七月 24

ダンスホール:エッセンシャルガイド


Justin BieberやKanye Westなど、世界中のアーティストに大きな影響を与えてきたジャマイカ産音楽の歴史を振り返る

By Sharine Taylor

 

1970年代のジャマイカをイメージしてみよう。

 

首都キングストンのダンスホールは労働者階級の人たちで溢れかえっている。最高に着飾っている彼らは、セレクターとディージェイがバイブスを作り上げるのを待っている。セレクターがインストゥルメンタルトラック、またはのちにジャマイカ人たちの間で “リディム” と呼ばれるトラックをプレイし、マイクを片手に持ったディージェイが前に出てトースティングし、自分が作れる最高の散文をクラウドに届け、クラウドは勢い良く放たれる1小節ごとに盛り上がっていく。

 

ダンスホールファンにとって、この音楽は自分たちの生活に重くのしかかっていた経済的苦難を忘れるための逃避・娯楽の手段だった。ダンスホールがのちに音楽ジャンルよりも大きな存在に変わり、国外の人たちにリゾートやビーチ以外のジャマイカを見せるひとつの窓として機能するようになるとは、当時は誰ひとり思っていなかった。

 

ダンスホールのルーツはキングストンに住む低所得の労働者階級の人たちの実生活にあった。そのサウンドは彼らがどのように時代を生きていったかを語るメロディックなナラティブだったが、ダンスホールは音楽であると同時に周辺に位置していたファッション、ダンス、アートでもあった。ダンスホールはひとつの音楽ジャンルではなく、ひとつの生き方だった。

 

ダンスホールが流行する前は、スカ、ロックステディ、メント、US産R&B、ルーツレゲエがジャマイカで人気の高い音楽ジャンルだったが、1970年代後半に入ると、当時台頭しつつあったアーティストたちが生み出していたサウンドとリリックによって国内の音楽シーンに変化が生まれていった。

 

当時、サウンドシステムとダンスホール、つまりパーティのための物理的空間はすでにキングストン市内および郊外の複数のコミュニティで用意されるようになっていた。食事、アルコール、そして当時生まれつつあったダンスホールの熱狂的ファンに囲まれながら、ディージェイたちがトースティング ― 当時はまだ “ヴァイナルをBGMにしながら人に話しかける” に近かった ― をし、サウンドクラッシュ ― ローカルサウンドシステム同士のバトル ― が人気を獲得していった。

 

その中で、世間一般の日常生活や彼らの間で共有されていた “別の人生を求める気持ち” が普及力の高いリズミカルな音楽に転生したダンスホールもまた成長を続け、人気を獲得していった。

 

 

 

“アップテンポでスピード感があるサウンドとマッチしていたダンスホールのリリシズムはヘドニズムの拠り所であると同時にジャマイカの社会情勢を映す鏡でもあった”

 

 

 

1980年代はダンスホールをさらに定義づけることになったという意味で非常に重要な時代だった。この時代を通じてダンスホールはその前に存在していた “意識の高い” レゲエから独立した存在となった。ラスタファリ運動の大きな影響を受けていたレゲエは自分たちのルーツ “アフリカ” への回帰を願いながら、ブラックの解放と主権復帰を訴えていた。

 

一方、レゲエの「厄介な従兄弟」とも言えるダンスホールは異なるメッセージを唱えていた。粗野でストレートなその音楽はキングストンのゲットーの厳しい現実が反映されたもので、6つの《G》(Gun・Gyal・Ghetto・Gays・Ganja・God / 銃・女性・ゲットー・ゲイ・ガンジャ・神)をしばしばテーマに据えていた。よりアップテンポでスピード感があるサウンドとマッチしていたダンスホールのリリシズムはヘドニズムの拠り所であると同時にジャマイカの社会情勢を映す鏡でもあった。

 

ダンスホールのレコードはキングストンの貧困、ジャー(ラスタファリの “神” )との繋がり、マリファナの医学的・娯楽的メリット、ほぼ全国的に共有されていた同性愛嫌悪、対峙しなければならなかった暴力、自分たちの周りにいる、または憧れている女性などについてのあからさまな真実をシェアしながら、様々な思考を探求していた。

