八月 10

The History of Ambient House:1988-95 (Part 1)

アンビエント・ハウスとは一体何だったのか? チルアウト・ミュージックにおける隆盛と没落のストーリーをPart 1&2に分けて紐解いていく

By Matt Anniss

 

テクノやハウスが台頭してメインフロアを激しく沸かせていた1980年代後半から1990年代中盤、サブフロアを担っていたのがアンビエント・ハウス/チルアウト・ミュージックだった。その短くも美しいひとつの時代をシーンの顔役を担ってきた人物たちと共に振り返っていく。Part 1となる今回は、アンビエント・ハウスの誕生とThe Orbのブレイクまでを追っていく。

 

1989年も暮れに差し迫った頃、KLF Communicationsのメーリングリストに登録していたラッキーなメンバーたちはある1組のレコードが収められた小包を受け取った。そのレコードの内容は、当時の基準からするときわめてラディカルなものだった。

 

それまで未発表となっていた「Last Train To Trancentral」の新たなリミックスを収録した1枚目のレコードに添えられていたインフォシートには、DJたちに向けた注意書きがはっきりと記されていた。その内容は「貨物列車マニア、寝たきりの病人、正気を失っている人以外にはこのレコードは聴くに耐えません」というものだった。

 

2枚目のレコードにも、また同様のインフォシートが添えられていた。『Chill Out』というタイトルが付けられたこのLPは、米国最南部(ディープサウス)を横断する深夜旅行のための架空のサウンドトラックであるとされ、ヴォイスやメロディの断片、企業CMのサウンドエフェクトなどおびただしい量のサンプリングで溢れていた。そのインフォシートには「まず部屋の灯りを消し、床に身体を横たえてどうぞこのLPを聴いてみてください。願わくは、この旅が完結しますように」と記されていた。

 

 

 

 

この同時期にジャーナリストたちへ向けて配信されたまた別のインフォシートには、1989年を通してあるムーブメントの胎動と成長の一部を担ってきたKLFの2人の意図が ― 少なくともある一定のレベルまでは ― 明記されていた。『AMBIENT HOUSE – THE FACTS』(アンビエント・ハウス — その真実)と題されたそのテキストには、親密度を増しつつあった英国のクラブカルチャーとエクスタシーの相思相愛関係から産み落とされた新たなスタイルについての皮肉たっぷりのイントロダクションが付されていた。真偽とジョークが入り乱れた様々な用語解説はBill Drummondの手によって書かれたものであり、そのマニフェストめいた書状は奇妙な暗示のようにも思えた。

 

(編注:本特集のPart 1及びPart 2の段落間に挿入されているテキストは発言者が明記されていない限り、『AMBIENT HOUSE – THE FACTS』からの引用)

 

それからの5年間、アンビエント・ハウス — あるいは「チルアウト・ミュージック」と呼ばれることも多い — はダンスに無関心で、寝そべって過ごすことだけに関心を持つシーンにインスピレーションをもたらしてきた。当時のダンスミュージックはハードコアやジャングル、ヨーロッパ流に変異させられたデトロイト・テクノなどの隆盛により、スピードと密度を増していた。その陰で、アンビエント・シーンはひっそりと花開いていった。

 

端的に言えば、そのムーブメントはごく短命に終わった。90年代前半を通して急速なスピードで世界的に広まっていったアンビエント・ハウスは、ミレニアムを迎える頃には惨めな終焉を強いられることになる。その全盛期にはあらゆるクラブに設けられた「チルアウト・ルーム」やアフターパーティ、ソファーで寛ぐパーティ終わりの朝などのシチュエーションにおいて精神を捩じ曲げて波立つような時間を演出するためのサウンドトラックとなっていたアンビエントだったが、やがてそれらはアシッド愛好家や中年の元レイバー、無表情なアカデミック・ミュージシャンたちの慰みものとなってしまった。

 

音楽産業に消費され使い捨てられる運命を辿った「チルアウト」というタームは、お手軽なコンピレーションやB級のトリップホップ・アルバムと関連付けられる安っぽいものとなり、本来このスタイルが初期に開拓していたはずの毅然としたユーモア、それに並外れた繊細さといった要素はすっかり抜け落ちてしまった。

