一月 22

Nightclubbing: Tokyo’s Space Lab Yellow      

東京のダンス・ミュージック・シーンを牽引した、伝説のクラブが残したもの

By Yuko Asanuma

 

東京の中でも最大の歓楽街のひとつである六本木の喧噪を抜け、少し静まった西麻布の交差点のほど近く、細く短い道を入ったところにぽつりと佇む何も書かれていない黄色い看板。それがSpace Lab Yellow、通称「Yellow」の入り口の目印だ。重く厚い扉を開くと、目の前に大理石の長い階段が現れ、訪れた者を地下へと導く。それを降りていくほどに、足下から伝わってくるキックドラムの振動と共に、ワクワクする気持ちが高まっていく。階段を囲む壁にはパーティーの告知ポスターがいくつも貼られ、踊り場の脇には様々なフライヤーが積まれ、地下1階のラウンジに集うお客さんやスタッフが笑い合う声が聞こえてくる。

 

夜の世界に足を踏み入れる瞬間。ここからパーティーが始まる。

 

 Photo: Kenta Fujiki (2008)

 

そこには実に多様な人々が集っていた。お店のスタッフと親しそうに喋っている常連さんや、「業界人」風の大人、仕事の後に近くで食事をした後に寄った感じのビジネスマン、六本木から流れてきたであろう外国人、音楽オタクの学生、どこかでプレイしているのを見たことがあるDJ、ファッション系の仕事をしていそうなお洒落に着飾った人たちや、雑誌で見たことがある有名スタイリストや芸能人… バー・エリアでわいわいと盛り上がる小グループ、片隅でナンパに勤しむ男女、フロアの前方で絶叫する人、後方で目を閉じて黙々と踊る人、踊り疲れたか酔いがまわり過ぎて階段で寝てしまっている人。でもそこではみんなが同じ目線で、同じ立場で、誰にも干渉されることなく、好きなように楽しむことが出来た。まさに「都会の大人の遊び場」と呼ぶに相応しい、自由で華やかな空間。唯一特別視される存在があったとすれば、それはその夜の運命を握るDJだ。彼らがレコード・バッグを携えて入店し、ダンスフロアの一番奥に位置するDJブースに向かう際は、誰もが道をあけ、時には通り様に握手を求めたりしながら彼らを最優先した。

 

Yellowの最大の特徴を挙げるとすれば、それはDJに対する最大限のリスペクトに基づいた、最良のパフォーマンスを可能にするための惜しみない環境づくりとサポート体制だ。DJのニーズに完璧に応えるよう作り上げられた10平方メートルほどのDJブースは、日本中のDJが「いつか立ってみたい」と憧れた。そして、実際にそこでプレイした国内外のDJたちが、「またあそこに立ちたい」と熱望する、とても特別な場所だった。

 

Photo: Kenta Fujiki (1995)

 

とはいえ、どんなに素晴らしいDJブースがあっても、それだけではクラブは成立しない。やはり、何と言ってもそのダンスフロアが全ての中心であり、魔法はそこで起こる。Yellowは150人ほどを収容するB1のラウンジNano Spaceと同じくらいの大きさのB2のバー・エリアChaos、そして定員400名ほどのメインのダンスフロアという3つの部屋から成っていた。最大のスペースであるメイン・フロアは地下2階の一番奥にあった。Nano Spaceを抜けたところから下がる細い螺旋階段から、フロアの中央部のやや右寄りに降り立つことが出来た。その周辺だけが一部吹き抜けになっている以外、天井は低めで、暗い。床はフローリングで壁は全面黒。Nano Spaceを通らずに階段で直接やや明るめのChaos Barに降りていくことも出来て、そこから小さめの入り口をくぐってフロアに出ることも出来た。一歩踏み入れるとそこはちょっとした異次元。わいわいとお客さんが交流するバー・エリアとは一変し、何か神聖とでもいうような、開放感と緊張感が混じり合う雰囲気だった。

 

よく伝説的なクラブは、教会や宗教儀式に例えられる。「パーティーの神が棲んでいる」とまで言わしめたSpace Lab Yellowのダンスフロアも、確かにそんな凄みをたたえた場所だった。

 

Photo: Great The Kabukicho (2008)

 

ここで80年代後半までさかのぼり、このクラブがどのようなヴィジョンの元にオープンしたのかを振り返ってみよう。Yellowをプロデューサーという立場で作り上げたのは村田大造氏、現在はAIR、SOUND MUSEUM VISION、 microcosmosなど、都内で複数のクラブや飲食店を経営するグローバル・ハーツ社の取締役だ。村田氏は85年に西麻布にオープンしたP. Picassoに関わり、89年には渋谷Caveをオープンさせている。

