五月 10

追悼:Mika Vainio

フィンランドが生み出したエクスペリメンタル・ミュージックの巨星の死をBlast FirstのレーベルボスPaul Smithが思い出と共に悼む

By Paul Smith

 

2017年4月13日

 

ここ最近の私は、アイルランド南西部の辺鄙で静かな場所で暮らしている。午後3時頃、昼食後に日向でまどろんでいる私を妻が起こしてくれた。私はまた夢の中で奇妙で新しい音楽を聴いていた。その音楽は目を覚ますとほとんど憶えていないのだが、現実世界にその音楽が舞い降りてくれば、あの日の夢の中で聴いていたものだと認識できる。大抵の場合、この流れは何らかの新しい音楽的アドベンチャーの前兆なのだが、悲しいことに、今回は死神からの報せだった。妻のSusanは私の携帯に友人たちからのメッセージが大量に届いていることを知らせてくれたが、最初、その内容は否定されるのを待っている噂に思えた – Mika Vainioが死んだ?

 

アイルランドのこんな辺鄙な場所でも、私たちのネットワークは繋がっている。それから30分以内に、Mikaの家族と親しいブエノスアイレスに住んでいるフィンランド人の友人に確認を求めると、すぐに彼がこの世を去ったのは嘘ではないということが分かった。事故だった。こうなることはしばらく前から分かっていたようにも思える。Mikaの運は遂に尽き、それによって私たち全員は悲嘆に暮れている。

 

なんということだ。つい先週、私たちはAlan Vegaの一周忌のために7月にニューヨークで再会しようと計画を立てたばかりだった。私はMikaにニューヨークでプレイしてもらう約束を取り付けたところで、彼は、今は亡き私たちのヒーローへ捧げるに相応しいVVV(Vainio / Väisänen / Vega)の未発表曲を数曲ライブで披露してくれるはずだった。Alanは私たち両方にとってかけがえのない存在で、共にAlanと知り合って一緒に仕事ができたことを誇りに感じていた。

 

また、私はMikaへプレゼントするつもりでHenry Horensteinの著書『Honky Tonk: Portraits of Country Music』をしばらく前に買っておいたのだが、そのチャンスを逃し続けていた。この本に掲載されている美しい写真の数々は、きっとMikaも気に入って楽しんでくれるはずだった。私は今回の一周忌で再び彼と膝を突き合わせて、その写真に収められている人々について語らうことを楽しみにしていた。Mikaはあらゆる音楽に精通しており、自分よりも他のアーティストについて語らせる方が簡単な時も多かった。Alanの一周忌は私たちにとって悲しくエモーショナルな時間になるはずだったが、この本は辛い気持ちを打ち消してくれたはずだ。

 

私はMikaと初めて会った1995年の1月を思い出している。あの時もニューヨークだった。

 

 

 

Panasonic - Untitled (1994)

 

 

私はDisobeyというクラブイベントのためにニューヨークに滞在していて、私たちの寄せ集めファミリーに新たに加わるミステリアスなニューメンバーを迎えに行くためにエアポート・シャトルバンに乗っていた。ブッシュウィック・アベニューのいつもの大渋滞に巻き込まれ、私は遅刻していた。JFK空港の到着ロビーに駆けつけると、天井の柱に頭が付きそうになっている3人の男がすぐ目についた。午後4時到着予定のヘルシンキ発JFK行きのFinnAirは定刻より40分早く到着していたが、私は渋滞のおかげで30分も遅れて空港に到着した。

 

3人はガラガラの入国審査を通過し、記録的なスピードで税関もクリアしていた。そのため、このSähköの男たちはまるで最後の戦いに備えている兵士のような攻撃型防衛陣形を取っており、機材や手荷物の入ったバッグがまるで敵の砲撃から身を守るための砦のように彼らの前にまとめて積み重ねられていた。誰ひとりとして話しておらず、笑顔も見せていなかった。私が熱をこめ過ぎた早口で歓迎の言葉をまくしたてると、彼らは視線をこちらへ投げかけ、疲労のせいなのか用心深さのせいなのか分からなかったが、黙ったまま頷いた。その頷きは友好的でもなければ、よそよそしくもなかった。「OK、じゃあ行きましょうか…」

