三月 01

ストレートエッジの真実

ノー・シガレッツ、ノー・ドラッグ、ノー・アルコール、ノー・ワンナイトスタンド…。ハードコアパンクシーンに大きな影響を与えたコンセプトの誕生と歴史を当事者たちが振り返る

By Tony Rettman

 

 

登場人物(発言順):

 

Jonathan Anastas:ベース(Slapshot / DYS)

Mike Gitter:ファンジン『xXx』エディター

Jack “Choke” Kelly:ヴォーカル(Negative FX / Last Rights / Slapshot)

Jaime Sciarappa:ベース(SS Decontrol)

Dave Smalley:ヴォーカル(DYS)

Al Barile:ギター(SS Decontrol)

Ian MacKaye:ヴォーカル(Minor Threat)

Catherine Goldman aka Katie the Cleaning Lady:『Forced Exposure』エディター

Andy Strachan:ギター(DYS)

Mark McKay:ドラム(Slapshot)

Nancy Petriello Barile:在フィラデルフィアプロモーター

Reverend Hank Pierce:ローディー(Slapshot)

Jeff Nelson:ドラム(Minor Threat)

Brian Baker:ベース(Minor Threat)

Sab Grey:ヴォーカル(Iron Cross)

 

 

© Courtesy of Tony Rettman

 

 

 

Jonathan Anastas

ワシントンD.C.がストレートエッジのシンボルを生み出したんだ。連中が未成年の客の手の甲にXを書き始めたのがきっかけで、バーテンダーがアルコールを提供できない客をひと目で判断できるようにしたのさ。これが、Minor Threatの曲「Straight Edge」と結びついた。そのあとで、俺たちを含むボストンの連中がタフガイ的な思想をそこに加えたんだ。ワシントンD.C.のキッズは、他の客のビールをはたき落とすようなことはしなかったし、ウエイトリフティングをしろだの、赤い肉を食えだの押しつけることもなかった。俺たちがストレートエッジを別物に変えたのさ。ストレートエッジのイメージはボストンで固まったんだ。

 

Mike Gitter

ストレートエッジのメッセージはMinor Threatが下書きをして、SS Decontrolが体系化したのさ。

 

Jaime Sciarappa

1980年、ボストンのハードコアパンクシーンはまだ生まれたばかりだった。6~8人くらいしかいなかったから、いつもどこかで鉢合わせていた。俺が初めてAl Barileに会ったのは、Dead Kennedysのライブだったな。その時は軽く挨拶しただけで、Dead Kennedysがまた来た時に再会したんだ。

 

Jack “Choke” Kelly

ストレートエッジって言葉を初めて知った時は、俺が感じていたことがもう言葉として存在するじゃねぇかと思ったな。俺の中では、1981年の夏に全てが始まったんだ。同じ考えの連中に偶然出会えたのは本当にラッキーだったぜ。

 

ケープコッド(マサチューセッツ州)にあったMill Hill ClubってヴェニューにBlack Flagが来た時に、まずそこでJaime Sciarappaと話した。で、その日の午後にBlack FlagがボストンのChannelでもう一度ライブをやるって話だったから、Channelへ向かって橋を渡っていると、車でそこへ向かっていたAl Barileがたまたま俺に目を留めたのさ。俺は当時スキンヘッドだったからな。それで、奴が車を横付けして話しかけてきたんだ。車のステレオからはDisorderが流れていた。だから「Disorderかよ! このバンドいいよな!」って言ったのさ。それで決まりさ。俺は奴の車に乗り込んだ。あの日から一緒に行動するようになったのさ。あの頃のヴェニューでAlを見失うことはなかった。大男でフロアから頭ひとつ飛び出てたからな。

 

Jaime Sciarappa

Chokeは最初の仲間のひとりだった。Newbury Comicsで会ったんだ。Black Flagのバッジを付けてたからすぐに意気投合したのさ。それで、Choke、Al、俺の3人で一緒に行動するようになった。この3人がのちのBoston Crewの中心になったのさ。

 

Mike Gitter

Boston Crewは小さなグループで、メンバーは10人くらいだったね。ボストンのMedia WorkshopやGallery Eastで最初にライブをやり始めたのが奴らさ。ボストンのハードコアパンクシーンの礎を築いたんだ。

 

Dave Smalley

ボストンのハードコアパンクシーンの黎明期は、Gallery EastとMedia Workshopがヴェニューだった。Media Workshopってのは、とっくに解体されててもおかしくない廃ビルの中にあったちっぽけなヴェニューだった。

 

Al Barile

Boston Crewの初期メンバーで車に乗り込んでニューヨークへ向かって、Irving PlazaでBlack Flagのライブを観たんだ。その時に、たまたまHenry Rollinsと話す機会に恵まれて、奴からワシントンD.C.のストレートエッジについて教わったのさ。

 

Jaime Sciarappa

Henry Rollinsは俺たちが初めて関わりを持ったワシントンD.C.の連中のひとりだった。Black FlagのメンバーからBoston Crewはクールだと聞いていたらしい。それで少し一緒に過ごしたのさ。その時に、ストレートエッジの話を聞いたんだ。

 