 

 

 

 "アンビエント・ハウスは、一部のシニカルな人たちからは「メディアの空腹を満たすためのでっちあげの流行」として扱われるだろう"

 

 

 

Bill DrummondとJimmy Cauty、つまりKLFの2人による「アンビエント・ハウス」というタームの喧伝には、ある種の冷静な計算があった。1990年2月に彼らのアルバム『Chill Out』が発売されるまで、彼らは友人である“Dr” Alex Patersonや元Killing Jokeに在籍していたMartin “Youth” Gloverらと共に長年に渡って共同作業を行ってきた。「アンビエント・ハウス」という宣伝文句が生まれた裏にはDrummond独特のエキセントリックな言語定義能力が見え隠れしており、PatersonやYouthも含めた彼ら4人自身のリリースによってメディアにおける文脈をコントロールしたいという欲望があったのだ。

 

「アンビエント・ハウスという呼び名は自分たちがやっている音楽を伝える言葉を探している過程の中から生まれたものだし、僕ら自身も他人から適当なジャンル名やスタイル名を付けられてしまうことは避けたかった」と語るのはAlex Paterson。彼は更に続ける。「僕はE.G. Records(編注:Brian Enoが所属していたレコードレーベル。元々はKing Crimsonの所属事務所として設立された)で働いていた経験もあったから、『アンビエント』という言葉にはずいぶん馴染みがあった。これをどこかで使わない手はないぞって思ってたんだ」

 

 

 

"アンビエント・ハウスはニューエイジ・ミュージックにあらず"

 

 

 

他の大勢のアンビエント・ハウスの創始者たちとは異なり、Alex Paterson(本名Duncan Robert Alex Paterson)は70年代から80年代初頭に勃興したアンビエントとニューエイジの最初の波に対して非常に親密な距離感で接していた。彼がアンビエントに没頭したのは、彼がE.G. RecordsでKilling Jokeのローディーやツアーマネージャーなどの雑務を担当していた時期にオフィスでBrian Enoのバックカタログが詰まった箱を発見したことがきっかけだった。

 

Patersonは80年代前半を通してE.G. Recordsのオフィスにたびたび出入りしていた。ある日、Killing Jokeの使い走りでスタジオ用のタイムシートを記入するためにオフィスを訪ねたPatersonは、冗談めかして見習いのA&Rとして雇ってもらえないかと尋ねてみた。「僕は『あんたたちは、今の音楽シーンでどんなことが起きてるか誰も分かっちゃいない。少なくとも俺は今の音楽がどんなものか知ってるよ』と豪語した。翌週の月曜日になると『君を雇いたいんだが』と連絡がきたのさ(笑)」

 

PatersonにとってE.G.での仕事は彼のキャリアにおいて重要な意味を持つことになる。彼は70年代アンビエントのパイオニアたちと知己を得たばかりでなく、当時のドイツにおけるエレクトロニック・ミュージシャンの新世代であるThomas Fehlmann(彼とPatersonはやがて共同作業を共にすることになる)や若き日のMoritz Von Oswaldとも交流するようになったのだ。中でもPatersonのキャリアにおいて決定的となったのはMartin “Youth” Gloverとの邂逅である。彼はPatersonにアーティストとしての道筋を開き、音楽制作の手ほどきをした。

 

GloverとPatersonはそれぞれ学生時代に似たような音楽遍歴を辿ってきており、共にパンクやダブ/レゲエ、プログレッシブ・ロック、サイケデリック・サウンドなどに傾倒した過去を持っていた。1986年までGloverがフロントマンとして率いていたBrilliantというバンドには、ギター/キーボード担当としてJimmy Cautyが在籍していた。更に奇妙な偶然と言うべきか、WEA RecordsでBrilliantのA&Rマネージャーを担当していたのがBill Drummondという名前の男だった。

 

 

 

"アンビエント・ハウスはダンスミュージックにもあらず"

 

 

 

