十月 06

Public Enemy At Rikers

1988年、Public Enemyは刑務所でコンサートを開催した初のヒップホップアーティストとなった。関係者たちの証言と共にその歴史的イベントを振り返る

By Amy Linden

 

セックス・アンド・ザ・シティ』、高級コンドミニアム、嫌がらずにブルックリンへ向かってくれるタクシーに囲まれて育った世代が1980年代のニューヨークを理解するのは難しい。「ジャングルのような街」と表現された当時のニューヨークは、火事で燃えたビルや廃墟のような建物が延々と建ち並んでいたが、物価が安かったため、やがてメインストリームへと発展するアンダーグラウンドなアートや音楽などが活発に展開され、クリエイティビティの中心地としても機能していた。そして、そこから生まれたヒップホップカルチャーにより、クラックコカインの流行と街全体の荒廃に酷い生活を送っていた人たちは、やがて世界を変えることになる表現方法を手に入れた。

 

ラッパーたちが飲料水メーカー、バスケットボールチーム、化粧品へ出資したり、大統領夫妻と募金活動を行ったりするのが普通になった今、1980年代のヒップホップが享楽であったと同時に、社会運動の伝達手段だったことにもう一度触れておくのは価値がある。文化評論家兼ラジオDJのJay Smoothは当時のラッパーについて「当時のラッパーは反抗的になるしかなかった。まともな人間になることを世間が許さなかったからだ。公正を目指して戦う、これがクールとされていた」と説明している。

 

公正を目指して戦う姿勢がクールさを計る判断基準だったのであれば、当時の社会の敵(Public Enemy)はラスベガスで安穏と暮らしていたFrank SinatraとSammy Davis Jr.であり、ニューヨーク州ロングアイランドで1982年に結成された方のPublic Enemy(Chuck D、Flavor Flav、Professor Griff、DJ Terminator X)ではなかった。彼らは刺激的でアジトプロップなヒップホップで戦いながら、商業的な成功も収めていた。しかし、商業的な成功はサプライズだった。なぜなら、Public Enemyは様々な議論を巻き起こしていたNation of Islamのリーダー、Luis Farrakhanの支持者であることを名言していたからだ。

 

Public Enemyのサウンドは挑戦的だった。『Yo! Bum Rush the Show』、『It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back』、『Fear of a Black Planet』などのクラシックアルバム群を通じて、Public Enemyの専属プロデューサーThe Bomb Squadは、ファンク、ソウル、ロックのダイナミクスを、今も強い影響力を保っている攻撃的かつ衝撃的なサウンドへと仕立て上げており、その結果、Public Enemyは2013年にロックの殿堂入りを果たした4組目のヒップホップアーティストとなった。しかし、それから25年前のPublie Enemyにとって、音楽業界からの評価は多忙な彼らの予定の中で最も優先順位が低いものだったはずだ。

 

 

 

“あるジャーナリストが「所内の暴動を支持するバンドが来るんですよ?」ってライカーズ側に教えたのよ。ライカーズは怖がったわ”

Leyla Turkkan

 

 

 

1988年8月12日、Public Enemyはライカーズ島でパフォーマンスを披露した初のラップグループとなった。クイーンズとブロンクスの間を流れるイースト川の中州に位置するこの島にはニューヨーク最大の刑務所があることで知られている。ライカーズ島にはこれまでSlick Rick、Lil Wayne、Ol’ Dirty Bastardなどを収容しており、ヒップホップとの関係は深いが、Publie Enemyの場合は、自分たちの意志でこの施設を訪問し、自分たちの意志でこの施設を出た。

 

この訪問は、Lindsey Williamsのアイディアだった。22歳でDef Jamの役員を務めていた彼は、Public Enemyのセカンドアルバム『It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back』のマーケティングプランを思案していた。Run-DMCの『Tougher Than Leather』のツアーでサポートアクトを務めていたPublic Enemyと共に全米を回っていたWilliamsは、そのツアーを利用して、特定の都市の刑務所を訪問するアイディアをPublic Enemyに持ちかけた。

 

Lindsey Williams

Chuck Dには収容されていた若い受刑者たちに伝えたいメッセージが沢山あった。だから、受刑者たちを鼓舞しつつ、Pulic Enemyの話題作りができればと思ったのさ。

 

Bill Stephney(Def Jam / Publie Enemy プロデューサー)

