四月 12

Days of Macola Records

ギャングスタラップの誕生を促したロサンゼルスのプレス工場兼レーベルの実態を関係者たちが語った

By Ben Westhoff

 

Macola Recordsは、予期せぬ形でロサンゼルスのギャングスタラップを世に送り出す発射台となった。このプレス工場兼レコードレーベルが1980年代前半に立ち上がる前のロサンゼルスのラップシーンは、ヒップホップというよりはテクノに近いソフトなエレクトロサウンドが主流で、ファンク&ディスコファン、ブレイクダンサー、クロスオーバーコメディアーティスト、ニューヨークのサウンドとファッションを真似たラッパーなどで構成されていた。当時のロサンゼルスのラッパーは、ディープサウスのアーティストと同じく異端で低俗な存在として扱われ、“Bama” と揶揄されることもあった。ロサンゼルスにラップ関係の業界は存在せず、この都市がこのジャンルを再定義する確率はゼロ以下だった。

 

郊外に住み、ゴルフが趣味だった50代のカナダ人Don Macmillanが経営していたMacola Recordsは、Ice-T、Too Short、MC Hammerをはじめとする1980年代のウェストコーストヒップホップシーンのビッグアーティストたちがブレイク前に利用していたヴァイナルプレス工場 / レーベル / ディストリビューターだった。Macola Recordsは夢見る若きラッパーたちを来る者拒まずの姿勢で受け容れてヴァイナルをプレスし、Macmillanも気になるアーティストがいればすぐにレーベル契約を結んでいた。

 

Macola Recordsがアーティストを選り好むことはなく、当時誰ひとりとして真剣に取り合わなかったEazy-EやN.W.A.のハードな初期作品群のリリースも引き受けた。しかし、このようなアーティストたちがMacola Recordsの名を広め、ギャングスタラップが世界的にブレイクし始めた頃、Macola Recordsは忽然と姿を消した。

 

Macola Recordsは煩雑で奇妙な夢工場だった − 彼らは数百万枚のレコードを売り上げ、数多くのアーティストを世に送り出し、音楽史最大の影響力と持続力を誇るジャンルのひとつに数えられるハードコアヒップホップの誕生を促した。今回は経営者、雇用者、アーティストたちの言葉から、Macola Recordsを実態を探っていく。

 

 

 

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登場人物(発言順)

 

Don Macmillan:Macola Records創設者

Doug Young:Macola Recordsプロモーター

Ray Kennedy:Macola Recordsマーケティング / ディストリビューション担当

Cli-N-Tel:ラッパー / Macola Records所属アーティスト

Chuck Fassert:Macola Recordsマーケティング / セールスマネージャー

DJ Slip:プロデューサー / Macola Records所属アーティスト

Gerald Weiner:Macola Records弁護士

Egyptian Lover:DJ / Uncle Jamm’s Armyメンバー

Arabian Prince:DJ / Uncle Jamm’s Armyメンバー / N.W.A.オリジナルメンバー

Alonzo Williams:プロモーター / World Wreckin’ Cruメンバー

Dr. Dre:プロデューサー / N.W.A.オリジナルメンバー

MC JB:J.J. Fadメンバー

Jerry Heller:エージェント

Jonathan Gold:料理評論家 / 元ギャングスタラップジャーナリスト

Violet Brown:Wherehouse Records アーバンミュージックディレクター

MC Ren:N.W.A.メンバー

Sir Jinx:プロデューサー / “The Posse” メンバー

 

 

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Don Macmillan

私はカナダ・ビクトリアの出身だ。若い頃はタグボートのオペレーターとして働いていた。タグボートにオイルやガスを積んで伐採場や山村に届けていたんだ。父親はバンクーバーのレコードディストリビューターだったが、私は音楽にあまり興味がなかった。ロサンゼルスへ移ったあと、パロス・ベルデス・エステーツへ移った。今もここに住んでいる。

 

Doug Young

Donはナイスガイだったよ。

 

