十月 21

THE BIRTH OF TECHNO IN JAPAN

日本におけるテクノ黎明期 :音楽メディアが取り上げなかったDIYシーン

By Hideo Kogure

 

日本のテクノの歴史 ——とりわけ、90年代のクラブ系テクノの歴史を検証する際、中でも一番難しいのが黎明期だ。例えばこれが80年代初頭 に社会的ブームとなったテクノ・ポップであれば、「テクノ・ポップとはロック・マガジン編集長の阿木譲が同誌のレビューで命名した造語であり…」といったところから話を始められるし、デトロイト・テクノであれば、Derrick May、Juan Atkins、Kevin Saundersonと いった創設者を中心に一本の物語を組み上げていくのが一般的だろう。


ところが日本の‘90sテクノ黎明期は、残念ながらそのような分かりやすいストーリーを持ち得ていない。ライブハウスやクラブなど、それぞれ の現場でテクノ好きな若者が自主的にパーティーやライブ・イベントを企画していくうちに土台のようなものが形成されていったというのが、本当のところなのである。時期的には、大体1990年から1993年頃の出来事ということになろうか。インターネットなど、まったく普及していない 時代の出来事だ。ネットを介して自分の音を世界中に効率よくプレゼンすることはおろか、CD-Rなどで気軽に作品化することすら夢のまた夢、 という時代であった。リスナーにしても、フライヤーに記された僅かな情報や口コミを頼りにクラブやライブハウスに足を運ぶしか、接する術はなかったのである。当然そんなアンダーグラウンドな動きをわざわざ現場まで行って目撃しようとする「物好き」(勿論これは最高の褒め言葉だ)な 音楽ライターや編集者はほとんどいなかったので、メディアで紹介される機会もなかった。


そういう現状を自分たちの手で打破していくにはどうしたらいいのか?そんな情熱に突き動かされ、ある人はインディ・レーベルを立ち上げ、ある人はミニコミを発行し、ある人はアーティストやDJを擁する共同体を組織しようとした。そういう個人のピュアなDIYの結晶が、日本のテクノ黎明期となっていったのである。しかし現存する当時の資料がきわめて少ないこともあって、日本のテクノの歴史の中では長いこと「無かったこと」として黙殺されてきた。


このような現状に対し、当時をアーカイヴス化することで一石を投じた人がいる。永田一直氏だ。黎明期からTrigger〜Transonic といったレーベルを主宰してきた彼は、2011年に「Transonic Data Archivesシリーズ」と銘打ち、日本初のテクノハウス・ユニットと言われたPC-8やTakahashitektronixの音源を復刻したのである。この音源は当時をリアルタイムで体験してきた世代に喜んで迎えられたのは勿論のこと、新しい世代のアーティ ストにも新鮮な反響を巻き起こすなど、今でも賞味期限が切れていない音であることを証明した。テクノの歴史から切り落とされてきたこれらの音 を見直す時期がようやく来たと言えるのかもしれない。

 


ならば、黎明期を支えた彼ら若手テクノ・アーティストのパフォーマンスをクラブのフロアで踊りながら見ていた僕も、シーンの片隅にいた人間と してそろそろ語るべきだろう。あの頃、僕らはテクノにどのような希望を見い出していたのか。前述したようにシーン全体を俯瞰するのが困難だった関係上、これから書くことは筆者が見てきた/関わってきた歴史…つまり、あくまでも個人史でしかない。そのあたりの事情を考慮のうえ、お読みいただきたい。

 

70年代終盤から80年代初頭にかけてテクノ・ポップの洗礼を受け、その後もエレクトロニック・ミュージックを追いかけてきた筆者にとっ て、80年代後半の日本の音楽は最悪な状況にあった。海外ではエレクトロニック・ボディ・ミュージック、アシッド・ハウス、ニュー・ビート、 後のビッグ・ビートの原型とも言えるUKブレイクビーツ・サウンドなど刺激的な音楽が続々と誕生していたというのに、日本国内はバンド・ブーム全盛期。ライブハウスにはビートパンクやヴィジュアル系のバンドがあふれかえり、海外との音楽的時差の大きさに絶望したものだ。和製The Birthday Partyと言われたSodomが音をゴシック・インダストリアル路線からハウスへと大胆に変更したり、89年に人生を解散した石野卓 球が電気グルーヴを結成したり、和製エレクトロニック・ボディ・ビート・ユニットと言われたSoft Balletがメジャー・デビューするなどの動きはあった。また、札幌のエレクトロニック・ボディ・ミュージック・ユニットの2nd CommunicationがベルギーのKK Recordsと契約を交わしてアルバムを発表したのには驚くと同時に、日本のエレクトロニック・ミュージックの可 能性を感じて大いに励まされたものだ。

 

