十月 14

The Birth of Noise in Japan

西の非常階段・東のMERZBOWを起点とするジャパニーズ・ノイズの音楽史

By Masato Matsumura

 

ある年の5月末のことだ。ニューヨークでもロンドンでも死なないはずだったパンクはビジネスの残り香と死屍累々のエピゴーネンをのこしまさに死に体となり、その前と後で、歴史に確然と線を引いたといわれたムーヴメントであっても、その上に流れる時間はいやおうなくそのスタイルと方法論と思想をも風化させることに、おぼろげながら気づいていたとはいえ、そのころはいまのようにきのうのニューヨークの株価が即座にきょうの東京市場をゆるがすほど世界は狭くはなかった。

 

Sex Pistolsが解散した1978年にはこの極東の島国をもパンク・ムーヴメントが席巻し、二大都市圏を中心にそれらは東京ロッカーズや関西ノーウェイヴと呼ばれたのだ――がそれは本稿のテーマとことなるので深入りはしない。しかしながらそのなかにビデとJOJO広重が結成したBIDE&JOJOを前身に、渡邉浩一郎(エレクトロニクス)と富家大器(ドラムス)を加えたウルトラ・ビデがあったことは忘れてはならない。

 

ウルトラ・ビデはフリーフォーム・パンク・グループとでも呼ぶべきスタイルで関西ノーウェイヴを牽引したが、広重はウルトラ・ビデと並行し、女性ベーシスト、ソフィーとともに螺旋階段を結成。彼はキーボードにスイッチし、Slap Happyあたりを模範にのちにヴォーカルのIDIOT(高山謙一)とギターの頭士奈生樹が加わり螺旋階段はしだいにバンドのかたちとなっていくのだが、さらに別に広重はそのとき頭のなかに思い描いていたギター2本による爆音の即興演奏を、頭士とであればできるのではないかと閃き、彼を誘いスタジオに入るとメンバーの動向をうかがっていたIDIOTもドラム・スティック片手についてきた。そのときの3人の爆音の不定形のセッションを指してIDIOTのいった「これじゃあ螺旋階段やなくて非常階段やな」――これが日本人なら誰もが知る非常階段の誕生秘話である。と私は書いたものの残念ながらこれは「誰もが知る」ことではない。であればこの国はすくなくともいまとはちがうかたちをしていたにちがいないからだ。ときは1979年、パンクとニューウェイヴの狭間にあたるこの年は日本のノイズ元年でもあった。

 

 

ところがこの編成は長くはつづかない。バンドはその年の秋彼らの数年前からのたまり場だった京都千本中立売のカンパニア・スペース「どらっぐすとうあ」で初ライヴを行うことになったが、IDIOTは最初のリハーサル以外には参加せず、当初の目論見どおり広重と頭士のギター・デュオに戻っていた非常階段は、ハードロックやパンクの過激さともフリージャズのインプロヴィゼーションの混沌ともちがう、メロディ、和声、リズムを徹底して排しただけでなく、あたかもそんなもの生まれてこのかた一度もお目にかかったことのないかのごとく記号的な文脈をも切断したたんにノイズとしかいいようのない演奏をはやくもこの段階で見せている。どらっぐすとうあでのライヴから10日も経たないうちに彼らは同志社大学の学園祭に出演し、頭士はこのライヴをもって非常階段を脱退した。根っからのギタリストであった頭士はノイズの非音楽性に共感できなかった。いやむしろ彼は非音楽の際限のない広がりを感じとっていた。

 

「でも結局はずっとノイズをやれるだけのキャパが彼(筆者註/JOJO広重)ほど大きくないと思った。やっぱりそれは、強靭な耳と魂を持っていないとできないでしょ。僕は良くも悪くもギタリストなんですよ。だからギターを弾いちゃうし、音だけに集中しようとしてしまうんです」

 

