六月 09

Prison Music

音楽は刑務所内の重要な更正手段のひとつとして考えられてきた。Johnny Cash、The Clash、Duke Ellingtonなど錚々たるミュージシャンたちが関わってきたその歴史を振り返っていく。

By Amanda Petrusich

 

1972年12月、フード付きパーカを痩せた体にまとい、昔からのニックネーム “Brucie” にまだ反応してしまうほど若かった、Columbia Recordsと契約したばかりの新人アーティストBruce Springsteenが、マンハッタンからハドソン川を50kmほど北へ上ったオシニングに位置する最高警備レベルのシンシン刑務所内の教会に置かれている古いサウンドシステムにギターのプラグを差し込んだ。その教会の中には、『Crawdaddy!』誌のライター兼エディターとして働いていたGreg Mitchellが陣取っていた。Mitchellは当時のSpringsteenのマネージャーMike Appelに頼み込んでその教会の中に潜り込むと、翌1973年に発行される『Crawdaddy!』誌で初めてSpringsteenを大きく取り上げることになる記事のためにせっせとメモを取っていた。

 

SpringsteenはフォークシンガーとしてColumbia Recordsと契約していた(「次のディラン」としては初めての契約だった)が、E-Street Bandと共にシンシン刑務所に到着した彼は、受刑者たちは陽気に楽しみたいのではないかと考え、Buddy Milesの「Them Changes」の20分バージョンを演奏した。Mitchellはそのライブの雰囲気についてルーズで予想不可能なものだったと記していたが、今読み返すと、その記事の中にはにわかには信じられないようなことも書かれている。「SpringsteenがR&Bを歌っていると、背が低い筋肉質な坊主の黒人がまるでまだ警察に追われているかのような勢いで通路をステージ側に走っていき、警備を押しのけてステージに上ると、自分のシャツの中に手を入れた。アルトサックスを取り出したのだ!」

 

受刑者たちの更正に効果があると考えられている刑務所でのコンサートは、アーティスト側にはある種の「不良」的ステータスを与える。そのステータスが初めて形になったのは、Johnny Cashが1968年にリリースした『At Folsom Prison』(フォルサム刑務所でのライブレコーディングアルバム)だった。このアルバムは彼のキャリアを意外な形で再発展させ、「ファックオフ」的な反抗心のイメージを彼に付け加えた。これまでもメジャーなジャンルの多くはある種のカウンターカルチャー的反抗心をパフォーマンスや作品を売るためのツールとして使ってきたため、刑務所でのコンサートはその反抗心を表現するショートカットとして業界内で急速に重宝されるようになっていった。

 

『At Folsom Prison』の成功を受けて、Sex Pistols、Big Mama Thornton、Cramps、John Lee Hookerがそれぞれ刑務所でレコーディングされたライブアルバムをリリースし、このアルバムの前から他の刑務所でも何回かコンサートを行っていたCashも、1969年に2枚目のライブアルバム『At San Quentin』をリリース。尚、このアルバムはこれまでに300万枚以上を売り上げ、トリプルプラチナムに輝いている。よって、デビュー当時から社会に異議を唱えていたSpringsteenにとって、反逆のイメージが埋め込まれていた刑務所でコンサートをするというのは当然の流れだった。

 

 

1826年に設立されたシンシン刑務所は、ソ連側のスパイだったRosenberg夫妻、イタリア人アナーキストのNicola SaccoとBartolomeo Vanzettiなど、社会的に大きな話題となった受刑者を含む計614人の死刑を執行した刑務所として知られている。ニューヨーク州は1965年に死刑を廃止しているが、シンシン刑務所には今も約2000人の受刑者が収監されており、その大半は暴力事件で有罪判決を受けている。また、2009年の報告には、シンシン刑務所の受刑者の58%が懲役10年以上の刑を受けていると記されている。

 

米国の刑務所の多くは虐待や不正の温床であり、ここであえて「悪い」と記す必要はないように思えるが、シンシン刑務所は長年に渡り「特に悪い」刑務所として認識されている。2000年に刊行されたイマージョン・ジャーナリズム(潜入取材のひとつ)の名著として知られる『Newjack』の中で、この刑務所に1年間看守として潜入取材をした著者のTed Conoverは、その日々について「いつ暴動が起きてもおかしくない、悪い雰囲気が常にあった」と振り返っている。この刑務所から北へすぐのところにあるクロトン=オン=ハドソン付近で幼少期を過ごした筆者も、当時この刑務所に対して異常なほど恐ろしい最悪・最低の存在という幼いイメージを持っていたのを憶えている。当時の私たちにとっては、映画『エルム街の悪夢』とシンシン刑務所が「恐怖」の試金石だった。