 

私たちはシャトルバンの乗車待ちの列に並んだ。息を吸い込むたびに喉の奥までからからに乾いて冷えきってしまいそうな、典型的な冬のニューヨークの寒く晴れ渡った昼だった。私はいかにもストイックそうなアジア系運転手の隣に座り、Sähköの男たちは全員横並びでバンの最後列に座った。私はまるでサッカーの練習帰りの子供たちを送迎する母親のように世話を焼いた。かくして、私たちの奇妙で静かな道中が始まった。沈黙を切り裂くのは、JFKが延々と続けてきた連絡道路工事のけたたましい騒音だけだった。この米国お馴染みのオペレーションは、20世紀終わり頃にニューヨークを訪れた人たちをこの街に順応させるための通過儀礼だった。入国して1マイル以内に訪問者たちのイメージを打ち崩すというわけだ。

 

私たちは昼夜問わず渋滞するフリーウェイの中をゆっくりと進んでいった。とうもろこし畑と放牧地が広がる自由の国。しかし、バンの外では、クラクションが鳴り響き、口汚い罵りが飛び交い、タクシーのドアが明らかな悪意を込めて叩かれ、ここでしか見られない独特の活気と熱狂が渦巻く中で侮蔑ジェスチャーの国際見本市が展開されており、一方、バンの中は全てが静止して沈黙が支配していた。運転手が訝しげに私をちらりと見やる。私が「彼らはフィンランド人なんですよ」と伝えると、運転手は肩をすくめた。

 

沈黙が20分も続いた頃だっただろうか。やけに明瞭だが何の感情もこもっていない声が響いた –「Bruce Gilbertもここに来ているのか?」

 

私は「そうです」と答えた。友好的な対話の始まりだ。「Bruceはあなたたちに会うためにマンハッタンのバーで待ってます。そこへまっすぐ向かっているところです」

 

この言葉に反応する声はなかった。彼らは押し黙ったまま返事もしない。早くもコミュニケーション・ブレイクダウンか?

 

ひたすら長い沈黙のあとは、更に長い沈黙が続いた。Sähköの男たちの間にも、はっきりと聞き取れる会話は存在していなかった。

 

私はバンのバックミラーに目を向けたが、そこに映る光景も私を不安にさせるものだった。謎めいた無表情が3つ並び、そこに感情表現は一切認められなかった。あまりの沈黙に耐えかねたのか、運転手がカーラジオのスイッチに手を伸ばしかけたが、私は首を横に振ってそれを制し、再接触のチャンスを待つことにした。

 

沈黙は無限に続くかと思われたが、ほんの10分ほどが過ぎると、先ほどと同じ声が聞こえた(今思うと声の主はMika Vainioだった)。「FM Einheitもここに来ているのか?」 - その通り。「MuftiもBruce Gilbertたちと一緒の場所であなたたちを待っていますよ」…再び沈黙。ふむ、これから数日間はなかなか面白いことになりそうだ。

 

 

 

Panasonic - Urania 

 

 

この出会いが実現した背景について話しておこう。

 

最初にJohn Duttonという男を紹介しよう。Johnはどこを取ってもナイスガイで、Mute Recordsのセールスコーディネーターとして音楽業界の最前線で働いていたこともある人物だが、彼は恋煩いを拗らせてMute Recordsを離れたあと、新天地を求めて米国へ移住していた。彼とどこで初めて会ったかについては明確に憶えていないが、彼がニュージャージーのWatts Musicで働いている頃にニューヨーク市内の数カ所のギグで顔を合わせていたはずだ。Watts Musicは当時の東海岸きってのダンス / ハードコアテクノ系の大手ディストリビューターで、ホットなクラブチューンを数多く配給していた。