非常階段の30年をふりかえった『非常階段 A Story Of King Of Noise』(K&Bパブリッシャーズ)のなかで頭士奈生樹はこう述べている。頭士のいう耳と魂の強靭さとは、楽音の外と可聴域の間に横たわるあらゆる音を引き受ける度量のようなものを指し、広重は後年それを「人間力」といい換えることになる(たとえば『イーター』第6号)。五線譜上にはけっして置くことのできない、抽象的で巨大な音の塊を擬人化しいかに昵懇の仲になるか。神秘主義的とも、お望みであれば禅的といっていい考えの気配と、純化した雑音への曖昧な、その意味で無辺際な思考の広がりがそこにあり、それがその後およそ30年にわたり日本のノイズにかくもユニークな展開をもたらす底流のひとつになったのだが、私は先を急ぎすぎた。彼らはまだ彼らのノイズを見つける途上にある。

 

オリジナル非常階段が解体しウルトラ・ビデ、螺旋階段からも脱退したJOJO広重はあらたにZUKE、岡俊之、美川俊治、真子らと腐食のマリィを結成、ほどなく市口章が加わった彼らはホーク・ウィンドのようなサイケデリック・スペース・ロックがやりたかったが、楽器を満足に弾ける者はほとんどいなかったから即興するしかなかった。1980年京都のどらっぐすとうあには、不失者やタコや光東夜などが出演していた東京・吉祥寺のライヴ・スペース「マイナー」に出演していた工藤冬里がよく遊びに来ていたという。工藤は6月に新宿ACB会館で開催する「天国注射の夜」に広重らを誘ったが、連絡の行きちがいで、腐食のマリィは非常階段と誤って告知されたが彼らは意に介さなかった。腐食のマリィは非常階段になった、というか戻った。

 

戻ってからの非常階段の快進撃はパンクなるものがおそまきながらこの国にも侵入し、ユース・カルチャーとして、あるいは風俗として看過できなくなったことを裏づけるものになった。80年から翌年にかけて、音楽にともなったパフォーマンスは過激化の一途を辿り、会場の蛍光灯を叩き割る、消化器の消化剤のみならず汚物や生魚を撒き散らし、女性メンバーであるセミ丸がステージで放尿し、音楽に付随したはずのパフォーマンスはその中身を刳り抜き、音楽と行為の関係性は顛倒した。「スキャンダラスなライヴをするバンド」非常階段の名前はゴシップ誌をも賑わした。音楽は関係ない。ましてやノイズなど。存在そのものが過分にノイズだったのだから。

 

 

JOJO広重はこの時期の音源をレコードにしたいと考えた。回を重ねるごとにライヴはますます過激になったが、過激さには限界があり、突き詰めてしまえば、おそかれはやかれ変わらざるを得ない。私は彼らはそう考えていたかどうかは定かではないがしかし、レコードをつくることは行為と乖離した純度の高いノイズを誰よりも彼らに再認識させることになったのではないか。じっさい日野日出志の『蔵六の奇病』の表紙絵をカヴァーにあしらった非常階段のファースト――のタイトルは正しくは『セカンド・ダマスカス』なのだがこの呼び名が定着している――をJOJO広重と林直人のたちあげたアルケミーよりリリースする。『蔵六の奇病』はノイズといい条、ライヴから選りすぐったその録音は演奏の強度とともに合奏形態もひとつの完成を見せ、予測のつかない音の動きはロックやジャズの形式に馴れた耳にことのほか新鮮に映る。ノイズであるにもかかわらず、というか、ノイズであるとともにどこかしら「音楽」的で、構造と方法はノイズ側にありながら形態と素材においてロックであることをやめない非常階段の特異性が初作らしい瑞々しさのなかにのたくっている。

 

もっとも非常階段の音源がレコードになったのはそれが最初ではなかった。

 

広重:『終末処理場』という非常階段が最初に入ったアルバムを出したのが1980年で、そのレヴューを『フールズメイト』誌に秋田さんが書いてくれたんですよね。

 

秋田:当時、雑誌でインダストリアルを紹介しようと思っていた時期でした。非常階段は関西の兇悪なバンドだと思っていました。

 

