十月 22

Serge Gainsbourg: The Reggae Years

RBMA Paris 特集 Part 1:フランスを代表するアーティストのレゲエ時代を振り返る。

By Sylvie Simmons

 

常に議論に巻き込まれてきたSerge Gainsbourgのキャリアの中で、最も議論を呼んだのがジャマイカで作った1曲だった。そのレゲエ版フランス国歌が生まれた前後の時代を、本人の伝記を手がけた作家が振り返る。

 

1960年代を終えたのと同じインパクトで1970年代を終えるにはどうしたら良いのかという問題は、Serge Gainsbourgをしばらく悩ませていた。1969年、彼とJane Birkinのデュエット「Je T’Aime… Moi No Plus」がリリースされると、この曲は大きな議論と成功を生み出した。本人はそのどちらも好んでいたが、それらを自分の意のままに生み出すのは簡単ではなかった。

 

 

1970年代はGainsbourgにとってコンセプトアルバムの10年だった。その10年はその中で最高とされる1971年の『Hitoire De Melody Nelson』(邦題:メロディ・ネルソンの物語)から始まっている。そして年を追うごとに、彼のコンセプトは更にワイルドなものへと変化していき、ナチス・ドイツを題材とした『Rock Around The Banker』(第四帝国の白日夢)、『Histoire De Melody Nelson』的な物語形式で、偏愛とセックス、死、狂気、自己破壊を取り扱った『L’Homme A Tête De Chou』(くたばれキャベツ野郎)がリリースされた。この『L’Homme A Tête De Chou』にはMarilouと呼ばれる理髪店のシャンプー係の女性が登場する。そして主人公のキャベツ頭の男が彼女をつきまとい、彼女がヒッピーなロックミュージシャンとセックスしたり、マンガを見ながら自慰行為をしたりする様子を覗き、気付いた彼女に嘲笑されると、彼女を殺し、狂気に走るというストーリーだった。このアルバムの音楽は、ざらつき、プログレッシブ、ロック、豪華さ、荘厳なオーケストレーション、アフリカンビートのミックスとなっており、収録曲「Marilou Reggae」(マリルーとレゲエ)においてはレゲエだった。パンクに熱狂していたフランスのロックメディアは、このアルバムをニヒルなマスターピースとして評価したが、売れなかった。

 

Gainsbourgはメディアの好意的な評価を喜んだが、彼がそれよりも望んでいたのは世間からの称賛だった。そこで彼は、Francoise HardyやZizi Jeanmaireのような長年の共同作業者や、Alain Chamfortなどの新顔たちと作曲を続けながら、トップの座に返り咲ける自分名義の作品の制作に執着するようになった。しかし、1970年代後半の英仏二カ国語のディスコ『Sea, Sex and Sun』での実験は、その座を与えなかったばかりか、これはコンセプトアルバムでもなく(後日廃盤となった)、ロンドンのタクシーに乗っていた男が心筋梗塞になり、メーターが上がり続ける中、自分の過去を振り返るというストーリーの曲だった。

 

 

 

"スタジオは埃っぽい通りの一角にあった。ヤギとニワトリが日差しの中を歩き回っていた。そしてスタジオエンジニアの姿はどこにも見えなかった"

 

 

 

1978年の晩夏、Gainsbourgのプロデューサー兼ディレクターだったPhilippe Lerichommeは、本人にレゲエアルバムを作ってはどうかと提案した。Lerichommeはパリでコーヒーを飲みながら、その経緯を次のように振り返った。「ある日曜の晩にあるパンクバンドを聴きにクラブへ出掛けた。そのバンドは24時頃の出演が予定されていて、私が出向いた頃は、クラブはまだ半分ほどしか埋まってなく、他のバンドの音楽は面白くなかった。そして24時になったが、パンクバンドはステージに姿を現さなかった。その時に、DJが当時ホットだったパンクとレゲエをプレイしていた。その時にひらめいたんだよ。夜中の2時頃だったから、しばらく時間をつぶしてからSergeに電話をかけて、『ジャマイカへ行ってレゲエアルバムを作ろう』と提案した。Sergeは『グッドアイディアだ!』と言っていたよ」

