七月 02

イタロディスコの衰えない魅力

New OrderやCarl Craigに始まり、Pet Shop BoysやLa Rouxに至るまで、イタロディスコのサウンドはポップミュージックとクラブカルチャーに多大な影響を及ぼしてきた。イタロディスコフリークのDJ Benettiがその歴史を振り返る。

1984年夏。ダンシングタイムがやってきた。若くて情熱的で世界に対して不満を持っていた私たちには、土曜の晩の「刺激」が必要だった。そして大勢の活気あるヨーロッパ人の若者たちと共にリミニにあった伝説のディスコDiscoteca Paradisoの外にたむろしている私たちの耳には、 ディスコの中から強力なビートが聴こえていた。

ディスコのエントランスを抜け、歩を進めるごとにクリアに聴こえてくるそのサウンドに耳を傾ける。角を曲がると、鮮やかな照明に照らされたダンスフロアでもみくちゃになって身をよじらせている人たちが目に飛び込んできた。耳にはラウドで執拗で中毒的なエレクトロニックビートと共に、イタリア訛りの英語が純粋で分かりやすいメロディーに乗せられて入ってきた。その楽曲、 “Happy Song” (Baby’s Gang)は、私たちに拒否できない魔法をかけ、疲れている自分を解き放てと誘惑していた。

それがイタロディスコだった。


1970年代後半から1980年代前半にかけての多くのイタリア人DJやプロデューサーのように、私たちもフランスのシンセバンドSpace(1977年のヒット曲 “Magic Fly”で有名)と、Donna Summerの “Love to Love You, Baby” を手がけユーロディスコに革命を起こしたエレクトロニックダンスミュージックの天才で、ミュンヘンに拠点に活動していたスイス系イタリア人Giorgio Moroderのサウンドに魅了された。そして 私はDJにならなければと決意したのだった。

正式な音楽教育をほとんど受けていないにも関わらず、イタロディスコのプロデューサーたちはどんな音楽がクラブで機能するのかを知っていた。

リミニのホリデーリゾートにはその前から伝説のクラブBaia Degli Angeliが存在していた。ここは最新のディスコアンセムが聴けるクラブとして知られていた。1970年代中頃のBaia Degli AngeliではUS産の楽曲が数多くプレイされていたが、80年代に入る頃にはイタリア産の楽曲が大半を占めるようになっていた。当時輸入盤は異常に高価だったため、仲間用に少数を作るか、自分でインディーレーベルを立ち上げて流通させた方が経済的だったのだ。

イタロディスコのクラシックレーベルと言えるCiao、Banana、Il Discottoなどはこの時期にスタートした。当時楽曲をプロデュースしていたのは大半がキーボードープレイヤーかDJたちで、これは後のダンスミュージック制作方法に繋がる重要なパラダイムシフトとなった。正式な音楽教育をほとんど受けていないにも関わらず、彼らはどんな音楽がクラブで機能するのかを知っていた。そして彼らは初期シーケンサー、シンセ、ドラムマシン、そして時として自らのつたない演奏を組み合わせながら、 スローテンポが特徴の未来的でキャッチーなダンスミュージックの制作をスタートさせた。歌詞は英語が好まれ、イタリア語で歌われることは希だった。

私が本格的にDJとしての活動をスタートさせたのは1980年、 ビジェバノにあった地元のマフィアが経営するピザレストラン兼ディスコだった。映画などでよくあるようなストーリーだ。私は腰までボタンをはだけたシャツを着たギャングたちと驚くほどタイトなホットパンツを履いた美女たちに向けてプレイした。Moroderをパワーアップさせたようなベースラインが特徴的なRiz Ortolaniの “Il Corpo Di Linda”や、初の本格的なイタロディスコアーティストだったKanoの“Super Extra Sexy Sign” 、そしてEasy Goingのクラシック “A Gay Time Latin Lover” までもプレイしたが、全員が目を見張っていた。上手くいったのだ!

当時シーンは勢いづいていた。この頃、つまり1980年代前半は、悲しいことに既にアメリカではディスコブームが下火になっていたが、イタリア及びヨーロッパ諸国では盛り上がりを見せていた(音楽を自給自足できていたイギリスは除く)。そしてこの魔法のような新しいサウンドを貪欲に求めるDJたちのニーズを満たすべく、雨後の竹の子のようにレーベルが立ち上がった。

1980年代前半、 アメリカでは既にディスコブームが下火になっていたが、イタリア及びヨーロッパ諸国では盛り上がりを見せていた。

1983年になると、それまではプログレッシブロックを専門にしていたドイツのレーベルZYXがイタロディスコのプロトタイプと言える2枚組『Electric Dance Music』をリリースし、続けて大きな影響力を誇ったコンピレーションシリーズ『Best Of Italo Disco』がリリースされた。こうしてイタロディスコはより幅広い層に認知されることになり、テレビやラジオでの露出が増えていった。