これはいまから14年前、ある雑誌でおこなったJOJO広重と秋田昌美の対談の一節である。『終末処理場』は林直人のアンバランス・レコードがリリースしたオムニバスで非常階段はそこに前述の「天国注射の夜」での音源を提供した。『フールズメイト』はのちにYBO2を結成する北村昌士が創刊したユーロ・ロック、アヴァンギャルド専門のミニコミで、80年代初頭秋田昌美はすでにこの雑誌に書き手としてかかわっていた。前年彼はすでにメルツバウをたちあげおもに自宅で音源制作にあたっていた。メルツバウはドイツ人ダダイスト、Kurt Schwittersの建築作品「Merzbau」の概念を引用したもので、内側に重畳した装飾が建物そのものを内破させるような建築作品だった。秋田昌美のメルツバウ――初期は彼のソロ・プロジェクトではなく、水谷聖はじめ流動的な数人のメンバーをふくむ集合体だったのだが――も、ノイズというものの音楽史、思想史における位置づけを知悉しながら、それらとの関係性を決然と遮断しその下に潜りこむ。ダダやシュルレアリズム、ミュジーク・コンクレートやフルクサス、あるいはまだ70年代に聴き漁ったZappaやCaptain Beefheartなどのもろもろ。秋田昌美は92年にそれまでの論考をまとめた『ノイズ・ウォー』を上梓したが、そこに編まれたTG、SPK、Whitehouse、The Hafler Trio、The New Blockaders、Organum、MB、P16D4などをあつかった論考や、BurroughsやAleister Crowley、Moholy-Nagyをノイズの文脈でとらえ返した思考法は、80年代から90年代にかけての日本のサブ・カルチャーの横断性の典型であるとともに、そこから暴力温泉芸者のようなノイズの複合物が導きだれるのはもはや必然しかいいようがない。

 

私は音(楽)的な影響関係をいっているのではない。それはむしろノイズという巨大な非音楽に対する批評と注解の歴史あり、新しいノイズは過去のノイズへリアクションであるとともに音楽ではない音の可能性の帯域を押し広げる。ところが彼らの註釈はノイズの内実を指し示すものではなく、ある種註釈のための註釈の側面をもち、表層を滑っていくのであり、つまるところメルツバウはメルツバウでしかない。この同語反復、そこにおける差異。それを見るのが聴くのが日本のノイズであり、その特異性である、というと反論を受けそうだが、ともあれ、非常階段とメルツバウというまったくタイプのちがうノイズが大阪と東京で同時期にあらわれたことが日本の発展を促したことはまちがいない。

 

彼らを日本のノイズの第一世代とすると、80年代初期、メルツバウとの共演盤を出したNULL、JOJO広重のアルケミーからレコードをリリースしたハナタラシなどは第二世代にあたる。80年代初頭からギターの即興演奏家として活動をはじめたKK NULLこと岸野一之は、85年にレーベルNUXオーガニゼーションを設立する。自身の作品にとどまらずノイズをふくむ日本のオルタナティヴ・ミュージックを国外に発信する基盤を築くことになるが、レーベルをたちあげたのとちょうど同じころ、彼は独Dossierがリリースした日本のノーウェイヴ/オルタナティヴ・ミュージックのコンピレーション『Dead Tech Ⅰ』シリーズをプロデュースすることになる。『Ⅰ』が85年、『Ⅱ』は88年にそれぞれ出た。アンダーグラウンドとはいえ、いや、アンダーグラウンドであるからこそ人選は精確に現実をうつしたものでなければならない。前者には岸野一之率いるNULL、ルインズ、ハイ・ライズらとともに非常階段も一曲提供し、これが非常階段のノイズが海を渡ったはじめての作品になった。山塚アイと竹谷郁夫によるボアダムスも参加しており、86年のファースト『アナル・バイ・アナル』リリース前にあたるこの音源はおそらく最初期にあたる。

 

