五月 15

土曜日のミサ:Larry LevanとParadise Garage

ニューヨークのParadise Garageで伝説のレジデントDJとして活躍したLarry Levan。LevanはDJをアートへと昇華させ、ダンスミュージックの歴史において最も豊潤だった時代へサウンドトラックを提供した。80年代のParadise GarageでのLevanのプレイは、クラブ通いは儀式であるという認識を生み、彼のパーティーは「土曜日のミサ」と言われた。

このLarry Levanの功績を称え、現在ニューヨークではかつてParadise Garageが存在したKing Streetの名称をLarry Levan Wayへ変更するという署名活動が行われており、Red Bull Music Academyも5月11日に現地でLarry Levan Street Partyを開催。François Kevorkian、David DePino、Joey Llanosなどが参加した。今回はディスコシーンについての著作を持つ作家Peter Shapiroを迎え、Larry Levanの人生を振り返ると共に、死後20年が経った今も高い評価を得ているその理由について探っていく。

Mark Riley, Gary Thornton, Joey Llanos and Larry Levan Image courtesy of Joey Llanos

なぜLarry Levanは最高のDJとして世界的に認められているのだろうか? その理由は、 「土曜日のミサ」が行われていた午前3時にDJブースでプレイする時もあれば、フロアの真ん中で脚立に乗り、ミラーボールを掃除している時もあったという、そのユニークなキャラクターにある。

自宅を掃除するのと同じ感覚でLarryはミラーボールを磨き、フロアにワックスがけをしていた - David DePino

「自宅を掃除するのと同じ感覚でLarryはミラーボールを磨き、フロアにワックスがけをしていた」Paradise Garageでオープニングを務めていたDavid DePinoは振り返る。「彼にとってはすべてが完ぺきでなければならなかった。ミラーボールが少しでも汚れていると感じたら、自分で脚立を持ちだした。そして客は座ってその姿をただ見守った。なぜなら彼がパーティーのムードに入っていたのが分かっていたからね。そしてLarryは磨き終わるとブースへ戻り、フロアを真っ暗にしてヴォリュームを上げた。フロアは叫び声を上げて喜んだよ。パーティーが始まるんだというムードを感じ取ってね」

Image courtesy of Michael de Benedictus

現在のクラブシーンの関係者ならば、 ピークタイムが目前に迫った時間帯にフロアの10メートル上に吊るされたミラーボールの数個の鏡を磨くためだけにDJがプレイを止めるという行為は異常に思えるかも知れないが、LevanはDJの仕事がビートマッチだけではないということを理解していた。DJとはパーティーを生み出すことであり、Levanにとってそれはアートと同義で、単なる「仕事」以上のものだった。現在のビッグネームDJたちによる無愛想で忙しない2時間のセットとは対照的に、Levanは生涯を過ごすことになるクラブ、Paradise Garageのありとあらゆるディテールに心血を注いだ。

Paradise Garageは、外見上は至って普通のクラブで、Garageという名前が示す通りマンハッタンの84 King Streetにあった一般的な駐車場を改築して作られたクラブだったが、Levanはここを音楽の神殿として扱った。 音楽、ダンス、パーティーへの彼の献身的な愛はこのクラブのありとあらゆるディテールに見受けられ、サウンドシステム、ミラーボール、そしてゴミ箱に至るまでのすべてがこの場所に来るパーティーピープルとここで働くスタッフによって敬意を持って扱われていた。そしてこの姿勢はダンスフロアにも持ち込まれ、Levanが数々の伝説を生み出すベースとなるコミュニティがフロアで育まれていった。