Al Barile

あの頃の俺は酒を飲むことにあまり興味がなかったから、ストレートエッジの話が刺さった。俺の中ではもう飲酒は終わったことだったんだ。だから、Henryから聞いたストレートエッジのアイディアが、俺にはとても自然に思えたのさ。だが、俺は「おい、みんなで酒をやめてストレートエッジになろうぜ」なんて他の連中を誘ったことは一度もないぜ。誓ってもいい。

 

俺にとっては “閃きの瞬間” だった。ストレートであることを誇りに思っているクールなキッズを目の当たりにしたからさ。連中からパワーを感じた。あの時に “ストレート” と “クール” が俺の中で初めて繋がったんだ。連中のストレートでクールな感じをボストンに持ち込みたいと思った。要するに、世界に広げたかったのさ。このアイディアを押し進めたいと思ったんだ。

 

Jaime Sciarappa

ニューヨークのIrving PlazaでBlack Flagを観てからボストンへ戻る車中の出来事を良く覚えているよ。みんなでストレートエッジに真剣に取り組もうぜって話をしたんだ。俺たちは大酒飲みじゃなかった。適当にビールを飲むくらいはしてたけどな。だが、ワシントンD.C.の連中と話して、彼らの絆の強さを知った。それで、奴らのスタイルをボストンのシーンに持ち込みたいと思ったんだ。

 

Al Barile

HenryはワシントンD.C.のストレートエッジについて多少誇張して話していたかもな。人数を盛ってたと思う。だが、感謝してるぜ。そのおかげでこっちはショックを受けたからな。

 

 

SS Decontrol at Santa Monica Civic Center 1983 © Alison “Mouse” Braun

 

 

Ian MacKaye

Alは随分前からTeen IdlesとMinor Threatをいかに好きか、ストレートエッジにいかに傾倒しているかを書いた手紙を俺のところに送ってきていた。だから、何回も電話で話したよ。俺たちは孤立していたから、自分たちの考えをシェアできる他の都市の仲間をいつも探していたんだ。奴と繋がれたことに興奮を覚えたね。

 

Al Barile

俺はIanを心の底からリスペクトしてる。だから、奴がストレートエッジに関する全てを受け容れていたわけではなかったことに少し驚きを感じていた。もちろん、Ianは個人レベルではストレートエッジの支持者だったと思うが、今のような姿にしたかったかどうかは分からない。望んでいなかったと思うね。だが、俺は望んでいた。

 

ワシントンD.C.のストレートエッジはムーブメントじゃなかった。世間はそう理解してないけどな。ただの曲だったのさ。俺は住んでたわけじゃないから、確かなことは言えないが、酒もドラッグもやらない連中は少ししかいなかったと思うぜ。だが、俺の中ではストレートエッジの思想はとても重要だった。連中がこのメッセージを広めないなら、俺がやってやると思っていた。

 

Jaime Sciarappa

Dead KennedysのライブでAlと再会した時、Alは、自分はギタリストで、バンドを組みたいんだと言ってきた。ベースの俺も同じことを考えていた。それで電話番号を交換したあと、すぐにバンド結成に向けて一緒に動き始めたのさ。

 

Al Barile

Black Flagを観にニューヨークへ行く前からSS Decontrolは始まっていた。それで、ニューヨークから戻ったあと、俺は自分の生活態度を通じてストレートエッジを広めていこうと心に誓った。ひとりに支持されることから始めて、2人、3人と、どんどん広がっていけば良いと思っていた。

 

Jaime Sciarappa

ほぼ毎晩のようにAl、Choke、俺の3人でケンモア・スクエアに向かって、自分たちの存在をアピールしようとした。上手く行ったと思うね。なぜなら、スキンヘッド3人が奇妙な格好をしてうろついてるんだからな。キッズをハードコアパンクシーンへ誘うためにうろついてたんだ。

 

Al Barile

ギャングやクラブを作るつもりはなかった。“チョイス”はある、要するに、他にも道はあるってことを伝えようとしていたのさ。ドラッグやアルコールの摂取について深く考えるきっかけになればそれで良かった。それが俺の考えていたメッセージだった。

 

 

SS Decontrol live at Gallery East in Boston 1983 © Bridget Collins

 

 

Catherine Goldman aka Katie The Cleaning Lady

SS Decontrolの初めてのリハーサルは、わたしの祖母の家でやったのよ。SS Decontrolの初代ヴォーカルはJoe Muellerだった。そのあとで、Springaが加入したの。

 

Jaime Sciarappa

Joe Muellerは俺たちが『Boston Phoenix』紙に出したメンバー募集広告を見てバンドに入った。ドラムのChris Foleyもそうだったと思う。それで、Joeとの相性が悪いなと感じ始めたタイミングで、SpringaことDavid Springを誘ったのさ。Springaはシーンの有名人だった。いつもどこかのヴェニューにいた。俺が初めて奴を見かけたのは、1979年のElvis Costelloのライブだった。当時のSpringaはまだ12歳くらいだったと思う。だが、奴はどんなライブにも潜り込んでいた。

 

Dave Smalley

SS Decontrolは “Society System Decontrol” を意味していた。1981年に大学進学で俺がワシントンD.C.からボストンへ引っ越した時、奴らはすでにバンドとして活動していた。ボストンのハードコアパンクシーンの始祖として扱われるべきバンドだ。本気で活動しようとしていた初めてのバンドだった。ストレートエッジに関しては特に力が入っていた。

