八月 04

Raster-Notonの20年

Carsten Nicolai、Olaf Bender、Frank Bretschneiderの3人がRaster-Notonの歴史を振り返る

By  Arno Raffeiner

 

エレクトロニック・ミュージックシーンの中で最も高い評価を受けているエクスペリメンタル・アウトポストのひとつとして知られるRaster-Notonは、1996年にOlaf BenderとFrank Bretschneiderが立ち上げたRastermusicをルーツに持つ。数年後、この若きレーベルはCarsten Nicolai AKA Alva Notoによって運営されていたサブレーベルNotonと融合。以降、三頭政治で運営されるRaster-Notonは様々なエクスペリメンタル・アートのためのプラットフォームを築き上げてきた。当然、その中心に据えられているのは音楽だが、Raster-Notonのプロジェクトにはインスタレーション、サウンドデザイン、出版物なども含まれており、そのすべてに印象的なミニマリストなヴィジュアルデザインと、ポップ、アート、科学の交差点を模索する姿勢が提示されている。

 

正式な音楽教育を受けたミュージシャンからノイズの海をたゆたう若手アーティストまでが含まれるRaster-Notonのバックカタログは非常にユニークでオリジナリティに溢れている。今回は3人がレーベルの経緯や哲学、そして予想外に続いた理由などを語ったRBMA Radioのインタビューからの抜粋を紹介する。

 

 

Raster-Notonの誕生

 

OLAF BENDER

Notoのアルバム『Spin』がきっかけだった。

 

FRANK BRETSCHNEIDER

CarstenはAKAI S01を持っていた。メモリが1MBしかない安価なサンプラーでね。僕たちがナイスなスタジオを持っていたから、レコーディングさせてくれと言ってきたんだ。それでスタジオ料金を取る代わりに「完成したら僕たちのレーベルからリリースさせてもらうよ」と言ったんだ。この約束が3人のコラボレーションのきっかけになった。

 

OLAF BENDER

当初、Carstenはスタジオに手助けしてもらいたいと思っていたんだ。正確に言えば、Frankの手を借りて制作を進めたいと思っていたのさ。でも、いざ制作が始まってみると、僕たちは彼の音楽が非常に面白いことに気付いた。自分たちでは生み出せない音楽だって気付いたんだ。彼と僕たちは考え方が違っていたが、彼の音楽はすごく興味深いものだった。それで「もっと一緒に何かやってみよう」という話になったんだ。『Spin』は僕たちが一緒にやり始めるきっかけになったし、お互いのアイディアが近いことに気付かせてくれた作品だった。

 

 

CARSTEN NICOLAI

僕はベーシックなループに興味を持っていた。Frankが言ったように、僕はAKAIのサンプラーを持っていた。当時はこれですべてを作っていたんだ。僕はビートや小節にサンプルを配置していくよりも、サンプルをループさせることに興味を持っていた。でも、当時の僕はそのサンプルをきちんとレコーディングできるような設備を持っていなかったんだ。僕はひとつのサンプルを異なったスピードで再生すれば完全に違うキャラクターが生まれるっていうアイディアが気に入っていた。ある意味、『Spin』は12曲が2バージョン入っているアルバムと言える。ノーマルスピードとその半分のスピードの2バージョンだね。同じサンプルなのに完全に違う音楽になるっていう部分に面白さを感じていたんだ。

 

FRANK BRETSCHNEIDER

当時のRastermusicは、Carstenの音楽よりも分かりやすい、Warp系やAphex Twinのような音楽をやろうとしていた。Carstenの作品はもっとアブストラクトだった。RastermusicのファーストリリースはベルリンのミニマルアシッドテクノユニットKyborgの作品だった。これは僕たちにとっては初めてのバイナルリリースにもなった。僕たちは基本的にはCDでリリースしていたんだ。自分たちの音楽はクラブ向きというよりはリスニング向きだと思っていたし、バイナルに高額を投資するのも避けたかった。

 

OLAF BENDER

Kyborgをファーストリリースにしようと思った理由は、Rastermusicがセルフリリースを重ねるだけじゃない、ちゃんとした本格的なレーベルだってことを示したかったからなんだ。他のアーティストも迎え入れて、ネットワークを構築しながら、自分たちの幅の広さを示したいと思っていた。

 

 