80年代のニューヨークを生き抜くためには鉄の防具が必要だったが、同時にその防具を脱ぎ捨て、昼間の苦しみを解き放てる癒しも必要だった。

1978年のオープンから1987年夏のクローズまで続いたParadise Garageの全盛期は、ニューヨークにとっての変革期にあたり、特にゲイコミュニティにとっては大変革期だった。当時のニューヨークは70年代中頃に起きた財政破綻からの立ち直りを図っていたが、無慈悲な削減と貪欲なレーガン経済政策だけがその手段であり、要するに80年代のニューヨークは人に対して残忍だった。ダウンタウンにヘロインとクラックがはびこる一方、郊外のコミュニティは節約生活に入り、孤立していった。また、「ストーンウォールの反乱」後に爆発的に広がったゲイの解放運動も縮小しつつあり、彼らが生み出したディスコブームも下火になっていった。そしてポップカルチャーが苦難に見舞われる中、同性愛嫌悪者による暴力活動が増加し、80年代中頃まで発見されなかったあの恐ろしい病気の蔓延が始まっていた。

つまり、80年代のニューヨークを生き抜くためには鉄の防具が必要だったわけだが、同時にその防具を脱ぎ捨て、昼間の苦しみを解き放てる癒しも必要だった。 そしてその癒しがParadise Garageだった。毎週何千人もの人たちがこのクラブへ集まり、土曜日の夜から日曜日の朝にかけて、 聖霊によって彼らを天国へ導く儀式が、Larry Levanという導師の手によって行われた。

Image courtesy of Michael de Benedictus

Levanは1954年7月20日、Lawrence Philpotとしてブルックリンに生まれた。両親は籍を入れていなかったため、Levanは10代の頃に兄Isaacと姉Minnieと共に婦人服の仕立屋であった母親(名前は姉と同じMinnie)の姓を名乗ることになった。その後Levanはユダヤ系からアフリカ系へ移行していったフラットブッシュにあった、Erasmus Hall High Schoolへ通い始めた。この高校は長年に渡りクリエイティブな才能(Barbra Streisand、Neil Diamond、Clive Davis、Mickey Spillane、Mae West、Barbara Stanwyck、Marky Ramone、Bernerd Malamudなどが通っていた)を輩出していたが、パンクが生まれる前の時代に髪の毛をオレンジ色に染め上げるなど、いかんせん派手な行動が目立ったLevanは学校側から慕われず、頻繁に問題や喧嘩を起こしていた。

若きLevanは、後にVoguingを生み出すハーレムのドラァグボールシーンに癒しを見出した。

はみ出し者だった若きLevanは、後にVoguingを生み出すハーレムのドラァグボールシーンに癒しを見出した。アフリカ系アメリカ人コミュニティは勿論、ゲイコミュニティからも外れていたニューヨークの黒人系ドラァグクィーンたちは、寄り集まることで緊密なシーンを築き上げ、そのケバケバしさと大胆不敵さをお互いに競い合うようになっていった。ドラァグクィーンたちは 、Mardi Grasやブラジルのサンバグループなどとは異なる「ハウス」と呼ばれるグループを形成し、この学校のようなグループではボールでのパレード用ドラァグクィーンの衣装が作られていた。そして1969年頃、その「ハウス」でドラァグクィーン用のドレス「ダッチェス」を制作していたLevanは、後にLevanと同様の影響力を持つことになる盟友Francis NicholsことFrankie Knucklesと出会う。

2人はすぐに意気投合し、「ストーンウォールの反乱」後にゲイのナイトライフが公に認められると、彼らの興味はハーレムからThe SanctuaryやPlanetariumなどダウンタウンで萌芽しつつあったゲイのナイトクラブシーンへ向けられていった。そしてLevanとKnucklesは647 Broadwayのロフトで開催されていたDavid MancusoのThe Loftへ出向くようになり、自分たちの天職に出会うことになる。



カソリック系孤児院で育ったMancusoによるこの伝説のパーティーThe Loftは、紙飾りや風船が天井から吊り下げられ、メインルームの片隅には一年中電飾のついたクリスマスツリーが飾られ、またインビテーションにはOur Gangの写真が使われるなど、まるで子供の誕生日会のようなスタイルで開催されていた。

