四月 08

追悼:Frankie Knuckles

3月31日にFrankie Knucklesが逝去した。「ハウスミュージック」を生み出したこのベテランDJを私たちは永遠に忘れないだろう。

かつてRoland Clarkは「House President」になりたいと言っていたが、その称号は間違いなくFrankie Knucklesに与えられるものだ。シカゴ出身のDJだったFrankie Knucklesはハウスそのものであり、そのサウンドと歴史を支えてきた。1955年、ニューヨーク・ブロンクスでFrankie Warren Knuckles Jr.として生まれたKnucklesは、Larry LevanとContinental Bathsで共演し、シカゴ時代にハウスミュージックを生み出し、DJツールとしてのリエディットを広め、更にはDef Mixクルーとしてグラミー賞を受賞するなど、ダンスミュージックにおける数々のターニングポイントに携わってきた。

その数々の功績の中で最も多くの人々の記憶に残っているのは、シカゴに存在した伝説のクラブWarehouseでの活動だろう。WarehouseはDavid MancusoのLoftの常連で、若きKnucklesとLarry Levanの後見人だったRobert Williamsがオーナーを務めたクラブであり、Knuckles同様そのルーツはニューヨークにある。ちなみに若い頃から友人関係だったKnucklesとLevanがクラブ帰りにドーナツを盗んで警察沙汰になった時、2人の後見人として面倒を見たのがWilliamsだった。


2011年のRed Bull Music Academyのレクチャーで、 「何も起きないように、近くで私たちを見守ってくれた」とKnucklesが感謝したWilliamsは、1970年台後半に新しくクラブビジネスを始めるためにシカゴへ移った。Williamsは当時、ニューヨークのContinental BathsとParadise Garageで評価を高めていたLevanをDJとして誘っていたが、結局この仕事を引き受けたのがKnucklesだった。Knucklesはこの理由について、「単純にレギュラーの仕事を持っていなかったからだ」と説明している。

Knucklesは元来ディスコDJであり、シカゴは1979年にDisco Demolition Nightが起きた都市だったが、ディスコブームの終焉が迫っても、KnucklesとWarehouseには全く影響がなかった。何故ならば、メインストリームのディスコを横目に、Warehouseはアンダーグラウンドに徹していたからで、むしろディスコの終焉はKnucklesを新たな評価を獲得する原因にもなった−Knucklesはシーンの衰退によるセット新曲の不足に苛立ちを覚えたことで 、Erasmo Riveraとコンビを組み、First Choiceの「Let No Man Put Asunder」とHoward Johnsonの「So Fine」のリエディットを生み出したからだ。尚、「So Fine」については 当時現地で大きな影響を受けたChez Damierがハウスミュージックの回顧録『Last Night a DJ Saved My Life』の中で、「Frankieは『Throw your head back back back back …』となるようにエディットしていた。彼が加えたエディットは素晴らしい効果を生み出していた」とそのインパクトの大きさに言及している。



KnucklesはDamierをはじめとしたシカゴのDJとプロデューサーに影響を与えたが、これは単純にロケーションとタイミングが功を奏したからだ。Knucklesが当時シカゴで行っていたことは、既に数多くのDJがリエディットなどをプレイし、他の新しい音楽をダンスフロアに投下していたニューヨークでは同等のインパクトを持ち得なかっただろうと多くの人が言及しているが、当時のシカゴでそのような音楽を提供していたクラブはWarehouseだけであり、ニューヨークから持ち帰った音楽や自身のリエディットなど、シカゴの人たちが聴いたことがないような音楽をプレイしていたのはKnucklesだけだったのだ。

ニューヨークを体験したことがない人たちや、このような音楽体験をしたことが無かった人たちにとって、Warehouseは天国とも言える存在だった。店内のレイアウトは非常にシンプルで、ダンサーが音楽だけに集中できるような環境になっていた。またKnucklesはリエディットの他にサウンドエフェクトのレコードも用意しており、ダンスフロアを蒸気機関車が縦断するような効果を生み出す時もあった。Robert Williamsはアメリカのダンスミュージックのヒストリーブック『Love Saves the Day』の中で、「Knucklesがアクシデントでプレイ中のレコードの針を上げてしまう時があった。しかし、ダンサーたちはそれをサウンドエフェクトだと思い、クレイジーに盛り上がっていたよ」と振り返っている。



またWarehouseがゲイの社交場として機能していたこともこのクラブが放った大きなインパクトを語る上で無視できない。大半がゲイと黒人で構成されていたフロアに対し、本人も黒人でゲイだったKnucklesは肌の色や性的趣向で差別されていた人たちが安心し遊べる空間を提供した。そしてストレートな人たちでさえも、Warehouseの自由な感覚に圧倒されており、Andre Halmonは『Love Saves the Day』の中で、「音楽によって全員がバイセクシャルになっていた」と振り返っており、また同じ本の中でScreaming’ Rachelは「Warehouseは起きたままベッドにいるような感覚だった」と振り返っている。