PatersonとCautyが共有したクラビング体験は、やがてアンビエント・ハウスを生み出す触媒となった。彼ら2人は共にエクスタシーカルチャーに没頭し、ロンドンの当時における最先端パーティの常連となっていた。その中で最も有名だったのがShroomだ。Danny Ramplingがレジデントを務めていたShoomにまつわる話は、真実と神話の境目を見極めるのが難しいが、このパーティに関して間違いなく言えるのは、そこにはグルーヴィーで多幸感に満ちた色彩豊かなアプローチがあったということだ。これは、ドラッギーな闇に支配されることになる後のレイブ・シーンとはまったくかけ離れている。ともあれ、Shoomというパーティが持っていた世界観が後にPatersonやCautyが生み出すアンビエント・ハウス作品群に少なくない影響を与えたことは確かだ。

 

このような経緯を踏まえれば、PatersonとCautyの2人が初めて行ったスタジオ・セッションがメトロノーム的ないわゆるハウスミュージックの枠組みで行われたことも理解できるはずだ。彼らは1988年の夏頃から共にスタジオでの作業を開始したが、このセッションは偶然から始まった。Patersonは以下のように回想する。「ある日、ストックウェルにあるJimmyの秘密基地兼スタジオのTrancentralへ遊びに行くことになったんだ。彼はちょうど新しいシンセを買ったところだったんだけど、彼ひとりではどうにも使い方が分からなかった。そのシンセが、たまたま僕が過去8年間Killing Jokeの仕事で見慣れていたYamaha製のシンセと同じモデルでね。僕は少なくとも電源の入れ方は分かっていた。それがきっかけで僕とJimmyはセッションするようになり、やがてシーケンサーも導入して、一緒にレコードを作ろうってことになったのさ」

 

「Tripping On Sunshine」というタイトルが付けられたその曲は、彼ら2人による新たなプロジェクトThe Orbのデビュー作品となった。脈動するグルーヴを軸に、ウェアハウス調のスタブやアシッドハウスからの明らかな影響を窺わせたこの曲はYouthがコンパイルを担当した『Eternity Project One』というコンピレーションに収録された。このコンピレーション・アルバムはYouthとPatersonが新たに立ち上げたレーベルWAU! Mr ModoとGee Street Records(編注:英国のヒップホップ・レーベル。後にメジャー傘下となる)による初の共同リリース作品となった。

 

 

PatersonとCautyはThe Orbとして2作目となる「The Kiss EP」においても同様のダンスフロア路線を継続した。サンプリングとパーカッションを多用したこのEPのタイトルは、ニューヨークの著名ラジオ局Kiss FMにちなんでいる。Patersonは、Kiss FMで何度も繰り返し耳にしたDJミックスの番組がきっかけで、DJという行為のアーティスティックな可能性に気付かされたのだ。

 

 

 

"アンビエント・ハウスはHeaven(ロンドンのナイトクラブ)の月曜夜のVIPルームに集まる小さなグループのための音楽だった"

 

 

 

PatersonとCauty、そしてGloverの3人がアンビエント・ハウスの雛形を見出したのはスタジオでの音楽制作からではなく、むしろDJを通してだった。1989年、彼ら3人は当時ロンドンにあったクラブHeavenで月曜夜に行われていたPaul Oakenfoldの「Land of Oz」というパーティのVIPルームでのDJをオファーされた。

 

「俺はちゃんとしたDJとしてのキャリアを積んできたわけじゃないし、そのオファーにあまり興味はなかった。でも、クラブ業界に信頼される存在になれたという意味で、The Orbにとっては重要だったね」とJimmy Cautyは語り、更に続ける。「俺が実際にDJしたのは片手で数えられる程度の回数で、大抵はAlexがDJをしていた。後々、Youthも頻繁にプレイするようになった。元々、ちゃんとしたチルアウト・ルームにするつもりはなかったんだ。HeavenのVIPルームはいかにもな内装で、とてもじゃないがチルアウトできる感じじゃなかったからね。俺はみんながゆったりチルアウトできるように『病院用のベッドをずらりと並べてみようぜ』って提案したんだけど、クラブ側には無視されたよ」

 

Cautyは以前にも自身のスタジオTrancentralで日曜の朝に自然発生的なアフターパーティとして「チルアウト・パーティ」を開催しており、そこに集まった有象無象の者たちを相手にPatersonがDJしていた。時折、Patersonはレコードにサンプラーやカセットデッキのサウンドを重ね、それらをすべてスタジオのミキシングデスクのチャンネルに立ち上げることもあった。CautyとPatersonの2人は、こうした実験的なアイディアを拡大したものをLand of OzのVIPバーへ持ち込もうとしていた。

