十月 13

The Birth of Hip Hop in Japan

荏開津広が綴る、日本におけるヒップホップの誕生とスタイルの進化

By Hiroshi Egaitsu

 

「僕は東京で古い日本人の友人、DJクラッシュとアメリカ中部出身の新しい集団の面子、Anticonの若い白人のキッズらとショウを演ってた(中略)。言うまでもなく、バックステージのヴァイブはお喋り一色で、ぼくらはただ夢中で話してた。クラッシュの奥さんが入ってきて、セットの前に彼にサムライの刀を手渡した。部屋にいたみんなは・・・・うーん、ちょっと静まり返った。そんな瞬間、グローバルな文化、ヒップホップ、そしてグローバル・レベルでDJ操作してるって違和感/奇妙な混乱が目の前で結晶化する」——Paul D. Miller(『リズム・サイエンス』2008年、青土社)

 

ユース/サブ・カルチャーとしての日本のヒップホップは、他のユース/サブ・カルチャーとその成り立ちから関連している。現在ではストリート・ファッションのゴッドファーザーとしても知られる藤原ヒロシがその初期にはDJとして重要な役割を果たし、後にはA Bathing ApeのデザイナーであるNigoが自身をメンバーにテリヤキ・ボーイズというヒップホップ・グループを発足させるなど、日本のファッションの世界と関係を持ち、たとえば2010年のファッション業界紙の表紙にもなったPhenomenonという国内ブランドのデザイナーは90年代の日本のヒップホップの重要なグループであるシャカゾンビのラッパーであった。

 

また1990年代以降、『トーキョー・トライブ2』、『サムライ・チャンプルー』といった日本国内外で話題になったアニメにヒップホップのミュージシャンやトラック・メイカーがその世界観を補強するために音楽を提供することになる。日本最初のラジオでのヒップホップ番組のひとつ、「Hip Hop Night Flight」が可能になったのは、有名な漫画家であった故・中尊寺ゆつこがFM局やスポンサーにロビー活動をしたからだというし、彼女はヒップホップ・カルチャーに言及した作品も残した。初期の日本のヒップホップの歴史において重要なアルバム『建設的』を藤原ヒロシと高木完のタイニー・パンクスと共同名義で制作したいとうせいこうは、作家でありTVの司会者という文化人でありながら、今でもMC的な立場から音楽活動を続けている。

 

 

では、誰が最初にヒップホップを日本に持ち込んだのか?音楽家、中西俊夫は最も早い時期にヒップホップに接触した日本人で、彼とプロデューサーの桑原茂一は1982年5月にレコーディングで滞在していたニューヨークでAfrika Bambaataaのギグを見た後、中西のバンドのメロンのビデオにRock Steady Crewをキャスティングしブロンクスで撮影した。同じ年に藤原はロンドンに旅した後にNYCでヒップホップに出会い、帰国後折衷的な選曲のDJとしての活動を始めた。

 

1983年には、DJクラッシュもがらがらの新宿の映画館で観た映画『ワイルド・スタイル』が公開され、そのプロモーションのために総勢30人のキャスト/スタッフが来日し、都内のクラブでショウを行いTV出演もした。ブレイクダンサーたちが原宿の歩行者天国に集うようになり、東京B-Boys、そしてB-5 クルー(後に近田春夫とヴィブラストーンで一緒にラップをするDr.Tommyこと河野朋久がいた)、ミスティック・ムーヴァーズなどと名乗るようになった。そのうちの1人は後にRock Steady Crew Japanを代表するクレイジー・Aだ。

 

音楽的な成果としては、その前後に既にヒップホップを意識したダンス・ミュージックやノベルティとしてのラップに取り組んだ試みは単発的にあったが、それ以上の成果が出るには、ブレイク・ビーツと日本語のライミングを理解するために時間がかかった。それは、キャンプ美学に意識的な音楽家でファンク・バンドを70年代にやっていた近田春夫が自らラッパーとしてプレジデントBPMと改名し、ヒップホップ・レーベルを設立した1986年まで待たなくてはならなかった。その最初のシングル「マスコミュニケーション・ブレイクダウン」は日本のTVのゴシップ趣味に抗議するものだった。

 

そのBPMレコードとも関係のあったタイニー・パンクスは藤原ヒロシと早熟なパンクとして知られていた高木完のヒップホップ/ダンス・ミュージック・ユニットで、メロンのメンバーである中西俊夫、工藤昌之、屋敷豪太たちと共に、1988年ソニー傘下で日本最初のダンス・ミュージック・レーベル、Major Forceの設立時にプロデューサー/アーティストとして参加した。こうした動きの背景に、M.I.D. ザ・JG’s、GMヨシ、DJ ユタカ、DJドク・ホリディ、DJ タンコそしてDJホンダといったDJたちの活動の活発化がヒップホップをプレイするクラブの増加と共にあったことと、Afrika Bambaataa、Run D.M.C.、L.L. Cool Jなどの来日公演、後のMassive Attackの前身である英ヒップホップ・クルー、The Wild Bunchによる東京クラブ・サーキット・ツアーの影響は無視できない。