 

91年にYellowが出来る前の東京の状況を、村田氏はこう説明する。「僕の認識では、(ディスコとは異なる)クラブ・カルチャーと呼べるものは既に80年代前半から東京にありました。でもその頃はロックが中心で、そこに、レゲエやジャズ・ファンク、ヒップホップ、テクノ… とはまだ呼ばれていなかったかな、ボディ・ミュージックなどが入ってきたのがP. Picassoの頃。Caveが出来た頃には、アンダーグラウンドなシーンはある程度出来上がっていたと思いますね。CaveはYellowを作るために作った店なんです。そういう段階を踏まないと、Yellow規模のお店が成り立つ状況が作れないと思ったから。」

 

Daizo Murata at Space Lab Yellow by Kenta Fujiki (1996)
 

Caveがオープンしたのと同年に、芝浦に7階建ての倉庫を改装したGoldが出現し、東京の「オオバコ」の先駆けとなった。このクラブのサウンド・プロデューサーとレジデントDJを務めたのが、ニューヨークでParadise GarageのLarry Levanの洗礼を受け、ハウス・ミュージックを吸収して帰国した高橋透。そして彼がレジデントのバトンを渡したのが若きDJ Emmaだった。Goldはバブル経済絶頂期にニューヨークの大型ゲイ・クラブの狂乱を輸入し、ディスコとは異なる「クラブ」という遊び場をより広く認知させたと言える。(尚、Larry Levanが亡くなる直前に来日し、「Harmony Tour」としてFrançois Kと共にプレイしたのがこのGoldであった。)

 

「Yellowを作ったのは、基本的には自分が遊ぶ場所を作りたかったというのが一番の動機です」と村田氏は言う。「22歳の頃にロンドンとパリのクラブは行ってみたけど、それを真似して作りたいとは思わなかった。まずは自分の周りにいるアーティスト、DJのスキルを上げていくことが自分の仕事だと思っていました。それまではヒップホップとかハウス、テクノがばらばらに入ってきていたけど、90年代以降の音楽性を考えると、それが段々と混ざってきていたんですよね。だから、それが混ざるような、混ぜていくような環境を作りたいと思った。だから、CaveはB1とB2で、違う音楽を同時にやっていた。違う音楽のDJやお客さんが混じり合うことで新しい音楽が生まれるから、次にやるYellowという店では、自分たちの新たなアイデンティティとなるような、実験しながら新しいものを作っていく場所として、Space Lab(=空間実験室) Yellowという名前をつけたんです。」

 

Photo: Kenta Fujiki (1996)

 

Yellowという言葉にも、込められた想いがあった。「Yellowという名前については、反対意見もありました。”Yellow cab”とか、悪いイメージがついている言葉だった。でもイメージの悪いところから、前向きな意味に変えていくことで自分たちのアイデンティティになるから、どうしてもYellowにしたいと粘ったんです。自分たちは黄色人種だということが名前の由来です。黒人の音楽カルチャーがあって、白人の音楽カルチャーがあって、あとは国によってドイツとかジャマイカとか、それぞれ特有の音楽がある。そういうものを日本から発信したいという想いからつけました。」

 

そして、これはあまり知られていないことだが、店にはレコーディング・スタジオが併設されていた。「クラブの上の階にスタジオがあって、DJだけでなく、DJが音楽を作っていく場所も作った。ミュージシャンの力を借りないと音楽は作れないし、当時はDJが機材を揃えられるほどギャランティーも高くはなかったからね。だから、クラブ側がそういう機材を用意して、無料で提供していたんです。」

 

 

このスタジオで制作され、世に出た最初の作品のひとつがTee Scottによる「Moments of Madness」という楽曲。92年に、日本のメジャー・レコード会社ポニー・キャニオンから発売された『The House Music Of N.Y. Club Trax Vol. 1』というコンピレーションに収録されている。このコンピレーションのコーディネーターを務めたのが、’93年にレーベルKing Street Soundsを設立することになる、現地に在住していた石岡ヒサ氏である。彼もまた、Paradise Garageでの体験に人生を変えられた1人だった。The LoftやZanzibarにも通っていたという石岡氏は、次第にクラブのプロモーターやDJたちとのネットワークを築いていく。Yellowオープン1年目の’92年に、既にTee Scottのみならず、その後このクラブと特別な関係を築くことになるFrançois K、そしてゲイ・ナイトにWalter Gibbons、Mr. Fingersなどがゲストとして招かれている。