最初は、Chuck D、Flavor Flav、Professor Grillを全米中の刑務所へ送り込んで、「みんなひとつに」的なメッセージを通じて、政治や社会正義を通じて世直しはできるんだということを伝えようというアイディアだった。Public Enemyが政治と社会における存在感を増していたので、アイディアはごく自然に形になっていった。

 

Chuck D

刑務所を訪問してJohnyy Cashがフォルサムでやったようなコンサートをやれたらと思っていた。ただし、俺たちの場合は動機が違った。俺たちは受刑者の人たちとコミュニケーションを取りたいと思っていたんだ。それが『It Takes a Nation of Millions』のテーマだったしな。1988年、黒人受刑者の多くは、当時増加傾向にあった銃やドラッグ絡みで収容されていた。俺たちはその流れを正したかったのさ。

 

Lindsey Williams

俺たちは黒人たちを励ますことを考えていた。刑期が10年から20年の受刑者や、ちょっと道をそれてしまった受刑者がいる刑務所へ行き、彼らに自分たちのメッセージを伝えようとしていたんだ。「俺たちが助けてやる。俺たちの音楽を支えにしろ。俺たちを信じろ」ってね。

 

Bill Stephney

ニューヨーク市長がEd Kochだったということも当時をよく表していると思うね(※1)。Public Enemyは時代のサウンドトラックになったのさ。

 

※1:1988年、Ed Kochは民主党の大統領候補に挙がっていたJesse Jacksonを批判したことで黒人層の怒りを買っていた。これが原因となり4期目を目指していた翌年の市長選で敗退。

 

Jay Smooth

当時の世間はかなりピリピリしていた。ストレスや怒りを解放したいと考えている人が多かった。

 

 

— Public EnemyがOKすると、Williamsは広報のLayla Turkkanに連絡を取り、Publie Enemyのツアー日程と上手く組み合う刑務所を探すことと、メディアのコーディネートを頼んだ。しかし、彼らはPublic Enemyを無理矢理売りだそうとしていたわけではなかった。すでにPublie Enemyはストリートとメディアの両方から評価されており、『It Takes a Nation of Millons to Hold Us Back』は100万枚近くを売り上げていた。

 

 

Leyla Turkkan

メディアは飛びついたわ。彼らはこういう話には目がなかったから。あの時に現場にいた人たちはそれまで誰もやらなかったことを目撃することになったわ。

 

David Hinckley(『New York Daily News』紙・ポップミュージック評論家)

エディターの連中は変わった企画だと思っていた。その目新しさに興味を引かれていたのさ。

 

 

— コンサートのプランはわずか1週間強で整えられた。書類の用意はPublic Enemy側とライカーズ側の間で迅速に進められ、Turkkanはメディア150人を乗せるために、マンハッタンからライカーズ島へ向かうバスを2台用意した。しかし、誰も気付かないうちに、コンサートの開催は危機に瀕していた。Turkkanは、ライカーズの刑務所長とプログラム担当に連絡を入れ、許可を出した理由について訊ねたジャーナリストがいたと振り返る。

 

 

Leyla Turkkan

そのジャーナリストは、Public Enemyが「Black Steel in the Hour of Chaos」をリリースしていることをライカーズ側が知っているのかどうかを訊ねたの。それで刑務所側が「君が何を言っているのかさえ分からない。こちらが把握しているのは、Public Enemyという名前のバンドが来ることと、受刑者たちがそれを喜んでいるとうことだけだ」と回答すると、そのジャーナリストは「Black Steel in the Hour of Chaos」が刑務所の暴動についての曲だということを教えて、「刑務所内の暴動を支持するバンドが来るんですよ?」と続けたのよ。それで刑務所側は怖がって、私たちに「コンサートはキャンセルだ。君たちは正気か? 刑務所内の暴動について歌うバンドを受け入れるわけがないだろう!」と言ってきたのよ。だから急いで「Black Steel in the Hour of Chaos」は演奏しないことを約束したわ。もちろん、ChuckとGriffはその話を聞いて面白がっていたわ。「あの曲をやって欲しくないのか。あえてライカーズであの曲をやるのが面白いのに」ってね。でも、わたしはライカーズ側にやらないことを誓った。ライカーズ側には「それなら良いだろう。だが、ラディカルな楽曲は許可できない」と言われたわ。

 

Lindsey Williams

心配したライカーズ側は、Publie Enemyが刑務所長についてノーコメントを貫くように言ってきた。

 