音はいずれも煙幕の向こうにあるようにくぐもり、ローファイというよりパンクの7インチ並に粗悪だが、80年代なかごろの日本の地下でなにかがうごめいていたことはおぼろげながら訴えてくる。この国はYMOだけではない、もっとずっと騒々しく先鋭的で複雑でありながら非言語的かつ感覚的コミュニケーションが支配するのが日本だ、と。フラワー・トラヴェリン・バンド、陳信輝、ファーイースト・ファミリー・バンド――Julian Copeが『ジャップ・ロック・サンプラー』で喜々として論じたバンドのジャポニズムともちがう、というより、それらが襞をなし織り込まれたのが日本の国土であり、和的なる概念もエキゾチシズムの回路を経なければなりたたない。ポール・ハガティは『ノイズ/ミュージック』において、ジャパノイズを論じるにあたり、グローバリゼーションの陰画としてのワールド・ミュージックを参照したが、明治の幕開けとともに国をあげて近代化を急ぎ、西洋音楽よって音楽史を教育的に切断した日本では「伝統」はもっとも身近なエキゾチシズムであり、私たちはつまり自国の音楽史にワールド・ミュージックを潜在させたことになる。ジャズ、ラテン、カントリー&ウェスタン、ロックンロールの導入、戦後の米国化、フラワー・ムーヴメント、日本語ロック論争、テクノポップ、経済成長と停滞、パンク、ニューウェイヴにオルタナティヴの紹介、事象とジャンル名はYouTubeの横に出る参考画像のように列挙され、われわれは記号のリンクをたどり、飛んだやさきにその前聴いていたものを忘れてしまう「儚さ」ないしは「無常」の観念。誂えたように日本的な概念。しかしほんとうにそうか? すべては借り物であり束の間だ、と私は極論できれば、後は文化人類学者にでも任せ、さっさと風呂にでも入りビールでも飲んで寝られるのだが、日本のノイズについてはことはそう簡単に問屋が卸さない。

 

 

『Dead Tech』シリーズにはボアダムス名義で参加していた神戸市出身の山塚愛(現EYE)のHaNaTaRaSH(ハナタラシ)は80年代前半に活動を開始した当時、非常階段以上に常軌を逸したライヴをくりひろげるユニットとして知られることになる。いわく、ライヴハウスをブルドーザーで破壊した、会場に爆発物をもちこんだ、ガラス板を客席に放り投げた――すでに伝説化されたこれらのエピソードの一部は宇川直宏のマムン・ダッドからのアルバムでいまでも聴けるのだがしかし期待した耳には思いのほか空疎なライヴ・テイクはノイズというよりパフォーマンスのドキュメントであり、音だけで聴いてもよくわからない。HaNaTaRaSHの特異さはノイズに付随する行為ではなく行為そのものをノイズ化することにあった。それはきわめて単線的で水平的で、すこぶる刹那的であり速度としてのノイズを放射する。ハーシュでありながら帯域すべてを覆い尽くすノイズではなく、ときにリズミックでつねにユーモラス。アルケミーからの85年のファースト『ハナタラシ』こそ音楽的にノイズだった――というのも語義矛盾な気がするけれども――が『Hanatarash 2』(88年)にいたると破壊音響とコラージュの集積になり、ボアダムスとのちがいは、こちらがロックのフォーマットを基盤にするなら、HaNaTaRaSHはその剰余と衝動を音像化したものといった区分ほどでしかなくなっていく。

 

ときすでに80年代末。大野雅彦のソルマニア、山崎マゾのマゾンナ、草深公秀のK2、田野幸治のMSBR、中嶋文昭のAUBE、五味浩平のペイン・ジャークそれに中原昌也の暴力温泉芸者など、日本各地のかならずしも恵まれているとはいえない住環境下で彼らノイズ・ミュージシャンたちは自作楽器と自作システムで自作ノイズをもくもくと吹きこみしこしことダビングしたテープをもってライヴしはじめた80年代末から90年代にかけて、この国のノイズは発展期に入った。それぞれがそれぞれの音楽ではない音楽の道を進み、方法論を打ち立てさらに騒々しく、純度と多様性を増したのである。メインストリームの音楽史の動きともそれはからなずしも無縁ではなかった。

 

89年を境に歴史は袋小路におちこみ、バブル経済がはじけ経済は失速したにもかかわらず、90年代は日本で音楽産業がもっとも売り上げを立てた時代だった。CDが飛ぶように売れた10年。Jポップなる面妖な呼び名が生まれたのも90年代だった。かつて歌謡曲やニューミュージックと呼ばれた和装した音楽の衣替えの季節であり、情報化社会の帰還不能点であり、インディー・ミュージックはミュージック・ビジネスに刻々と繰り込まれる一方、産業ヒエラルキーの垂直構造と交錯した地下水脈のようなネットワークを辿り、日本のノイズが海外に知られはじめたのもまたこの時代だった。

 

 