The Loftではアルコール類の販売は行われなかったが、客のためにパンチの入ったボウルやフルーツ、そしてキャンディが用意されていた。Mancusoがプレイした音楽は癒しに近く、ジャーナリストVince Alettiは当時について、「The Loftでのダンスは音楽の波に揺られるようなものだった。絶頂へ向かって曲から曲へと延々に音楽が続き、無意識の叫び声が客から生まれると、ムードは再びスムースで柔らかくなり、また別のピークへとゆっくりと向かっていった」と表現している。

オーディオマニアだったMancusoはシンドラーのリストによってナチスから逃げてきた電気技師Alex Rosnerと共に今や伝説とされるThe Loftのサウンドシステムを作り上げた。Rosnerが製作を担当した東西南北に向けられた ツイーター群による美しく揺らめく高域と、ダンサーたちを包み込むように鳴った低域により、Mancusoは「30億年前から存在するダンスと自然なリズム、それをアンプとレコードという人工の手段を使って生み出しただけだ」(本人談)。そしてこの仏教的とも言えるサウンドへのアプローチは、Mancusoの所有していた日本刀の刀匠として名が知られていた菅野義信によってデザインされたカートリッジ、光悦(Koetsu)によって完ぺきなものに仕上がっていた。



MancusoはManu Dibango “Soul Makossa” や James Brown “(Get Up I Feel Like Being a) Sex Machine” 、Olatunji “Jin-Go-Lo-Ba (Drums of Passion)”、Little Sister “You’re the One” などファンキーな楽曲をプレイする一方で、45人のコンゴ人の少年たちがアフリカ調でクリスマスのミサ曲を歌う、Les Troubadours du Roi Baudoin “Missa Luba” など、彼のレコードコレクションの奥深くにしまわれているような奇妙で優美な楽曲などを挟み込んでいた。Levanも1983年、Steven Harveyに対し、「The Loftではスローソングで泣いている人たちがいた。凄く美しい楽曲だったんだ」と当時についてのコメントを残している。

メインストリームのディスコが、郊外に住むステップフォード・ワイフと彼女たちを溺愛する無知な男性たちによるヘドニズムを象徴する存在だったのに対し、The Loftの感情的なパワーは、パーティーの概念を重視したコミュニティの創出を促す存在だった。こうしてLevan、Knuckles、David Rodriguez、Nicky Sianoなど、初期のThe Loftから影響を受けた若者たちはLoft Babiesと呼ばれ、ディスコDJの第2世代の中心となっていった。

Nicky Siano and Larry Levan Credit: Michael Gomes

1972年初頭、Nicky SianoがThe Loftのイメージを表現した初の商業ディスコThe Galleryを22nd Streetにオープンさせると、その2週間後に彼はKnucklesとLevanをクラブのデコレーション、パンチや食事の用意、客へのアシッドの提供などを担当する雑用係として雇い入れた。足元のスイッチでライティングを切り替えながら3台のターンテーブルを自在に操ったSianoは、たとえばGloria Spencerのゴスペル “I Got It” などをプレイする時は、この楽曲を完全に崩し、刻まれるシンバルの上にSpencerのシャウトが入ってくるまでのイントロ部分を引き伸ばすプレイを披露していた。

Sianoはピッチが可変できるターンテーブルをクラブで初めて使用したDJとして知られている。彼はターンテーブルのピッチが可変できる機能を利用して楽曲のピッチとテンポを自在に変えることで、完ぺきに近い高い精度のミックスを実現していた。Sianoのプレイ時には 気恥ずかしくなってしまうようなバタバタとしたミックスは行われず、ピンと張り詰めた1本の糸のように流麗なミックスが行われていた。

LevanはSianoやMancusoと同様、学習しても得られない音楽的な直感に優れた天才的なDJだった。

1972年のある夜、The Galleryが閉店した後、The Galleryのサウンドシステムでレコードをプレイしても良いか訊ねたLevanをSianoが了承し、LevanにDJのアドバイスを施したが、Levanはすぐにターンテーブルを扱えるようになったとSianoは振り返っている。LevanはSianoやMancusoと同様、学習しても得られない音楽的な直感に優れた天才的なDJだった。「LarryはNickyとDavidの申し子だった。Davidの熱意あるプレイ、そしてNickyの派手でラウドでクレイジーなプレイを掛けあわせたようなスタイルだった。Larryは2人を意識して真似たわけではなく、2人からDJが何をすべきかを学び、独自に表現していった」DePinoが振り返る。