 

しかし、この刑務所には娯楽、報奨として音楽が長きに渡り存在し続けている。1898年に創刊された演劇・音楽・芸術を扱う週刊紙『Musical America』の1915年の記事の中で、記者Arthur Farwellはハドソン川の東岸に面したポーチに座っている時に、どこからともなく歌声が聞こえてきたと記している。彼はその歌声にしばらく耳を傾けていたが、それがどこから届いているのかは分からなかった。そして、この体験について「やがて興奮を憶えるようになっていった」と記しているFarwellは、歌声がどこから来ているのかを調べて欲しいとその家の家主に頼み込み、それがシンシン刑務所の所長室から届いていることを突き止めた。約100人の受刑者で構成される教会のコーラス部がリハーサルをしていたのだ。

 

Farwellはそのリハーサルの歌声が非常に力強く、聴いている側に力を与えるものだと称賛し、「それでも、多くの人たちが『受刑者の集団に自由を与えることが安定を生み出す手段になるという考えは奇妙で不可能だ』という古来の概念に囚われるだろう」と続けている。尚、それから5年後の1920年に同紙はシンシン刑務所の教会の音楽について再び記事を掲載しており、その記事には次のように記されている。「感動的な声量と驚くほど上質な即興のコーラス… 心に深く染みこむ素晴らしいクオリティだ」

 

 

その後もシンシン刑務所は複数のプロミュージシャンを招聘している。その中には、ラテンピアニスト兼バンドリーダーで社会活動家としても知られるEddie Palmieriも含まれており、彼は1972年に2枚組のライブアルバム『Live at Sing Sing』をリリースしている。また、それから数年前の1969年の感謝祭にはB.B. KingとJoan Baez(妹のMimi Farinaも同行)が共演し、その模様は映像に収められて翌年にテレビで放映された。その映像の中でKingは「君たちの中には、ブルースについて何も知らない人が何人かいると。私はそう伝えられていた」とMCで話し、優しい顔で次のように続けている。「だが、君たちの多くが既にブルースを理解しているようだ」

 

刑務所への収監が懲罰と更正の有効な手段として考えられるようになった頃から、刑務所発の音楽も存在してきた。奪われた人生の孤独と苦しみについて表現する手段としての音楽が、荒地や農地での刑務作業を通じて生み出されていた。1930年代から1940年代にかけて、民俗学者のJohn LomaxとAlan Lomaxの兄弟は、ミシシッピーのパーチマン・ファームや、ルイジアナのアンゴラ州立刑務所などを含む、刑務所というよりは奴隷制プランテーションに近い南部の刑務所群を訪れ、無数の労働歌、ブルース、叫び、黒人霊歌をレコーディングした。そのレコーディングの多くは、前述した商業作品よりも複雑で胸が締め付けられるような内容で、20世紀前半の米国南部の全体像を把握するためには不可欠な記録となっている。

 

しかし、これらの楽曲のスピリチュアルな響きと作り手側が犯した許されざる罪を相殺させるのは難しい。これは芸術の世界では頻繁に、そして真剣に問われる疑問だ。「優れた芸術作品であるならば、その作り手の悪行は切り離されて考えられるべきなのだろうか?」 − そして、作り手が有罪判決を受けた殺人犯である場合、この疑問は更に重く不明瞭になる。

 

 

1965年と1966年にテキサス州ロシャロンのラムジー州立刑務所で民俗学者Bruce JacksonがレコーディングしたJ.B. Smithの歌は、後悔、悔悟、収監生活への失望が純粋かつ力強く歌われている。彼のパフォーマンスは非常に素晴らしく、苦しみとまでは言わずとも、ある種の共感をリスナー側に呼び起こす。しかし、だからこそ、Smithは突発的なジェラシーで妻を殺害したことでラムジー州立刑務所に収監されていたという事実を繰り返し思い起こす必要性(非直感的で複雑な倫理的重要性)があるように思える。また、Smithは妻を取り戻したいとはひと言も歌っていない。

 

それから半世紀が経った今、刑務所発の音楽は減っている。民俗学者たちがレコーディングを行っていないというのがその理由のひとつだ。Jacksonは2014年にリリースされたアルバム『Parchman Farm: Photographs and Field Recordings, 1947-1959』への寄稿の中で、「当時のような仕事は私もAlan(Lomax)も行うことができない。当時の刑務所は酷いものだったが、私たちを中へ入れてくれた。しかし、最近の刑務所は更に酷くなっており、私たちはもう中へ入れない」と記している。

