九月 13

ベルリン:東西統一とテクノの台頭

1980年代後半から1990年代前半にかけてのベルリンのナイトライフを、当時をリアルタイムで体験した元ドイツテクノ雑誌エディターが写真と共に振り返る

By Jürgen Laarmann

 

「話のネタになるようなものは特にないな!」 - これがベルリン・ナイトライフの第一印象だった。時は1988年、私はフランクフルトに住んでいる21歳の若者だった。何とも皮肉な話だ。なぜなら、今からその全てを話そうとしているのだから。

 

 

© Tilman Brembs

 

 

Mark Reeder監督の2015年のドキュメンタリー映像『B-Movie: Lust and Sound in West-Berlin 1979-1989』で見事に描写されている通り、1988年のベルリンからは、世界的に有名だった1980年代のこの都市のナイトライフを形作ったあらゆる要素が消えつつあった。

 

Nürnberger Straßeにあった伝説のクラブ、Dschungelではもう何も起きていなかった。私は、“最高の人たち” が集まると言われていた平日の夜に顔を出したのだが、その全ては数年前に終わっていたに違いなかった。

 

ベルリン・ナイトライフのチェックを続けていく中で、私はパンクとニューウェーブシーンの有名なクラブにも向かったが、西ドイツの同種のクラブよりも汚くて垢抜けない感じで、そこに集まっている連中も西ドイツよりラフな印象だったが、大したことは起きていなかった。

 

 

 

“ベルリンの壁が崩壊し、世界平和は実現可能に思えるようになり、新しいサウンドやレコードが毎週届くようになった”

 

 

 

ハイライトのひとつとなったのは、ベルリンに住む友人が “典型的なベルリン” と表現していた奇妙なロケーションへ私を連れて行ってくれた時だった。私はこの時初めて、UFOのパーティを体験したのだった。誰かが住んでいるアパートメントの床に開いている穴からはしごを下りて地下へ向うと、そこでは激しく点滅しているストロボの中でアシッドハウスがプレイされており、30~50人が集まっていた。その穴からまた外へ出ると、着ていた服は上から下まで汚れていた。あの穴は、1990年代のベルリンへ向かう “転送装置” だったのだ。

 

当時私が住んでいたフランクフルトでは、1988年にOmenがオープンしたばかりだった。Omenは、“ハイテクディスコ” のプロトタイプのようなクラブで、私がベルリンで体験してきたことは、このクラブの徹底したプロフェッショナリズムと強烈なコントラストをなしていた。西ベルリンへの旅は、私にとっては第三世界への旅のようなものだった。私はそこが気に入っていた。ゆえに、フランクフルトへ戻った私は、“マウアーシュタット”(Mauerstadt / 壁の都市=当時のベルリンを指す)の興味深い経済的貧困について言いふらした。マイン川沿いに位置する大都市で手に入る技術基準と比較すると、“マウアーシュタット” は時代を逆行しているかのように感じられた。

 

 

1989年:タイミングとロケーションの妙

 

今振り返ると、1989年9月に “学業のために” ベルリンへ移住したというのは何とも奇妙な決断に思える。私がベルリンへ移ったのは、フランクフルトのナイトライフを楽しみたいがためにヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マインでの経済学の勉強を犠牲にし過ぎてしまっていたのが理由のひとつだった。私は、ベルリンで「社会的・経済的コミュニケーション学」を専攻し、自分に合った勉強をしたいと思っていた。同時に、私はベルリン・ナイトライフが “話のネタになるようなものは特にない” ものだということを知っていた。こうして、ベルリン移住1年目の私は、全エナジーを勉強に注いだ。

 

学友たちが「学生バイト」をしていた中、私はフランクフルトのテクノ雑誌『Frontpage』のマネージングエディターの仕事を続けていた。デスクの前に座り、各号に相応しいグラフィックデザイナーを選び、コンテンツをまとめていく作業に夜を費やす日は多かった。私は基本的に “ベルリンの壁の崩壊” には関わらなかった。その理由は、自分のことを “生粋のベルリナー” だと思っていなかったからだ。私は、この歴史的イベントを彼らと同じようには扱っていなかった。

 

 

© Tilman Brembs

 

 

私はベルリンを少しずつ理解していった。そして割とすぐに、この都市で起きているありとあらゆる興味深い発展の中心に “Fischbüro” があることを理解した。この組織をまとめていたチームは、第1期UFOを運営していたチーム - Dimitri HegemannとAchim Kohlberger - だった。2人はFischbüroで数々の逸話を生み出したSpace Beer(化学物質が入ったビール / Timothy Learyも好んだと言われている)やマペットショーのステージ裏に置かれていたDJブース、Radio Marsを手がけていた。

 