 

1984年、ダンスホールはStingの登場によって最初の分水嶺を迎えた。サウンドクラッシュの誕生によってディージェイたちは他のサウンドシステムのディージェイたちとお互いのスキルを競い合うようになっていたが、ステージショーはアーティストをより幅広い層にアピールするチャンスとして非常に重要だった。そして数あるステージショーの中で最も高い人気を誇っていたのがSting(現在は開催されていない)で、「世界最高のワンナイト・レゲエ&ダンスホールショー」と呼ばれることもあった。

 

警察官からプロモーターへ転身し、ジャマイカ国内で高い知名度を誇るIsaiah Laing(Supreme Productions)がオーガナイズしていたStingは毎年12月26日に開催されていた。Stingは、自宅付近で銃撃戦が頻繁に起きていたため徒歩通勤に身の危険を感じていたLaingがそのような銃撃戦や暴力から身を守るための自家用車を買うために1982年に企画したダンスイベントとして産声を上げた。そしてこのダンスイベントが14,000人を集めて大成功に終わったことからLaingはイベント開催の続行を決定し、2年後に正式名称をStingに変えてハードコアなダンスホールファンにディージェイたちの真剣勝負を楽しんでもらうワンナイトステージショーを用意した。

 

Stingの成功を受けて同じような機会をファンに提供するReggae SumfestやReggae Sunsplashのような他のステージショーも多数企画された。尚、Reggae Sunsplashは13年の休止期間を経て復活することが昨年発表された。

 

ダンスホールを代表するトップアーティストたちの多くがStingのステージでクラッシュし、Ninjaman、Supercat、Yellowman、Buju Banton、Shabba Ranksなどがこのイベントを通じて人気を獲得していった。

 

Stingに出演していたディージェイはオーディエンスの目の前でトースティングを行った。自分たちのシングルがストリートでどれだけヒットしているかは関係なく、各ディージェイのリリカルな才能の真価は他のディージェイとのステージ上でのフリースタイルクラッシュで何を生み出せるかによって判断された。

 

Stingの歴史の中で最も記憶に残るクラッシュは初開催から数年後に記録されており、1990年のNinjamanとSupercatのクラッシュや、同年のNinjamanとShabba Ranksのクラッシュなどが含まれる。また、Stingには海外アーティストも招かれており、Foxy Brown、Bust Rhymes、Biggie Smalls、DMX、Kriss Krossなどが出演した。

 

1985年、ダンスホールは初のデジタルリディム「Sleng Teng」のリリースで2番目の歴史的瞬間を迎えた(尚、King Tubbyのサウンドシステムがコンピューターを使用したリディム「Tempo」をこれよりも早くリリースされていたという反証記事も存在する)。

 

「Sleng Teng」は1983年にレジェンドプロデューサーのLloyd “King Jammy” JamesとキーボーディストのNoel DaveyがCasio MT-40で制作したトラックと言われている。このキーボードに内蔵されている、元々はリディムとはまったく違うサウンドを目指していたプリセットリズム「Rock」をベースにして生み出された「Sleng Teng」のリディムは、Youthman Promotion、Jammys、Black Scorpio、Blackstarがサウンドシステムを用意していたStingで初披露され、アーティストのWayne Smithが「Under Mi Sleng Teng」をパフォーマンスしてヒットとなった。

 

 

 

 

デジタルリディムの誕生はダンスホールのトラック制作の民主化を進め、プロデューサーたちが新しくてイノベーティブなサウンドをより安価で生み出せるようにしたという意味でダンスホールにとって決定的な出来事となった。

 

King Jammyはコンテンポラリーなダンスホールの美学の大枠を組み上げた初期トッププロデューサーのひとりだった。リディムが中心に据えられていたダンスホールの制作プロセスは他のジャンルとは少し異なっていた。

 