 

Jonathan Anastas

1981年のボストンは他の都市と同じだった。要するに、Black Flagの影響で全てが変わったのさ。伝説になっている奴らのボストンの初ライブ、Paradiseでのライブは見逃した。サマーキャンプの手伝いでボストンを離れていたんだ。当時俺はNewbury Comicsで働いていた。サマーキャンプ前のボストンはパンク一色だったが、サマーキャンプから帰ってきたらハードコアパンク一色だった。あのサマーキャンプのあと、SS Decontrolのデビューライブか2回目のライブがあった。The Rathskellerでライブしたんだが、スラムダンスをしているキッズをバウンサーがぶちのめしたんだ。そのあと、あそこはハードコアパンクのライブを一切やらなくなった。Media WorkshopとGallery Eastでもライブがあったな。

 

Andy Strachan

1981年7月にBlack Flagがボストンでライブをしたんだ。俺と友人たちは、バリカンで頭を丸めてからそのライブに出掛けた。客は50~60人くらいだったと思う。ヴェニューに入った瞬間に打ちのめされたよ。信じられない体験だった。のちにBoston Crewと呼ばれる連中にも会った。俺たちがマーブルヘッド(ボストンの北東約30kmに位置する街)から来たって言ったら驚いてたね。12人くらいのグループだった俺たちを、マーブルヘッドのパンクギャングと思ってたらしい。全員が丸刈りでハイカットのNIKEを履いて、ロールアップしたジーンズとスウェットを着てたからな。俺たちが何も知らないただのガキだってことはほとんど誰も気付いてなかった。Al BarileはSS Decontrolのフライヤーを配っていたよ。Alは俺たちのシーンのリーダーだった。真っ黒のバンで色々な場所へ連れてってくれた。ボストンのハードコアパンクシーンの創出に多大な労力を注いでいた。

 

Jonathan Anastas

ボストンはオールドスクールなハードワーカーが住む街なんだ。住民全員にその血が流れている。だから俺たちも徹底的にやったよ。Boston Crewは全てに全力で取り組んでいた。人を奮い立たせるパワーに溢れていた。ニューウェーブバンドが100枚のフライヤーを用意したら、SS Decontrolは1000枚用意していたし、どこからからツアーバンドがやってきて新しいMarshallのアンプを持ち込めば、翌月にはフルスタックが4セット用意されていた。ハードコアパンクシーンの連中は、この音楽に出会う前はスポーツをやっていたり、ウエイトリフティングをしたりしていたから、そういう競争心を元々持っていたんだ。ジムで「ウエイトの重さは昨日も今日も変わらない。違うのはお前だけだ」って言うタイプさ。

 

 

SS Decontrol live at Channel Boston© Gail Rush

 

 

Mike Gitter

ボストンでストレートエッジがあそこまで大きくなったのは、Al Barileがいたからだ。Alは今もそうだが、屈強で、明確な意志を持つ、クリエイティブな人物だった。あと、Alはアイスホッケーの選手だったから、競争心が強くてアグレッシブな性格だし、他より一段上を行くっていう考えがあったと思うね。

 

Jack “Choke” Kelly

Alには人を引きつける力があった。奴がみんなをまとめて引っ張っていたんだ。他のシーンの連中も全員知り合いだったし、ボストンのリーダーだった。奴が中心だった。

 

Jonathan Anastas

Alは両手の甲にでかでかとXを刻みつけていたし、レザージャケットの背中にも大きく “The Straight Edge” と書いていた。しかも、Glen E. Freidmanのファンジン『My Rules』に、「The Choice」というタイトルでマニフェストも掲載した。奴にはマニフェストがあったんだ! 当時の米国でマニフェストを用意しているキッズなんてひとりもいなかった!

 

Dave Smalley

ボストンがストレートエッジの武闘派だった理由? 俺には分からないな。多分、ボストン自体がタフでイカれた街だからだろ! 俺の仲間内にはタフな連中がいた。場所を問わずスプレーでメッセージを書きまくってたし、喧嘩上等だったし、脳筋の体育会系から追いかけられたし、警察からも逃げ回ってた。日常茶飯事だった。ボストンのヴェニューで起きるピットはハードでアグレッシブなことで知られていた。何回も肘が俺の目に入ったし、目の中で星が飛ぶのもざらだった。別に自慢したいわけじゃないぜ。ただ、正直に当時を振り返ってるだけだ。ボストンには、ストレートエッジを前面に打ち出した最高のバンドもいた。SS Decontrolが1982年にリリースしたファーストアルバム『The Kids Will Have Their Say』だけ聴いておけばいい。最高だぜ!