DJである私はイタロディスコをプレイすればいかに客が喜ぶかを知っていた。イタロディスコは文字通り「誘惑的」だったのだ。その点については、1983年のリミニでのとんでもない一晩を思い出す。艶のある黒髪の美しい女性が自分の好きな曲がプレイされた後、セックスを求めてきた。ブースの中でいきなり私に求めてきたのだ!ちなみに私がプレイしていたのは、Video Clubによる非情にメランコリックな楽曲 “Lost Time”だった。結局、その場でセックスをする代わりに、私は彼女を自分の家へ招き、彼女と彼女の友人Dalilaに得意のスパゲッティ料理をご馳走しようとしたが、言わずもがな、彼女はそれを欲しがらなかった。


その頃になると、窮地に陥っていたアメリカのDJたちもイタロディスコを輸入し、輪をかけてエクレクティックになっていた彼らのセットに組み込むようになっていた。Barry Masonが1983年にリリースした “Body (Get Your Body)” の印象的なピアノフレーズと、TB-303のアシッドなベース、そしてマントラのようなヴォーカルは、シカゴハウスに大きな影響を与えたはずだ。

1984年頃には、ZYXの努力とホリデーを楽しむ10代の若者たちが戻ってきたおかげで、イタロディスコは国際的に大きな成功を収めはじめた。その結果、これまで特に顔出しをする必要がなかった多くのプロデューサーたちはテレビやライブの要望に応えるためにフロントマンを据える必要に追われ、モデルたちを踊らせて対応していった。中でもDen Harrow(ChiereatoとTurattiによるグループ)は最もよく知られている存在だろう。この名前はイタリア語の「dinaro」、つまりお金を英語風に言い換えたものだったが、このちょっとしたジョークは私たちイタリア人には通じなかった。

また同時に、“Boys” をヒットさせたセックスシンボルSabrina、 “Slice Me Nice” がヒットしたFancy、不可解な歌詞のデビューシングル “How Old Are You?” が印象的だったMiko Missionなど新しいポップスターが生まれていった。

若いクラバーたちが生まれる前に作られた楽曲群がすぐに受け入れられた。

しかし、時と共に状況は変化し、結局この商業化の動きによってイタロディスコは終焉へと向かっていった。1980年代後半になるとディスコは徐々にStock, Aitken and Watermanに象徴されるどうしようもないダンストラックや、台頭してきたハウスとテクノばかりがプレイされるようになっていき、もはやかつての雰囲気は失われていた。これを受けて私はアジアへ渡り、1988年にバンコクのソイ・カウボーイの汗ばんだゴーゴークラブでレジデントしてプレイすることになった。ここではイタロディスコ直系でのちにユーロビートと呼ばれる、よりスピーディーなHi-NRGが好まれた。しかし、残念なことにこのクラブのオーナーがライブセックスショーの賄賂を払わなかったことから地元の警察と揉めてしまい、私の活動は終わりを告げた。

かと思われたが、2001年東京から電報が届き、六本木のパラパラクラブでレジデントを務めないかというオファーしてきた。行かない理由が見つからなかった。そのクラブは空中に吊られた広大な電気仕掛けの洞窟のようで、笑顔を絶やさない陶器製の子猫のような女性たちと洒落てはいるが不機嫌そうな顔をした男性たちが、照明とアメーバのような映像がハイスピードで切り替わる、光が瞬く陰鬱なスペースに集まっていた。


そして私が超高速のユーロビートにピュアなイタロディスコを織り交ぜてプレイすると、彼らはクレイジーに喜んだ。Hypnosisのタイムレスなスペースシンセ “Astrodance” や、Vivien Veeの目が回るような “Blue Disease” など、若いクラバーたちが生まれる前に生まれた楽曲がすぐに受け入れられた。

その後メルボルンと上海を経由してヨーロッパへ戻ったが、若い世代の新しい客層からはドイツ、ポーランド、UKでプレイした時と同様の熱狂的な反応があった。人々はイタロディスコを愛している。イタロディスコは聴く人をハッピーにしてくれる音楽なのだ。オリジナルで、痛いほどメランコリックで、温かいヴィンテージサウンドで、ハーモニーとメロディーに対する素晴らしい解釈があり、快活で力強いエレクトロニックビートを擁するこの音楽は愛されているのだ。イタロディスコとは本当に魔法のような音楽で、この音楽がなくなることはないだろう。

※この記事は2010年にロンドンで開催された Red Bull Music Academyで毎日配布されたフリーペーパー『The Daily Note』に掲載された記事を転載したものです。