ジャマイカではプロデューサーがひとつのリディムを組み、複数のダンスホールディージェイたちがその上に自分の声を吹き込む形で制作が進められる。たとえば、Madhouse RecordsのDave Kellyは1995年にサマーバーベーキューの定番トラック「Joy Ride Riddim」を制作したが、このトラックには13人のディージェイによる複数のバージョンが存在し、その中にはTanya Stephens「You Nuh Ready Fi Dis Yet」、Lady Saw「Sycamore Tree」、Wayne Wonder & Baby Cham「Joy Ride」などのポピュラーヒットも含まれている。この制作アプローチはダンスホールアーティストの作品数を増加させ、あらゆるアーティストが複数のリディムの上に自由に吹き込んで最多で1ヶ月4枚のレコードをリリースすることを可能にした。

 

 

 

 

ダンスホールサウンドを確立させた他の無数のプロデューサーたちの中で特に触れておくべき存在としては、Don Corleon(Don Corleon Records)、Stephen “Di Genius” McGregor(Di Genius Records)、Tarik “Rvssian” Johnston(Head Concussion Records)、Ainsley “Not Nice” Morris(NotNice Records)が挙げられる。

 

1980年代終わり頃までにジャマイカのダンスホールアーティストたちのクールなアティテュードとシリアスなトラックは世間に大きくアピールするようになっており、そのリーチは国外まで広がっていた。

 

ダンスホールの国外での人気獲得の大きな理由はその音楽性にあったが、ジャマイカ国内では手製のポスターもダンスやパーティを楽しみたいと思っていた人たちを引き込んでいた。ビビッドでカラフルなそのポスター群はダンスホールのシンボルのひとつとなり、その美学を定義する重要な役割を担うと同時に、ダンスホールがジャマイカ国内でどのように人気を獲得し、どのように成長していったのかを視覚的に示す証拠にもなった。

 

ダンスホールの特徴的なルックスを定義づける役割を担ったのはポスター群だけではなかった。ダンスホールのファッションとスタイルも常に人目を引いていた。その中で最も悪名高いダンスホールのファッションデザイナー / スタイラーのひとつだったのが、Barbara “Mama Ouch” Francisによって立ち上げられたOuch Crewだった。

 

Ouch CrewはMacka DiamondやLady Sawなどをはじめとするダンスホールを代表する女性アーティストたちに好まれたことで1990年代を通じて大きな話題となり、『Dancehall Queen』(1997年)や『Belly』(1998年)のような映画にも起用された。淫らでセクシーなルックスを誇っていたOuch Crewはのちに誕生するユニークなダンスホールファッションの先駆けとなった。

 

Ouch Crewのスタイルによってファッションもダンスホールのアイデンティティの一部となったが、ダンスホールのファッションで触れておく必要があるアーティストがRexton “Shabba Ranks” Fernandoだ。ジャマイカ・スタージタウンのストリートで生まれ育ったShabba Ranksは12歳でサウンドシステムの虜になるとダンスホールシーンでのキャリアを模索し始め、数枚のシングルをリリースしたあとジャマイカ国内で高い人気を誇るアーティストとなった。

 

そのShabba Ranksのキャリア最大のステップとなったのがKing Jammyのサウンドシステムへの加入で、ここで彼はRobert “Bobby Digital” NixonやGussie Clarke、そしてShabba Ranksのビッグヒットの数々やデビューソロアルバム『Rappin’ with The Ladies』(1998年)のプロデュースを担当することになるSteely & Clevieなど、ダンスホールのトッププロデューサーたちと出会った。

 

その後、Shabba RanksはUSのレーベルEpic Recordsと契約し、レゲトン誕生のきっかけになったと言われているトラック「Dem Bow」が収録されているアルバム『Just Reality』(1990年)を含む5枚のアルバムをリリースした。しかし、このアーティストにとって最も重要な1年となったのは1992年だった。

 

通算9枚目のアルバム『Rough & Ready Volume 1』はChevelle Franklynをフィーチャーしたヒットシングル「Mr. Loverman」のサウンドとヴィジュアルにも助けられ、USとUKのマーケットへ本格的に進出するきっかけとなった。