Don Macmillan

Macola Recordsを始める前は、ロサンゼルスのサウス・セントラル(現サウス・ロサンゼルス)でCadet Recordsという企業を経営していた。B.B. King、Ike & Tina Turner、Big Joe Turnerなどを抱えていたよ。その頃にサンタモニカ・ブルーバードにあったプレス工場が閉鎖したから買い取ったんだ。1982年の話だ。社長が高齢になったので畳むと言うから、私が引き取ってプレス工場を始めたんだ。

 

Doug Young

Macola Recordsではその場でプレスできた。

 

Don Macmillan

Macola Recordsの社名は妻の名前から来ている。Olaug Macmillanの “Mac” と “Ola” を組み合わせたんだ。

 

Doug Young

受付はレコード会社みたいだったが、奥は汚かったね。レコードやダンボールがそこら中に散らかっていた。

 

Don Macmillan

Macola Recordsにはプレス機を4~5台置いていた。あとは、ボイラー、シュリンク包装機、倉庫もあった。業務を重視していたので、小洒落た待合室などはなかった。

 

Doug Young

Donは喫煙者だったから、至る所に灰皿が置かれていた。

 

Don Macmillan

周辺環境は良いとは言えなかったが、悪いとも言えなかった。当時はラティーノ系ギャングが増えつつあった。

 

Ray Kennedy

奇妙な出来事がよく起きていたよ。工場のすぐ外でキッズが撃たれたこともあった。あれにはビビったね。

 

Don Macmillan

カナダから出てきた私はとにかく純粋だった。全員を信用していたし、全員と良い関係を築いた。差別は何もなかった。私は彼らとの仕事を楽しんでいた。

 

Cli-N-Tel

Macola Recordsはコンビニみたいな存在で、どんな音楽でもマスターを持ち込めばその場でプレスしてもらえた。近所でこういうサービスを提供していたのは、Macola RecordsとサンペドロのBill Smithくらいだった。Macola Recordsでプレスしてもらったレコードを車のトランクに積み込んで、ストリートや溜まり場で売っていた。

 

Don Macmillan

サウス・セントラルやコンプトンから黒人のアーティストがやってきた。彼らは車のトランクにレコードを積み込んで、ストリートで売りさばいていた。

 

Chuck Fassert

当時のメジャーレーベルはラップを扱っていなかった。奴らはラップに関わりたくなかったのさ。だから、Donがラップの12インチをプレスし始めると、かなりの枚数が売れた。

 

Don Macmillan

Macola Recordsでは1,000ドルで500枚プレスできた。これが通常料金だった。そのあとで、私が300件ほどのディストリビューターやレコードショップに話をしてフィードバックをもらっていた。

 

DJ Slip

DonはMacola Recordsで扱っていたアーティスト全員の露出を高めてくれた。それぞれに適したショップやレコードプールに届けてくれたんだ。

 

Don Macmillan(『Billboard』1986年11月22日付け)

メジャーレーベルが元を取るには10万枚売る必要があったが、Macola Recordsでは1,000枚で元が取れた。だから、1,500枚売れば十分な儲けが出た。ディストリビューターは必要な分だけ取っていた。私たちが短時間で届けていたから、在庫を抱える必要がなかったんだ。

 

Ray Kennedy

メンフィスのディストリビューターSelect-O-Hitsと、その共同経営者John Phillipsとは近い距離で仕事をしていた。Johnの叔父Sam PhillipsはElvis Presleyを発掘した人物だった。

 

Gerald Weiner

DonはA&Rには向いていなかった。少なくともラップに関しては、良し悪しを判断できるセンスを持ち合わせていなかった。

 

Chuck Fassert

Donはラッキーだった。音楽を作っているキッズたちのためにプレスをしていたら、彼らの音楽の人気が高まっていったんだからね。

 

 

 

 

 

 

「Dial-A-Freaks」のヒット

 