CARSTEN NICOLAI

当時はまだ2つのレーベルに分けておこうというアイディアだった。だから、Rastermusicとnotonは別々に活動していた。でも、3年経つと、2つを分けておくのは無意味だということに気が付いた。昔から3人は近い位置で仕事をしていたからね。それでRaster-Notonという名前にまとめたのさ。だから、僕たちはRaster-Notonのスタートを1996年にしているんだ。カタログをひとつにまとめた年ではなくてね。

 

OLAF BENDER

当時はビジネス的な意味で2つに分けておきたかった。Rastermusicは当時伸びていたから、そのタイミングでRaster-Notonという名前に変えたくなかったんだ。それで、Notonはサブレーベルにしておく方がベターだという話になった。でも、いくつかのリリースを経たあとで、コンセプトはもちろん、参加しているアーティストたちも大して違わないということが分かってきたので、ひとつにまとめた。タイミングは遅くなったけど、合理的な判断だったと思う。

 

FRANK BRETSCHNEIDER

Raster-NotonとしてのファーストリリースはGoemだったと思う。彼らはオランダ人デュオで、『Stud Stim』はテクノの影響を受けた非常にミニマルで面白い作品だった。彼らは特殊な装置を使ってKorg MS-20をトリガーしながら、2~4個のリズムを鳴らしていた。本当に素晴らしいレコードだったよ。<Clear>シリーズのファーストリリースでもあったから、ステッカーを貼っただけのデザインだった。

 

CARSTEN NICOLAI

〈Clear〉シリーズからは僕の昔からの友人Billy Basinskiもリリースした。彼の作品はレーベルがブレイクするきっかけのひとつになった。Billyが住んでいたニューヨークへ向かって、彼の家に寝泊まりしていた時、僕たちはいつも彼の音楽を聴いていた。本物のアンビエント・ミュージックだった。実は、自分たちのレーベルでリリースできる “音楽” だって理解するのに数年かかったんだ。そのあとで、彼のデビュー作を〈Clear〉シリーズでリリースしようって話になった。それが『Shortwavemusic』だ。このアルバムはリミテッドエディションだったけど、この作品がきっかけで世界から注目されるようになった。イニシャルは500枚だったね。

 

 

この音楽は彼の自宅で朝から晩まで鳴っていた。ロフトで寝ている時も音楽が鳴っていたのを憶えているよ。彼の家には数週間泊まっていたんだけど、なんていうか、香水みたいな存在になっていった。自分の周りを取り囲んでいるような感じで、雰囲気が生まれてくる。その場所から離れて、また戻ってくればすぐにその雰囲気の中に戻れるんだ。これが “音楽” だと気付くのに長い時間がかかったのはこれが理由なのかもしれない。アンビエント・ミュージックとしてはパーフェクトだった。真の "アンビエント" だった。常に鳴っていたから、音楽だってことに気付かなかったんだ。

 

 

〈20’ To 2000〉シリーズ

 

OLAF BENDER

〈20’ To 2000〉シリーズは1999年にレーベルをひとつにまとめなければならなくなった理由のひとつだね。このシリーズは経済的にも体力的にもひとつのレーベルではこなせない規模だったんだ。僕たちは普段関わりがないアーティストたちに参加してもらって、彼らをひとつのシリーズとしてまとめて紹介したかった。ミレニアムを迎える前の1年間を日記的に綴っていくというアイディアだったから、ミレニアムを締め切りに仮定した。1990年代の終わりはエレクトロニック・ミュージックの中で色々と面白い動きが起きていた。このシリーズはそういう様々なベッドルーム系の音楽をパーフェクトに捉えていると思う。

 

 

 

“レーベルやそこに関係する部分は音楽コンテンツだけに拘るべきじゃない”

Carsten Nicolai

 

 

 

CARSTEN NICOLAI

僕たちは雑誌のようにCDをリリースしていくという〈20’ To 2000〉シリーズのアイディアが気に入っていた。毎月何かしらがリリースされるっていうアイディアがね。今でもこのアイディアについてはみんなで話し合うよ。リスナーからの信頼をベースに何でもリリースできるような、サブスクリプション方式で運営するのはどうだろうとかね。特定のアーティストに焦点を当てるというよりは、自分の音楽の捉え方に焦点を当てるっていうアイディアさ。〈20’ To 2000〉シリーズは僕たちの考え方、音楽やレーベルの個性を色々な形で示すことができた。ある意味、僕たちの計画書みたいなものだ。