 

LerichommeはIsland Recordsの創業者、Chris Blackwellを知っていた。Blackwellは幼少時をジャマイカで過ごし、Bob Marleyや他の優秀なレゲエアーティストを世界に紹介した人物だった。LerichommeがBlackwellに電話をすると、Blackwellは聴くべきレゲエアルバムを教え、LerichommeとGainsbourgはそれらすべてを聴いた。そして2人が自分たちの目指すアルバムとミュージシャンを見極めると、Blackwallは著名なリズムセクション、Sly(Dubar)とRobbie(Shakespeare)、パーカッショニストのUzziah “Sticky” Thompson、そしてバッキングヴォーカルとして、Bob Marleyの妻Ritaを含むI Threeを紹介した。GainsbourgとLerichommeは「カリブ海のMuscle Shoals」と称されていた、キングストンのスタジオ、Dynamic Sound Studiosを1週間押さえると、1978年9月、ジャマイカへ飛んだ。

 

 

 

"Slyが「フランスの音楽は1曲だけ知ってるぜ。女の喘ぐ声が入ってる “Je T’Aime... Moi Non Plus” ってタイトルの曲だ」と言うと、Sergeが英語で「それは俺だよ!」と言った"

 

 

 

スタジオは埃っぽい通りの一角にあった。ヤギとニワトリが日差しの中を歩き回っていた。そしてスタジオエンジニアの姿はどこにも見えなかった。SlyとRobbieはスタジオの中にいたが、2人はGainsbourgとLerichommeを温かく迎え入れた訳ではなかった。フランス人2人はジャマイカ人2人の訛りの強い英語が理解できず、ジャマイカ人2人もフランス訛りの英語が理解できなかった。また、SlyとRobbieは当初、Lerichommeがアーティスト、年上でスーツ姿のGainsbourgをマネージャーと考えていた。Lerichommeが振り返る。「かなりの緊張感が漂っていて、誰も笑っていなかった。すると、Sergeがムードを和ませようとして『フランスの音楽は知っているかい?』と2人に訊ねた。SlyとRobbieは『フランスの音楽? 俺たちはジャマイカ人だぜ』とからかい始めた。私たちは思わず顔を見合わせてうなだれたよ。するとSlyが『1曲だけ知ってるぜ。女の喘ぐ声が入ってる “Je T’Aime... Moi Non Plus” ってタイトルの曲だ』と言った。Sergeが英語で『それは俺だよ!』と言ったんだ。あれでムードが変わった」

 

 

SlyとRobbieは、小洒落たスーツを着ていた初老のSergeが洗練された綺麗なサウンドを求めていると予想していたため、サウンドに関して長時間格闘することになったが、彼らが荒削りのサウンドを演奏すると、GainsbourgとLerichommeは褒めちぎり、そこから作業が進み始めた。Sly Dunbarは「Sergeが歌い、俺たちがレゲエを演奏する、ただそれだけだった。彼からは何も言われなかったよ。Sergeは音楽に集中していたが、同時に楽しんでもいた。彼は酒を飲みっぱなしだったが、酔っていたようには見えなかったね。あとはタバコを吸いまくってたよ。ガンジャを吸っている姿は見かけなかったね。青いパッケージのフランス産のタバコを次から次へと吸っていた。Sergeの歌は、歌というよりも、リズムの上にフランス語の詩を乗せているような感じだった。俺たちは彼が何を言っているのかさっぱり分からなかったね」と振り返っている。

 

 

 

"Sergeは不遜な態度で、「フランスにレゲエを持ち込んだのはBob Marleyじゃない。俺さ」と嘯いた"

 

 

 