 

前年(1994年)のNew Music Seminarがきっかけとなって、WattsはSähkö Recordingsの米国内のディストリビューションを請け負うようになっていた。“アーティスト・アンド・レパートリー”(A&R。新人アーティストの発掘やその販売戦略を担当する役職)が幅を利かせる米国でトレンドを追い続ける人たちとは異なり、Johnや、彼と似たような仕事に就いている連中は自分の好きな音楽が何かを理解しており、簡単に興奮して浮き足立つことはない。よって、Johnが太鼓判を押してレコメンドしてくる機会は滅多になく、その際はその音楽を優先して聴くべきだった。彼はSähkö のサウンドについて「あるトラックは冷蔵庫を開けっ放しにしているようなサウンドで、別のトラックは奇妙なリズムのようなものが鳴り続けている – 君も気に入るはずだよ」と説明していた。それからすぐにJohnから届いた小包の中には、Sähköのレーベルカタログの最初の4、5枚が入っていたと記憶している。

 

 

 

Ø - Röntgen

 

 

私は針を落とした瞬間にそれらの虜になったが、スリーブに記載されていた唯一の連絡先はFAX番号だけだった。B面を聴き始める前からすでに私は自分が得た感動を文章に書き連ねていた。あとで知ったのだが、JohnはDaniel Miller(Blast Firstの親レーベルMute Recordsの創始者)にもSähköのレコードを送っていた。しかし、それらが彼の耳に届くことはなかった(正確に言えば、当時のDanielは世界中のアーティスト / マネージャー / エージェントから大量に送りつけられるデモやプロモ盤を少なくとも週1回のペースで受け取っていた)。

 

折しも、“Sähköチーム” はその翌週に私たちが拠点にしていたロンドンを訪れてライブを行う予定になっていた。フロアが複数用意されて蛍光色の紫外線ネットが張り巡らされている、今思うと笑ってしまうほどインダストリアルで悪夢的な1990年代のクラブのテクノルームでのライブだった。メインルームではThe Orbが不機嫌そうなオーディエンスたちに向かってDJをしており、ハードなテクノビート(有り難いことに私が求めていたのはこの音楽だけだった)を通じて自由を模索していた。Susanと私はドイツ人の神童ギタリストCaspar Brötzmannを引き連れてブリクストンのそのクラブへ向かった。瓶ビール1本の値段は立派な食事と変わらず、大音量で流れるアンビエントが全ての会話を叫び声、または頷きとウインクの読み合いに変えていた。

 

Sähköチームがタイムテーブル通りにライブを開始した直後のフロアは満員で、演奏しているのが誰なのか分からないほど混雑していた。3人は身を屈め、機材の上に注意深く頭を垂れていた。聴き慣れないウォームで規律的なアナログサウンドが空間を満たし、音量が上がっていくと共に、私の間抜けな笑顔は大きくなっていった。重低音がパンツの裾を震わせ、睾丸を突き刺してきた。Susanはステージへにじり寄り、Casparは腕時計を見ていた。

 

ライブが始まって10分が経過すると、私とSusanはまるで磁石のようにサウンドへ引きつけられていたが、他のオーディエンスの大半はフロアから去ってしまった。若そうに見えるいかにもテクノな3人は、明らかに一般の楽器店で購入したものには見えない機材類に手を置きながら、終始頭を揃って揺らしていた。そしてライブが始まって12分後、更に音量が上がって叩きつけるようなビートが入ってくると、サウンドシステムが飛び、小さなライトも消えた。非常灯が点灯すると、サウンドが戻ってくることはなかった。フロアに辛うじて残っていた10人かそこらの “目撃者” が歓声を送り、ステージの右端に立っていた『Joe 90』(1960年代後半に英国で放映されていたTV人形劇)そっくりの男が穏やかな笑みを見せ、軽くお辞儀をした(この男こそJimi Tenorだった。有り難いことに彼は1999年の私とSusanの結婚式でライブを披露してくれた)。

