九月 02

シンセ今と昔: 60年代〜70年代のアナログシンセと音楽

シリーズ第1回目は Kraftwerk や Stevie Wonder、冨田勲からピンク・レディーまで、誰もが知っている曲の映像を交えながらシンセサイザーの今と昔を紹介

By Ryota Hayashida

 

 幸か不幸か、年ばっかり食ってしまった僕は、1979年くらいに初めてシンセサイザーの存在を知り、1981年のKraftwerk初来日も行ってしまったくらい、小学生の頃からエレクトロニックミュージックにどっぷりと浸かってました。現在ではシンセサイザー好きをこじらせて某録音情報誌なんかでも原稿を書いてます。ここでは数回に分けて、「シンセ」についてほとんど何も知識が無いという方にも分かり易いような記事を書こうと思ってます。

 

「さだまさしの『道化師のソネット』の次に買ったレコードがKraftwerkの『人間解体(Man Machine)』だったという小学生の変態ぶりに、家族を含め同級生からも異端の目で見られる日々を送っていた不遇の時代。これは僕が見た1981年のツアーの模様。この時点で今見るKraftwerkとやってることも、曲さえも大して変わっていないという事実に注目。」

 

 70年代後半といえばYMOや冨田勲先生がシンセサイザーの先駆者として一般的にも認知され始めていた時代で、とはいっても「あー、なんかいっぱいコードが刺さってる、ピコピコした音が出るあれでしょ?」くらいの知識しかほとんどの人にはありません。

 

「ジャンルで言えば、音楽と言うより電子工作みたいな様相。しかし当時の僕はこれをまじめに「これからの音楽はこれだ!」と根拠もなく直感だけで信じていた。」

 

  なんでも人間が手で弾かなくてもコンピューターが演奏するらしい、そんなかんじですね。打ち込みって言葉もなかったかもしれません。

 そしてシンセサイザーの使い手側にも今とは違う認識がありました。シンセサイザーというのは世の中にあるありとあらゆる音を擬似的に作り出せる装置だといっていたのです。たとえば鳥の鳴き声、風、雷、はたまたトランペット、バイオリン、クラリネットそういう音がこの一台から出せるんです。すごいですねー、ってな具合。まずそこにみんなの関心が集まりました。

 取扱説明書にもそういう音をこうすれば作れますって言うセッティング図が載っていて、みんなその通りにセットして「なるほどね~」なんて感心していたのです。

 

 

 ピンクレディーのような歌謡曲にもシンセサイザーが登場することがありましたが「ピロロロロ~」という宇宙的な効果音で使われることが多く、あまり楽器として積極的には使われてこなかったのです。それを聞いている人たちもそれがシンセから出た音だなんて認識さえなかったかもしれませんね。

 

「昭和アイドルの金字塔といっても過言ではない空前の大ヒットを放った彼女たちのヒット曲。なんともチープなシンセから始まるがこれが当時の精一杯のスペイシー感の演出だった。関係ないが、彼女たちのウォンテッドという曲はシンセはまったく使われてないが、非常にクールなアレンジで知らない人は一聴の価値あり。」

 

 おっと、そもそもシンセサイザーってなんなのかと、まずそこを説明するのを忘れてました。そこもちょっと触れておきましょう。

 

 シンセサイザーという言葉は日本語にすると合成器です。電気的に音を合成する装置ってことです。通常は鍵盤が付いていて、電気で音が出ます。現在の基本的なシンセの仕組みは60年代後半にモーグ博士によって考え出されたものがベースになっていて、今も仕組みはさほど変化していません。60年代後半にモーグ博士が開発するまで誰もシンセを作らなかったのかというと、あえて詳しく触れませんが先駆者がいました。だけどちょうどそのモーグ博士の時代は電子回路の基本が真空管からトランジスタに移行する時期で、従来の技術よりはるかに小さく安定した装置を作れるようになったことが大きいのです。
 当初のシンセはタンスみたいに大きなものでしたが、70年代になると車で持ち運びができるポータブルな製品が数多く出てきて、価格も手ごろになり、いろんなキーボーディストが持つようになりました。

 

「モーグ博士が最初に発表したシンセ、moog IIIc。型番の最後のCはキャビネット・タイプであることを示している。俗称タンス。すべてのモジュール(アルミの縦線で区切られている部品ひとつひとつ)は電源が入っているだけで互いに独立していて、ケーブルで結線することで初めて音が出る仕組み。どうつなげるかは使い手の自由なので、各モジュールの機能を理解していないと音さえ出せない。1969年当時は冨田勲氏はこのポータブル・バージョンを個人輸入でアメリカから購入したが、税関審査で鍵盤部分以外は楽器として認められず、アメリカから写真付きの楽器証明書を送ってもらってようやく通過したという話は有名。価格は1200万程度で、Stevie Wonderが冨田勲氏のところに「シンセの使い方を教えて欲しい」と頼みに来たのを冨田氏が彼の持ったハンディキャップを理由に丁重に断ったというエピソードも。」

 