Macola Recordsの初期プレスの1枚が、1983年にリリースされたUncle Jamm’s Armyの「Dial-A-Freak」だった。南カリフォルニアを移動しながらエレクトロラップのライブを展開していたUncle Jamm’s Armyは同エリア内で高い人気を誇っていた。

 

 

Ray Kennedy

Uncle Jamm’s Armyのライブは大人気だったから、Donは彼らのレコードをリリースすれば売れると踏んだんだ。

 

Egyptian Lover

学生時代にミックステープを作っていた。ブランクテープを20本ほど買って、自宅で作っていたよ。テープの制作が追いつかないほど売れた。だから、ゆくゆくはレコードをプレスする必要があると思っていた。それで、Uncle Jamm’s Armyに加入したタイミングで「レコードを作ろうぜ」ってメンバーに持ちかけたのさ。

 

Arabian Prince

それで「Dial-A-Freak」をプレスすると、誰もが自主制作できることを理解したんだ。周りから「どこでプレスしたんだ?」と質問されたから、「Macola Recordsだ」と答えていた。

 

Don Macmillan

「Egypt, Egypt」は、最初は奇妙なトラックだと思ったんだが、リリースしてみると反応が凄かった。「おお! 私は何も分かってないな!」と思ったよ。

 

Egyptian Lover

「Egypt, Egypt」はDJ用に作ったんだ。聴けばDJを意識して作られたことが分かるはずだ。だから、DJたちがミックス用に2枚買った。倍売れたのさ。これがヒットの助けになった。

 

 

 

 

 

Arabian Prince

当時は、ブレイクダンサーが踊れるようにDJはトラックの特定の部分をロングプレイする必要があった。そのために2枚買っていたのさ。

 

Egyptian Lover

「Egypt, Egypt」は当時リリースされた他のどのレコードよりも売れた。

 

Chuck Fassert

Donはラップグループを数多く抱えていた。信じられないほど多かったよ。

 

Ray Kennedy

Unknown DJがMacola Recordsのサブレーベルとして自分のレーベルTechno Hopを持っていて、所属アーティストをプロモートしていた。どれもクオリティが高かった。あとは、L.A. Dream Teamに所属していたRudy Pardeeも顔を出していた。彼もDonのところにやってきて「The Dream Team Is In The House!」をプレスしたあと自分でプロモートしていたよ。素晴らしいレコードさ。よく売れたね。

 

 

 

 

Chuck Fassert

当時はIce-Tも出入りしていた。

 

Ray Kennedy

Ice-Tはナイスガイだった。あの連中の性格の良さには驚いたよ。「撃ち殺すぞ」、「ビッチ」、「ファックユー」ばかり言っているイメージだったからね。彼らのトラックを聴いた俺は「ちょっと待ってくれ。これじゃラジオでオンエアされないぜ。ラジオエディットを作らないとダメだ」とアドバイスしたよ。

 

Chuck Fassert

MC Hammerがリムジンで乗りつけた時のことを憶えているよ。仲間を引き連れてやってきて、「俺はビッグスターになるぞ。超ビッグになるからな」と言っていた。「Stupid Def Yal / Ring’ Em」を持ち込んで、「これをプレスしてくれないか?」と頼んでいたよ。Donは「ああ、分かった。プレスするよ」と返していた。

 

Ray Kennedy

MC Hammerは俺たち以上の枚数を車のトランクから売りさばいた。俺はあのシングルを上手くさばけなかったが、もちろん、知っての通り、Capitol Recordsからリリースした次のシングルは大ヒットになった。

 

Don Macmillan

Too Short、Toddy Tee、Rudy Ray Mooreを扱ったあと、2 Live Crewも扱った。2 Live Crewとはレーベルとして契約を結んだ。

 

 

 

 

 

 

 

幻のゴールド&プラチナム

 