Levanは1973年、18歳の時にメモリアル・デー(戦没者追悼記念日)の週末にThe Continental BathsでDJデビューを果たした。Levanは、「僕は照明を担当していたけれど、ある日DJがいなくなった。それで2メートル近い長身のキューバ人マネージャーに、『お前が今晩レコードをプレイするんだ!』と言われた。僕はレコードなんて持っていないと返したけれど、『5時間プレイしろ!』と言われたのさ」と当時を振り返っているが、結局なんとかしてレコードをかき集めてその日をこなすと、その後1年間に渡ってこのクラブでプレイを続けることになった。



The Continental BathsはThe LoftやThe Galleryとは正反対のクラブで、74th StreetとBroadwayが交差する位置にあったAnsonia Hotelの地下にあり、「古代ローマの栄光を再現する」と謳っていた男性専用のヘルスクラブだった。サウナとスチームルームの他、ジム、オリンピックサイズのスイミングプール、サロン、Bette MidlerやBarry Manilowがキャリアをスタートさせたステージ、ダンスフロア、レストランも完備していたが、この施設内に性病専門のクリニックがあったという事実が、この施設の真の目的を示していた。DJは後から付け加えられたエンターテイメントのひとつに過ぎなかったが、この施設の評判とサイズによってLevanは人気を獲得していった。

その後、Levanは1974年にThe Bathsを去ると、452 Broadwayに位置していたRichard LongによるアフターアワークラブSoHo Placeでのプレイをスタートさせた。Levanの人気が高まってきたことでこのクラブは常に満員御礼だったが、このクラブは元々Longの仕事場であり、基本的にはLongが後にスタートさせるサウンドシステムビジネスのショーケース的な意味合いも持っていた。しかし、残念なことにその強烈な低音ゆえに、このクラブは短期間で終了することになった。

Paradise GarageはLevanをイメージして作られたクラブであり、特定のDJのために作られた稀有なクラブだった。

SoHo Placeが閉店してすぐ、LevanはMichael Brodyから143 Reade Streetに新たにオープンしたクラブ、Tribecaでプレイするように要請された。このクラブは古い毛皮業の倉庫を使ったもので、温度調節機能がついており、Levanは快適に一晩プレイすることができた。またLevanがサウンドとテクニックを学んだのはこのクラブであり、ディープでダークな低音や不安でダビーなフィーリングをレコードから抽出していった彼は、レジェンドへの階段を登っていった。

しかし、思いやりのない地主と場所の問題から、Reade StreetはLevanの人気にふさわしいクラブに成長できなかった。このため、Brodyはこのクラブを1976年にクローズすると、 新しいクラブをオープンするまで他のクラブでプレイするなとLevanに頼み込んだ。その新しいクラブがParadise Garageであり、ここはLevanをイメージして作られたクラブだった。特定のDJのために作られたという意味で稀有なクラブだったParadise Garageは、1977年1月に敷地内のわずか85平米弱のGrey Roomを使って「Construction Parties」(建設パーティー)というシリーズで非公式にオープンすると、その収益を残りの部分の建築費用に充てて準備を進めていった。

Credit: Paul McKee

1978年2月、ついにParadise Garageはニューヨーク第2位の広さのフロア面積を誇るクラブとして にオープンしたが、オープン当時は酷い状態だった。サウンドシステム用の機材の搬入が遅れたため、吹雪だったにも関わらず客は準備が終了するまで中へ通されず、いざ中へ通されても、その寒さは外と変わらなかった。こうしてBrodyが招待したトップクラスのゲストたち全員は、二度と来ないと言いながら去ってしまった。