 

Al Barile

俺はストレートとクールを結びつけたかった。これがメインコンセプトだったんだ。ここが俺たちが大きく異なっていたところだ。違う生き方もあるんだってメッセージを若い連中に届けたかった。だからアルバムのタイトルも『The Kids Will Have Their Say(キッズにも言い分はある)』なのさ。ただライブをするよりもレコーディングの方が重要だった。俺の中では、レコードをリリースしない限り一人前のバンドじゃなかったから、リリースは俺にとって重要だったのさ。全部自力でやるってところも重要だった。

 

リリースに関しては、チームに動いてもらった。Phil N Flashがフォトグラファーで、Bridget Burpeeがレイアウトを担当した。俺もIan MacKayeにDischordからもリリースできないか問い合わせてみた。俺の中では、Discordからもリリースできれば自分で立ち上げたレーベルX-Claim!にある程度の信頼性を与えて、上手く軌道に乗れるんじゃないかと思っていたのさ。Ianはこの申し出をその場で受けて、何も言わずに俺にやらせてくれた。Ianには俺の頼みをきく必要はなかった。DischordはワシントンD.C.のレーベルだからな。だから、奴がSS Decontrolを自分のレーベルからリリースしても構わないと思ってくれたことに対して、俺は感謝してもしきれない。あの時、具体的に何をしたのかについて今は何も覚えてないが、約束のひとつとして、奴に大量のレコードを送ったはずだ。

 

 

Boston "Straght Edge" Crew at Tufts Medical Center 1982 © Gail Rush

 

 

Mark McKay

ボストン郊外のレコードショップにいた時に、自分たちのレコードを売りたいっていう怪しい連中が入ってきた。それがJaimeとAlだった。SS Decontrolのファーストアルバムを売り込みにきたのさ。奴らがショップのスピーカーでプレイしたサウンドを聴いた瞬間、俺は感動した。それで勇気を振り絞って奴らに話しかけて、聴いているのが奴らのレコードかどうかを確かめたあと、3ドルで買ったのさ。あのアルバムのストレートエッジに関するメッセージには結束力があった。俺は、Minor Threatがどんなルックスなのか知らなかった。知っていたのはサウンドとメッセージだけだった。だが、『The Kids Will Have Their Say』には、反抗的なスキンヘッドの連中がストレートエッジのメッセージと怒りと共にマサチューセッツ州会議事堂の階段を駆け上っているあのジャケットがあった。そこに魅力を感じたのさ。

 

Nancy Petriello Barile

SS Decontrolの『The Kids Will Have Their Say』を買って、凄く気に入ったの。もちろん、あのアルバムはストレートエッジのメッセージが前面に押し出されていたけれど、わたしは音楽そのものに惹かれた。強烈なパワーに溢れていた。だから、ライブを観たいと思ったの。それで電話をかけて、フィラデルフィアでライブをしてくれないかと相談したのよ。Alとは2時間話したわ。結局、彼からは行けないって言われたんだけど、EffigiesやDead Kennedysと一緒にスタテン・アイランドでライブをやるって教えてもらった。それで、Autistic Behaviorのメンバー2人と一緒に現地へ向かったの。驚いたわ。SS Decontrolほど強烈なパワーを打ち出していたバンドは他にほとんどいなかった。ライブ終了後にAlと話したのを覚えているわ。その時、わたしは喫煙者じゃなかったんだけど、たまたまタバコを手に持っていたの。Alはまるで銃を持っている人を見るようにわたしを見ていたわ。

 

Al Barile

別に武闘派になるつもりはなかったが、激しい性格だったし、やり過ぎる時があったのは確かだ。それが俺の生き方だったんだ。俺は全てに全力を尽くした。100%を出すことしかできなかったんだ。それが武闘派に繋がったのかもしれないな。

 

俺がバンドメンバーやBoston Crewの連中にストレートエッジを強要したことは一度もない。だが、俺はストレートなライフスタイルに関係ない部分には一切関わらなかった。だから、俺と一緒の時だけストレートだったのかもしれないな。プライベートの時間に何をしていようが俺は構わなかった。それは本人の問題だ。

 

Dave Smalley

SS Decontrolのすぐあとに俺たちDYSが生まれたんだ。Negative FXも同時期だった。ある日、胸に黒のマーカーで太く “Teen Idles” と書いたノースリーブTシャツを着てボストン大学のドミトリー(学生寮)を歩いていると、知らない奴が、Teen Idlesが好きなのかどうか尋ねてきた。俺は「別に」と返したが、結局そのまま会話が続いて、2人ともバンドを組みたがっていることが分かったんだ。それで俺は、輸入盤やパンクレコード、バッジを扱っていたNewbury Comicsへ向かって、コルク板のボードに「当方パンクVoとDr。機材あり。ハードコアパンクバンド希望」と書いたメッセージを張り出したんだ。俺は機材なんて何も持っていなかったし、寮で話した奴ももちろんドラムキットなんて持ってなかった。ウソをついたのさ。だが、Jonathan Anastasが電話をかけてきて、自分はベースで、最高のギタリストを知っていると言ってきた。そのギタリストってのは、いつも酔っ払ってて、Van Halenのリフを1日中弾きたいだけの奴だったけどな。要するに、DYSはウソにウソを重ねて出来上がったバンドだったのさ。だが、Jonathanと俺はすぐに意気投合したし、ギターもAndy Strachanに代わった。

 

Al Barile

DYSの登場が俺たちにとって重要だった一番の理由は、奴らが登場したことで共通項を持つ連中が一気に増えたところにある。俺たちはそういう連中を鼓舞したよ。何しろシーンを作るにはバンドの数が重要だからな。俺たちはデスメタルバンドなんかと共演したくなかった。だが、ファンベースを共有していないバンドと共演しなければならない時期もあった。