「映像は小型化された当時の代表的なポータブル型シンセ、moog minimoog。発売当初はフォルクスワーゲンと同じ価格だったという。結線はまったく必要がなく、電源を入れたらすぐに使える仕様になっている。」

 

 しかし演奏情報をデジタル信号で受け渡しするMIDI規格が登場する1983年まではコンピュータとシンセを接続する方法に限りがあり、自動演奏させることは一般化していなかったのです(YMOMIDIのない時代から物量作戦で打ち込みをやってました)。

 

MIDI規格発表直後に発表された初期のMIDIシンセの代表格、Roland JUNO-1066音まで同時発音ができるわりに低価格で人気があった。音の良さがうけて今でも人気はあるが、出回っている台数が多く、入手はさほど難しくない。」

 

 それに今では当たり前になっている、作った音を保存して後で呼び出すことができるというメモリ機能さえ当時はまだ一部の製品にしかなく、そういう機能が付いている製品は100万円以上するのが当たり前でした。じゃあその時代の人は作った音をどうしていたの?って話になりますが、ただ残さずに毎回バラしていただけです。デジカメなんかもなかったので、紙に設定を書き写しておくってことはやっていました。

 

「メモリのできるシンセの当時の代表格、SCI Propghet-5。非常に多彩な音色が出て、音程も安定しており、太い音が出るのが特徴。日本ではYMOが使って有名になったが、ほとんどの著名なキーボーディストはたいていこれを持っていたヒット商品だった。価格は170万円。」

 

 さて、エレキギターなんかに比べれば歴史も浅く取り扱いも難しそうなシンセですが、それまでのステレオタイプなシンセのイメージから脱却して革新的なシンセサイザーの使い方を最初に提示してくれたのは、前述のKraftwerkをはじめとする70年代に活躍したドイツの前衛ロックバンドの人たちでした。

 彼らの音楽を俗にクラウトロックといいます。クラウトは酢漬けのキャベツ、ザワークラウトのことで、福岡のロックをめんたいロックと呼んでいるようなもんです。彼らは世界中でキワモノとされてきたシンセサイザーを巧みに自分の音楽に取り込んで70年代に実験的ながらもとてもクールなエレクトロニックミュージックを生み出していきました。

 

「クラウトロックの中でもシンセサイザーを多用していたのはKrafwerkとこのTangerine Dreamだ。メタモルフォーゼに出演していたので最近知ったという人も多いかもしれないが、この1975年に彼らが行っていたライブを見ればいかに彼らが革新的な音楽を目指していたかがわかるはず。」

 

 クラウトロックより少し遅れて、Joe ZawinulHerbie HancockChick Coreaなどのキーボディストがエレクトロニクスに関心を寄せるようになるが、これはごく自然ななりゆきだった。

 

1975年のHerbie Hancockのライブ。450秒くらいから始まるソロはARP Odyssey rev2、僕の愛機と同じだ。映像から判断するとmoogのパテントを侵害したラダー・フィルターを内蔵している初期のレアなモデル。背景にはARP 2600という上位機種も見受けられる。Herbieは最高にゴキゲンなプレイをしてくれる大好きなミュージシャンだ。」

 

「無類のシンセオタクとしても有名で、さまざまな機種のシリアル番号1番を持っているという彼もシンセを使うのは早かった。もうちょっと古い時代のかっこいい曲をチョイスしたかったが、これを選んだのには理由がある。ここで彼が弾いているKurzweil 250は初期のサンプリングシンセの代表格で、今聞いてもいい音がする伝説の名機なのだが、これを作ったRay Kurzweil(レイ・カーツウェル)はStevieの旧友であり、アメリカでも結構知られた「発明家」だった。カーツェル氏は楽器の専門家ではなかったが、彼が発明した、新聞などの活字をスキャンして合成音声で言葉に変換するリーディング・マシーンのクライアントとして最初Stevieと出会った。そのStevieの進言によってこのサンプリングシンセを開発したのだ。」

 

 基本的な彼らの理念は最近Daft Punkのプロデューサーとして久々に名前を聞いた人も多いGiorgio Moroderが手がけたDonna Summerの成功によってブラック・ミュージックへ波及していくことになります(Giorgioが当初ミュンヘンで活動していたことと無関係ではないのです)。

 

Giorgio Moroderがミュンヘン時代の仲間とやっていたバンド“MUNICH MACHINE(ミューニック・マシーン)1978年の作品。ファーストアルバムはよりファンク色が濃かったが、セカンドになってからはエレクトロニクス色を強め、シンセ・フリークには評価が高まった。」

 

 その後80年代に入ってイギリスのニューウェーブと呼ばれるポップ・ミュージックに取り込まれていって市民権を得ていきます。大量生産によって一般市民がシンセを買えるようになったことも大きなムーブメントでした。ニューウェーブは白人が中心にやっていましたが、影響を受けた音楽はソウルなどのブラックミュージックでした。ただヒップホップやハウスなどのブラックミュージックが登場するのはさらにその後のことです。

 

 次回はアナログからデジタルへ移行していく80年代シンセと音楽について書いてみようと思います。