しかし、輸入レコード店に刺激的なエレクトロニック・ダンス・ミュージックが続々と入荷されているにも かかわらず、それらで踊れる場は下北沢のクラブZooなどいくつかのクラブ以外には、きわめて少なかった。六本木や西麻布ではハウスのパーティーが行われていたのかもしれないが、アメリカのアシッド・ハウス・ムーヴメントがイギリスやベルギーのように飛び火しなかった日本では、ハウスのコンピレーションなどを聴いてもどう楽しんだらいいのか分からなかったというのが本当のところだ。


そんなある日、西新宿にあったレコード店、UKエジソンで筆者は一枚のフライヤーを発見した。確か、89年の冬だったと思う。そのフライヤー にはDepeche ModeやNew Orderと並んでFront 242、Nitzer Ebb、Ministryといったエレクトロニック・ボディ・ミュージック系ユニットの名前が明記されており、三軒茶屋のLa Femmeという初めて聞く名前のクラブが会場のようだった。喜び勇んで駆けつけ、フロアで興奮して踊っていると、「こういう音楽が好きなの?」とDJが 話しかけてきた。それがDJ Baby Tokioこと関根信義との初めての出会いだった。

 

当時、関根はLa Femmeの店長兼DJであったが、オーナーとのトラブルで店は短期間で閉店。関根はVoice ProjectというDJ/アーティスト集団を立ち上げて下北沢のZOOや西麻布の3-2-8などさまざまなクラブでDJイベントをオーガナイズするよう になり、筆者は就職活動そっちのけで足しげく通うこととなった。イベントのブッキング、フライヤー制作から配布まですべて自分で行なう関根の DIYな姿勢に触発された筆者は、大学のサークルの後輩と共通の友人を誘って89年夏に『Delic』というミニコミを創刊してしまったほど だ。ワープロで打った原稿を切り張りして版下を作り、コンビニのコピー機で両面コピーしてホチキスで閉じる。今では信じられないチープな仕様 だったが、金のない学生には、それが精一杯の「メディアごっこ」だった。

 

 

後にテクノ専門誌として知られることになる『Delic』だが、創刊当初は筆者以外のスタッフがギターポップ好きだったこともあって、ネオ アコ+エレクトロニック・ミュージック(主にボディ・ミュージックとニュービート)というカラーだった。3号出したところでギターポップ好き の主要メンバーが就職で実家の名古屋に戻ることになったため、エレクトロニック・ミュージックを中心とする路線に切り替え、年1〜2回の超スローペースながらも9+10号まで発行されていくことになる。

 

いささか筆者個人の話が長くなってしまったが、90年にもなると、海外のアーティストに触発された新世代テクノ・アーティストが出演するラ イブ・イベントが東京でも表面化してきていた。代表的なところでは、「Acid Project」、「Digital Night」、脱力ラップで知る人ぞ知るヒーラEが主催していた「エレクト・ミシマ」、CMJKが電気グルーヴに加入したために活動休止中 だったCutemenのPicorinが主催した伝説のイベント「E-Force」などがある。出演するアーティストは玉石混合ではあったが、東京にも新たなテクノの動きが確実に生まれていることを実感し、心強く感じたものだ。やがてそれらのアーティストの何組かはVoice Projectのイベントにも出演するようになりDJの合間にライブP.Aを行うスタイルが確立されていく(ライブといっても当時はDATを流しながらシンセを弾くか弾くマネをするスタイルが主流であったが)。


本稿執筆に際し、PC-8のハゼモトキヨシ君に当時の話を聞いてみたところ、「E-Force」の第1回目に出演した時、観に来ていたDJ Baby Tokioにライブをやらないかと誘われたのがきっかけとなってVoice Projectのイベントに出演するようになったとのこと。他にも、電気グルーヴ初期のメンバーだった高橋コウジを中心とするTakahashitektronix、ストイックなインダストリアル・ビートで絶大な人気を博したArm、Candy Flipの日本公演 の前座にも大抜擢されたレイヴ・テクノ・ユニットの04DD、フレンチ・ロリータなウィスパリング・ヴォイスでテクノ界のマドンナ的存在だっ たnOrikOのPOiSON GiRL FRiENDなど、Voice Projectのイベント「クラブ・アンドロメダ」に出演するアーティストは、当時の東京アンダーグラウンド・テクノ・シーンの総本山的趣きがあった。


メジャー・シーンに目を移してみると、91年には電気グルーヴがメジャー・デビューを果たしたのに続いて、Victorに設立されたEndorphinレーベルからCutemen、ハードコア・テクノ・ユニットのGult Dep、POiSON GiRL FRiENDなどがデビュー。『Dance 2 Noise』(Victor)、『Tokyo House Underground』(Sony)、『Sim House』(SSE)など、当時の最先端音楽のショウケース的コンピも続々と企画され、PC-8やTakahashitektronixはそちらでも 引っ張りだこであった。