1978年2月、ついにParadise Garageがオープンしたが、その時の状態は酷かった。

しかし、これはParadise GarageとLevanにとっては最高の出来事となった。色気目当ての客がいなくなったため、Levanは自分にとってどうでも良い客(Levanの奇抜さに耐えられなかった客)を楽しませるという義務から解放された。 MancusoとSianoから学んだスキルをこのクラブで躊躇せずに披露したLevanによって、このクラブはニューヨークで最もシリアスなダンサーたちを抱えるクラブになった。彼らはLevanが生み出す雰囲気、Levanの敬意ある音楽の扱い方、そしてクラブそのものに感謝した。そして LevanはThe LoftやThe Galleryと同様に、パーティーピープルと密接な関係を築き、その関係性は宗教的なものへと近づいていった。

Richard Long and Larry Levan Image courtesy of Michael de Benedictus

集まった人たちへの彼の “説法”はこれまでなかった強力なサウンドシステムを通じて行われた。Richard Longによって設計されたこのシステムは獰猛(うるさすぎるという人もいた)で、低音は内臓を震わせたが、同時にクリスタルのようなクリアさも兼ね備え、素晴らしい再現力を誇っていた。DePinoが説明する。「壁と天井はファイバーグラスで対処してあった。だから客電を点けた時の見た目は美しくなく、照明を落とせばただのブラックボックスだった。だが、しっかりと吸音するように設計されていたので、音が反響しなかった。天井のファイバーグラスも、V型になるように配置されていて、ホーンのような形状になっていた。Richardが毎週金曜日にやってきては、ピンクノイズを生み出す機材を使ってサウンドシステムの調整を行った。Paradise Garageはエアコンがない状態の中で3000人が踊っていたので、凄く暑かった。通風口も用意されていたが、スピーカーが熱を帯び出し、人の数が増えると、出音が変わってしまうので、Larryは常にアンプの後ろへ回りこんで調整を行っていた。だから土曜日の朝のサウンドは酷く、Richardが再度調整する必要があった。結局彼は週に2度調整を行っていたよ。フロアに2人だけの12時、2000人が踊る朝の5時、そして3000人が踊る朝10時でも変わらないサウンドが鳴るようにね」

「Larryはアシッドを摂っていない人にも、アシッドな体験をしてもらおうとしていた」 - David DePino

サウンドシステムの調整の他にも、Levanはひと晩の間にターンテーブルのカートリッジを徐々にハイクラスへと変えていくことで、ピーク時のフロアをサウンドで圧倒できるようにしていた。また決して崩れることのない低音を誇るサウンドシステムを味方につけていたLevanは、好きなタイミングで高域を削り取り、低域だけで建物全体を震動させた。LevanはEQとヴォリュームノブを駆使して、各楽曲に新たなニュアンスを加えていくと同時に、それらを使ってまるで小さな子供がラジオのチューニングのダイヤルで遊ぶかのようにプレイしていた。DePinoは「Larryは客がアシッドを摂っていない人にもアシッドな体験をしてもらおうとしていた」と説明している。

Joey Llanos and Larry Levan Image courtesy of Joey Llanos

このようにシステムの技術的なディテールには拘っていたLevanだが、DJブース内のテクニックという意味では、そこまで抜きん出ていた訳ではなかった。「Larryにとってはサウンドが一番大事だった。彼はミックスに関してはそこまで気にしていなかった。集中していて、完ぺきでスムースなミックスを披露する時もあれば、ひたすら暴力的にプレイする時もあった。暴力的なプレイは客を驚かせた。タンタンタンと軽やかに踊っている時に、急にドーンという音が入ってくれば、客は『ワーッ』と驚く。Larryはそのリアクションを楽しんでいた。彼はショックを与えるのが好きで、それでフロアをコントロールしていた。常に驚かせたり、大音量にしたりして、フロアから叫び声を上げさせていた。彼は情熱的にミックスするのを好んだ。美しくミックスできた時は3曲目が生まれるし、そのようなミックスを続けるのも悪くないが、Larryはそれを一晩続けても詰まらないと感じていた。6時間の長さのレコードが延々とかかっているようなものだと言っていた」DePinoが説明する。