言葉を理解できなかったことは、逆に良かったのかも知れない。収録されている「Lola Rastaquouere」は未成年のラスタの少女を題材にしたもので、「Relax Baby Be Cool」はKKK(クー・クラックス・クラン)と街中での暴力について延々と話している曲だ。また「Eau Et Gaz A Tous Les Etages」は陰部を出した男が小便と屁をしながら階段を上っていくというストーリーで、「Des Laids Des Laids」は、Gainsbourgの飼い犬Nanaについて「俺のビッチのためのレゲエだ」と歌われていた。Dunbarは「Sergeが唯一口を開いたのは、俺たちが演奏をオーバーダブしようとした時さ。『ダメだ、ダメだ。リアルで荒削りのシンプルなサウンドが欲しいんだ』と言われたよ」と振り返っている。そして1日が終わる頃、全員はスタジオに座り、レコーディングした楽曲を聴き直した。ミュージシャンたちは巨大なガンジャを吸いながら、「最高だ! 凄いぞ!」と言っていた。

 

そこからの作業は速かった。予定していた1週間もかからずに、アルバムは完成した。Sergeはパリへ戻ると、Jane(Birkin)に、ニワトリがコンソールの上で鳴くような、超原始的な場所でレコーディングした様子を自慢げに話した。Birkinはこの時について、Sergeは凄くハッピーで、レゲエアルバムの仕上がりに満足していたと振り返っている。そしてGainsbourgは当時のロックジャーナリストに対し、パンクとその反逆精神は好きだが、セクシャルで破壊的なレゲエの方が断然好きだと語ったが、ジャーナリストたちは、1979年にリリースされた彼のニューアルバム『Aux Armes Et Caetera』(フライ・トゥ・ジャマイカ)でその破壊性を知ることになった。

 

 

このタイトルは、Sergeがかつて『Liberation』紙のインタビューで「歴史上最も血塗られた曲」と評していたフランス国歌「La Marseillaise」の一節から取られたものだった。そしてその国歌を大胆にレゲエに組み込んだタイトル曲は、彼の見事な手腕が発揮された1曲だった。フランス人にとって、ラスタたちが自国の国歌を演奏しているその曲を聴くのは、Sex Pistolsの「God Save the Queen」とJimi Hendrixの「Star Spangled Banner」を1本の太いジョイントに巻いて吸うようなものだった。後日、Sergeは最も不遜な態度を取っていた頃に、「フランスにレゲエを持ち込んだのはBob Marleyじゃない。俺さ」と嘯いている。

 

1979年4月、そのタイトル曲「Aux Armes Et Caetera」が全国ネットのTVで初放映されると、10年前の「Je T’Aime… Moi Non Plus」のスキャンダルとまったく同じ形で激しい非難の声が挙がった。中には殺害の脅迫もあった。『Le Figaro』紙はこの曲を侮辱だと非難し、同紙の右寄りの編集者Michel DroitはGainsbourgの国民性を問い、不当に利益を得ていると糾弾した。これがあまりにも反ユダヤ主義的な意見だったため、Gainsbourgは涙を目に浮かべながら、長文の返事を手紙に書くことになった。その手紙ではナチス・ドイツがパリに侵攻した時、ユダヤ人の少年がどんな気持ちで黄色のバッジ(ユダヤ人を識別するための印)を付けていたかについて説明してあった。

 

 

 

"Gainsbourgは国粋主義者や右翼から嫌われていたが、多くの若者たちから支持されるようになっていった"

 

 

 

Sergeは当時の屈辱や拒否をずっと忘れていなかった。実際、彼が「Je T’Aime… Moi Non Plus」で成功を収めてから最初に取った行動は自分への勲章の授与で、プラチナ製のダビデの星をカルティエに特注している。これは忌まわしきものを追い払うために踏んだ彼なりのステップだった。ちなみに、その次のステップが前述のアルバム『Rock Around the Bunker』だった。そして、Sergeは件の手紙に出生名で署名した。その出生名、Lucien Ginsburgという名前は、ユダヤ人の理容師のような名前だと本人が考えていたことから、1954年に初めて楽曲を登録した時に捨てていたものだった。

 