 

「Paul Oakenfoldは『この部屋では誰も踊ってほしくない』って言ってたから、それなら僕らがどんな実験をしたとしても完ぺきな免罪符になると思ってね。僕らは4台のターンテーブル、2台のカセットデッキ、そしてAKAI製のサンプラーを1台持ち込んだ」とPatersonは振り返る。

 

 

Alex Paterson(1991年)

 

 

その "サウンド・スープ" は主にPatersonによって調理され、時折そこにCautyやGloverが手を加えることで、当時他ではまったく聴くことのできないサウンドに仕上がっていた。その材料には、古いプログレッシブ・ロックとサイケデリック、アンビエント、ニューエイジ、ダブをベースに、スポークンワードの断片、そしてPaterson自身が録音したフィールドレコーディングなどが含まれていた。

 

また、Patersonはチルアウト向きのレイドバックしたバレアリック・ハウスのレコード、たとえば「Sueno Latino」(Manuel Göttschingのタイムレス・クラシック「E2-E4」をサンプリングしていることでも有名なバレアリック・ハウスの代表曲のひとつ)やThe Beloved「The Sun Rising」(ノンビートのアンビエント・ヴァージョンをB面に収録した12インチ)などを見事にミックスしていた。Patersonは当時を次のように振り返る。「たとえば、808 Stateの『Pacific』のほんの一部分をループさせて、一晩を通して何度もミックスの中に登場させていたね。こうすることで、その一晩に統一感をもたらすテーマソングのような効果が得られるんだ。僕らには6時間の枠が与えられていたから、そうした実験も十分可能だったというわけさ」

 

元々は同業のDJたちとの社交の場や音楽業界へ向けたプロモーションとしての意味合いが強かったLand of OzのVIPバーでのチルアウト・パーティだったが、意外にもクラバーたちからの評判が急速に高まっていった。そして、『The Face』誌の取材を受けたあとは、他の音楽ジャーナリストからの注目も集めるようになっていった。

 

Patersonたちにいち早く注目した音楽ジャーナリストの中のひとりに、Mixmaster Morrisがいた。その年の初頭、MorrisはNME誌で毎週掲載されていたダンスミュージックに関するコラムの担当を前任者のAndrew Weatherallから引き継いだばかりだった。彼は複雑で興味深い「インテリジェントな」電子音楽を次々と紹介し、急速に読者の支持を集めていた。そしてMorris自身も奇妙で好奇心を誘うレイドバックした音楽をプレイし始めており、更にはドラムマシンやサンプラーも交えたライブも行っていた。Land of OzのVIPバーで彼が聴いたサウンドは、チルアウトDJとしての彼のキャリアを大いに刺激するものとなった。

 

「僕もこのVIPバーでプレイさせてほしいとAlexに頼んだことがあるんだけど、彼の返事は『は? 失せやがれ』といった感じでね」とMorrisは笑う。「それで、自分でチルアウト・ルームをやってやろうと思ったのさ。Land of Ozが終了して、その後釜にはMadlandsっていうパーティが収まったんだけど、僕はそのパーティでのVIPバーを任せてもらうことになった。当時そのスペースはThe White Roomと呼ばれるようになっていて、僕はそこでチルアウト・セットをやることになったわけさ」

 

Patersonがプレイしている現場では、David Toopをはじめとした旧世代のアンビエント・ミュージシャンたちの姿を見かけることも珍しくなかった。Patersonのプレイを興味深く聴いているオーディエンスの中には、元Gongのギタリストで、サイケデリック・ロック界のレジェンドのひとりとして知られるSteve Hillageの姿もあった。HillageはE.G. RecordsのオフィスでPatersonと偶然の出会いを果たしており、Patersonの誘いでHillageはLand of OzのVIPバーへ足を運んだのだ。

 