The 2 Live Crewが1984年にリリースしたデビューシングル、通称 “Beat Box” はマイアミで大ヒットし、このシングルを大いに気に入ったLuther Campbellが2 Live Crewの知名度をさらに高める役を担った。そして、Macolaは1986年にリリースしたTimex Social Club「Rumors」で初のメジャーヒットを生み出した。

 

 

Ray Kennedy

「Rumors」は素晴らしいレコードだった。メンバーのRandy RandとJohn Brownとは気が合った。Timex Social Clubは、2,000枚程度をプレスしてディストリビューターに売り、その売り上げを現金でもらってツアーに出るという生活をしていた。その売り上げだけでモーテルの宿泊費や食費を捻出しながらファンと交流していたのさ。彼らがこうやって全米を回っていた頃に俺たちがこのレコードをプレスしたんだ。

 

Don Macmillan

「Rumors」は100万枚以上売れたと思うが、ゴールドやプラチナムの認定はもらえなかった。枚数的には条件をクリアしていたが、RIAA(アメリカレコード協会)はインディーレーベルを対象にしていなかった。

 

 

 

 

Ray Kennedy

ロサンゼルスのヒップホップ専門ラジオ局の先駆けだったKDAYの朝を担当していたのがRuss Parrだった。彼はBobby Jimmy & The CrittersのBobby Jimmyとしても活動していて、音楽は最高だった。「Roaches」は「Rumors」をベースにしたトラックで、彼はJohnson & Johnsonに出向いて、RaidのCMにどうかと売り込みをかけていた(編注:Raidは殺虫剤 / Roachesはゴキブリの意味)。「Roaches」は俺たちが制作した初めてのミュージックビデオのひとつだった。一時は、Macola Recordsの12インチ3枚が、ロサンゼルスの売上枚数トップ3を占めていた。「Rumors」、Stacey Q「Shy Girl」、「Roaches」の順で売れた。

 

Arabian Prince

Russ ParrとはKDAYで知り合った。奴のプロデュースを担当する前は、ラジオ番組で2人揃ってクレイジーな声真似をしていたのさ。Russがロナルド・レーガン大統領の声真似をして、俺がPrinceの声真似をしていた。Princeの「Thought of the Day」をカバーしたな。今までやった中で最もクレイジーなアイディアだった。

 

Don Macmillan

KDAYとは素晴らしい関係が築けていた。Macola Recordsでプレスした全てのレコードをオンエアしてくれた。

 

Egyptian Lover

KDAYのDJだったGreg Mackは最高だったね。意気投合して友人になると、俺のトラックをラジオでプレイしてくれるようになった。それで彼がプレイし始めると、他のラジオ局が「奴がピックアップしているトラックは何だ?」と騒ぎ始めた。それで、他のラジオ局もこぞってプレイするようになった。こうやってどんどん広がっていったんだ。

 

 

 

 

 

 

プリティボーイズ

 

サウス・セントラルのプロモーター / アーティスト / レーベルオーナーAlonzo WilliamsはMacola Recordsと親密な関係を築いており、彼がメンバーだったWorld Class Wreckin’ Cruは、Macola RecordsのサブレーベルKru-Cutから1985年にファーストアルバム『World Class』をリリースした。このグループには彼とCli-N-Telの他に、のちにN.W.AのメンバーになるDr. DreとDJ Yellaも含まれていた。

 

 

Alonzo Williams

俺はロサンゼルスの非法人地域でEve’s After Darkというクラブを経営していたんだが、ある晩、Dr. DreがやってきてDJをした。彼がどうやってあのチャンスを得たのかは分からないが、とにかく俺は彼のプレイに惹きつけられた。「Planet Rock」に「Mr. Postman」をミックスしていたのさ。あれはマスターピースだった。

 

Cli-N-Tel

World Class Wreckin’ Cruではライブパフォーマンスをした。女性ファンが大勢ついたよ。男性ファンはどうでもよかった。女性ファンが大事だった。

 