Chuck D

「Black Steel in the Hour of Chaos」はリクエストが多い曲のひとつだったしな。ライカーズ側から禁止事項のリストを受け取ったのを憶えてるぜ。そこに何が書かれていたのかは言えないけどな。

 

David Hinckley

ライカーズ側は、ヒップホップシーンをThe Fat Boysのようなアーティストの集まりとして捉えているようだった。Public Enemyのメッセージが持つ社会性については知らなかったんだろう。

 

 

— 開催の危機が回避されると、メディア陣は昼前にライカーズ島へ到着した。彼らはボディチェックを受けたあと施設内を簡単に案内され、小さな部屋へ通された。施設内の警備は最低限で、受刑者に収容されている理由を訊ねることだけが、唯一の禁止事項として通達された。

 

 

David Hinckley

刑務所長代理のJoseph Colonがコンサートの前にメディアを集めて、ライカーズでは月に2、3回コンサートの開催を計画していること、ライカーズの受刑者たちの懲役期間は短いので、全員が良い素行を心掛けていることを話した。

 

Herman Simpson(元ライカーズ刑務官)

当時のライカーズの監房は罪の重さや素行による分類がなかった。分類されていたら間違いなく下のランクの受刑者たちはコンサートを楽しめていなかっただろう。

 

Lindsay Williams

実は、当時のライカーズにはハーレム周辺出身の知人が数人入っていたんだ。

 

Herman Simpson

刑務官たちはかなり驚いたね。当時はかなりピリピリしていたからだ。Publie Enemyについては社会性のあるメッセージを伝えるラップグループだということ以外、何も知らなかった。ライカーズ側は最初「クラックコカインの問題に直面しているのだから、何かポジティブなものがあるのであれば、若者たちに見せてあげよう」と考えていた。

 

Chuck D

ライカーズ側はカクテル療法をやっていたんだが、俺は奴らがPublic Enemyがアーティストであると同時にラディカルな存在でもあることを知っていたと思うね。俺たちは現実を理解していたし、受刑者たちも現実を知っていた。


 

 

— 大半が黒人とラテン系で占められた250人の受刑者たちが必要最低限の設備だけのホールに通された。8月のニューヨークの平均から考えても、その日は異常に暑く、受刑者たちが着ていたつなぎは汗でぐっしょりと濡れていた。所内の規定に沿って、ひとりの受刑者に対し2人の刑務官が付き、ホールの外にも25人から30人の刑務官が配置され、緊急事態に備えて他の建物からの刑務官も追加された。メディアはプラスティック製の椅子に座った受刑者たちから1メートルほどの距離に作られたバリケードの外側を馬の蹄鉄状に取り囲んだ。

 

 

 

“ライカーズ側から禁止事項のリストを受け取ったのを憶えてるぜ。そこに何が書かれていたのかは言えないけどな”

Chuck D

 

 

 

— コンサートは、地元のラジオDJによるWolfman Jack、Sugar Ray Leonard、Howard Cosellを思わせるような10分間の笑い話の前説で幕を開けたが、受刑者たちはさして興味を示さず、むしろ仲間同士の会話に花を咲かせていた。その前説が終わり、10分ほど経過すると、今度はGriffとS1Wがお馴染みの軍服を着て(プラスティック製のウージーは持たずに)ステージに登場したが、おざなりに歓迎されただけだった。Public Enemyの「情報大臣(Minister of Information)」という肩書き通り、Griffはステージ上で「自分に誇りを持て」というLuis Farrakhanのメッセージ、ブラック・ナショナリズム、そして「Fuck The Man」をぶち上げた。

 

 

David Hinckley

Griffは「俺たち全員が受刑者なんだ。なぜなら俺たちは米国に住む黒人だからだ。お前たちはたまたま刑務所に入っているだけだ。俺たち全員がこの国の奴隷なんだ。この国は2億5000万人の黒人を殺した罪で世界から裁かれるべきなんだ」と繰り返していた。

 

 

— そのGriffの10分間のスピーチが終わると、Chuck D、Flavor Flav(British Knightsの赤いトラックスーツ姿)、そしてDJ Terminator Xがステージ上に姿を現し、「Terminator X to the Edge of Panic」をプレイしたが、最初の受刑者たちの反応は静かだった。ラップよりもスピーチが長い彼らのセットはムードを変える助けにはならなかった。

 

 

David Hinckley

「Don’t Believe the Hype」がプレイされて、ようやく受刑者たちは拳を突き出すようになったが、それまではただおとなしく聴いている感じだった。

 