 

 

 

 

ゴールドの指輪とネックレス、そしてシグネチャーのサングラスを身に着けていたこのトレンドセッターは、キングストンのダンスホールのスタイルとファッションをポップカルチャーの外周から最前線へと連れ出すことに成功し、さらにはアルバム『As Raw As Ever』とスーパースラック(※)なアルバム『X-Tra Naked』がそれぞれ1992年と1993年のグラミー賞最優秀レゲエアルバム賞(両アルバム共にダンスホールアルバムだったが)を獲得したことで、Shabba Ranksはグラミー賞を獲得した初めてのダンスホールアーティストとなった。

 

※:スラック(slack)はダンスホールシーンで “卑猥” を意味する。

 

Beenie Man、Bounty Killa、Spragga Benzのような他のアーティストたちがジャマイカ国内で人気を獲得していく中で他の多くのダンスホールのアーティストたちがメインストリームへ進出してインターナショナルレベルで成功を収めていった1990年代は、このジャンルにとって重要な時代となった。そのようなアーティストの代表がグラミー賞を2度で受賞したShaggyで、1995年にはシングル「Boombastic」がLevi’sのコマーシャルに起用された。

 

しかし、成功を収めていたのは男性だけではなかった。ダンスホールの女性アーティストたちもクロスオーバーヒットを飛ばして大きな成功を収めていった。

 

Patraはそのセクシーさとユニークなヘアスタイル(のちに “Patra Braids” と呼ばれるようになる)で知名度を高め、Dawn Pennの1994年のヒットシングル「No, No, No」は今も最も有名なダンスホールトラックのひとつであり続けている。また、キングストンのダンスホール出身のCarlene Smith aka The Dancehall QueenはChaka Demus & Pliers「Murder She Wrote」のミュージックビデオでセクシーなワイン(※2)を披露したことで世界的に有名になり(ゴールドラメの2ピースで踊っているのがCarlene Smith)、Sister Nancyのキャリアはダンスホールが新しい領域へ進出した際に遭遇した厄介な知的財産権問題を浮き彫りにするビッグストーリーとなった(※3)。

 

※2:ワイン / wineは腰を細かく激しく振るダンス。ワイニング / winingとも呼ばれる。

※3:Sister Nancyのヒット曲「Bam Bam」は数多くのヒップホップアーティストが無断でサンプリングしていたことから訴訟問題に発展。リリースから長い時間を経てロイヤリティが支払われた。

 

 

 

 

Marion “Lady Saw” Hallは1972年にセントメアリー教区に住む労働者階級の両親の元に生まれた。

 

15歳でローカルサウンドシステムに加入し、19歳でシングル「If Him Lef」をリリースしたあと、自分の性的趣向と才能を前面に押し出したシングルを次々とリリースしてクリエイティブなディスコグラフィを作り上げていったLady Sawはやがて “Queen of Slackness” と呼ばれるようになり、ダンスホールの男性たちが彼女と同じような行動を取っているにもかかわらず、保守的なジャマイカ国民から軽蔑された。しかし、これはすべて彼女の狙いだった。

 

キャリアをスタートさせた頃のLady Sawは “品行方正” だったが、男性アーティストたちが猥雑なリリックで自分よりも大きな成功を収めていることに気付いた彼女は意図的に彼らの真似をするようになった。

 

このアプローチがひとつのピークを迎えたのが1998年のシングル「Stab Out Mi Meat」で、このトラックのLady Sawは女性を楽しませることができると思い込んでいる男性陣を挑発した。そしてそれから4年後の2002年、彼女はNo Doubt「Underneath It All」にフィーチャーされて2004年のグラミー賞最優秀ポップ・パフォーマンス賞デュオ / グループ賞を受賞し、世界的な音楽賞を初めて受賞した女性ダンスホールアーティストとなった。

 

 

 

 