大友良英はそれら現状への異議申し立てとして、90年代初頭登場した。というと一面的にすぎるが、彼の『We Insist?』や『The Night Before The Death Of The Sampling Virus』、簒奪した記号をネットワークを通じて流通させシステムを感染させる、ウイルスのアナロジーをもつ大友良英のサンプラー、ターンテーブルの使いはヒップホップというよりよりノイジーなChristian Marclayといったもので、Paul Hegartyにならうならメディア/アートであり、二語を分かつスラッシュこそノイズだった。韜晦ないい方を私は弄んでしまっているみただが、音の強度を追い求めてきた日本のノイズ史でこのような観念としてのノイズが先立つ例はじつはそう多くない。ノイズの方法論を熟知したメルツバウやインキャパシタンツでさえ――であるからこそ、か――ノイズとは強さでありそれを持続する音楽ではない行為である、という結論にもとづいたかのような、物語性を排した大音量に徹底してこだわり抜き、思弁は意図的に遠ざけた。作品タイトルとか曲名とか、言葉はあくまで副次的であり、意味はなければないほどノイジーだった。ところが大友良英のノイズには意味があった。私はさきほど観念と書いたが、彼のノイズは机上の形而上のものではない。あくまで実践的であり、フリージャズを通過し80年代には純粋にノイズ化したギター・パフォーマンスにいたった高柳昌行の門下生である彼の出自から来るジャズや即興や、ケージ的なサイレンスをうちにもったノイズだったが、それら命題があきらかになるには98年のグラウンド・ゼロの溶解をもって、2000年代を待たなければならない。では灰野敬二はどうだっただろうか?70年代にロスト・アラーフのヴォーカリストとして活動を開始し、先にあげた吉祥寺のマイナーで活動し、90年代を皮切りに不失者をはじめ複数の名義と音楽性にまたがり旺盛な活動期に入ったこの孤高の音楽家にとってノイズとは、はじまりの音をさすものであり、彼は音楽を最初の状態に送り還し、あり得べき別のものにつくりなおす。キリスト教とグノーシス主義の関係。と書くと、いたずらに異端的で神秘的に思われそうだけれども、近代西洋音楽の大系によらないものの見方はそれ自体否定されるべきではない。中世トルバドゥールになぞらえられるのはゆえなきことではないのだ。

 

 

それら90年代の日本の動向を海外に紹介する仲介者の役割を担ったのは、John ZornやSonic Youthだった。灰野敬二や中原昌也(暴力温泉芸者)はSonic Youthと共演し、Beckのオープニング・アクトをマゾンナがつとめた。ハードコアの論法を異化したKK NULLのゼニゲバは日本以上の人気をおさめ、『In Utero』時のNirvanaと共演したEYEのボアダムスにいたっては、その影響を公言する海外のバンドも少なくない。ほとんどの自国メディアが無視した彼らの活動の誇張や曲解さえにおわせる底なしの極端化が日本のシーンの特質だと思わせ、ノイズはその象徴だった。

 

すでに日本のノイズはジャパノイズと呼ばれはじめた。東京と大阪を中心としたシーンとしてひとつのまとまりから見れば、似通っているともまったくちがうにも見えた。膝を抱えメルツバウ(秋田昌美はPCでの演奏に移行していた)のライヴを聴くオーディエンスがいれば、インキャパシタンツのノイズに拳をふりあげる観客がいて、直立不動の姿勢でギターを掻きむしる灰野敬二をじっと見つめる客もいたかと思えば、ヘア・スタイリスティックス(中原昌也は90年代後半からこの名義を使用している)のドローンとコラージュにリラックスする者もいた。ときに耳を聾する轟音に細部はかき消されるかに思えたがしかしそれでもそのなかで耳を澄まし、音の一瞬の関係に彼らは音楽を聴きとった。すくなくとも聴き取ろうとした。その耳の働きは、90年代から2000年代にかけてのきわめて微弱な即興演奏を指すリダクショニズムの先ぶれとなった、というのは正しい歴史認識とはいえない、禅問答みたなものかもしれないけれども、ノイズやサイレンスや即興や非音楽といった問題の系は過去十年の紆余曲折を経て輻輳し、昨年非常階段がアイドル・グループBiSとBiS階段の作品を出すまでになるのだが、私は日本のノイズの未来は明るくも暗くもない。国土はもうすっかり夾雑物(ノイズ)だらけになってしまっていた。

 

 

Title illustration: From Merzbow 'Merzbuta' by Jenny Akita