 

私はJimiの元へ駆け寄り、この短いセットがどれほど素晴らしかったかを伝えた。サウンドシステムを飛ばすという行為はかつてのパンクロックのライブのようなスリルを思わせ、そのスリルは当時のテクノやクラブシーンでは異例だった。Jimiは「ありがとう、僕たちはそろそろ行くよ」と答え、3人で去っていった。

 

この時にJimiと組んでライブをしていたのは、Sami SaloとIlpo Väisänenだった。随分あとになってから知ったのだが、Mikaはこのライブには同行していなかった。彼は自主リリースした作品が全く注目されなかったことに落胆していた - そしておそらくは打ちのめされていた - のだ。一方、私はまるで福音を得たかのような気分で家路についていた。「このミステリアスなSähköの連中と連絡を取って自分たちのパーティDisobeyに招聘するぞ」

 

SähköのFAXが一体どこに設置されていたのか、今では知る由もない。レーベルの事務所だったのか、それともレーベルを率いていたTommi Grönlundのアパートだったのか… しかし、とにかくTommiは私がヘッダー付き用紙に書いて送った1ページ分の手書きの招待状をちらりと見て、すぐにゴミ箱に捨てたらしい。

 

Blast Firstというレーベル名は、Tommiにとっては何の意味も持たなかった。彼は徹頭徹尾エレクトロニック・ミュージックに染まった、説得力と真意に満ちたテクノな人物で、世界を自分の作品とデザインで作られた教会に変えるという布教の使命を自らに課していた。

 

米国の新世代ギターロックをリリースしてきたインディーロックレーベルは、もちろん彼の興味を一切引かなかった。しかし、有り難いことに運が味方をしてくれた。Mikaがちょうどその日にFAXが置かれていた場所にいたTommiの元を訊ね、そのFAXの近くに置かれていたゴミ箱の中に自分が知っているレーベル名を見つけてくれたのだ。Mikaの音楽的知識は徹底されていた。音楽的知識は彼の血であり、心臓の鼓動だった。そして、彼はゴミ箱の中から紙切れをつまみ上げ… 連絡をくれた。

 

 

 

Ø - Radio

 

 

その後間もなくして、Disobeyはホームだったノースロンドンを離れてニューヨークへ進出し、当時移転したばかりのKnitting Factoryで開催されるようになっていった。元々、Disobeyの大部分は、私のニューヨークでの活動と、当時開花・再興を遂げていたフリージャズシーン全体を貪欲に取り込んで表現しようとしていたThurston Mooreとの実験をベースにして生み出されたものだった(Thurstonはマルベリー・ストリートとモット・ストリートに挟まれたヒューストン・ストリートにあったオリジナルのKnitting Factoryにほぼ毎日のように通ってフリージャズに傾倒していた)。

 

私たちDisobeyクルー(メンバーは私、アーティストRussell Haswell、そして強制参加させられた非DJ系ミュージシャンBruce Gilbertの3人)は、ある意味The Curveに先んじてマルチミュージック / マルチジャンル / マルチメディアという意図的に未整備なテーマを打ち出していた自分たちのイベントシリーズへの注目度を高めるために、はるばるニューヨークまで来ていた。当時は『The Wire』誌などの先見の明があるメディアがまだライブイベントをレビューしていなかった。

 

RussellはAphex Twinをなんとか説得し、少し前にロンドンで開催した私たちのイベントで初披露された “紙やすりをレコード代わりに使う” 挑戦的なDJセットを米国で再現してもらう約束を取りつけていた。

 

2日間に渡って予定されていたDisobeyにおけるラインナップは以下の通りだ:

 

FM Einheit & Caspar Brotzmann 

Richard D James (AKA Aphex Twin) 

Stewart Home (パフォーマンス・ライター) 

Band Of Susans 

Bruce Gilbert

Sähkö Recordings(“Complex Sound Generator” セット) 