 

1993年には、Nervous Recordsから発表されたMasters At Work(present Nuyorican Soul)による「The Nervous Track」に「Yellow Mix」というこのクラブから得たインスピレーションによって作られたミックスが収録された。石岡氏によれば、これはM.A.W.が歌姫Indiaと共にYellowに出演した際に、彼らもそれまで味わったことがないほどの爆発的な盛り上がりをみせたこの夜のパーティーに感銘を受け、作ったミックスだという。こうして、YellowとKing Street Soundsという接点を通じて、東京とニューヨークのハウス・シーンは強い絆で結ばれていく。

 

 

ハウスのイメージが強いYellowではあるが、その後Artmanと名前を変え、トランス/アンビエントのアーティストして活動するDJ K.U.D.O.(Tiny Panx/Major ForceのDJ K.U.D.O.とは別人)もこのクラブ、ひいては日本のクラブ・ミュージックの歴史において非常に重要な人物であることを忘れてはならない。「僕がYellowを作った目的は、当時テクノ、あるいはトランスとも呼ばれていた音楽をプレイしていたDJ K.U.D.O.さんのため、という部分が大きい。ドメスティックでいいものをきちんと打ち出したかったから。K.U.D.O.さんはやはり、天才的な部分を持っていたと思う。今活躍するケン・イシイ君とか、ツヨシ君は、みんなK.U.D.O.さんを聴いて育ってきたから、彼をリスペクトしていますよね」と村田氏は言う。
 

East Edge Recordsというレーベルを設立し、第一弾リリースとして'93年に出したのも、併設されたスタジオで制作されたDJ K.U.D.O.による2枚組12インチ、「DJ K.U.D.O.」だった。オープンからのレジデントDJであったDJ K.U.D.O.は、既にCaveでレジデント・パーティー「Trance Night」を開催していた。Yellowでは「A.R.T.」というタイトルのもと(その後’94年に「Zero」に変更)、金曜日のレギュラー・パーティーを担った。(その後DJ K.U.D.O.はZeroにゲストとして招いたLaurent Garnierのレーベル、F-Communicationsから12インチをリリースしている。)金曜日はその他、同じくCave、遡ればP. Picassoから続いていたU.F.O.(United Future Organization)による「Jazzin’」が看板パーティーとなった。同じ頃にロンドンでDJ Gilles Petersonなどを中心に人気を集めつつあったアシッド・ジャズ・シーンと共鳴していたU.F.O.は、’92年にファースト・アルバムをリリース。そのタイトルは、彼らのスタイル及びそれまでの活動を集約するように『Jazzin’』とつけられた。

 

Hisa Ishioka, Yahya Mcdougald, Kerri Chandler by Kenta Fujiki (1995)

 

そして土曜日は、こちらも既にCaveから始まっていた、海外のDJをゲストに招聘する、その名も「World Connection」が帯で入った。Yellowでの最初のゲストは、Victor Rosado。石岡氏がニューヨークの旬のDJたちを招いていたのが、このパーティーである。「World Connection」の背景にある考えを村田氏はこう説明する。「当然、当時のニューヨークやロンドンのDJたちのスキルの高さは、日本のDJより全然上だった。こういう外国のDJを呼んでいたのは、お客さんのためだけではなくて、日本のDJやアーティストのためでもあったんですよ。そこからインスピレーションを得てもらいたかった。その頃は1ドル360円とかだったから、若い子がそう簡単に向こうに聴きにいくなんてことは出来なかった。だから、こちらに呼んで、しかも彼らの実力がちゃんと発揮出来るだけの環境を用意することが必要だったんですね。」かくして、Yellowにはそれまでに類を見ない音響機材・設備が揃えられることとなった。

 

 