28年のキャリアを通じて、Lady Sawは女性ダンスホールアーティストの多くができなかったこと、「長いキャリアの実現」、「ジャマイカ人女性像の再定義」、「歌詞を通じた性の解放」、そして何よりも重要な「男性主導のシーンでのユニークなポジションの確立」を実現してきた。また女性であるという理由から彼女が他のダンスホールアーティストとのサウンドクラッシュを回避することはなく、Spice、Macka Diamond、Tifaをはじめとするアーティストたちと激しいクラッシュを展開し、2015年まで強力な挑戦者であり続けた。

 

皮肉なことにLady Sawのステージ上での振る舞いは敬虔なキリスト教徒だった彼女の家庭環境とは真逆だった。そのため彼女はダンスホールアーティストとしてゴスペルレコードを数枚リリースしていたのだが、2015年にキリスト教徒へ本格的に復帰することを決意し、Minister Marion Hall名義を用意してゴスペルに傾倒したダンスホールトラックをリリースした。

 

1990年代後半から2000年代前半までにダンスホールは世界的な知名度を獲得し、ジャンルをまたいだコラボレーションが積極的に行われるようになった。またBeenie Man & Mya「Girls Dem Sugar」(2000年)やBeyoncé & Sean Paul「Baby Boy」(2003年)などがヒットしたこの時代は、ダンスホールのダンスも大きな注目を集めるようになった。

 

 

 

 

もちろん、ジャマイカのダンスホールではひとりで踊る人がいれば2人で踊る人もいたが、注目を集め始めたのは、男性のみ、女性のみ、または男女混合で構成されているダンスクルーだった。彼らは独自のダンスを編み出すことでシーンの中で有名になっていった。

 

また、当時はビデオカメラの普及が進んでいたため、ビデオグラファーたちがダンスホールへ向かってイベントの様子を撮影するようになった。これらの映像の多くは女性だけを追いかけた内容で、中には女性の下着を何とか捉えようとしていたビデオグラファーもいたが、ビデオグラファーたちと彼らが持ち歩いていた照明機材はシーンから積極的に受け容れられた。

 

このようにダンスホールシーンがファンの姿を公にすることを認め、イベントやストリートパーティの様子を収めたDVDがジャマイカ国内外に広く流通したことで、彼らの新しいダンスムーブが世界中に知られるようになった。

 

個人、グループを問わず、ダンサーたちはこのチャンスに飛びついた。彼らが自分たちのダンスムーブが映像に残るよう気を配る中、強烈なスタイルが話題となったGerald “Bogle” Levyのような悪名高いダンサーたちがダンスホールのダンスをネクストレベルへ引き上げた。

 

Bogleは2005年に殺されてこの世を去ってしまったが、生前に「Wacky Dip / ワッキー・ディップ」や「Row Di Boat / ロウ・ディ・ボート」、「Out and Bad / アウト・アンド・バッド」、「Willie Bounce / ウィリー・バウンス」など様々なダンスムーブを考案し、その活動はMad Michelle、Stacy、KeivaのようなダンサーやRDX、Elephant Man、Ding Dongなどのアーティストのための道を切り拓いた。

 

最も大きなクロスオーバーサクセスを収めたダンスホールアーティストと言えるSean Paulも、トロントのディレクターDirector XとコリオグラファーTanisha Scottの力を借りながらミュージックビデオ経由でダンスホールのダンスをプッシュした。

 

2000年代前半から中盤は、Vybz Kartel、Mavado、Spice、D’Angel、Tifa、Pamputtae、Aidoniaなどの新しいアーティストたちがスポットライトを浴びるようになった。ダンスホールシーンで対立や不和は日常茶飯事だったが、その中で最も大きなインパクトを与えたのがVybz KartelとMavadoの関係だった。

 

Vybz Kartel(本名:Adidja Palmer)はポートモア(Portmore:正確にはウォーターフォード / Waterford)のストリート出身で、自分の音楽を通じてゲットーが直面している問題についてのユニークな考えを示すことで、ダンスホール史上最も愛され、最も尊敬され、最も複雑な性格を持つアーティストのひとりとなった。

 

 

 

 