Alonzo Williams

俺たちはプリティボーイズを目指していたのさ。当時の俺の髪型はジェリーカールだったし、全員が光沢のあるスーツを着ていた。DJ YellaとDr. Dreはアイライナーを引いていた。Princeみたいになりたかったのさ。

 

Cli-N-Tel

『World Class』のジャケットはMacola Recordsで撮影した。照明はパープルで、俺たちもパープルのスーツを着ていた。スモークが焚かれていて照明が反射していたから、唇もパープルのリップスティックを塗ったみたいな色になった。

 

Dr. Dre(『The Source』1992年11月号)

ひとつ言わせてもらうが、俺がレースを身に着けたことは一度もないぜ。着けてたのはYellaだ。

 

Ray Kennedy

この頃、俺はJ.J. Fadと仕事をしていた。あの子たちは面白かったね。

 

Arabian Prince

J.J. Fadは地元が同じだった。俺とDreはメンバーと付き合っていた。彼女たちはサンバーナーディーノのリアルトに住んでいた。

 

MC JB

Arabian PrinceとDr. Dreがリアルトに良く来ていたの。それで彼らとJ.J. Fad結成の話を進めたのよ。

 

Arabian Prince

彼女たちは「レコードを作りたい」と言っていたが、Dreは耳を貸さなかった。それである日、俺がスタジオにいると彼女たちが遊びにやってきたんだ。その時に俺が組んだビートが「Supersonic」になったのさ。

 

Ray Kennedy

あのトラックはバカ売れだった。それでEazy-E(本名:Eric Wright)がRuthless Recordsとして彼女たちと契約したんだ。

 

 

 

 

MC JB

Ruthless Recordsと契約したあと、「Supersonic」を録り直したの。新しいメンバーとラップを入れ直して再発したのよ。Dr. Dreがベースラインとサウンドエフェクトを足した。技術的には素晴らしいクオリティに仕上がったわ。

 

Ericは本当に素晴らしい人物だった。私たちを最初からプリンセス扱いしてくれた。「何か欲しいものはあるか? 金は足りてるか?」なんて訊いてくれた。私たちのアルバムとN.W.A.のアルバムの制作が同時に進んでいたんだけど、N.W.A.のマネージャーJerry(Heller)とEricは「俺たちは正式なレーベルになりたいから、レディーファーストだ」と言っていた。私たちを支えてくれていたのよ。

 

Doug Young

Macola Records時代のN.W.A. は極貧だったね。

 

Chuck Fassert

時計を首からぶら下げてるだけで、車も何も持っていなかった。

 

Alonzo Williams

連中は時間があれば俺のスタジオに集まって制作を進めていた。グループの名前もスタジオで決められた。聞かされた時はクレイジーだと思ったね。Dr. Dreが興奮した様子でスタジオに入ってきて「グループ名は、N――z With Attitudesだ! 略してN.W.A.さ」と言っていた。「へぇ」としか返せなかったよ。

 

Don Macmillan

Eazy-Eはコンプトンしか知らなかった。外の世界は何も知らなかった。サンフェルナンド・バレーがどこにあるのかさえ分かっていなかった。コンプトンが全てだった。そんな彼が、私のところにやってきてプレスをしたいと言ってきた。それで私が「いいだろう。500ドルだ」と言うと、靴下に手を突っ込んで500ドルを取り出した。

 

 

Dr. Dre, Eazy-E, MC JB, DJ Yella ©MC JB

 

 

 

 

 

美味しい契約

 

Jerry HellerはPink Floyd、Marvin Gaye、Elton Johnなどを担当した経験を持つ音楽業界のベテランエージェントだったが、1980年代中盤に入ると仕事が回らなくなった。その頃、音楽業界でマネージャーとして活躍していた友人Morey Alexanderから、Macola Recordsが才能あるアーティストを多数抱えていることを教わった彼は、Eazy-Eと組むことにした。そしてEazy-Eは、Dr. Dreがプロデュースし、Macola Recordsでプレスした「Boyz-N-The-Hood」をヒットさせた。

