどで一切露出を稼げなくなった」とMixmaster Morrisは嘆きまじりに語る。「それ以降、小規模なレーベルはかつて彼らが持ち得ていたようなインパクトを手にすることはもはや不可能になったんだ。90年代初期、メジャーレーベルはアンビエントやテクノには見向きもしなかったのに、状況が一変して彼らがそこに参入してくると、今度はシーンに問題をもたらすようになったのさ。そして、シーンをあらかた食い荒らした挙げ句、『お前らとの遊びはもう終わりだ』と言わんばかりに去っていったのさ。ジャングルも同じやり口の犠牲になった」

 

しかし、アンビエント・ハウスはエレクトロニック・ミュージックの中で現れては消えるその他のジャンルと同様、単純に自然消滅への道を辿っただけとも言えるのではないだろうか? Kevin Foakesは次のような意見を述べる。「僕が思うに、どんなシーンもだいたい約2年間でひとつの燃焼サイクルが完了するものなんだ。その期間でジャンルにおけるクラシックと呼ばれるすべての楽曲が生まれ、それと同時期にイベントも最も成熟した状態を迎える。アンビエント・ハウスが隆盛を迎えたのは、1991年から1994年だったよね。1993年になるとMo’ Waxが登場し、トリップホップ・ブームが爆発寸前となった。それと同時に、ハードコア・シーンから派生したジャングルもブレイクした。その後の1996年、1997年頃になると、シーンは更に目まぐるしく変化して、ビッグビートやポストロック、スーパクラブなどのブームが続くことになったよね」

 

一方、このジャンルの始祖のひとりであるJimmy Cautyは、当然ながらアンビエント・ハウスの衰退についてやや冷淡な意見を持っている。「当時モダン・チルアウトと持て囃されていたこのジャンルは、アンダーグラウンドからオーバーグラウンドに進む過程ですっかり駄目になっちまったよな。このジャンルがその後に残したものといえば、独りよがりでオタク的なナンセンスだけさ。結局、Guru Joshの意見は正しかったってことなんだろうな。アンビエント・ハウスは『退屈』だったってことだ」

 

 

 

"たとえあなたが嫌いでも、アンビエント・ハウスはあなたを愛している"

 

 

 

だがそれでも、おそらくアンビエント・ハウスのストーリーはまだ完結していない。昨今では「アンビエント・リバイバル」というタームを頻繁に耳にするようになり、少なくともアンダーグラウンドではその胎動が見られる。かつてCautyやPatersonが確立した雛形に比べると、それらは遥かに実験的でアカデミックな性質を持ち合わせているものの、The Orbの作品群を思わせる万華鏡のようなシンセサイザー・サウンドやどこまでも平坦なリズムはHashman Deejay、Slow Riffs、AT/NU、Scientific Dreamz Of Uといった現代のアーティストたちの作品群の中に感じることができる。

 

アンビエント・ハウス再評価の兆しは、Jonny Nashの多幸感に溢れたギターのテクスチャーや、Quiet Villageの奇妙なサンプリングを軸にした方向性、さらにはMuddが運営するClaremont 56レーベルのダビーなバレアリック・サウンドなどからも感じ取ることができる。また、Aquarian FoundationがGoing Goodからリリースした傑作アルバム『Mind Miniatures』は、まるで90年代初期の典型的なアンビエント・ハウス・アルバムのような雰囲気を放っている。初期のThe OrbやKLFの作品群と同様、Aquarian Foundationもまたこの作品のレコーディングをすべてライブミックスで仕上げており、エディットでは成し得ないひとつの流動体のような生々しさを放つパフォーマンスを聴くことができる。

 

「僕自身は、アンビエント・ミュージックの新しい時代が来ていると思いたい」とMatt Blackは興奮まじりに語る。「Joe Muggs(編注:FACT誌やThe Guardian紙に寄稿する音楽ライター)が最近書いていたアンビエント・ミュージックについての考察記事の中に『アンビエントはクソでかい音量で鳴らせ』っていう一文があったんだけど、あれは大いに気に入ったね。かつて僕らがチルアウト・ルームにおいてそうしていたように、アンビエントは大きな音量で鳴らしてみるとその真価が分かるんだ。動き続けるサウンドと戯れることができるスペースがたっぷり残されているから、そのサウンドの中に没入できるのさ。ダブみたいなものさ。独特のセクシーさがある。僕はそれが大好きなのさ」

 

アンビエント・ハウスについてより深く知るために、Mixmaster MorrisMatt AnnissがRBMA Radioのために提供したミックスをチェックしてもらいたい。