「トップクラスのDJは、F1ドライバーと同じ。それなりのマシンがなければ、実力も発揮出来ないでしょう?」オーディオ・マニアでもある村田氏が導入したのは、Rey Audioという日本製のサウンドシステムだ。音響好きの間では、クラブに導入されたというだけで話題になっていたという。「目指したのはリアリティ。説得力のある音。あるいは音の説得力を出せるスピーカー。それが基本的な考えで、世界中のレコーディング・スタジオで使われているような、忠実に音を再現するモニター・システムがベースになっていて、そこにダンス・ミュージック特有の、ベース、ローの部分を強調していることと、ハイの部分を上に引き上げて上下の動きを出すようにしたのがYellowのシステム構成。当時はニューヨークのサウンドシステムが世界的にも良しとされていて、Ministry(Of Sound)もニューヨークのエンジニアが行ったりしていてね。”ドンシャリ”系の音が主流だったけど、Yellowはもう少しリアリティを重視しているというか。当時は今みたいに打ち込み系の音ばかりじゃなくて、生音も多かった。レコードでプレイしていたのもあるし。Thorensを使ったりして、クオリティを上げて生音を聴かせるようなシステム構成になっていましたね。だから、ニューヨークとか、どこか他のクラブを真似した音ではありません。日本人の、木下正三さんというRey Audioの創設者の方に『ぜひ入れたい』と何度も頼みに行って、説得して入れてもらったのがあれなんです。」

 

Photo: Great The Kabukicho (2008)

 

2005年付けのYellowの機材リストを見ると、ターンテーブルはTechnicsのMK3とMK3Dが合計8台、光悦の昇圧トランスにThorens TD521が3台、CDJは当時最新のものが合計6台、ミキサーはUREI 1620、Pioneer DJM1000、Allen & Heath Xone92を含む7台が常備されている。さらにそれぞれのDJやアーティストの要望があれば外部からレンタルし、完璧な状態にする準備を怠らなかった。

 

ブースの一番奥には大きなミキシング・デスクとアンプやエフェクターが積まれた一面の機材ラックがあり、その前の小さなスツールには必ず歴代のサウンド・エンジニアが座り、一晩中目を離さなかった。DJの左隣には照明スタッフがいて、プレイされている音楽を聴きながら手動でライトを操る。深夜からスタートしたパーティーが、翌朝9時や10時まで続くことはざらで、「マラソン・セット」と悪名高かったTimmy Regisfordは1人で夕方までプレイすることもあったが、スタッフが(潰れることはあっても?)持ち場を離れることなく、時には地下一階の小さな事務所で仮眠を取ったりしながら、みんなが最後まで付き合った。

 

Photo: Great The Kabukicho (2008)

 

このような出演者にとって理想的な環境において、DJやアーティストたちのスキルが磨かれ、オーディエンスの耳が教育され、世界でも屈指のクオリティを誇るクラブに成長していった。また、出演者にまつわる情報を積極的に発信し、音楽情報フリーペーパーのような役割を果たしていたのが、Yellowが発行していたマンスリー・フライヤー、『Yellow Mag』である。’92年から閉店まで、毎月発行されたこのリーフレットは、クラブの一ヶ月間のスケジュールに加え、出演者の紹介やアーティストのインタビュー、リリース紹介などが新聞のようにぎっちりと詰め込まれていた。これをクラブからの家路にパーティーの余韻を味わいながら電車の中で読んでいると、気になるアーティストを見つけたりして、結局また足を運ぶことになるわけだ。

 

Photo: Kenta Fujiki (2008) 

 

画期的なレギュラー・パーティーと言えば、オープン当初から木曜日を中心にゲイ・パーティーが行われていたことも特筆すべきだろう。火曜日が定休日である美容師たちのための月曜パーティー、その名も「ザ・美容師ナイト」(’94〜’99年)も人気を集めた。同じく’94年には、既に大阪で活躍し、自身のレーベル「とれま」を始動させていた田中フミヤがレジデントを務めるテクノ・パーティー、「Distortion」が始まった。その田中フミヤの勧めでDJを開始していた、電気グルーヴの石野卓球も’96年からレジデント・パーティー「Loopa」を開始。同年には、木村コウによる長寿パーティー「Kool」も始動した。 ‘97年には、DJ MuroとDJ Kenseiによるヒップホップのレギュラー「Savage!」が始まっている。DJ Emmaによる、ミックスCDシリーズとしても一世を風靡した「Emma House」もYellowを長年ホームとした。ここで全てのイベントに言及することは出来ないが、レゲエ、ヒップホップからロック、ジャズ/ファンク、ソウル、ジャングル、ドラムンベースまで、その時代の旬なクラブ・ミュージックを取り入れながらも、継続的なレギュラー・パーティーを出演者やオーガナイザーと共に育てていく姿勢があった。また、次第に有名になり、「誰でも知っている東京のクラブ」という地位を築いてからも、アンダーグラウンドな雰囲気を失わなかったことが、このクラブが愛され続けた理由だろう。