 

 

1977年秋、The Clashはシングル「Clash City Rockers」のB面用として鋭く勢いのある楽曲「Jail Guitar Doors」をレコーディングしたが、この曲はMC5のWayne Kramerへのオマージュも兼ねていた。この数年前にKramerは潜入捜査員にコカインを売ったことで逮捕されていたのだ。Joe Strummerはこの曲の中で「Wayneと奴のコカイン事件について言わせてもらうぜ。奴はバンドが上向きになるまで仲間のために頑張ってきたのに、DEA(編注:米国麻薬取締局)が奴をブタ箱に押し込んじまったのさ」と叫んでいる。

 

Kramerはレキシントン連邦医療センターに26ヶ月収監された。ここはケンタッキー州レキシントンの馬牧場とウィスキー工場の奥に置かれている刑務所兼麻薬リハビリセンターで、通称「Narco」(麻薬の略称)として知られている。1935年に設立されて以来、Narcoはミュージシャンたちを受け容れており、1950年代中頃になると、この刑務所は若手のジャズミュージシャンを育て、プロミュージシャンが腕を磨く場所として知られるようになっていた。Chet Baker、Ray Charles、Tadd Dameron、Dexter Gordon、Elvis Jones、Stan Levey、Jackie McLean、Anita O’Day、Red Rodneyなど数多くのジャズミュージシャンがここに収監されていたと言われている。

 

Miles Davisの伝記本『So What: The Life of Miles Davis』の中で、著者のJohn Szwedは1951年のDavisのNarcoとのニアミスについて触れている。「Milesと彼の父親、そして父親の再婚相手Josephineの3人が車でレキシントンへ向かい、Narcoに到着すると、そのニュースが一気に広まった。Charlie Parkerと仕事をしてきたトランペッターのRed Rodneyが彼の元へ駆け寄ろうとしたが、その頃にはMilesは気変わりをしてその場を去っていた」

 

 

 

“Narcoのミュージシャンたちに寄る作品群はトルーマン元大統領のサーベルコレクションや映画『偉大なるアンバーソン家の人々』の後半3分の1などと同じく、失われた米国芸術作品のひとつとなっている”

 

 

 

Narcoの牧師だったRabbi Joseph Rosenbloomは、Narco内のバンドについて「バンドにはストリートのバンドとは比較にならないほどの素晴らしさがあった。何も妥協する必要がなかったからだ」と振り返っている。Narcoのミュージシャンたちは定期的な楽器演奏や練習室への入室を許されており、更に施設内には1300席の劇場もあったため、収監されていたミュージシャンたちが中心となったジャズコンボが満席のその劇場で定期的にコンサートを開催していた(残念ながらこれらのコンサートは一度もレコーディングされていない)。また、素晴らしいことに、1964年にはNarcoのミュージシャンたちだけで編成されたバンドが『The Tonight Show with Johnny Carson』(編注:人気テレビ番組)に出演した。しかし、このパフォーマンスを収めたマスターテープも現存していないため、Narcoのミュージシャンたちによる作品群は、トルーマン元大統領のサーベルコレクションや映画『偉大なるアンバーソン家の人々』の後半3分の1などと同じく、失われた米国芸術作品のひとつとなっている。

 

1970年代から1980年代にかけてNarcoでは音楽が常に演奏されており、Kramerも収監されている間に定期的にバンドで演奏していた。本人は「毎週ホールで演奏していたのさ。ファンクやビバップ、それに沢山のブルースを演奏したよ。デトロイト出身のEric Lowっていう素晴らしいドラマーがいた。バックヴォーカルを手伝ったり色々やったよ。あとは受刑者じゃなかったが、黒人のサックスプレイヤーがいて、奴が仲間を連れてくると一緒に演奏することもあった。奴は近所の郵便局に勤めてたんだが、マジで上手かったね」と当時を振り返っている。

 

のちに、Kramerは人間として、ミュージシャンとして進化を遂げられたのはNarcoのお陰だったと発言している。「当時は更正の一部としてちゃんと扱われていて予算もつぎ込まれていたし、社会に貢献する一員として役立つ新しいスキルや態度を身に着けることが再犯を防ぐ唯一の方法だということを経験から知っているスタッフもいた。そんな時代に収監されていたのはラッキーだったね。俺はひとりの人間として、そしてミュージシャンとして成長できたばかりか、音楽によって収監されていた仲間たちの助けになることもできた。俺たちのバンドは施設内のイベントで定期的に演奏していたし、刑務所の外で開催されるコミュニティのイベントでも演奏できた。俺たちみんなが恩恵を受けたよ」