 

 

クラブが増え、レーベルが出来た。次は新しい才能の発掘である。早速タイニー・パンクスやECDが審査員をつとめ、DJやラッパーのためのタレント・コンテスト「DJ アンダーグラウンド・コンテスト・No.1」(1989年)で優勝したのは、原宿の路上からきたクラッシュ・ポッセだった。準優勝がその仲間のDJ セイジへ、そして特別賞のスチャダラパー(以下SDPと略、彼らはBoogie Down Productionを意識してこの省略形を好んだ)はまったく新しいサウンドにリリックで注目を浴びた。Beastie Boysに影響を受けた彼らはバブル全盛の放埒な日本のポップ・カルチャーにどっぷり浸かって育った世代で、他のすべてのラッパーやMCたちが欲しがっていたメジャー・レコード会社とのディールを即座に手に入れた。

 

SDPがファースト・アルバムをリリースした1990年、「Yellow Rap Culture in Your House」という12インチがグッチ・ジーというアーティストの手によってひっそりとリリースされた。この自主制作盤のプレス枚数は500枚から1000枚足らずだと言われているが、それでもこのレコードは日本のヒップホップの歴史の初期について考えるのに重要である。なぜなら、そこにその後発展する日本のヒップホップの特徴が集約されていると考えられるからだ。

 

収録されているのは、ホーム・ボーイズ、ハニー・ボム、クラッシュ・ポッセ、そしてグッチ・ジーによる4曲。前者2組は英語で、後者2組は日本語でラップをしている。ハニー・ボムは女性2人組である。ホーム・ボーイズのメンバーは、DX(現在のGDX)、ヨギーB、そしてDJ マサからなるが、DXは翌年にLAに渡り(彼の父親はアメリカ人である)既にアメリカで活動していたDJ ユタカの紹介でThe Zulu Nationのメンバーとなった。DXはアメリカのストリート・カルチャーを日本に持ち帰り、現在では俳優とレコーディング・アーティストをしているが、彼のあとに多くの人間がアメリカにヒップホップの本場アメリカでの武者修行を理由にして渡っていったのだった。ヨギー・Bは同じ年にガクMCとロック・ティーとイースト・エンドを結成し、4年後に彼らは市井由理というアイドル・シンガーと組んでイースト・エンド×ユリとして日本のラップに決定的な「DA.YO.NE.」のミリオン・セラーを出し、ライムスターと共にファンキー・グラマーというヒップホップ・クルーの中心的な存在となる。

 

 

一方クラッシュ・ポッセは、DJクラッシュ、MCのムロ、そしてDJゴーからなるユニット。この曲のリリックを聞くと、それが日本語で、具体的には誰を指しているのかはっきりしないが「キタネエ業界」への怒りと、ライヴが行われる夜の決して安全なことばかりではないダンスフロアという現場での筋を通すクラッシュ・ポッセの物語を聞くことができる。「Sing A Simple Song」、James Brown、Rufus Thomasといったファンクのブレイク・ビーツと同時に、Eric B. & Rakimなどこの曲の制作当時まだホットだったヒップホップ・レコードがサンプリングされているうえで、主要なビートは『ワイルド・スタイル』の「Military Scratch」であり、DJクラッシュは自分たちがどこから来たのか、どこに属しているのかということをサウンド面でも示す。

 

この前後数年間多くのラッパー、ラップ・グループが活動を開始したり、より活発にもなった。B・フレッシュ、ブッダ・ブランド、脱線3、イースト・エンド、ECD、ガスボーイズ、雷、かせきさいだぁ、キミドリ、キング・ギドラ、ランプ・アイ、ロウ・ダメージ、ランチ・タイム・スピークス、マイクロフォン・ペイジャー、ラッパ我リヤ、ライムスター、ソウル・スクリーム、ヴィブラストーン、四街道ネーチャー、ユー・ザ・ロック&DJベン・ザ・エース、ジンギ・・・。

 

それはヒップホップだったろうか?誰がよりヒップホップだったろうか?この質問は消えさることはなかった。特に94年〜95年に、前述のイースト・エンドと市井由理のスラングの語尾で判りやすく韻を踏み、若い男女の掛け合いの劇的構造が一貫する「DA.YO.NE.」がヒット、またSDPが高学歴と育ちの良さが喧伝された早熟なポップのカリスマ小沢健二と組んで「今夜はブギー・バック」をヒットさせた後、ますます重要だと考えられるようになった。後者はメロディアスなサビと、意識的にひらがなや擬音語を多用し、アメリカ黒人文化のパロディ的解釈(たとえばタイトルは、昔の黒人音楽の邦題の多くに「今夜は」がつくことを茶化したものだという)を盛り込むなど、日本の一般的な若者の感覚を取り入れ、日本と本場アメリカ(のヒップホップ)の微妙な距離感を意識し、聞き手に意識させるつくりだった。