 

 

〈Archiv Für Ton und Nichtton〉

 

OLAF BENDER

このコンセプトを採用した当時は、新しい表現方法を模索していたんだ。スーパーミニマルでほとんど何も表記されていないような極端なデザインに少し疲れていたっていうのも理由だった。他のコミュニケーション方法を探そうとしたのさ。

 

CARSTEN NICOLAI

〈Archiv Für Ton und Nichtton〉、これはドイツ語で「サウンド&ノンサウンドのためのアーカイブ」って意味なんだけど、これは自分たちのスペースを広げるためのアイディアだった。Raster-Notonでは、いわゆる普通の音楽をやらないことだけは分かっていたしね。レーベルやそこに関係する部分は音楽コンテンツだけに拘るべきじゃない。だから、その枠を曖昧にするためというか、単純にオープンなスペースを作るために、「じゃあ “サウンド&ノンサウンド” にしよう」と決めたんだ。これならどういう方向に進んでも問題ないからね。

 

立ち上げたばかりなのに「アーカイブ」を名乗るのは少しおかしな話だけど、最初からロングスパンで展開することを考えていた。蓋を開けてみれば20年も続いているし、狙い通りになったと言えるね。アーカイブがアーカイブになったわけさ。もちろん、最初はそうじゃなかったけどね。〈Archiv Für Ton und Nichtton〉は自分たちのスペースを広げるため、そして僕たちはただのレーベルじゃないってことを伝えるために用意したサブタイトルだったんだ。後年のリリースを見れば、僕たちがリリースしてきたのは音楽だけじゃないってことが分かると思う。僕たちは数多くのポスター、雑誌、オブジェクト、イベントなどを手がけてきた。これが「ノンサウンド」なんだ。

 

FRANK BRETSCHNEIDER

僕たちはレコードレーベルをひとつの組織のようなものにしたかったんだ。だから、〈Archiv Für Ton und Nichtton〉はオープンプラットフォームやネットワークのような響きを持たせている。僕たちにとってこれは凄く重要なポイントだった。レコードレーベルにこんなに真面目で長いサブタイトルをつけるのはレコードレーベルとしてはクールじゃなかった。でも、僕たちのアイディアを明確に示しているし、ドイツ語らしいいかついイメージも出せた。

 

 

ケルンとの関係

 

OLAF BENDER

最初の頃、僕とFrankは頻繁にケルンへ通っていたんだ。1990年代のケルンにはすごく面白い音楽シーンがあった。たとえば、Senkingは正式にはそのケルンファミリーのメンバーじゃないんだけど、当時彼はケルンに住んでいた。それである日、彼と出会うとレコードをもらった。確かKandis名義の作品だったと思う。そのあとで、彼のライブを観た僕たちは「レーベルに合うかもしれない」と思ったんだ。

 

僕たちはあらゆるレーベルと仲が良い。たとえば、ケルンにはTriple RことRiley Reinholdがいた。彼は僕たちのレーベルを熱心に支持してくれていた。当時はそれがすごく有り難かった。なぜなら、僕たちはメディアやディストリビューションなどから孤立していたからね。

 

 

 

“今でも僕たちにはプロらしくない部分が沢山ある”

Olaf Bender

 

 

 

FRANK BRETSCHNEIDER

ドイツよりも日本やUSの方が注目を集めやすかった。たとえば、ハンブルクでは僕たちの作品を受け入れてもらうのが少し大変だった。当時のハンブルクは自分たちのことしか興味を持っていなかったからね。ケルンもそういう意味では似ていたけど、スペシャルな人たちが何人かいたんだ。

 

 

池田亮司との出会い

 

CARSTEN NICOLAI

最初のライブツアーは日本だった。Goethe-Instituteが企画して、ドイツ人アーティスト3組と日本人アーティスト1組という構成だった。1997年頃だったと思う。それでRyojiと一緒にツアーを回っていた僕たちは、ちゃんとサウンドチェックをしているのは彼だけだってことに気が付いた。彼はPAをチェックして、僕と同じサウンドを出そうとしていた。それで、一緒に最高のサウンドを出そうとしているうちに、仲良くなっていったんだ。もちろん、お互いの作品も知っていたから、徐々に一緒に行動するようになって、長年続く友人関係を築くことになった。