Knucklesはハウスミュージックのオリジネーターであると同時に、長いキャリアを通じて大量の音楽をリリースしたアーティストとしても歴史にその名を残している。Knucklesはシカゴ出身でPrinceの大ファンだったJamie Principleと組むことで音楽制作を本格化させていく。当時のKnucklesはスタジオでの制作経験がないに等しかったが、フィリーサウンドを敬愛していた彼は、自分が何を求めているかを明確に理解していた。Marshall Jeffersonは『Last Night a DJ Saved My Live』の中でPrincipleのトラックを聴いた時の衝撃について、「彼の作品は最高だった。ポルノにJohn Holmesが出演しているようなものさ。あれ以上は求められない」と表現している。



この頃、KnucklesはWarehouseを離れ、自身のクラブPower Plantを立ち上げていたが、本人自身の活動を制作にシフトさせようと考えており、その姿勢は「Baby Wants to Ride」、「It’s a Cold World」、「Waiting on My Angel」などのリリースによって証明されている。尚、Power Plant は1987年に閉店したが、これが当時施行された法律によって、シカゴの誇るジュースバーの数々が通常のバー営業時間に強制的に変更されたことが原因だったのかどうかは確かではない。しかし、WarehouseとPower Plantはダンサーが踊り続ける限りパーティーは続くというスタンスで経営されていたのは確かだ。

その後、KnucklesはUKで短期間を過ごしたあとニューヨークへ戻り、WorldのDavid MoralesとマネージャーJudy Weinsteinと組んで活動を再始動させると、KnucklesとMoralesはその後数年をかけてリミックスの概念を再構築していった。Knucklesは個人名義の作品と同様、リミックスもフィリーサウンドのヒーローだったAshford & Simpsonをモデルとし、音楽性を重視したクリーンでレンジの広い作品を制作していった。2011年のRed Bull Music Academyのレクチャーで本人は、「私たちより前の時代のリミックスは、渡された素材だけを使って制作するだけだった。しかし、私たちはミュージシャンを雇い、その楽曲を完全に再現し、音楽そのものを新たに組み直した。2つの音だけが淡々と繰り返されるベースラインなどはあり得なかった」とそのアプローチについて説明している。尚、このようなアプローチは、Alison Limerickの「Where Love Lives」のリミックス、Satoshi Tomiieの「Tears」のKnuckles個人によるリミックス、そして個人名義でリリースした美しいディープハウスクラシック「The Whistle Song」などの初期作品で確認することができる。



こうしてKnuckles、Moralesと彼らの仲間たちは80年台後半から90年台前半にかけて数々のヒットトラックを生み出し、Masters at Work、そしてStrictly Rhythm、Nervous、Nu Grooveと同様、ニューヨークハウスを代表する存在としての評価を固めていく。そして90年代中頃に入ると、KnucklesはSound Factory barでのレジデントをスタートさせる。このヴェニューはJunior VasquezのSound Factoryよりも小規模だったが、ここでKnucklesはWarehouseで展開していたジャンルを横断するエクレクティックなセットを披露することができた。

Knucklesは年々ハウスミュージックの幅が狭くなっていくことに気を揉んでいた。Knucklesは当時のニューヨークのクラブシーンを席巻していたハウストラックに注力し過ぎるのではなく、Warehouse時代の自由で幅広いDJスタイルを提供しようとしており、当時既に時代遅れだった古いディスコを始め、MoroderやKlein & M. B. O、Yelloなども好んでいたプレイしていた。

このように90年代はKnucklesにとって良い時代であり、1998年にはリミキサーとして初のグラミー賞も獲得している。しかし、00年代中頃に入ると、リミキサーが大金を稼げる時代が終わりに差し掛かり、Knucklesの勢いにも陰りが見え始めた。そして本人も自分のサウンドが世間から求められていないことを理解していた。10年以上前に生まれた彼のサウンドは、それがいかに「クラシック」であろうとも、「時代遅れ」だったのだ。Knucklesは2011年のレクチャーで当時について、「世界中を飛び回っていると、みんなに『どうして新曲をリリースしないのか』と頻繁に訊かれた。だが、私は世間が聴きたいと思っていないから制作をしていなかったのだ」と説明している。またこの頃からKnucklesは健康面でも問題を抱え始め、DJ活動を一時的に休止する。そしてこの休止の間に次の一手について考えることになったKnucklesはファイナルチャプターを迎えることになった。Knucklesのニューヨーク時代の大ファンだったHercules & Love Affairからの熱烈なオファーを受けて制作した「Blind」のリミックスによって、Knucklesに対する再評価が生まれ始めたのだ。しかし、残念なことにこの作品がKnucklesの『終わりの始まり』となった。



40年以上ダンスミュージックに関わってきた彼のキャリアは十分と言える。しかし、「Blind」を聴く限り、Knuckles にはまだまだ言いたかったこと、彼の言葉を借りれば「見せたかった」ことがあるのではないかと思えてならない。Resident Advisorの2011年のインタビューで彼は次のように語っている。「音楽は暗闇の中で“見える”ようになる。何故なら音楽とは、聴いている人の中にビジュアルを生み出すものだからだ。つまり音楽とは、暗闇の中で見えてくるものなのだ。そして深夜から翌日の昼までそういう状態が続けば、帰る時には必ず自分の心、そして脳に音楽が残る。そして次の週末に同じ場所へ戻るまで、その音楽を歌い続けることになるんだ」