 

 

翌年にはECDの主宰により、当時ECDが属していた大手AVEXレコード資本のCutting Edgeレーベルが予算を出し、ニューヨークから前年帰国し、その特異なリリックとサウンドでシーンの話題をさらったブッダ・ブランドをトリにキャストした「さんピンCAMP」が、そしてその1週間後にはSDPの主宰により周りのアーティストを集めた「大LBまつり」が同じ日比谷野外音楽堂で開催された。両者の違いははっきりとしており、メディアで喧伝された。「さんピンCAMP」に出演したアーティストたちの多くは、それ以前の数年間都内の幾つかのクラブで勃興したフリー・スタイル・セッションで自他ともに研鑽しての出演だった。その中心の一組は、ランプ・アイ名義で金儲け主義的な業界の姿勢に怒りをつきつけた12インチ・シングル「証言」を売り切ったアンダーグランド・オールスターズ的なメンバー、雷であった。煙草がしみ込んだコンクリートの東京のアンダーグラウンドなクラブ・シーンを背景に持つこれらのMCたちは、日本の中産階級的な価値観を英語日本語ちゃんぽんであからさまに嘲笑し挑発するリリックを持ち(ブッダ・ブランド)、ステージから見える厚生省の建物を指差して薬害エイズ事件の加害者だと非難しながら、能動的な行為として目撃することの重要性を強調した(キング・ギドラ)。

 

一方「大LBまつり」は、De La Soulの1枚目にも通じるSDPの回りの仲間たち(トーキョーNo.1ソウル・セットなどヒップホップ・グループと断言できないアクトも含む)の音楽と冗談をつなぎ合わせて辣腕でパッケージした総決算だった。「大LBまつり」までにマネージメント事務所とメジャー・レコード会社で安定した活動を可能にしていたSDPのリリックやライムは、80年代にゲームで育った世代に期待されるストーリー・テリングを拒否し、日本語の発音/音節で英語のラップの決まり文句と日本語によるリリックを併置して、ぱっと聞いたかぎりでは指し示すところが掴みかねるものに変化していた。イエロー・ラップ・カルチャー”の後、インストゥルメンタル・トラックがロンドンのMo'Waxから90年代始めにリリースされアブストラクト・シーンで歓迎され、当時から海外で最も知られた日本のDJとなったDJクラッシュはトラック中心のアルバムを発表していたが「皆が“王道のヒップホップ”っていうけど、『王道って何?』って意味も含めてあえて(筆者註、日本語のMCで)“王道のヒップホップ”を作ってみたい」とインタヴューに答えている。(『FRONT』誌、1998年)

 

2010年代半ばから当時を振りかえると、80年代から2000年までプレジデントBPM、クラッシュ・ポッセ、雷、ザ・ブルー・ハーブ、その他の出自の違うユニットに不思議なほど共通していた業界/メディア批判のリリックはもうなくなっていることに気がつく。コンピレーション『Yellow Rap Culture』にクラッシュ・ポッセと共に参加していたヨギらのイースト・エンドに、メロー・イエロー、後にリップ・スライムやキック・ザ・カン・クルーが属したファンキー・グラマー・クルーが結果的に商業的には最も成功した。リップ・スライムのメンバーは後にNIGOのテリヤキ・ボーイズに参加した。キック・ザ・カン・クルーのクレヴァは、日本で最も成功したヒップホップのソロ・アーティストの1人であり、1999年から3年連続で日本語によるフリースタイル・バトルの全国大会で優勝している。そして、ファンキー・グラマー・クルーの中心的な存在のライムスターは、繰り返しヒップホップ的な感性からアイドル崇拝から空手映画まで日本のポピュラー文化を照射し検証する、もしくはその逆の作業を作品の内外で実践してきた。メンバーの1人の宇多丸はその方法論を「B-ボーイ・イズム」と呼び、東京ロック・ステディ・クルーをステージで呼び込む同名曲のリリックには広島の廃墟が舞台のマンガのタイトル(『はだしのゲン』)まで織り込まれた。

 

「日本」の「ヒップホップ」をどう捉えるか。そのとき「なにが本質的にアメリカで、なにが日本なのかという議論ではない」という立場から「身の回りでこのような対立が再生産されている仕組みを見極め、それがどのように経験され、またグローバルな、そしてローカルな政治的、経済的、文化的利害と結びついているかを明るみに出していくこと。」(安田昌弘”ポピュラー音楽にみるグローバルとローカルの結節点”『ポピュラー音楽へのまなざし』、2005年、勁草社)それは、ひとつのローカルな文化と経験から、もうひとつのローカルな文化、グローバルな市場に乗せられる以前の文化へと私たちを向かわせる。更新や再解釈の余地を独特なやりかたで残した文化、そしてなによりも、都市におけるアイデンティティの再構築が力強い芸術へ変容した文化へと。