「僕がVIPバーへ入ると、Patersonはちょうど僕の『Rainbow Dome Musick』というアルバムにビートを混ぜてプレイしていた」とHillageは回想する。「彼はひらめきに導かれるままプレイしていて、精神が浄化されるような思いをしたよ。すべてが心地よく感じる、自分にとって新しい音楽的な居場所を見つけたような気分だった」

 

当時、Hillageは自分の音楽的世界観の変化をじっくりと観察している状態にあったが、Land of Ozでの音楽体験で得た直感に基づき、彼はユニークなテクスチャーを持つギターやシンセ、さらに当時の先進的なハウスやテクノに影響されたビーツを融合させることにすると、パートナーのMiquette Giraudyと共にSystem 7を結成。その最初の1曲となった「Sunburst」ではAlex Patersonをコラボレーターとして招いている。

 

 

 

"アンビエント・ハウスは、何気なく耳にしてきた生活音や自然音を音楽に昇華させる"

 

 

 

PatersonとCautyの2人はLand of OzのVIPバーで醸成したフォーミュラを、The Orbとしての作品群にも反映させていった。彼らはKLF「3AM Eternal」やSun Electric「O’Locco」のリミックスをプロデュースするばかりか、Dave Stewart「Lily Was Here」のような作品のリミックスさえも手掛けて周囲を驚かせた。これら3作のリミックスには中古レコード店から掘り出した効果音アルバムや古いSF映画から抜き取ったナレーション、ラジオからのサンプルなどがふんだんに盛り込まれていた。

 

 

「アンビエント・ハウスは、環境音を大々的に導入した初めてのスタイルだったと思うんだ」と切り出すのは、Kevin Foakes。Coldcut・Ninja TuneのStrictly Kev、もしくはDJ Food名義などで知られている彼だが、当時はまだ芸術学校に通うひとりの学生に過ぎなかった。「彼らはクジラの声や鳥の鳴き声、雷鳴、波の音、宇宙飛行士の通信音声といったサウンドを使っていた。この手法はやがて急速に陳腐化するんだけど、このサウンドの黎明期においては非常に大きな部分を占めていたんだ」

 

自然と宇宙という2つのテーマは、初期アンビエント・ハウスの作品群において大きな存在となっていた。「Alex Patersonが持つ独特のユーモア感覚もまた、The Orbとその他大勢のアンビエント・ハウスを分けていた要素だった」と語るのは、1990年代初頭からPatersonと共にコラボレーションしているThomas Fehlmann。「私のようなドイツ人がアンビエントを解釈すると、シリアスなものになりがちだ。主にクラシックから着想を得ていることがその原因だろう。だが、Alexはそうしたものすべてをいったん宙に放り投げ、ジョークにしてしまう」

 

 

 

"アンビエント・ハウスの世界観は、ラジオ向けの7インチ・シングルには収まらない"

 

 

 

やがて、PatersonとCautyの2人は、初期The Orbサウンドの集大成といえる全19分の伝説的シングル「A Huge Ever Growing Pulsating Brain That Rules From The Centre Of The Ultraworld (Loving You)」の完成にこぎつけた。サンプリングの可能性とどこまでも拡張するムードにおける実験を繰り広げてきた彼らは、Minnie Riperton およびGrace Jonesの楽曲をTangerine Dreamスタイルのシンセフレーズ(今にして思えば、それは本来ベースラインだったサウンドのピッチを上げてスピードアップさせたものだったはずだ)と融合させ、ヘヴィなブレイクビーツやお得意の自然音サンプルも散発的に盛り込んだ。このシングルは今でもThe Orbにおける最もマジカルな瞬間として記憶されている。また、このシングルは当時まだ登場したばかりだった「アンビエント・ハウス」というタグが正式に貼られた最初のレコードとなった(バックカバーには「エクスタシー世代のためのアンビエント・ハウス」というコピーが書かれていた)。

 

やや意外に思えるが、PatersonとCautyはこの曲の着想を得た瞬間を鮮明に記憶している。「この曲を作る前夜、僕らはブライトンの外れで行われていたShoomのパーティへ遊びに行き、そのまま日曜の朝から昼過ぎまでビーチに寝そべって過ごしていたんだ」とPatersonは回想する。「Trancentralに戻ると、Jimmyは軽い熱中症のせいで頭痛がして脚もひどく日焼けしていたけどね。そんな中、僕らは作りかけのままになっていたこの曲のビーツを入れ替えてみることにしたのさ」