 

 

Don Macmillan

Jerry HellerはMacola Recordsによく顔を出しては、受付に座ってアーティストを選定していた。

 

Ray Kennedy

JerryとMoreyの2人でマネージメントを担当していた。Donが扱っていたアーティスト全員がJerryのところと契約していたから、委託業者のようなものだったね。HellerはMacola Recordsで扱っている全アーティストの面倒を見ていた。Don、Jerry、Moreyの3人には美味しい話だったと思うね。

 

Alonzo Williams

Eazy-Eから750ドルを渡されて「これでJerryと話をしてこい」と言われたが、Eazyは俺に500ドルの借りがあった。

 

Jerry Heller(自伝『Ruthless』)

Eazy-Eから「自分のレーベルを立ち上げたい」と相談された。誰にも指示されない自由な環境が欲しいとね。だから色々とアドバイスしたよ。

 

Jonathan Gold(『Los Angeles Times』2015年9月5日付け)

Dr. Dreはシグネチャーサウンドを手に入れようとしていた。奴のトラックが車の中でかかればすぐに奴だと分かってもらえるサウンドを欲しがっていた。

 

Violet Brown

「Boyz-N-The-Hood」を聴いた瞬間、どんな結果になるか予想できた。あっという間に話題になったわ。

 

Ray Kennedy

Boyz-N-The-Hood」と「Dopeman」はニューヨークのナンバーワンクラブヒットになった。

 

Chuck Fassert

そのあとで、俺がN.W.A.のコンピレーションアルバム『N.W.A. and the Posse』のリリースの話をDonに持ちかけたんだ。

 

MC Ren(『THAFORMULA.COM』2004年)

あのアルバムは酷かったな。

 

Sir Jinx

あのアルバムのジャケットはMacola Recordsの向かいにあったアパートの裏で撮影したんだ。Ericは俺がグラフィティを描けることを知っていた。だから、俺のところへスプレー缶を持ってやってきて、描いてくれと頼んできたのさ。

 

Chuck Fassert

当時のN.W.A.は5~6トラックしかなかった。だから、Eazy-E、Dr. Dre、Ice Cubeのトラックを全部集めたあと、Macola RecordsでヒットしたトラックをDonから受け取って、『N.W.A. and the Posse』としてコンパイルしたのさ。異常なほど売れたよ。主に白人のキッズが買っていた。

 

Arabian Prince

元々はN.W.A.だけをフィーチャーしたEPになる予定だった。あれは俺たちのアイディアじゃない。Don MacMillanが思いついたアイディアさ。彼が他のトラックを放り込んだんだ。

 

Sir Jinx

あのアルバムは詐欺だ。Macola Recordsが勝手にやったのさ。

 

Don Macmillan

そうじゃない。Ericと仕事を進めていた。あれは彼のレコードだ。

 

 

 

 

 

 

 

すべての終わり

 

Eazy-EとJerry Hellerの指示でN.W.A.がMacola RecordsからRuthless Recordsに移籍するとすぐに、Macola Recordsの雲行きが怪しくなっていった。Don Macmillanは、失墜は自分のミスではないとしている。

 

 

Ray Kennedy

俺が最後に担当したアーティストのひとりがDigital Undergroundだった。俺がMacola Recordsを去った頃、経営が行き詰まっているのは知っていた。Donから抱えているアーティストを売るように言われたし。

 

Alonzo Williams

Donが生み出した最後のヒットのひとつが「Turn off the Lights」だった。

 

Ray Kennedy

World Class Wreckin’ CruがMacola Recordsに戻ってきたんだ(彼らはEpic Recordsと一時的に契約していた)。そのファーストリリースが「Turn off the Lights」だった。「こいつはすげぇ!」と思ったね。最高だったよ。Michel’leがフィーチャーされていて、Dr. Dreがプロデュースを担当していた。笑える話だが、この時すでに奴らは解散状態だった。金銭トラブルを抱えていたんだ。その大半はロイヤリティの支払いが滞っていたことが原因だった。それでそのあとDonが… いや、ニューヨークの連中が起こした面倒については話さないでおくよ。