Levanのプレイ特徴である曲の途中でのカットアウトや自動車事故のように楽曲をぶつけあう雑なミックスはパンクロックの不協和音やフィードバックノイズのDJ版と言えるようなものだった。

LevanはそれまでのDJのルールをことごとく打ち破っていった。ピークタイムにバラードやアカペラをプレイし、1984年にはColonel Abramsの「Music Is The Answer」を1時間延々とプレイした。またプレイの途中で数秒間完全に音を止めたり、2枚のレコードを同時にプレイして不快なサウンドを鳴らしたりもした。しかし、同時にLevanは二度と真似されることのない強烈なパワーをフロアに生み出し続けた。Levanのプレイの特徴である曲の途中でのカットアウトや自動車事故のように楽曲をぶつけあう雑なミックスはパンクロックの不協和音やフィードバックノイズのDJ版と言えるようなものだったが、LevanはRoland Barthesが定義した「プンクトゥム(punctum)」を追い求めていた。突然すべての物事の本質が見抜けるようになる瞬間、自分の頭の後ろを禅師に叩かれるような瞬間、イスラム教の儀式の目眩を感じるような興奮状態と共にやってくる神との邂逅の瞬間を求めていたのだ。

しかしLevanは同時に自分の選曲を通じて一連のストーリーも紡ぎだしていた 。DePinoは言う。「Larryはその晩が旅でなければいけないと考えていた。12時からだろうと2時、3時からだろうと最初にプレイしたレコードから彼はストーリーを紡いでいった。彼が不機嫌ならば、それは怒りのストーリーとなり、『お前が俺の心を打ち砕いた。お前のせいなんだ』と伝えてくるし、機嫌が良ければ、『ダンスしよう。パーティーしよう。歌詞も聴いてくれ』となる。彼はストーリーを語っていたんだ」



「持っているレコードの中で、続けてプレイしても問題ないのは5、6枚だね」かつてLevanは自身のプレイのストーリーについてSteven Harveyに説明している。「ダンス、感情、筋肉にはメッセージが備わっている。でもそういうメッセージが備わっているレコードは数枚だけだ。たとえば僕が音楽について書かれた楽曲、The O’Jays “I Love Music” やAl Hudson “Music” をプレイしてから、 “Weekend”(PhreekまたはClass Action)をプレイしたとするよ。でも、この3曲目はセックスについての歌で、他の2曲とは全くの別物だ。僕がダンスしていて、歌詞や感情に完全にのめり込んでいる状態でこういうミックスをされたら、それが良いレコードだとしても、自分には関係ないから意味を見いだせないよね。だから続けてプレイするんじゃなくて、ちょっとした間を作ったり、サウンドエフェクトを入れたりして、 みんなにここから新しい章が始まるということを教えるのさ」

Levanは他のどのDJよりも テレパシーのような力でダンサーたちと繋がっていたのだろう。

Levanは他のどのDJよりも テレパシーのような力でダンサーたちと繋がっていたのだろう。Levanの「ダンスフロアでの伝道活動」には様々な逸話が残されている。たとえば彼の知人は、特定のレコードが自分たちだけに語りかけているように感じたのでDJブースを見上げると、Levanが(楽曲の内容によって行動に差はあるが)自分たちを見つめていたり、自分たちに投げキッスをしたりしていたと証言している。DePinoは言う。「Larryは人形遣いだった。彼はダンサーたちをコントロールしていた。たとえば朝の5時、6時にクロークからコートを受け取って、2、3人の友人と一緒にコートを着て挨拶をして帰ろうとしている人をLarryが見つけると、彼は『見ていろ』と言って、彼らが好きな楽曲をプレイした。すると、帰ろうとしていた彼らはLarryを見上げて拳を突き上げて、『Larry、この野郎!』と言い、コートを脱ぎ捨ててまた踊り始めた。そしてその後1時間半位踊っていた。Larryはよく、『見ろ、帰っていくぞ。でも帰さないからな』と言っていた。毎週金曜日、満席の店に必ず来るお客さんのグループの中で誰がコーヒーを飲んで、誰が飲まないかを知っている優秀なウェイターのように、彼はフロアを把握していた」