 

2002年にはJoe Claussell主催の「Sacred Rhythm」(その後2005年からニューヨークで同名のレジデンシー・パーティーを開始した)が開催され、François KとDerrick Mayが初めてCosmic Twinsとして共にプレイしたのも、このYellowだった。また、翌年2003年には、そのFrançois Kが、ニューヨークで同年開始したレジデント・ナイト「Deep Space」を、Yellowでも8月から開始。同年にKerri ChandlerがKing Street Soundsからアルバム『Trionisphere』を発売。EP「Trionisphere VI」とYellowで録音されたライブ盤『Trionisphere Live』には、その名も「Yellow」というこのクラブに捧げられた曲が収録されている。

 

 

そんな中でも、’92年に初登場してから何度もYellowのブースに立ち、2000年の9周年、2001年の10周年と連続でアニバーサリーDJを務めたFrançois Kはこのクラブにとって最も特別なDJだったと言っていい。2008年6月、クロージング・パーティーで17年に及ぶこのクラブの歴史に終止符を打ったのも彼だった。 FrançoisとYellowの強固な信頼関係が生まれたのは、1998年9月の、Jocelyn Brownと共に出演した「World Connection」の10周年パーティーだったのではないかと、’97年以降彼のプロモーターを務め、Yellowのブッキングにも携わっていた渡邉亮氏は振り返る。

 

「ちょうどNuyorican Soul feat. Jocelyn Brownの”It’s All Right I Feel It!”が流行っていた頃で、平日だったのに集客もフロアの一体感も凄くて、結局次の日の午後3時くらいまで続いたんですよ。僕が思うに、FrançoisがYellowにとって特別だったのは、彼があらゆる音楽をプレイしたからだと思います。ヒップホップやドラムンベースが30分くらいかかったかと思えば、ラテン・ジャズやルーツロック・レゲエもかかるし、ダブステップもかかる。それもただ何でもかけているわけじゃなくて、それぞれのスタイルでかなりディープなものをプレイしていたので、Yellowの色んなパーティーに来ているお客さんを、ひとつにまとめることが出来たんだと思います。DJは盛り上げるだけではなく、お客さんに感動をもたらすべきなんだと、彼はよく言っていました。夜中の3時に突然Jimi Hendrixがかかって、さーっとフロアのお客さんが引く。でも何人かはそれを聴いて飛び込んで来たりするわけです。そういうチャレンジが出来る人。彼はYellowでDJ PremierやLee Perryがやっていることも知っていて、音楽の自由さを教えてくれた。店側もそんな彼を信頼して、全てを任せていた。だから彼も、他の環境ではなかなか出来ない、本当に自由なプレイを思う存分出来たんだと思います。」

 


 

田中フミヤも、Yellowの閉店後にYellowのスタッフが同地にオープンしたクラブelevenが2013年に惜しまれながらも閉店した際に、自身のブログにこの場所で計19年間レギュラー・イベントをやってきた立場としてこんなコメントを記している。「あの場所は僕が思い通りに音楽を実践させてもらえた場所であったし、考える材料を与えてくれた僕を育んでくれたところでした。」(彼は、Yellowで定期開催していた「Chaos」でのプレイをDJの視点からドキュメントするという実験的な映像作品『Via』を2007年に発表している。)Yellowでのロング・プレイを愛したDJは他にも多くいる。Laurent Garnier、David Morales、Theo Parrish、Joe Claussell、Danny Krivit、Derrick Mayなど… 週末は平均朝8時までは営業していたこの店で、彼らは進んで通常よりも多くのレコードを持ち込み、8時間、10時間、12時間といったセットを喜んでプレイした。その誰もが「楽しいから、あっという間に時間が経ってしまう」と言う。それだけの時間があれば、普段はかけない曲をかけたり、いつもとは違うスタイルに挑戦することが出来る。お客さんもこうしたプレイを聴くことに慣れているので、何が飛び出しても動じることはない。むしろ、驚きや変化を楽しんだ。

 

Space Lab Yellowは、その名の通り、アーティストに実験することを促し、DJひいては音楽という表現方法の可能性を広げる場を提供していたのである。世界で一番のクラブはどこか、と聞かれて「東京のクラブYellowだ」と答えるDJは数えきれない。それは何よりも店側のスタッフの情熱と環境づくりにかける努力の結果だが、質の高いパフォーマンスをする出演者と、フロアの雰囲気を作り上げるいいお客さんという、3つの要素が揃わなければ実現出来ない。こうして人と人との出会いと相互作用が生まれ、数々の忘れられない思い出が作られ、東京に世界に誇るべきクラブ・カルチャーが根付いていった。