酷評はアルバムセールスに繋がる。『Aux Armes Et Caetera』は大ヒットとなった。経済的だけではなく、音楽的な意味でも成功を収めた。トップレベルのレゲエミュージシャンたちによる、中年の白人のフランス人がマイクの前に立っていなかったとしても演奏していたであろう、そのダークで力強く、スモーキーな往年のダブは、最高のレゲエに仕上がっており、Gainsbourgの話し声に近い歌声はそこに完ぺきにフィットしていた(収録曲『Javanaise Remake:あなたの僕のLOVE関係』を1963年のオリジナルと比較すれば理解できるだろう)。そして、Gainsbourgは国粋主義者や右翼から嫌われていたが、多くの若者たちから支持されるようになっていった。UKのパンクがレゲエを取り入れたように、フランスのパンクもレゲエ版Gainsbourgを受け容れたのだ。80年代を迎えようとする中、51歳のGainsbourgはオフィシャルに「クール」な存在となった。

 

 

『Aux Armes Et Caetera』のアルバムツアーがGainsbourgのアイディアだったのか、レコード会社のアイディアだったのかは定かではないが、Gainsbourgはレコード会社にジャマイカから自分のバンドを呼び寄せるように指示した。そしてこのツアーはソールドアウトとなった。その初日となったLe Palaceでのコンサート(ライブアルバムのための同録が行われた)は、当時のパリで最も人気のあるチケットとなり、Rudolf Nureyevや、Roland Barthesを含むセレブリティたちも聴きに訪れた。

 

しかし、パリ以外の公演地での状況は酷かった。ストラスブールではパラシュート部隊の退役兵たちが、市長に対しコンサートの中止を求める嘆願書を提出しつつ、もし開催されるようならば、物理的且つ道徳的な力尽くの行動に出るという警告したため、Gainsbourgはボディガードを雇うことになった。また、爆破予告もあった。Robbie Shakespeareは「何日も寝られなかったね。眠りに落ちれば誰かが部屋に電話をかけてきて、『(危険なので)部屋を出てくれ』と言ってきた」と振り返っている。そしてGainsbourgと行動を共にしていたJane Birkinも、早朝にホテルから起こされ、外に出るように命じられたことを記憶している。「米国人の旅行者たちは夜中の2時に芝生に追い出されたことに怒っていたわね。ラスタのバンドメンバーとSergeと私はパジャマを着た状態でそこに混ざっていたわ」

 

結局、ストラスブールのコンサートは開催されたが、ソールドアウトの観客席の中には制服を身にまとった退役兵たちが数多く含まれていた。巨大なスピーカーの裏に立っていたBirkinは、Gainsbourgがひとりでステージに上がる姿を恐怖しながら見つめていた。そこにバンドの姿はなかった。何故そうなったかについては諸説ある。Birkinは、自分の代わりに怪我をさせる訳にはいかないという理由でGainsbourgが彼らを帰したとしており、一方、Shakespeareは、置かれていた状況を理由にミュージシャンたちが高額のギャラを要求するようになり、Gainsbourgがそれに応じなかった、もしくは応じるのが不可能だったからだとしている。

 

 

 

"Gainsbourgはアカペラで「Aux Armes / La Marseillaise」を歌った。退役兵たちは立ち上がって敬礼するしかなかった"

 

 

 

ステージの中央には白人の小柄なユダヤ人がスポットライトの下に立っているだけだった。そして歓声とヤジが入り混じる中、Gainsbourgはアカペラで「Aux Armes / La Marseillaise」を普通のフランス人が国歌を歌うように歌った。退役兵たちは立ち上がって敬礼するしかなかった。

 

これは彼の見事な策であり、素晴らしい演劇だった。Gainsbourgは左肘を右手で掴み、その左肘を上へ持ち上げるという、フランスで侮辱を意味するジェスチャーをしてコンサートを終えた。この時についてGainsbourgは「袖口は腕時計を見せられるだけ下げていた」と後日振り返っている。その腕時計は彼がプラチナ製のユダヤの星を特注したカルティエの超高級品だった。これは『Le Droit』紙と『Le Figaro』紙が植え付けていた「ユダヤ人は裕福」というステレオタイプに向けられた、彼からのもうひとつの挑発だった。