チケット:10ドル

 

私がSähköのレコードを聴かせた全員は彼らの音楽を気に入っており、彼らの間ではこの若い連中が一体何者なのかという興味が俄然高まっていた。そこで私はDisobeyファミリーを招集して、Milano’s Barで歓迎会を開くことにしたのだ。Milano’s Barはベトナム退役軍人が集まる溜まり場となっていたことからローカルではVeteran’s Barと呼ばれており、長年に渡って彼らがある種の悪評… 上品に言うならば “エッジー” な雰囲気を打ち出していたため、流行気取りの連中が出入りしておらず、酒の値段も手頃だった。

 

私たちの仲間は昼間からこのバーに居座っており、Disobey軍団も和やかに酔っ払っていた。リーズ出身のシンセポップバンド、The Mekonsの「Cocaine Lil」という曲に “all lit up like Christmas trees”(みんなクリスマスツリーのようにはしゃいでいた)という一節があったが、まさしくそんな感じだ。しかし、その頃、私が乗っていたバンの中は… 依然として沈黙が力強く支配していた。

 

しばらくぶりの交信が届いた。「Aphex Twinも来ていると聞いたが?」とMikaが私に訊ねた。

 

「ええ、もちろんです。全員があなたたちに会いたがっていますよ」

 

またしても沈黙。

 

やがて、私たちはMilano’sに到着した。バンの運転手は、私が差し出したチップを断りながらこう言った。「この連中を相手にするのに必要だろ」

 

 

 

Ø (Mika Vainio) - Stratostaatti

 

 

そして、目が回るほどの挨拶や賛辞の嵐に続き、「あの素晴らしいサウンドはどうやって作ったのか」、「我々にもComplex Sound Generatorを見せてくれないか」など、様々な質問が矢継ぎ早に繰り出された。

 

最初、Mikaはどこかショックを受けているように見えた。

 

Mikaは、これまで自分が尊敬し愛聴してきたアーティストたちが自分の音楽を好きだと言ってくれている事実に驚いたというよりも、彼らが実在し、同じ時間を共有できる生身の人間であるという事実にショックを受けていたようだった。

 

夜も割と早いうちに、Mikaは笑顔を見せた。

 

Mikaの笑顔は、まるで日の出のようだった。

 

彼は素敵な笑顔を私に向けながら頷いた… しかし、依然として言葉を発することはなかった。

 

数年経ってからMikaが明かしてくれたのだが、最初にTommi Grönlundから米国行きのフライト情報を教えられた時、MikaはTommiに騙されていると思ったそうだ。彼は、いかに自分が行くのを止めようとしていたか、そしてニューヨークに到着したあの日がいかに自分の人生を変えたのかについて(私たちにとってもそうだった)、その後も折に触れて話していた。

 

ニューヨークで開催したDisobeyは大入りとはいかなかったが、その後のPanasonicを名乗ることになるSähköの2人によるライブは強烈だった。巨大なサウンドシステムを通して鳴らされた “あのサウンド” は本当にスペシャルだった。

 

初日のギグを終えてソーホーの外れにあるDisobeyの “友愛会館” に戻ると、MikaとIlpoの2人がホテルの外の歩道に座って瓶ビールを回し飲みしていた。2人が何かを歌っていたので、古いフィンランド民謡かと訊ねると、彼らは「違う」と答え、「フィンランドの銀行のTVコマーシャルソングだ」と続けた。フィンランド版「We’re in the Money」というわけだ(編注:「We’re in the Money」は1933年のミュージカル映画『ゴールド・ディガーズ』に収録されている。金銭をテーマにしているスタンダード)。

 

 

 

Ø -- Olematon

 

 

その後のMikaは、様々な名義で多数のレコードレーベルから更に素晴らしい音楽を生み出していったが、彼は僚友に辛く当たる時も多かった。たとえば、のちにフィンランド軍の兵役に就いたSamiは、その後二度と戻ってこなかった。

 