 

出所後のKramerは、刑務所内の音楽プログラムを積極的に支持している。2007年にBilly BraggがJoe StrummerへのオマージュとしてThe Clashの楽曲から名前を拝借したプログラム「Jail Guitar Doors」を発足させ、更正方法としての効果を認められている楽器群を英国内の刑務所にいる受刑者たちに提供し始めると、Kramerは2009年にBraggと共同でこのプログラムを米国内に持ち込んだ。2人は基本方針の中で「音楽は複雑でディープな感情を新しい平和的な方法で表現できるということを、我々は経験から知っています」とその理由について説明している。

 

 

 

“禁制品がほとんど手に入らない状況において、音楽は長期・短期に関わらず収監されている受刑者たちの痛みを和らげる最も効果的な麻酔だ”

Erwin James

 

 

 

懲罰的なアプローチよりも有効な手段として音楽を治療や活性化の手段として活用している団体は他にも存在し(アートセラピーに参加した受刑者たちは規則違反が減り、再犯率も下がるという研究結果が繰り返し報告されている)、研究者たちは、音楽が感情的・心理的に効果があるセラピーであるということを裏付ける経験的証拠を大量に揃えている。また、古代ギリシャの哲学者プラトンでさえも、紀元前380年にその効果を『国家』の中で次のように記している。「音楽・文芸による教育は、決定的に重要だ。なぜならば、リズムと調べというものは、何にもまして魂の内奥へと深くしみこんで行き、何にもまして力づよく魂をつかむものなのであって、人が正しく育てられる場合には、気品ある優美さをもたらしてその人を気品ある人間に形づくり、そうでない場合は反対の人間にするのだから」(編注:藤沢令夫訳『国家』401D 『プラトン全集11』より転載)

 

2015年には、カーネギーホールのプログラム「Musical Connections」の支援により、シンシン刑務所の受刑者たちがDuke Ellingtonの音楽を披露するコンサートを4公演行い、その中の1公演が刑務所内のテレビチャンネルから施設内に放映された。また、1996年にシンシン刑務所で立ち上げられたプログラム「Rehabilitation Through the Arts(芸術を通じた更正)」も近年はニューヨーク州の5つの刑務所で展開されており、演劇、ダンス、運動、ヴィジュアルアート、声楽、音楽、執筆などのワークショップが実施されている。このようなコミュニティをベースにした将来性のある奉仕活動は、まだ変則的な存在ではあるが、再出発は不可能と考えられることが多い社会システムの中では特筆すべきものだろう。

 

『Esquire』誌の2005年の記事「The Sing Sing Follies」の中で、著者のJohn Richardsonは「Rehabilitation Through the Arts」の一環としてシンシン刑務所で行われた創作活動を追ったあとで、「芸術は本当に人を更正するのだろうか? 歌やダンスは本当に人を癒すのだろうか?」と疑問を感じているが、彼の疑問は理解できる。彼の疑問は古来からの考え、つまり、音楽や芸術は道徳教育において不可欠なもので、それら以外からは学びにくいことを教えてくれる存在として見なされるべきだという考え、音楽は人を根底から変えられる、少なくとも音楽を通じなければ触れるのが難しい感情を緩和・昇華させることができるという考えに繋がっている。

 

また、音楽は特定の懲罰を和らげる手段でもある。ジャーナリストのErwin James(1982年に2人の男性を殺害し、英国・ウェストヨークシャー州のウェイクフィールド刑務所に20年収監された)は、2008年に『The Guardian』紙へ寄稿した記事の中で「禁制品がほとんど手に入らない状況において、音楽は長期・短期に関わらず収監されている受刑者たちの痛みを和らげる最も効果的な麻酔だ」と記している。外部の人間によるものであろうと、内部の人間によるものであろうと、刑務所内に存在するあらゆる音楽は、突き詰めれば個人の変化を促す重要な媒介であり、深く心地よい安らぎを与える源なのだ。音楽は他の方法ではゆがめられたり、効果が軽減される可能性がある純粋な救済を可能にする存在として期待されている。

 

トップ画像:1976年にシンシン刑務所で演奏を行う直前のDizzy Gillespieとバンドメンバー © Leonard M. DeLessio/Corbis : Getty Images