Radio Marsでは、Tanith、Clé、Rok、Jonzon、Kid Paul、Dr. Motteなど、のちにベルリンのテクノシーンで重要な役割を果たすことになる数々のアーティストがプレイしていた。私はここでDr. Motteに初めて会ったのだが、その時に、彼からLove Paradeに関わってくれと頼まれた。もちろん、『Frontpage』がドイツ全土に流通しており、国内の他都市のアンダーグラウンドハウスシーンにリーチできるメディアだということを知った上での頼みだった。

 

 

© Tilman Brembs

 

 

この頃、世界中でテクノ&ハウス・レボシューションが起き、新しいタイプの音楽が次々と生まれるようになった。インダストリアルとハウスを組み合わせたサウンドが生まれると、ダビーなテクノ&ハウスが生まれ、ベルギー、ニューヨーク、オランダ、イングランドからはシーンを代表するアーティストが誕生した。

 

D-Shake「Yaaah」は当時を代表するトラックで、時代精神の象徴的な存在だった。ベルリンの壁が崩壊し、世界平和は実現可能に思えるようになり、新しいサウンドやレコードが毎週届くようになった。当時のベルリンで最もエキサイティングなスポットのひとつだったのが、クロイツベルクのReichenberger Straßeにあったレコードショップ、Hard Waxだった。“私はDJだ” と堂々と名乗る誰もが、非常に厳しいことで知られていたDJ Rok(Jürgen Rokkita)が管理していた輸入盤コーナーに列を作っていた。

 

 

 

 

1990年:UFO / Berlin Atonal / Tekknozid

 

1990年、第2期UFOがシェーネベルクのスーパーマーケット(Penny Market)跡地にオープンすると、旧東ベルリン側からも客が来るようになったことから、第1期よりも盛り上がりを見せた。Tanithがベルリンのスタイルを定義づけたCyberspaceというタイトルのレギュラーパーティを開催しており、私はこのパーティで初めて伝説のデザイナー、Elsa Wormack(Elsa for Toys)のデコレーションを目にした。

 

1990年のもうひとつのハイライトが、Künstlerhaus Bethanienで開催された記念すべき第1回目のBerlin Atonalだった。このフェスティバルに参加した誰もが、何か新しいことが起きるんだという感覚を得た。808 State、Greater Than One、Consolidated、Cosmic Baby、Baby Fordがそれまでとは大きく異なる新しい音楽を披露した。

 

当時は、このフェスティバルがのちに向かう方向性は全く確認できなかった。当時のBerlin Atonalは、ありとあらゆるパイオニアたちが組み込まれたカラフルなラインアップが用意されていた。このフェスティバルは私たちに “次の10年” を垣間見せてくれた。

 

 

 

“BPM130のテクノが鳴り響くドライアイスの濃い霧の中では、それぞれの出自は全く関係なかった”

 

 

 

旧東ベルリンは独自のイノベーションを起こした。その代表例がTekknozidだ。Wolle XDP名義で活動していたDJ、Wolfram Neugebauerが、Haus der Jungen Talente(東ドイツ時代のユースクラブ)や、リヒテンベルクにあったVEB Elektrokohleの工業施設、また、プレンツラウアーベルクのPrater Gartenなど、旧東ドイツの建物や施設を利用したレイブを初めて開催した。

 

このような東側の会場は1,500人程度が収容できる広さと必要な低音を提供できる優れたサウンドシステムを誇っていた。Tekknozidの客の大半は、平和的革命が起きたこと、そして、テクノと2000年というテーマと共に初めて本格的なユースカルチャーを体験できていることに有頂天だった東側のキッズだった。また、これらのレイブは非常に高いクオリティを誇っていたため、瞬く間にベルリン市内に噂が広がり、西側からも客が訪れるようになった。

 

一方、東西統一直後の西側ではほとんど何も起きていなかった。先述したシェーネベルクの第2期UFOは1990年12月31日に閉店となったが、その理由も「客が集まりすぎていたから」ではなかった。このような状況の中、1991年初頭になると、旧トデスシュトライフェン(Todesstrifen / 壁と壁の間に存在した無人エリア。東ドイツ側から壁を乗り越えようとした多くの人たちがここで命を落としたことから、death strip / デス・ストリップと呼ばれていた)に新しいクラブがオープンするという噂が立つようになった。このような試みはそれまで一度も行われたことがなかった。

 

そして迎えた1991年3月、Tresorがオープンした。ライプツィガープラッツ付近にあったWertheim跡地の地下金庫を流用したこのクラブは、ベルリンテクノを代表する存在となった。Tresorは、様々な意味でベルリンのクラブのプロトタイプとなり、今もこの都市のクラブシーンに影響を与えている。

 

 

© Tilman Brembs

 

 