 

Birkinは、このコンサートと『Aux Armes Et Caetera』が生み出した巨大な注目が、Gainsbourgにある種の精神錯乱をもたらしたとしている。英雄としてパリへ戻ったGainsbourgは、Birkinに一緒に街へ繰り出そうと毎日無理強いし、多くの人たちが見守る中を練り歩き、注目と称賛を楽しんだ。しかし、シャイな男がタフガイを演じるには大量のアルコールが必要だった。Gainsbourgの飲酒と不遜が全面に押し出されたもうひとつの人格、Gainsbarreが生まれたのはこの頃だったとBirkinは振り返っている。

 

 

GainsbourgがSly、Robbie、I Threeと初めて会ってから3年ほどが経過した1981年9月、彼は2枚目のレゲエアルバムの制作をスタートさせたが、Lerichommeはそのアイディアに反対していた。「私は彼に、常に先人であれとアドバイスしていた。繰り返しや後追いをするなとね」 − しかし、Gainsbourgはレコード会社を味方に付けており、レコード会社は『Aux Armes Et Caetera』に続くミリオンヒットを求めていたため、彼に忠実なプロデューサーだったLerichommeはレコーディングに同行した。Lerichommeの不安は的中した。今回のスタジオはバハマの高級スタジオCompass Pointで、ここはキングストンのレイドバックしたスタジオとは似ても似つかなかった。そしてSlyとRobbieは業界のビジネスマンになっていた(Lerichommeは2人が『Billboard』誌を小脇に挟んで歩いていた姿を記憶している)。そこにGainsbourgのアルコール依存が加わり、現場のムードは冷め切っていた。Shakespeareは、このセカンドアルバム制作について唯一憶えているのは、「最初から少し違ったんだ。説明できないね」ということだけで、Dunbarに至っては、何も憶えていないとしている。

 

 

こうして制作された『Mauvaises Nouvelles Des Etoiles』(星からの悪い知らせ)はガンジャ、精子、娘の汚れた下着、ミッキーマウスなどについて歌われている。また、屁の擬音をレゲエのビートに乗せた「Evguénie Sokolov」(エフゲニー・ソコロフのガスマスク)、ユダヤ人を神とする「Juif et Dieu」(ユダヤ人と神)、そして別人格Gainsbarreが公式に登場した「Ecce Homo」(やせて蒼い顔の男)なども収録されている。そしてGainsbarreを個人的に体験していたBirkinにとっては、ここが限界だった。80年代初頭にBirkinは彼の元を去り、映画監督Jcques Doillonの元へ向かった。DoillonはGainsbourgが『Aux Armes Et Caetera』の収録曲「Vieille Canaille」(中年アバズレ)で攻撃していた人物だった。

 

この2枚目のレゲエアルバムは1981年11月にリリースされたが、今回は爆破予告や批判記事はなく、むしろほとんど何も起きなかった。しかし、同時に『Aux Armes Et Caetera』の新鮮味やオリジナリティを上回る部分もなく、ユダヤ人がジャマイカ人を率いてフランス国歌を歌ったあのショック性と社会政治性も上回れなかった。尚、Gainsbourgはこの年に「La Marseillaise」を作詞作曲したClaude Joseph Rouget de Lisle直筆の歌詞を購入した。彼は「破産覚悟だったね。だがこれは名誉の問題さ」とコメントを残している。


 

写真上:1979年12月24日、パリのLe PalaceでリハーサルをするSerge Gainsbourg

写真下:1985年7月14日、時が経ち、フランス軍人たちと乾杯するSerge Gainsbourg

 

筆者紹介:Sylvia Simmonsは『Serge Gainsbourg: A Fistful of Gitanes』の著者。現在加筆修正されたデジタル版が出版されている。