 

 

 

 

Dave Smalley

SS DecontrolとDYSは兄弟バンドだった。ロサンゼルスにはCircle Jerks、The Adolescents、Wasted Youthがいて、ロサンゼルスのカルチャーと自分たちを代表していた。一方、ボストンにはSS DecontrolとDYSがいて、俺たちを代表してくれていた。派手さはなく、ピュアだった。俺は、人生を良くしよう、世界を良くしようっていうメッセージを伝えつつ、ストレートエッジのために活動するハードコアパンクバンドが組みたかった。俺たちには福音派の暴力性が備わっていたのさ。DYSのファーストアルバム『Brotherhood』は、ハードコアパンクのキッズの仲間意識を打ち出したかった。ストレートエッジかどうかを問わずね。有言実行をしたかったのさ。

 

Andy Strachan

SS DecontrolのAl Barileの姿を見て、ギターを弾きたいと思ったんだ。「あいつを見ろよ! ゴリラみたいにギターを持ってるぜ!」って思ったのさ。あいつに弾けるなら俺にも弾けるってな。俺がDYSに加入したのは、ギターを弾き始めてたった8ヶ月後だった。俺が加入するちょっと前からDYSはすでに活動していたが、ギタリストが常に酩酊状態だったからクビになったのさ。俺たちのデビューライブはケンブリッジの教会だった。Misfitsのオープニングアクトだった。

 

Mark McKay

DYSはいつもキッズをステージに上げて、一緒に歌わせていた。本当の意味でファンと繋がってた。SS Decontrolでもその繋がりを感じられたが、DYSでは “体験” できた。SS Decontrolは近寄りがたい存在だった。タフな連中だったからな。だが、DYSは「お前もこっち来いよ!」って感じだった。Smalleyと腕を組んで歌えたんだ。だから、個人的にはSS DecontrolよりもDYSから受けた影響の方が大きかったね。同士って感じがしたからな。ただ見ているだけじゃなくて参加できたんだ。

 

Jonathan Anastas

ボストンにハードコアパンクのシーンが誕生すると、昔から活動していたパンクロックバンドたちが苦しみ始めたように見えた。誰もが自分の知り合いのパンクバンド以外には目をくれなくなったのさ。昔から活動していたバンドは、確かにパンクロックだったが、奴らの中にはメジャーレーベルから注目されたいっていう意識が残っていたし、誰かが予算を用意するまで、自分たちでレコードを作ることはなかった。活動もデモを送るか、バンに乗り込んで25ドルのギャラのために演奏するかのどちらかだった。昔ながらの “発掘されるのを待っている” 連中だったのさ。俺たちにはそういう考えはなかった。どちらかと言えば、俺たちは新しいモデルを生み出したんだ。パンクバンドの連中からはかなり妬まれてたよ。奴らは「何だってサンフランシスコの連中はSS Decontrolのことばかり話題にしているんだ? どうしてニューヨークはGang Greenに興味を持ってるんだ?」って感じだった。ボストンのパンクバンドは、ボストン以外では一切話題になっていなかった。

 

Dave Smalley

俺たちはストレートエッジであることと、それを自分たちの象徴のひとつにしていることを誇りに思っていたが、それ以上は求めていなかった。自分を誇張する奴なんていなかった。なぜなら、俺たちは全てを自力でやっていただけだからさ。都市ごとに内容が異なっていたのはこれが理由だ。今はインターネットが普及したおかげで、各都市の個性が薄まっている。どの都市にもStarbucks、Target、Walmart、Staplesがある中で、そこに個性を見出すのは難しい。当時の全米のパンクシーンはどれもユニークだった。ボストンはワシントンD.Cとは大きく異なっていたし、ワシントンD.C.とシカゴも全然違った。シカゴもシカゴでデトロイトとは違っていたし、デトロイトとロサンゼルスも違った。ロサンゼルスとサンフランシスコも別物だった。それぞれのシーンが異なる音楽、スタイル、美学を持っていた。俺たちはただ俺たちらしさを表現していただけだ。俺たちの旗を用意したのさ。その旗を気に入れば持てば良かったし、気に入らなければ踏めば良かった。まぁ、踏んだ奴はろくな目に遭わなかったと思うけどな。

 

 

Jack “Choke” Kelly (Negative FX) © Bridget Collins

 

 

Andy Strachan

ボストン出身の全バンドがストレートエッジなわけじゃなかった。無理な話さ! ボストン出身のストレートエッジなバンドの数は両手で収まるくらいしかいなかった。仲間の中には、昔から酒やパーティが好きだった連中もいた。でも、だからといって奴らと一緒に行動するのをやめるわけじゃなかった。

 

Jonathan Anastas

Gang GreenはBoston Crewのメンバーだったが、奴らは相当なパーティバンドだった。Jerry’s Kidsもある意味パーティバンドだった。The F.U.’sだって飲んだくれだった。DYSとSS Decontrolはストレートエッジだった。だが、お互い仲は悪くなかった。シーンの中にピュアな奴なんてひとりもいなかったってことを理解しておく必要がある。Media Workshopはドラッグの巣窟だった。誰もそこに触れないだけだ。SS Decontrolのライブでも、ヴェニューのオーナーがクーラーボックスからビールを取り出して売っていたし、他の奴らだって気付かれないように色んな物を売っていたはずだ。だが、SS Decontrolはその状況を受け容れていた。他にライブできる場所なんてなかったからさ。