 

 

BBC Radio Oneの伝説的DJ、John Peelはこのシングルをいち早くサポートし、1989年12月にこのシングルが発売されたその週にThe OrbをBBCのMaida Vale Studioへ招き、彼の番組『Peel Session』で放送するために「A Huge Ever Growing ...」のライブ・ヴァージョンを披露してほしいと依頼した。複雑なレイヤー構造を持つこの曲をライブで再現するには、かなりトリッキーな作業になることがすぐに予想された。

 

「俺たちは指定されたライブルームにセットアップを組み、まず4小節から8小節のループを24トラック分録音して、23分ほどのお化けみたいな長さのループを組んだんだ」とCautyは当時の作業を振り返る。「ループを用意するセッションが終わると、番組のプロデューサーが俺らに『いやあ、お疲れさま。いったんパブにでも行ってひと休みしてきてくれ』って言うんだ。その後で録音をチェックしようってね。俺はコントロールルームに入って自分でミックスしたかったんだが、彼らは頑として受け付けてくれなくてずいぶん押し問答したよ。俺は『あんたたちの手元にあるのはただのループ素材で、これから俺たちがミックスして構成を組まなきゃ23分のパフォーマンスは完成しないんだ』って説明しなきゃならなかった。彼らはようやくコントロールルームへの入室を許してくれた。ミックス作業はエディットなしの一発録りで完成させた。SSL製のコンピューターは10分ほどでメモリーが全部尽きちまったけどな」

 

The Orbの『Peel Session』出演は、アンビエント・ハウスの歴史においてひとつの重要なマイルストーンとなった。英国においてオルタナティブで新しい音楽を求めるリスナーたちにとって、John Peelがホストを務めるこの番組は絶大な影響力を持っており、この番組に出演することはより幅広いオーディエンスにこのジャンルの存在を知らしめるだけでなく、その正当性さえも与えてくれた。また、それまでのラジオでは考えられなかった、「長尺でゆっくりと漂い続けるような楽曲もオンエアされる」という既成事実も作られることになった。彼らの後に続くアーティストたちは今もその恩恵に与かっている。

 

「あの曲(『A Huge Ever Growing ...』)がリリースされた当時、世間は僕たちをどう扱うべきなのか判断しかねていた。僕たちにとってそれは喜ぶべきことだったけどね」とPatersonは興奮気味に語る。「『Peel Session』に出演したあと、一気にブレイクしたんだ」

 

 

 

 

1990年はPatersonとCautyにとって多作の1年となったが、彼ら2人の関係はKLF『Chill Out』を巡る議論の果てに別々の道を辿ることになる。「僕が数多くのDJで繰り広げてきたミックスのアイディアが『Chill Out』の基礎になっているんだ。だから『Chill Out』のクレジットに僕の名前を載せてくれれば何も問題はなかったのさ。でも、JimmyとBillは史上初のアンビエント・ハウス・アルバムをKLF名義でリリースすることに拘っていたのさ」とPatersonは断言する。

 

KLFはやがてアンビエント・ハウスというスタイルとは決別することになるのだが(おそらく、彼らの音楽に対してGuru Joshが「退屈そのもの」と酷評する発言をしたことが理由だろう)、彼らは『Chill Out』の後にもThe Pet Shop Boys「It Must Be Obvious」のUFO MixやCautyのソロアルバム『Space』などアンビエント・ハウスの古典と呼ぶべき作品をいくつか残している。一方、The Orbをひとりで継続することになったPatersonは数々の実力あるコラボレーターやプロデューサー、スタジオエンジニアなどを招き、The Orbの広大な世界観と共にアンビエント・ハウスを決定づけることになるデビューアルバム『Adventures Beyond the Ultraworld』をレコーディングした。

 

Strictly KevことKevin Foakesはこの2枚について「『Adventures Beyond the Ultraworld』はスペーシーなアンビエント・サウンドの手本になり、KLFの『Chill Out』は、より環境音楽に傾倒したアンビエント・アルバムの手本になったのさ」と振り返っている。

 

Part 2へ続く)