Dimitri Hegemann率いるTresorチームは、国家消滅に合わせて強制退去が命じられていた旧東ドイツ側の建物の期間限定の使用許可を申請していた。旧東ドイツ側の建物は私有地化に関するルールが明確に設定されていなかったため、Tresorはアートギャラリーとして期限付き賃貸契約を結ぶことになった。

 

当時のベルリンはワイルドで、控えめに言っても、ガストロノミックなアイディアは存在しないに等しかった。友人たちは “無料” で泥酔していた(ちなみに当時はほとんど全員が “友人” だった)。バイブスはセンセーショナルだった。着ている服は最後にはボロボロになったが、誰もそんなことは気にしていなかった。私もそんなひとりだった。ワンポイントキャッシュカード(クラブで必ず買わなければならなかったドリンクチケット)や面倒なルールがついて回るディスコ的なフランクフルトとは比較にならないレベルの自由と快楽が目の前にある時に、そんなことを気にするわけがなかった。

 

また、Tresorの雷のように激しいストロボは、東西ドイツの若者の統一のパーフェクトなバックドロップとして機能した。BPM130のテクノが鳴り響くドライアイスの濃い霧の中では、それぞれの出自は全く関係なかった。Tresorを訪れた多くの人たちが、このクラブで壁の向こうに住んでいた人たちとの初めての出会いを経験していた。

 

 © Tilman Brembs

 

 

Tresorのこの成功を受けて、多くのクラブがベルリンに誕生した。Köpenicker Straße沿いのPlanetとWalfischが、第1期後発クラブの代表格で、Bunker、Elektro、WMFなどが彼らに続いてオープンした。最近はこの時代を体験した人やこの時代に間に合わなかった人たちを対象にしたガイド付きツアーが組まれており、参加者をこのような “忘れられたクラブ” の数々へと案内している。

 

もちろん、ベルリンのナイトライフの発展は「営業時間に制限が設けられていなかった」ことにも助けられた。ベルリンのパーティは延々と続いた。また、東側の警察には他にもやることが数多くあったため、その自由度は無法レベルだった。これは、ベルリンのクラブシーンだけではなく、ありとあらゆるクリエイティブなシーンに当てはめることができた。アトリエ、ギャラリー、スタジオなど、東側にはクリエイティブなアクションが起こせるスペースが大量にあった。これらのスペースは、ベルリンのイメージの代表として長年機能し、世界中のクリエイティブシーンから注目を集めることになった。

 

 

1991年:ジャーマン・サマー・オブ・ラブ

 

1991年から私はLove Paradeのスタッフとなった。Dr. Motte、Sandra Molzahn、Kati Schwindが、Love Paradeのビジネス化を目指して、Ralf Regitz(Planet / E-Werk)と私を運営チームに引き入れた。Regitzはパーティのまとめ役を任され、私はドイツ国内のプロモーションを担当することになったのだが、私自身に熱意があり、さらには『Frontpage』のサポートもあったので、仕事は楽しかった。

 

近々フランクフルトにオープンする予定のMOMEM(Museum Of Modern Electronic Music)のディレクターを担当しているAlex Azaryが、Mark Spoon、Sven Väth、Talla 2XLC などと組んでフランクフルトチームのLove Parade用フロートを準備した。また、Low Spiritの共同設立者で、のちにLove Paradeの出資者になるWilhelm Röttgerも、現在Native InstrumentsのCEOを務めているMate Galićが経営していたケルンのクラブ、Space Clubとのコネクションを持っていた。その他の都市はまだ自分たちのフロートを持っていなかったが、クラブオーナーたちはベルリンに集まっていて、全員が刺激を受けて盛り上がっていた。

 

 

© Tilman Brembs

 

 

約6,000人と言われる当時の参加者は、自分たちが巨大な何かの始まりを目撃したという感覚を共有していた。巨大な何かの始まり − ジャーマンテクノ − の始まりだった。Love Paradeは世界中から注目された。『The Face』や『i-D』といった、当時の音楽シーンやトレンドを牽引していた英国の雑誌や、MTVが取材のためにやってきた。彼らは、新しいワイルドなベルリンが存在することを伝え、“ジャーマン・サマー・オブ・ラブ” の詩を吟じた。

 

パレードだけではなく、アフターパーティも素晴らしかった。Love ParadeチームがオーガナイズしてHalle Weißenseeで開催されたThe Love Nationは、ドイツ国内のトップDJが集まり、全員が200ドイツマルク一律の報酬でプレイした。このようなパーティはこの日以降、一度も実現していない。今思えば、あの週末は今や一大産業にまで成長しているベルリンのナイトライフ・ツーリズムの始まりだった。

 

 

© Tilman Brembs

 

 

Header image:© Gaurab Thakali