 

Dave Smalley

ストレートエッジじゃないバンドがいた。Jerry’s Kids、Gang Green、The F.U.’sなんかがそうさ。奴らは全員Boston Crewのメンバーだったが、Boston “Straight Edge” Crewじゃなかった。奴らはストレートエッジじゃなかったし、その振りもしていなかった。

 

Jonathan Anastas

嫌な真実を話すと、100%ストレートエッジなバンドなんてひとつもいなかった。SS Decontrolも完全なストレートエッジじゃなかったし、DYSもそうだった。Negative FXもピュアなストレートエッジじゃなかった。

 

Jack “Choke” Kelly

Negative FXの中でストレートエッジだったのは俺だけだったが、俺が全ての曲を書いていたから、ストレートエッジなバンドとして扱われたのさ。

 

Reverend Hank Pierce

ソングライティングを手掛けていたメンバーは全員ストレートエッジだった。他のメンバーはそこまでストレートエッジじゃなかった。たとえば、SS DecontrolのSpringaも、俺の知っている限り、完全に酒を絶っていたわけじゃなかったね。

 

 

Springa (SS Decontrol) © Alison “Mouse” Braun

 

 

Al Barile

俺はストレートエッジのアイディアを広げたいと思っていたが、自分の行動で示そうとしていた。バンドメンバーを集めて「おい、ストレートな生活を送るんだ」なんて指示したことはない。ただの一度もな。ただ、俺の歌詞が何かメッセージを伝えるなら、それは意味がある重要なメッセージであるべきだと考えていた。だから、上手く乗り越えるのが難しい時期、10代の日々との向き合い方をキッズに教えようとしたんだ。多感な時期だから、誰もが目に飛び込んできた物やクールだと思う物に影響を受けやすいだろ? それが俺の伝えたいメッセージだった。他にも道があることを教えたかった。選べるってことを伝えたかったのさ。

 

どいつがストレートエッジでどいつが違うか嗅ぎ回ったことはなかった。自分に忠実であることが最善策だってことが分かってたからな。だから、誰がストレートエッジで誰が違うかは知らなかった。俺が知っていたのは、自分がストレートエッジだってことだけだ。自分の行動で示し続けただけだった。当時、俺の周りには週末になれば飲み歩いてる友人がまだ沢山いた。だが、奴らを見下したり、世の中のありとあらゆるバーがなくなるべきだなんて考えたりはしなかった。禁酒法時代みたいに、アルコールやドラッグは悪魔の使いだから世の中から抹消されるべきだなんて思っていなかった。ピューリタン的な人生観は持ってない。

 

Mike Gitter

ボストンのハードコアパンクシーンにストレートエッジが前提として存在していたか? 全然そんなことはなかったね! ベストと評価されていたバンドがストレートエッジを前面に押し出しているとは限らなかった。ワシントンD.C.と同じだ。あそこも、ScreamやVoidのようなバンドは、Minor Threatのメンバーのようにそこまでイデオロギーに拘っていなかったはずさ。

 

Jerry’s KidsやSiegeのようなバンドは、音楽的に素晴らしかったから歴史に残れているが、メッセージは打ち出していなかった。SS Decontrol、Negative FX、DYSがパンクロックの殿堂入りを果たしているのは、奴らがメッセージを打ち出していたからだと思うね。

 

Mark McKay

俺たちのボストンのハードコアパンクシーンへの思いは、この街のスポーツチームへの思いと同じだ。俺たちはホームチームを死ぬまで応援する。俺はもう50歳だが、まだNHLボストン・ブルーインズの試合を楽しんでる。なぜなら、俺の支えだからさ。昔から良く知っているし、心が落ち着くのさ。ストレートエッジも同じさ。自分の誇りなんだ。ボストンは活気のあるバーが揃ってるから、尚更そう思えるのさ。

 

 

Boston Crew in Washington D.C. © Bridget Collins

 

 

Jack “Choke” Kelly

出身地を訊かれて「ボストン」と答えたら、「ボストンはニューヨークの北だよ」と説明を続ける必要があった。「ニューヨークから来た」と答えた方が簡単に済む時もあった。だから、俺たちはボストンのハードコアパンクシーンを広めようとしていたんだ。自分たちの存在を知ってもらうためには、過激にやらないといけない時もあった。俺は昔も今も挑発的な態度を取るのが好きな12歳のガキのままなのさ。何の意味もない曲を書いても、意味がないってことをわざわざ教えることはない。その曲の内容を真に受ける奴はマヌケってことだな。いちいち全部を説明する義理はないぜ。

 

Jonathan Anastas

SS DecontrolのAl、そして汚れ役のChokeがいたから、ボストンのストレートエッジのブランドは確固たるものになり、神話的な存在になったのさ。

 

Mike Gitter

Al Barileをグランド・モフ・ウィルハフ・ターキンとするなら、Chokeはダース・ベイダーだった。

 