Lindsey Williams

Flavが「ライカーズは誰も笑わないんだよな」と呼びかけていたのを憶えているよ。受刑者たちは笑っていたが、本人は本気でそう言っていたんだ。

 

 

— ホール内の熱気が高まっていくにつれ、刑務官たちも気を引き締めるようになっていった。彼らがその興奮をただ放っておくことはなかった。

 

 

Leyla Turkkan

ホール内の刑務官たちが増えてきて、まるでトラブルが起きているかのような対応をするようになったの。それで「Black Steel in the Hour of Chaos」がプレイされると、電源が落とされたのよ。

  

David Hinckley

そんなドラマティックな展開だったかどうかは憶えていないな。彼女の発言がウソだって意味じゃない。Publie Enemyが「Bring the Noise」、「Fight the Power」、「Don’t Believe the Hype」をプレイしたのは憶えているが、「Black Steel in the Hour of Chaos」をプレイしたかどうかは憶えていない。それだけだ。Chuckはその件について「俺たちは『Black Steel in the Hour of Chaos』をプレイしなかった。時と場所ってもんがあるからな。出所したあとに俺たちのレコードを買えば、俺たちが何を伝えようとしているのかを理解するはずさ」と後日発言していた。

 

 

“ライカーズの1日についてはあまり話さないようにしているんだ。何かが始まるきっかけになるはずだったのにそうならなかったからさ”

Chuck D

 

 

 

Chuck D

刑務所に行くってのに、そこのルールを守らないのはマヌケのやることさ。俺たちがそんなことするわけないだろ? 俺はルールに従うぜ。あそこへ位って、受刑者たちのためにコンサートを開催して、暗闇に光を与え、こんな場所にいちゃダメだって教える — これが俺たちの目的だった。「やった、Public Enemyが来たぞ。『Black Steel in the Hour of Chaos』をプレイするべきだ」っていうアイディアは確かに面白いかも知れないが、部外者のアイディアさ。外野はリスクがないからな。俺たちは状況を十分に理解していた。自分たちが放り込まれたくない場所に行くってことをな。

 

 

— 1時間でコンサートは終わり、メディアは受刑者数人と自由に会話をすることが許された。

 

 

David Hinckley

その受刑者たちはFive Percenters(※2)のような考えを持った、シリアスな連中だった。踊って楽しむって雰囲気じゃなかった。自らの意志でその道に進んでいるような感じだったね。

 

※2:Five Percenters(ファイブ・パーセンタズ)とはNation of Islamの分派。

 

Chuck D

ステージの上から受刑者たちと色々と話をしたよ。沢山の1対1の会話をした。その内容は所内の規定に定食するようなものだったが、ライカーズ側はクールだと思ってくれた。俺たちが観客席に入り込むことは望まれていなかったから、ルールに従わなければならなかった。

 

Leyla Turkkan

コンサートのあと、フォトグラファーたちがフォトセッションをしたいと言ってきたの。わたしもPublic Enemyもどうしようかと悩んだわ。フォトグラファーたちはChuck、Flavor、Griff、S1Wたちを監房に入れて撮影しようとしていたから。可哀想な受刑者たちの姿を見たあとだったから、気が乗らなかった。そんなの失礼だと思ったのよ。Publiec Enemyも嫌がっていた。早く出たがっていたわ。だから素早く終わらせたの。結局、午後4時過ぎにすべてが終わった。長く暑い1日で全員が疲れていたわ。Public Enemyはその日の夜にNassau Coliseumのライブがあったし、特に可哀想だった。

 

Lindsey Williams

このコンサートのあと、大手メディアはヒップホップシーンを違う目で見るようになったと思う。その頃すでにヒップホップはシリアスな存在として捉えられていたけど、あのコンサートのあと、ヒップホップが社会に向けて何か重要なメッセージを伝えようとしているってことを改めて理解したのさ。

 

Chuck D

ライカーズの1日についてはあまり話さないようにしているんだ。何かが始まるきっかけになるはずだったのにそうならなかったからさ。だから、俺はあのあとも刑務所で講演を重ねてきたが、結局、Public Enemyのコンサートは一度もやっていない。俺たちはコンサートを続けて、もっと大きなスケールでよりよい活動をしていきたかった。だが、この国の刑務所と政府が許さなかった。あの日はちょっと楽観しすぎていたのさ。