 


2008年6月、Yellowはビル全体の改築工事を理由に閉店を余儀なくされた。クロージング・ウィークには、盛大に1週間に渡るパーティーが開催された。16日月曜日はU.F.O.を中心とした国内のジャズDJたちによる「Last Step In Jazz」、17日火曜日はDerrick Mayによる「Beyond The Dance」、18日水曜日はDanny Krivitの「Love Saves The Day」、19日木曜日は田中フミヤの「Distortion」、20日金曜日はLaurent Garnier、21日土曜日から月曜日の朝まで続いたFrançois Kによる「A New Awakening」。

 

しかしながら、その後実際に大規模な改築工事が行われることはなかった。オーナーの事情によりビルが管理会社に売却され、何度かオーナーが変わり、新たなテナントが入った。当時のYellowの経営者は離れ、元Yellowスタッフの有志たちが力を合わせて2010年に同地にelevenという名前で新たなクラブをオープンさせた。この店も並々ならぬ熱意によって作り上げられたものだったが、Yellowと同じ魔法は起こらなかった。非常に良質なクラブだったが、何かが欠けていた。それは時代の空気、トレンド、景気、風営法問題の拡大、といった外的な要因だったのかもしれないし、微妙に変わった内装や音響システムといった構成要素、あるいはその両方だったのかもしれない。Elevenはすぐに東京のトップクラブとして返り咲いたが、Yellowほどの勢いは取り戻せないまま、2013年に閉店してしまった。それ以降、このスペースは第三者によって大幅に改装され、全く趣旨の違うクラブとなっている。

 

 “We partied at Yellow.”

 

今年8月にアムステルダム近郊で開催されたDekmantel Festivalのハイライトの1つであった、3 Chairsのメンバーとして登場したRick Wilhite(2002年3ChairsとしてYellow初登場)は、こう書かれたTシャツを着ていた。これは、そのクロージング・ウィークに記念に販売されたものだ。閉店して6年が経過した今も、どれだけこのクラブが愛され続けているか、改めて思い知らされる。

 

 

最後に、この記事を執筆するにあたり大量の貴重な資料を提供し、惜しみない協力をしてくれた元Yellow企画室(現Air企画)の市川祐子氏とのやり取りの中の一部を引用したい。「私は元々毎週遊びに行ってた常連の1人だっただけなんだけど、そんなに遊びに来るなら働けば?ってまきちゃん(前Yellowプレス担当)に誘われて働き始めたんです。誘ってもらって本当に良かったなって改めて思えました。いろいろ大変な目に遭ったし全然儲かる商売ではないけど、それでも後悔はないと思えます。たぶん私だけでなく歴代のスタッフみんなそうなんだと思う。実は警察の取り締まりがあって、営業を自粛して夜中はダンスフロアを閉めて朝からまた開けるという営業をしなければいけない時期が何度もありました。そのせいで社員やバイトさんの給料の支払いが遅れた時期あったそうです。それでも働いてたのはみんなお店やクラブが好きだっていう理由しかないと思う。私も元々プレスとして入ったのに最終的にブッキングもするようになっていて、みんなYellowが好きで入って来たり仕事を続けてる人が多かった。Yellowには出会いがあって1人でも行ける場所だった。閉ざされているんだけどオープンな感じ。他にもいいお店はあったけど、クラブっぽさはYellowが一番だったかな。何を聞かれても、好きだからとしか答えられない気がします。」

 

Yellow staff and François K after the last party by Ruddy Candillon (2008)

 

 

こちらのリンクから、クロージング・パーティーに寄せられた14組のアーティストからのメッセージを聞くことが出来ます。

  

 

市川祐子さん、及び取材にご協力頂いた村田大造さん、石岡ヒサさん、小林(旧姓)まきこさん、渡邉亮さん、そしてYellowで私に音楽の楽しみ方と素晴らしさを教えてくれた、歴代のスタッフの皆さん、プロモーター、オーガナイザー、アーティストの皆さん、共にバーでふざけ合ったりダンスフロアで過ごしたお客さんたちに、心から感謝します。数々の特別な夜をありがとう。

 

 

Title Photo: Great The Kabukicho

YouTube Slide Shows of the Closing Party Coutesy of Ruddy Candillon