五月 28

ロックステディ:イントロダクション

ロックステディがどうやって始まったのか、そしてなぜ今でもジャマイカ音楽史で最も重要なジャンルのひとつとして残り続けているのかについて解説する。

スカとレゲエの架け橋となったロックステディはジャマイカ音楽における数々のサブジャンルの中で最も強い影響力を誇った。数年間しか存在しなかったジャンルではあるが、その短い時間の中でジャマイカ音楽史に残る不朽の名作の数々を生み出した。また様々なアーティストたちによって実践され、競われたその革新性は、レゲエの魅惑的なビートの元となった。



ロックステディのその革新性は際立っている。まず演奏スタイルをスカのビッグバンド形式からベースとドラムを強調した少数のスタジオアンサンブルに変えたこと。これはそれ以降のジャマイカ音楽のスタイルを永遠に変えることになった。またエレクトリックベースが広く普及したのもこの時代の特徴で、マルチトラックレコーディングの発展も相まって、そのサウンドが前面に押し出された。たとえば、時として忙しないスカの演奏の中に埋もれてしまうこともあったThe SkatatliesのベーシストLloyd BrevettのアコースティックベースとThe SupersonicsのベーシストJackie Jacksonの スムースなエレクトリックベースを比較すれば、ロックステディではベースがメロディラインを担っていることが理解できるだろう。そしてこのサウンドはレゲエにおける常套手段となった。

また、社会性の強い歌詞もロックステディを代表する特徴で、当時社会から排除され、暴力的な活動で憂さを晴らしていたストリートギャング、「ルードボーイ」たちが多くのロックステディの楽曲が取り上げられた。またスカの重要な構成要素のひとつだったヴォーカルグループも、ロックステディに参加するようになり、そのサウンドを特徴付けていった。

しかし、ロックステディ最大の特徴は、その独特なビートにある。スカの後続として成長していったロックステディのリズムはスカよりも遅く、3拍目に重きを置いた、シンプルなリズム構成となっていった。また前面に押し出された エレクトリックベースのメロディラインと共に、肩を動かし、指を鳴らし、体全体を揺らすその新しいダンススタイルは、後にダンサーたちのレパートリーに加えられることになった。

ロックステディで一番良く知られている俗説のひとつに、「1966年の猛暑が原因でそのゆったりとしたスタイルが生まれた」というものがある。

ロックステディで一番良く知られている俗説のひとつに、「1966年の猛暑が原因でそのゆっくりとしたスタイルが生まれた」というものがあるが、これは誤解だ。『Caribbean Currents』で記されているように、ジャマイカの熱帯気候には夏と冬の違いがなく、また雨季と乾季の差も殆どないため、実際12月から2月と7月、8月の平均気温差はわずか数度しかない。

とはいえ、スカと同様、初のロックステディ作品がどれかと決めるのは難しい。ロックステディのダンスブームは、 一般的には1966年後半頃に起こり、1967年を通じてジャマイカ全土に浸透したと言われているが、ダンスに限ってはそれよりもかなり前から浸透していたという向きもある。音楽自体は、スカがRoy and Millie “We’ll Meet”のようなリズムギターとピアノの力強いリズムや、Skatalites “Confuscius” のような派手なブラスセクション(特にトロンボーン)を売りにしていたのに対し、ロックステディはワンドロップと言われる独特のリズムパターンがその特徴とされている。



CaribbeatsのバンドリーダーBobby Aitkenは、音楽としての初のロックステディ的な作品はCarl Dawkins “Baby I Love You” だったとしている。これはAitkenとハーモニカ奏者Charlie Organaireの演奏をプロデューサーSir JJがまとめた失恋についての曲だ。「私たちはスカに飽きていたから、私とCharlieで何か新しいことをやろうとした。スカではブルースを倍速にしたものだったが、ロックステディはギターが裏拍を刻み、2拍ごとにドラムが1回ずつ入るというスタイルだった」

“Take It Easy” のゆったりとしたペースは、Lewisがスカの速いリズムに自分の歌詞を上手く乗せられなかったからだと言われている。

初のロックステディ作品として取り上げられる機会が最も多いトラックは、Ken KhouriのFederalスタジオで、Lynn Taitt and the Jetsと共にレコーディングされたHopeton Lewis “Take It Easy” だが、実際は似たようなリラックスしたムードを打ち出していた同アーティストによる “Sounds and Pressure” の方が先にリリースされており、またDelroy Wilson “Dancing Mood”、Ken Boothe “Train Is Coming” そしてThe Rulers “Don’t Be a Rude Boy” など、他の歌手による同種の作品が、“Sounds and Pressure” がリリースされる数週間前に当たる1966年10月の段階でトップ10入りのヒットをしていた。いずれにせよ、ロックステディの代表作として位置づけられているのは “Take It Easy” だ。尚、そのゆったりとしたリズムは、Lewisがスカの速いリズムに自分の歌詞を上手く乗せられなかったことで生まれたと言われている。