Jaime Sciarappa

ボストンは武闘派のストレートエッジシーンという評価と共にスタートしたが、やがてその評価がひとり歩きしていったんだ。他の街でライブをすれば、そのあとで噂が流れた。それがひとり歩きしていったのさ。

 

Jack “Choke” Kelly

SS Decontrolと一緒にオハイオに出向いた時のことを覚えているぜ。Alと俺は懐中電灯を持ってステージに上がった。フロアで酒を飲んでる客を照らして、首を振って “失格だ” って伝えたのさ。正直に言えば、あれはただのおふざけだった。だが、そのライブのあとで、Boston Crewのメンバーが他の客の手からビール瓶をはたき落としていたって噂が流れたのさ。もちろん、そんなことはしてないぜ。一度もやってない! だが、そういう噂を聞いた俺たちはあえて「ああ、やったぜ」とうそぶいたんだ。俺の仕事は「伝説の修正」じゃなくて、「伝説の誇張」だったのさ。

 

Jonathan Anastas

Boston Crewがいつも頭にかぶっていた、Tシャツの袖を使ったハット、スリーブハットのことを知ってるか? あれは、Tシャツの袖を切り落としてかぶるんじゃなくて、ピットに飛び込んで誰かのTシャツの袖を引きちぎってかぶるんだって話から始まったんだ。トロフィーみたいなもんさ。家でTシャツの袖をハサミで切り落としても認められなかった。最初はただのジョークだったんだが、やがてそうじゃなくなった。家で作るのがマジで許されなくなって、哀れなキッズは上半身裸で家に帰っていた。

 

Jack “Choke” Kelly

スリーブハットはAlのアイディアだった。Springaかもしれないな。俺たちはいつもTシャツの袖を切り落として着ていたから、最初はリサイクル感覚というか、もったいないから使おうぜって感じだった。それで、何に使うんだって話になった時に、俺たちの頭にピッタリとはまったのは笑えたな。はっきり言って、保温性はゼロだったが、俺たちのもうひとつのシンボルになった。誰もやってなかったし、俺たちがやることにしたのさ。ピットに飛び込んで、パンクスのTシャツから袖を引きちぎってこそのスリーブハットだって教えたのは、むきになる連中がいるから面白いだろうと思ったからさ。パーフェクトに引きちぎろうとする奴がいるんじゃないかって思ったんだよ! 俺たちはいつもああいうくだらないことを仕掛けていた。

 

 

Jack “Choke” Kelly w/ Sleeve Hat © Bridget Collins

 

 

Jonathan Anastas

Hüsker Düがボストンにやってきて、DYSのアルバム『Brotherhood』のバッキングヴォーカルを手伝ったんだ。それで、奴らから「長髪を見つけると押さえつけて丸刈りにするんだって? ビールを飲んでると瓶をはたき落とされるって話も聞いたぜ」って色々詰め寄られた時に、全部本当だって答えたのが全ての始まりさ。あいつらは俺たちのウソを手土産にして地元へ帰ったのさ。「ああ、おっしゃる通りだぜ!」って返したことで、俺たちの噂が一気に広がったんだ。

 

ビール瓶をはたき落とすっていうのは、メソッド演技法かプロレスラーの世界の話だよな。だが、ある時から俺たちはそういう作られたキャラクターを利用し始めたんだ。最初はただの皮肉たっぷりのジョークだったのに、いつの間にか伝説になっていった。一時はIan MacKayeも「お前ら何やってんだよ? ファシストなのか?」って思っていたはずだ。

 

Ian MacKaye

SS Decontrolが初めてワシントンD.C.を訪れたのは1982年1月だった。Woodlawn High Schoolでライブをしたんだ。奴らは大雪の中、車でやってきた。当時、俺は『Washington Post』紙の配送車を運転していたから、仕事から帰ってきて、朝4時頃にベッドにもぐりこんだんだ。俺の部屋はDischordのホームとして使っていた家の玄関の丁度真上にあった。それで、朝10時に下で何かを打ちつけるような音がするから目が覚めた。下に降りると、Tシャツの袖を頭にかぶったスキンヘッドがドンドンと足踏みをしてブーツについた雪を落としていた。筋肉隆々の大男たちに見えたよ。これが俺たちの初めての出会いだった。かなりのインパクトだったね。

 

Jeff Nelson

SS Decontrolとは仲が良かった。俺は好きだった。でも、奴らには脳筋的な側面があった。奴らはBoston Crewと名乗っていた。Crewっていう単語を耳にした瞬間、俺の中には脳筋のイメージが生まれるんだ。

 

Ian MacKaye

SS Decontrolのライブは物議を醸し出した。Boston Crewがフロアで暴力的だったからさ。奴らはワシントンD.C.のシーンをかなりタフだと予想してたんだろう。俺たちにもタフな部分はあるが、暴力は振るわない。喧嘩がしたくてヴェニューに来る奴はほとんどいない。喧嘩に逃げ腰だったわけじゃないけどな。だが、ボストンの連中は明らかに殴り合うために来ていた。で、ワシントンD.C.のキッズの多くはそれを望んでいなかった。

 