やがて、MikaとIlpoの2人はバルセロナへ移住した。十分な日照時間とビーチのある生活は長きに渡って2人の気分を高揚させた。その頃の2人と私たちは数多くのアドベンチャーを共にした。そして、彼らの音楽は次第に高級ファッションブランドやコンテンポラリー・ダンスカンパニーの間でも良く知られるようになっていった。彼らの音楽は真に体感できるもの、肉体を突き動かすものだった。

 

2008年頃、Pan Sonicは “急速冷凍” の状態に入った。Mikaは “活動停止” よりもこの表現を好んでいた。

 

私が知る限り、MikaはPan Sonicの活動停止の理由を一切明らかにしなかった。IlpoはSähköやPan Sonicのユニークなサウンドの創出に大きな役割を果たしてきたが、それに対する正式な感謝はもとより連絡さえ受け取らないまま、蚊帳の外へ放り出されてしまった。Pan Sonicは私にとってはMikaとの主な接点だった。尚、私たちが共にしたアドベンチャーの簡単な歴史はここで確認できる。

 

Pan Sonicの活動停止後、Ilpoはしばらく前からフィンランドの自然の中で暮らしており、そこでディープなベーストーンへの偏愛と自給自足の生活を楽しんでいる。

 

音楽とアートは、Mikaの人生そのものだった。Mikaは決してミゼラブリスト(陰鬱を是とする者)などではない。彼は人生を愛し、レゲエや特に彼のお気に入りだったロカビリーなど、パーティと人々のために在る音楽を愛していた。そして、彼はあらゆる種類の美味しい料理を楽しむ人物で、いつの日も服の隅々まで気を配っていた洒落者だった。また、海外旅行を愛し(長期のライブツアーは嫌っていたが)、未知のカルチャーを体験することも好んでいた。更に言えば、彼は広範囲のジャンルをカバーする読書家でもあり、然るべきタイミングが訪れた時には様々なトピックにおける博識ぶりを披露していた。

 

彼は昔ながらのフィンランド的精神構造を重んじていた。じっくりと話に耳を傾けて会話の内容を見極め、熟考したあとで自分の意見を話し始める。このモードが現代社会で上手く機能することは少ない。彼は多くの人から頑に距離を取っていた。

 

私も長年に渡り、“Mikaモード” に合わせる際にはちょっとした時間を必要としていた。彼は一貫して無表情で、酒を飲んでいる時でさえ対話的な感情をほとんど浮かべることがなかったため、彼の感情を読み取ることは困難だった。彼が内に抱えている感情を読み取るのに手っ取り早い方法など存在しない。

 

そのため、彼の言葉には注意深く耳を傾ける必要があった。

 

ドライで控えめなウィットを備えていた彼は、一緒にいて楽しい場合も多かった。彼が問題を抱えているのは確かで、その問題が他のアーティストたちが抱えるものより大きくなる時も多かった。むしろその問題は悪魔とさえ呼べるものだった。鬱と飲酒はいつの日も最悪のコンボだ。人生を深いところで感じ取っていたMikaは、良くも悪くも、その感覚から自分を守る能力を有していなかったように思えた。

 

 

 

Mika Vainio - Open Up And Bleed

 

 

Mikaが2011年にMegoからリリースしたソロアルバム『Life (…It Eats You Up)』のタイトルやカバーからは、彼が抱えていた問題がいやというほど理解できる。しかし同時に、彼が手がけたほとんど全ての作品からは、彼には自分の心に語りかけ、壮大かつユニークで、極めてエモーショナルな音楽的ステートメントを創出できる才能が備わっていたことが理解できる。多くの人がMikaの死を深く悼むだろう。そして、Mikaの音楽はこれからも、彼が厄介だが真に魅力的な人間だったこと、そしてワールドクラスのアーティストだったことを思い起こさせるだろう。Mika、どうか安らかに眠ってくれ。 

 

 

Header Photo:Pan Sonic オリジナルプレスフォト