 

OLAF BENDER

僕たちはRyojiに自分たちのレーベルに参加して欲しいと思っていた。彼はいわゆる「音楽家としてのキャリア」にそこまで興味を持っていないし、その意味で、僕たちのレーベルには上手くフィットしているんだ。

 

CARSTEN NICOLAI

Ryojiとの信頼関係はCyclo.をスタートさせた頃から始まった。Cyclo.は一緒にライブをするためのプロジェクトだったけど、XYフェイズスコープでサウンドを可視化するという研究プロジェクトとしての側面もあった。このコラボレーションは1999年頃にスタートして、今も続いている。非常に科学的なアプローチを取っていて、かなり本格的な本も出版したし、インスタレーションも展開した。僕とRyojiは以前からアートの文脈の中でインスタレーションを展開したいと思っていたからね。

 

 

東京での初ライブ時にゲストが来ていたんだ。Ryojiから「紹介したい友人がいる」と言われて、彼の友人を紹介された。その中には批評家の浅田彰や坂本龍一もいた。坂本龍一はあらゆる新しいサウンドやムーブメント、アーティストに興味を持っていた。それで、彼の楽曲のリミックスをやらないかと誘われたんだ。それ以来、彼は定期的に音源を送ってくるようになって、それが僕たちのコラボレーションアルバム『Insen』に繋がっていった。ファーストアルバムが『Vrioon』、セカンドアルバムが『Insen』で、それからEPの「Revep」を挟んで、2枚のアルバム『utp_』と『Summvs』をリリースした。

 

僕たちはかなり積極的にツアーを回ったし、昨年は映画『The Revenant』のサウンドトラックも手がけた。僕はこのコラボレーションはもちろん、僕たちの友情がここまで長く続くとは思っていなかった。日本は僕たちに非常に大きな影響を与えてきた国だ。様々なパフォーマンスを披露できたし、Raster-Notonのツアーも毎年開催できた。日本に行くのはいつも楽しみだったし、色々な刺激を受けてきた。他のアーティストたちとの友情を育むこともできた。今もKyoka、AOKI takamasa、Ueno Masaakiとの関係が続いている。僕たちのレーベルに関わっている日本人アーティストの数は、他の国のアーティストよりも多いと思う。日本はいつだって僕たちのようなエクスペリメンタル・ミュージックを温かく迎え入れてくれていた。

 

 

偶然の20年

 

OLAF BENDER

3人で一緒に活動をするようになってから、レコードレーベルのアイディアについてはいつも話し合っていたんだ。大まじめに話していたわけじゃなかったけど、たまにみんなで集まっては考えを巡らせていた。自分たちのレコードレーベルを作るべきだってね。僕たちに非常に大きな影響を与えていた存在はCanだった。でも、彼らはキャリア重視のバンドではなかったし、スーパースターでもなかった。そして、彼らはどのジャンルの枠にもはまっていなかった。Kraftwerkには "マスタープラン" が用意されていたけど、Canにはなかった。レーベルを始めた僕たちは、実は自分たちはKraftwerkよりもCanのようなスタイルの方が合っているのかも知れないと思ってゾッとしたんだ。

 

でも、それはただそう感じただけのことだったし、Raster-Notonも "マスタープラン" はなかったにせよ、長期的なプロジェクトとして計画されたものだった。とはいえ、今でも僕たちにはプロらしくない部分が沢山ある。たとえば、僕たちの作品は他の普通のレコードに比べたら見つけにくい。プレスリリースを大量に送るとか、そういう一般的な音楽ビジネスもしていない。でも、僕はこのスタイルでも生き残れてきたという事実を誇りに思っている。

 

このスタイルの最大のメリットは自由度が高いことだ。ヒットさせたいとか、最高にアヴァンギャルドな存在になりたいとか、そういうことを意識しないで沢山のレコードをリリースすることができた。

 

今でも僕の中では友人にレコードを売っている感覚に近い。また、ライブの時も観客と一緒に楽しめる感覚がある。観客は自分たちとそこまで変わらないと思っているんだ。立派なキャリアを築き上げたアーティストのライブで、観客との繋がりが感じられないものは沢山ある。彼らはみんなと一緒の時間を過ごしたいと思っていないんだ。でも僕たちはそれができる。そういう自由な感じが気に入っているんだ。