暴行事件や銃撃事件が非常に多いことから政治問題で常に紛争状態にある中東の地区と同じ「ガザ」と呼ばれていたゲットー出身のVybz Kartelが台頭していく中、Mavado名義で活動していたDavid Brooksも同じくゲットーの地元カサバ・ピース(Cassava Piece)を “ガリー(Gully / ゲットーと同義)” と愛情を込めて呼びながら、自分が貧困に苦しむエリア出身であることを訴えていた。

 

Vybz KartelとMavadoは自分たちの出身地こそがベストだとアピールしながら、時折お互いをディスるレコードをリリースしていったが、この「ガザ vs. ガリー」はやがて地理的違いや音楽の枠を飛び越えた騒動となった。それぞれのファンが組んだ徒党によって一般市民が暴行事件に巻き込まれるようになり、Vybz KartelとMavadoがついにオーディエンスの目の前で一騎打ちをすることになった2008年のStingでピークを迎えた(どちらが真の勝者だったのかについては意見が激しく分かれている)。

 

このクラッシュはダンスホールシーンの大きな節目となり、翌年、ジャマイカ放送通信委員会はストリートへの影響を低下させるために放送するトラックのリリックの内容を制限する決定を下した。

 

 

 

 

ダンスホールの6つの《G》のひとつだったゲットーに関する表現が大幅に制限されたことを受けて、彼らのサウンドは大きく変わっていった。

 

2011年、Vybz Kartelがかつての仲間の死に関わったとして起訴され、のちに有罪判決を受けて刑務所へ入ってしまうと、多くのファンが “ポストVybz Kartel” のダンスホールがどのようなサウンドになるのかについて思案することになった。しかし、当然ながら刑務所生活がVybz Kartelの創作活動を邪魔することはなく、Vybz Kartelはリリースを続けていった。

 

しかし、Popcaan(Vybz Kartelの後輩)、Shenseea、Tommy Lee Spartaのようなアーティストたちがダンスホールシーンのニューウェーブとして台頭していくとシーンの流れが変わっていった。クラシックなダンスホールのサウンドを維持するアーティストがいた中で、他のジャンルのサウンドを積極的に取り入れようとするアーティストも出てきた。

 

 

 

 

2015年、Justin Bieberが「Sorry」をリリースすると、このトラックとミュージックビデオは大きな議論を巻き起こした。ダンスホールを正しく参照していないのにもかかわらず、明らかにダンスホールからアイディアを拝借したサウンドプロダクションとダンスムーブが確認できたからだ。最終的には多くがJustin Bieberを「ダンスホールを復活させた」と称賛することになったのだが、2016年にダンスホールのサウンドとジャマイカをルーツに持つトロント独自のスラングが散見されるDrakeのアルバム『Views』がリリースされると議論はさらに大きくなった。

 

ダンスホールは完全に消えていたわけではなかったが、これらをきっかけにポップカルチャーに再び姿を見せるようになった。しかし、そのダンスホールにはジャマイカ人やダンスホールアーティストが直接関わっておらず、文化の盗用・吸収・拝借に関する議論と批判を引き連れての復活となった。

 

2018年にSpice「Captured」とPopcaan「Forever」がリリースされ、さらにはダンスホールシーン期待の新星ShenseeaがメジャーレーベルInterscope Recordsと契約した今、ダンスホールは数年に1回の頻度で世の中から姿を消していたつかみ所のないジャンルではなく、メジャージャンルのひとつとしての立場を確実なものにしているように見える。多少の幸運が伴えば、業界の構造や制度に変化が起きてアーティストたちがそれぞれの貢献に相応しい評価を得られるようにもなるだろう。

 

ダンスホールは我々が四六時中話題にするメジャージャンルとして成立できるだけの持続力を備えている音楽ではないという意見もあるが、そこには輝かしい未来が待っているように見える。キングストンのストリートから始まり世界中で楽しまれるまでに成長したこの音楽はすでにゴールに辿り着いているように思える時もあるが、レースはまだ始まったばかりだ。

 

 

Header Image:© Red Bull Music Academy

 

1. Aug. 2019