 

 

一方、テクノ・ポップからクラブ系テクノへの動きということで言えば、90年3月にテクノ・ポップをメインとするレーベルとして永田一直が 設立したTriggerレーベル(設立当初には砂原良徳もブレーンの一人として参与)を見逃すことができない。歌ものテクノ・ポップからコア な実験的電子音楽まで、世間のハウス・ブームとは一線を画す電子音楽をカセットテープでリリースしてきた同レーベルは、93年にレーベルの総 集編CD『Best Of Trigger Tracks』をリリースしてそれまでの活動をリセット。レーベル名をTransonic Recordsに変更し、海外のアンビエント/リスニング・テクノな動きとシンクロしたレーベルとして再起動を果たす。

 

Transonicが第1弾コンピ『Transonic  (970-1450km/h)』をリリースした94年には、Dub Restaurant、Syzygy、とれま、Frogman、Subvoiceなど、日本全国でインディ・テクノ・レーベルが始動しており、またそれま で日本では無名であったKen IshiiがベルギーのR&Sからアルバムを発表してテクノ・ファンを驚かせたり、Susumu Yokotaがフランクフルトのハートハウスから作品を発表 するなど、日本のテクノ・シーンは新たな局面に突入していた。そして電気グルーヴやKen Ishiiの大ブレイクによって、日本には未曾有のテクノ・バブルが訪れるのである。

 

しかしこのテクノ・バブルの波に、黎明期のアーティストはほとんど乗っていない。93年頃になると主要ユニットの音楽性の変化に伴う分裂、形 態や名義の変更が頻繁に行われ、それは80年代にニューウェイヴのバンドが作品を発表するごとに新しいアイデアを提示し、短期間で目まぐるし く変身を遂げていったのを彷彿とさせる光景であった。Voice Projectの雑食性の強いノリと、トランスやミニマルなどの分かりやすい(一つのノリでズッと楽しみたい)新規テクノ・ファンとの間にはズレが生じる ようにもなっていた。順調に作品のリリースを重ねているように見えたTransonicにしても、96年発表のコンピ『Transonic 6“The Sound of Feeling”』で大胆な路線変更を敢行し、モンド/ラウンジ/ブレイクビーツ路線へとシフトしていく。筆者も93年頃にはブームに伴うさまざまな人間 関係のゴタゴタに巻き込まれて精神的に消耗し、以前のように純粋に楽しむ余裕がなくなっていた。『Delic』もスタッフとの方向性の決定的 な相違により、94年7月発行の9+10号をもって休刊となった。すべてを犠牲にしてここまで頑張ってきたんだ、もういいだろう。違う世界に行こう。この頃になると、そういう思いのほうが強くなってきていた。青春期は、ここで終わったのだ。

 
もしあの頃、シーンの目まぐるしい変化を迅速に作品化するなど、フットワーク軽く対応することができていたら、状況はもう少し変わっていたのか もしれない。しかしそれをするには、僕らはあまりに子供過ぎた。ビジネス的にも成り立つシステム作りもできなかった(そういう意味では、黎明 期末期にその受け皿になってくれたTransonicの永田一直には本当に感謝している)。

 

 

ここで話を終えるなら、青春の苦い挫折の記録、ということになるかもしれない。だが、黎明期のアーティストは今でもしっかりと活動している。冒頭でも書いたように、黎明期のレジェンド的ユニット、PC-8、Takahashitektronixの音源が復刻されたのがきっかけと なって、PC-8は復活を果たした。メンバーのハゼモトキヨシはSigh Societyというソロ・ユニットで精力的に活動し、PC-8解散後はOpus〜King Of Opusとして活動してきた富沢仲は、King Of Opusとして約7年振りの新作となる『Micro Dub Chapter 1』をExT Recordingsからリリースした。また、POiSON GiRL FRiENDの約20年ぶりとなる新作『rondo Electro』にはハゼモトキヨシ、Takahashitektronixの高橋コウジ、CutemenのPicorinなど、黎明期を支 えたアーティストが大挙して参加している。04DDも復活を果たし、黎明期をリアルタイムで体験してきた新世代テクノ・アーティストのイベン トに出演するなど、新旧世代の交流も盛んに行われるようになってきた。


「血は受け継がれていく」—— 93年にVoice ProjectはYMOのカバー・コンピ『WHO’S YMO—再日本製—』を企画し、そこには黎明期のアーティストが総参加していた。その帯に書かれていたコピーがこれだ。確かにそうなのだろう。血は確実に受け継がれている。僕らがやってきたことは無駄ではなかったんだなあ。さまざまな世代がフロアであの頃と同じくオープンマインドにエレクトロニック・ミュージックを楽しんでいる光景を見るたびに、そう思って嬉しくなってしまうのである。