「私たちが初めて取り組んだロックステディの楽曲はHopeton Lewisの “Take It Easy” でした」キーボーディスト兼アレンジャーのGladdy Andersonがその評価を裏付ける発言をしている。「あの曲以降、スカのリズムが遅くなっていきました。私は嬉しかったですね。なぜならスカの演奏で私は肩を痛めていたからです。速いリズムを何年も弾き続けたことで私の肩は痛みを抱えていました。Hopeton Lewisの “Take It Easy” は私の体を休ませてくれたのです」

「(ロックステディの)特徴的なギターのフレーズはスティールドラムにヒントを得たものです。スティールドラムの音を真似たのです」 - Lynn Taitt

この曲の特徴的なドラムは、数多くの他のドラマーがロックステディのビートのオリジネイターだと評価するHuge Malcolmによって生み出されたものだ(尚、CaribbeatsのドラマーWinston Grannanはこのスタイルを生み出したのは自分だと主張している)。「彼らがあの作品をレコーディングしていた時、私はマイアミにいた。私はByron LeeのドラマーEsmond Jarrettが代わりを務めると思っていたが、Ken Khouriは彼が気に入らず、『リズムは後回しにしよう。Malcolmが帰ってきたら、リズムを入れてもらう』という話になった。それで私がリズムを入れて、 “Take It Easy” が完成した」

ちなみに、“Sounds and Pressure” は1966年12月にジャマイカ国内のチャートで首位となり、その年末の売り上げが凄まじかったため、Khouriは地元のレコード屋を賞賛する広告をGleaner紙に出稿している。そしてその翌月、“Take It Easy” が首位を獲得した。

LewisのFederalスタジオのアレンジャー兼バンドリーダーで、他のスタジオの数多くの優れたロックステディ系楽曲のレコーディングにも参加したLynn Taittは、トリニダード出身の才能溢れるギタリスト/スティールパン奏者だ。1962年にジャマイカが独立記念祭を行う際に、カリプソのバックミュージシャンとしてジャマイカを訪れたTaittだが、そのプロモーターが金を持ち逃げしたため、そのままスカのセッションプレイヤーとして活動すると、ロックステディの時代にリードギタリストとしてその才能を開花させた。“Take It Easy” や、他のロックステディの名曲で聴ける彼のフレーズは、自分が聴いて育ったトリニダードの音楽から触発されたものだと本人が説明している。「あのギターのフレーズはスティールドラムにヒントを得たものです。スティールドラムの音を真似たのです」



“Take It Easy” がAlton Ellis “I’ve Got a Date”、Desmond Dekker “007 (Shantytown)”、The Wailers “Bend Down Low”、そしてKen Boothe “Train Is Coming” とチャート内で順位を争っていた頃、TaittはRoy Shirley “Hold Them” にもアレンジで参加し、再びロックステディの名曲の創出に貢献した。ちなみに、その年の4月に1位を獲得したこの “Hold Them” の独特のリズムも、Shirleyがスカのリズムに合わせられなかったことから生まれたものだ。尚、このビートは、Orange Streetをパレードしていた救世軍のバンドが奏でていたリズムからヒントを得て作られた。

ロックステディのサウンドはすぐに海外でも取り入れられた。Prince Busterは1967年春にLynn Taittと共にロンドンを拠点にするバンドThe BeesでUKとベルギーに初めてロックステディを紹介した。他にもClement DoddはKen BootheとAlton EllisのSoul BrothersとのUKツアーをアレンジし、Byron Leeは自身が率いるDragonairesと共にダンサーチームをカナダへ連れて行き、ロックステディを現地に紹介した。しかし、このスタイルが確立されていくと共に、ロックステディを代表する存在として台頭したのはDuke ReidのTreasure Isleで、彼はこのレーベルの成功により、スカ時代にBuster とDoddの影に埋もれていた自身の評価を覆すことに成功した。

33 Bond Streetの酒屋の上にあったTreasure Islaの木造の内装がサウンドに温かさと豊かさを加え、ロックステディのサウンド面の特徴を形成し、またThe MelodiansやThe Paragons、The Techniques、The Silverstones、The Jamaicansのような素晴らしいヴォーカルグループと共にThe Supersonicsが生み出した数々のヒットバラードによって、Treasure Isleはロックステディと最も関わりの深いレーベルとして認識されるようになった。

1968年9月頃までには、レゲエが新たに生まれ、ロックステディを過去のものにしてしまったが、1970年にU RoyがReidのロックステディのリズムにラップを重ねたことでロックステディはリバイバルヒットとなり、2度目の盛り上がりを見せた。そしてこれ以降、ロックステディのリズムはジャマイカを代表する音楽として繰り返し使用されることになり、Sugar Minott、Tenor Saw、Buju Banton、Sizzla、Taurrus Rileyを始め、BlondieやAtomic Kitten(両バンド共にThe Paragonsのクラシック “The Tide Is High” をカバー)など数えきれないアーティストたちのヒットに貢献した。たった2年しか続かなかったジャンルとしては悪くない成果と言えるだろう。