九月 05

Jah Shaka、その魅力

Red Bull Music Academy 2014で来日するJah Shaka。世界最高のサウンドシステムのひとつと称賛されるそのサウンドの特徴を、筆者の体験を通じて紹介する。

By David Katz



サウンドシステムとは複雑なアートであり、インパクトを与えるためには様々な要素が組み合っていなければならない。ライバルを圧倒するようなパワーを引き出すためには、エクスクルーシヴな楽曲が大きなカギとなり、スタイルを持ったMCも必要だ。そして列をなすアンプとスピーカーに対しては電力だけではなく、高い技術も求められる。その上で、各サウンドシステムには他とは違う個性が備わっていなければならない。

筆者が初めて体験したサウンドシステムは1982年に全米ツアーを敢行したJack Ruby Hi-Powerだった。そしてその翌年、ロンドンへ旅行した際にDBCを聴くチャンスに恵まれると、以降はKing Sturgav、King Jammy、Stone Love、Coxsone Outernational、Fatman、Frontiline、Duke Vin the Ticklerなど数えきれない程多くのサウンドシステムをジャマイカ、UK、アメリカなどで聴いてきた。しかし、その中で一番私の心に響いたのが UKのサウンドシステムカルチャーを永遠に変えたスピリチュアル・ウォリアー、Jah Shakaだ。

突如としてレコードデッキの横に立っていた巨大な太鼓を抱えた背の低い男がタムを力強く叩きはじめた。Jah Shakaのパーティーを初めて体験したのは1980年代だったが、まるで昨日のことのようにその時のことを憶えている。高架下の真っ暗な空間に入った私は、内部の雰囲気に木槌で殴られたかのような衝撃を受けた。充満するガンジャの煙、 見事に並べられたハンドメイドの木製スピーカーの前に立ち、汗をかきながら何かを期待している大勢の客。そこにYami Boloの “Jah Made Them All” の高音が鳴り響き、場の期待感が大きく膨らんでいくのを感じたが、それが何に対してなのかは曖昧だった。Yami Boloの楽曲だということはすぐに理解できたが、そのサウンドは高域側に捻れており、実際のレコードとは全く違うように聴こえた。Yamiのヴォーカル、ギター、そしてキーボードは識別できたが、リズムはエコーで輪郭がぼやけていた。

そして、突如としてレコードデッキの横に立っていた巨大な太鼓を抱えた背の低い男がタムを力強く叩きはじめ、私たちの方向感覚を完全に狂わせるようなプレイで私たちを圧倒すると、ベースだけしか聴こえなくなった。そのベースの轟音、エレクトロニックなリズム、パーカッションは脊髄を伝わり私たちの胸郭の遥か下まで突き抜け、客は恍惚状態で叫び声を挙げた。そして目を固く閉じ、マイクを手にしたJah Shakaがリズムに身体を揺らしながら、まるで別世界にいるような姿でJahへの賛美を始めた。



夜が深くなるにつれ、素晴らしい楽曲の数々がターンテーブルを通じてプレイされた。古くから親しまれてきたThe Wailing Soulsの「Very Well」、Cultural rootsの「Mr Boss Man」や「Kunta Kinte」のリズムをミックスした今まで聴いたことがないエクスクルーシヴなダブプレートや、UKの若手アーティストたちによる新鮮な楽曲群がプレイされた。また当時人気のあった楽曲、Junior Delgadoの「Raggamuffin Year」などもプレイされたが、すべてはJah Shakaの信じられないほど強力なイコライジングや過激なエコーとディレイで、ユニークな形に変えられており、そのパワーは空間配置にさえ影響を与えていた。

そしてサウンドによる天啓が連続的に行われると、私は人生2回目の「踊り明かし」をすることになった。私はみんなと一緒に身体を動かし、昼近くまで踊り続けた。強力な重力が発生する様子を眺めているような感覚を得たが、その雰囲気は何よりも楽しかった。これがUKのルーツカルチャーシーンの王位に長年君臨するJah Shakaのサウンドシステムの特別な雰囲気を初体験した時の思い出だ。

Jah Shakaはジャマイカに生まれたが、1950年代中頃に移民としてイングランドへ渡った。ロンドンのサウスイーストで生活していた彼は、1960年代初頭にスクールバンドでの音楽の演奏を始めると、その後、R&Bとソウルをプレイしていた地元のサウンドシステムFreddie Cloudburstに関わるようになった。やがて1970年代に入るとJah Shakaは独自のサウンドシステムを作り上げ、Joe Gibbs、Bunny Lee、Lee Perry、The Twinkle Brothers、Al Campbell、The Abysinniansなどの楽曲を使った独自のダブプレートですぐにシーンにインパクトを与えることになった。そして1976年のサウンドクラッシュでCoxsone Outernational相手に勝利すると、その後1979年から1983年にかけて数々のサウンドクラッシュで勝利を手にしていった。また、1980年にはレーベルKing of the Zulu Tribeを立ち上げ、数々のディープなアルバムとヴォーカルトラックを発表した。尚、この頃には映画『Babylon』へのカメオ出演も果たしており、 サウンドクラッシュに挑む彼の姿が映像で確認できる。

不況と暴力が世間を席巻していた1980年代後半から1990年代初頭にかけて、 スピリチュアルなメッセージ、または社会的重要性を備えたメッセージが乘せられた音楽だけを献身的にプレイしたJah Shakaは理性と言える存在だった。また、自分のルーツに忠実だった彼は、アフリカで長期生活を営み、チャリティー活動にも従事した。Shakaのプレイした楽曲群は人類の調和を説き、アフリカの文明の偉大さを指摘する一方で、全能の神の力を賛美し、人類は前向きなアクションを起こさなければならないと説いていた。

基本的にShakaのセッションには不真面目やチープさ、そして怠惰は一切なかった。現実で何が重要かをポジティブに伝えるサウンドにフォーカスしていたJah Shakaはマイクを握り、プレイ中の楽曲のメッセージ性を強調しながら、更にそれらにダブ処理を施していった。そしてヴェニューごとに変えていたセレクションと、そのヴェニューの音響特性とサウンドシステムの相互作用の影響から、毎回違うサウンドクオリティを提供していた。

Shakaのセッションには不真面目やチープさ、怠惰は一切なかった。Jah Shakaのセッションは宗教体験に近いものがあり、宗教にはあまり興味がないという人たちでさえも、スピリチュアルな感覚を感じると言うことが多い。また彼のコアなファンは常に黒人だったが、Jah Shakaはオープンな姿勢を保ち続けており、実際、フライヤーには「世界のすべての国の人がJah Shakaの音楽を聴きに来てくれたら本当に嬉しい」と書かれている時もあった。

こうして、Jah Shakaはヨーロッパ、日本、アメリカのフェスティバルに定期的に参加するようになっていった。本人は昔と変わらず、謙虚で献身的で、独特の雰囲気を持つ人物のままであり続け、1台のターンテーブルと1本のマイクだけで単独のオールナイトセッションをこなしている。サウンドシステムの偉大なるチャンピオンのひとり、Jah Shakaに惜しみない拍手を送りたい。