Levanはまた「ダンスミュージック」以外で、彼の美学に当てはまるレコードを定期的に探すというチャレンジも行っており、The Clashの “Magnificent Dance”や、Jah Wobbleの “Snakecharmer”、Manuel Göttschingの “E2-E4”、Marianne Faithfulの “Why’d Ya Do It?” などを好んでプレイした。そして時代と共に「ディスコ」というジャンルが衰退していくと、Levanの音楽 —特にParadise Garageでプレイするために自分が担当したリミックス群— は、暗黒で奇妙な、支離滅裂なものへと変わっていった。

Larryの音楽の中に浮かび上がってきたその「暗黒」は、自己破壊的でアナーキーな本人が映し出されたものだった。

Levanはディスコにおけるダブマスターであり、Instant Funk “I Got My Mind Made Up”のミックスと、Peach Boys “Don’t Make Me Wait” のプロダクションは、ビートを延々とループさせてテンションを高め、クライマックスを後方へずらすという、ダンスフロアに欠かせないダブのテクニックが盛り込まれたクラシックトラックだ。尚、彼の最も過激なリミックスは、Smokey Robinsonのマイナーヒット “And I Don’t Love You” のダブミックスだろう。ポップミュージックシーンで最も有名な声のひとつが、このトラックではまるで幽霊の声のように処理されており、エコーの霧とぼんやりとしたギターの後方から悲しげな声でタイトルが数回繰り返されるという作品に仕上げられている。

彼の音楽の中に浮かび上がってきたその「暗黒」は、自己破壊的でアナーキーな本人が映し出されたものだった。Paradise GarageがAIDSの不安とクラブの内部紛争によって 1987年に閉店した後、Levanはドラッグにはまり、ドラッグを買うためにレコードを売り払っていった。そして1988年、LevanはEast 2nd StreetにあったThe WorldでレジデントDJとしてプレイを再開するが、Paradise Garageを離れたLevanはもはや別人だった。「The Worldは素晴らしいクラブだったが、Paradise Garageではなかった」DePinoが振り返る。「Larryにはあの頃のパワーがなかった。Larryがプレイするということでクラブは人で溢れていたが、オーナーたちは彼のことを理解しなかった。Larryが何か変なプレイをすると、フロアの客はダンスはせずとも彼に敬意を示し、拍手をしていたが、オーナーたちはパニックに陥っていた。「どうしてこんなことをするんだ?」とね。Larryは安全策を知らなかった。でも、それが彼だった。Larryは自由を知っていたが、その自由が使えない状況を知らなかった。 彼のプレイはParadise Garageとは違って感謝されなかった。個人的には凄く悲しい出来事だった」

Larry Levan in Japan Credit: Yuki Watanabe Facebook

その後Larryは1990年にロンドンのMinistry of Soundの立ち上げを手伝い、1992年にはFrançois Kevorkianとジャパンツアーを行った。自分のレコードではないレコードをかき集めた状況だったのにも関わらず、その時のプレイはまるで自分に残された時間が少ないのを知っているかのように感情的で、別れの挨拶のような内容だった。そしてジャパンツアーから戻って2ヶ月後の1992年11月8日、心内膜炎による心臓疾患でわずか38歳の若さでLevanはこの世を去った。

DJブースでのLevanは唯一無二の存在だった。天才だったのかも知れないが、タイミングが良かったというのも彼が伝説となった理由のひとつだろう。Michael Brodyが彼に与えた環境は他のどのDJも得られなかったものであり、自分の気まぐれにとことん付き合ってくれる客に恵まれたのも彼だけだった。それゆえに彼はどのDJも試せなかったチャレンジに挑むことができたのだ。DePinoは言う。「Paradise Garageはパーフェクトストームだった」