 

Chuck Fassert

一枚噛みたがっている連中がニューヨークにいたんだ。あの曲がヒットしていることを知ったんだ。それで、Donに大金を渡そうとしてやってきた。Macola Recordsを乗っ取ろうとしたのさ。

 

Ray Kennedy

結局、その連中が乗っ取った。Donは酷い目に遭い、Alonzoも潰された。World Class Wreckin’ Cruも巻き込まれた。全員が騙されたんだ。

 

Alonzo Williams

朝6時に電話がかかってきたんだ。俺はまだベッドで寝ていた。電話口の向こうの男は自己紹介を終えると、問題が起きたと言って、こう続けた。「俺たちが権利を持っている “Turn off the Lights” をあんたが勝手にライセンスしたって話になってる。あんたがニューヨークにいたら、今頃はハドソン川に沈んでるぜ」とね。

 

 

 

 

 

Don Macmillan

あの連中がマフィアだったかどうか? 私には分からないな。

 

Alonzo Williams

あの電話のあと、丸腰でMacola Recordsに行くのが怖くなった。

 

DJ Slip

全員がMacola Recordsから去った。それで、Alonzo、Egypt、Unknown、Rudy Pardeeが組んでWest Coast Distributorsを立ち上げたのさ。

 

Don Macmillan

アーティストたちから文句を言われたことは一度もない。Macola Recordsの帳簿は彼らがいつでも自由に確認できるようにしていた。

 

Gerald Weiner

Macola Recordsの経理はずさんだったと言わざるを得ない。Donに売上枚数を訊ねても、分からないと言われただろう。

 

Don Macmillan

CDの仕事もするようになっていたが、CDの製造まで手を出す余裕がなかった。それで外注したんだ。サンセットブルバードのオフィスで大量の仕事をこなす必要があったので、CDのプレスは他に任せていた。Macola Recordsは1997年に畳んだ。

 

Chuck Fassert

Macola Recordsが終わったあと、メジャーレーベルがラップに手を出すようになった。ストリートのラッパーたちに大金を支払って大がかりなビジネスを始めたのさ。Donのところでプレスしていたが、Donが契約しなかった連中とね。N.W.Aにしろ、Dr. Dreにしろ、俺は「ちゃんと契約するべきですよ」と進言していた。正式に契約していたら、Macola Recordsの帝国は信じられないほど大きくなっていたはずさ。

 

Gerald Weiner

Donはアーティストと長期契約を結ばなかった。最終的にこれが命取りになった。

 

Doug Young

Donは人が良すぎたんだと思う。

 

Gerald Weiner

Donがアーティストを正しく扱っていなかったという意見はクソ食らえだ。当時、N.W.A.をリリースに手を貸す人はひとりもいなかった。しかも、彼は何の条件もつけなかった。原盤権さえ所有していなかった。Macola Recordsでヒットを出したアーティストは、そのあとは普通のレコード会社と話をして高額の契約金を受け取っていた。

 

Cli-N-Tel

Donがクリエイティブな部分に口出すことはなかった。自由にやらせていた。彼が「ノー」と言ったことはない。クリエイティブな部分に口を出さなければ、良くも悪くも全てが拡大していくのさ。

 

 

 

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Special Thanks:ロサンゼルスヒップホップ黎明期をテーマにした未公開ドキュメンタリーのためのインタビュー映像を公開してくれたAmin EshaikerとAndrew Arellanoの2人に感謝します。今回の発言の多くはそれらから引用されたものです。

 

筆者紹介:Ben Westhoffは『Original Gangstas: Tupac Shakur, Dr. Dre, Eazy-E, Ice Cube, and the Birth of West Coast Rap』の著者として知られるジャーナリスト。

 

Header Photo:© Sir Jinx