Jaime Sciarappa

SS Decontrolのライブでは “ピッグパイル” を良くやっていた。人が人の上にどんどん飛び乗って2.5mくらいの高さになるまで続けたのさ。多分、それでワシントンD.C.のキッズが肋骨を折ったか何かしたんだ。だから、俺たちはごろつき扱いされるようになったのさ。キッズをいじめてるってな。誤解しないで欲しいのは、俺たちはライブで自分たちの存在をアピールしたかっただけだ。気性が荒いメンバーがいたのは確かだが、キッズを怪我させるつもりはなかった。ワシントンD.C.だったし、その気持ちは特に強かった。

 

Ian MacKaye

あの日は滅茶苦茶だった。なんであんな奴らを呼んだんだって文句を言ってくる奴もいた。「ボストンなんてファックだぜ!」と言っていたから、俺は「ナイスガイなんだ! 俺の仲間なんだ!」と言い続けていた。俺が覚えていることを話すと、ライブのあとにAl Barileが「ワシントンD.C.には失望したぜ」的なことを言ったんだ。それでどういう意味だと訊ねると、スキンヘッドが大挙して、Xの描かれた拳を突き上げて盛り上がるようなシーンを想像していたと返してきた。変わり者や気の弱い奴、女性が多かったことに驚いたんだろうな。

 

 

Boston Crew in Washington D.C. © Bridget Collins

 

 

Jonathan Anastas

今の状況やロサンゼルスのシーンと比較すると、あの騒ぎはちっぽけなもんだった。シーン全体を巻き込んだ争いというより、ただの小競り合いだった。もちろん、ボストンは全体を巻き込もうと全力を尽くした。SS Decontrolは自分たちの車に乗せられるだけキッズを乗せてニューヨークのIrving PlazaやRock Hotelへ向かったり、マーカーを手にした奴が「全員額にXを描け。パンチする相手を間違わないようにな」なんて言ったりしていた。Chokeがステージ上でストレートエッジのチャントを歌わせることもあった。

 

Brian Baker

当時のワシントンD.C.は、ボストンのバンドに対して「おいおい、ちょっと取り違えてないか」と思っていた。だが、自分たちが常に正しくて、間違っているのは常に相手だって思うのはワシントンD.C.のパンクシーンの伝統なんだ。ワシントンD.C.は、他の連中から注目され始めると自分たちがオリジナルだってことを主張したがるのさ。

 

Dave Smalley

ワシントンD.C.とボストンはお互いリスペクトしていた。お互いストレートエッジで知られるようになったシーンだったからさ。どちらもそれが理由で世間から愛され、憎まれていた。

 

Jack “Choke” Kelly

Dave Smalleyと俺は同じ家に住んでいて、DaveはIan MacKayeと文通していた。Ianが「お前らボストンはストレートエッジに関して好戦的な態度を取りすぎてる」と書いてきた手紙を読んで、俺は「おお、そうかい」と思った。それで、鬼軍曹が訓練兵に走りながら歌わせるあのミリタリーケイデンスのようなスタイルでストレートエッジをテーマにした歌を作って、Irving PlazaでMinor Threatと共演する前に暗記したのさ。ただふざけてただけなんだが、ファンはそのフックと歌詞を気に入ったんだ。「Kill anyone with a beer in their hand(ビールを持つ奴、皆殺し)」みたいな歌詞さ。全員がそれを楽しんでいた。俺を嫌う奴が多いのは理解できないね。俺にとってパンクロックってのは、過激な行動で世間の怒りを煽るものだからさ。ナチスの腕章を付けているSid Viciousを見て、奴をナチスだとは思わなかっただろ?

 

Sab Grey

今回の話を、中年男が集まって文句を言っているだけにするのは嫌なんだが、ボストンの連中の大半は、パンクに鞍替えした元アイスホッケー選手だった。パンクスになる前はスポーツ選手だったのさ。何が言いたいか分かるか? 脳筋のアホばかりだったんだよ! 俺は変人扱いされていたがスポーツもするキッズだった。だが、スポーツマンよりも先に変人だった。ビールを飲んでる奴を殴るなんてどうかしてるだろ? 邪魔されてるわけじゃないのに。右翼のファシストがそんなことをしたら許されないし、キリスト教右派がそんなことをするのも許されない。なのに、なんだってアイスホッケーバカがやるのは許されるんだ? あれはただのいじめって言うんだ。俺は支持できないね。

 

Brian Baker

ボストンの連中がストレートエッジを武闘派に変えた時、俺はただ賢く気取って「おっと、見事に取り間違えたな」と思っただけだった。だが、ストレートエッジが連中にとって非常に魅力的な存在なのかもしれないという可能性については考えなかった。奴らがドラッグやアルコールの問題を抱えていたり、アルコール中毒の親に殴られながら育ったかもしれないなんてことは、当時は一度も考えなかった。奴らにとってストレートエッジは本当に素晴らしい、自分たちに力を与えてくれるアイディアなのかもしれないなんて想像すらしなかった。もしそうだったなら、奴らの思いに茶々を入れた俺は何様なんだって話だよな。

 

 

今回の記事は『Straight Edge: A Clear-Headed Hardcore Punk History』からの抜粋です。『Straight Edge: A Clear-Headed Hardcore Punk History』はwww.straightedgebook.comで発売中。

 

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