三月 10

福島後のプロテストソング

東日本大震災から5年が経過した。その5年間で反核・反原発を歌う音楽はどう変わったのか − 在日米国人ジャーナリストPatrick St. Michelが追った。

By Patrick St. Michel

 

日本に住んでいるほとんどすべての人たちと同じで、ムトウモモカも2011年3月11日午後2時46分に自分がどこにいたのかを憶えている。「わたしと祖父母は福島市で車に乗っていたんです。すると、すごい揺れが始まりました。水道管が破裂するのが見え、お店やレストランにいた人たちが外に飛び出してきました。みんなパニック状態でした」それまでのムトウモモカは高校に進学したばかりで、移動を他人の運転に頼る普通の女子高生ライフを送っていた。また、ハードコアに興味を持っていた彼女は、地元福島の小さなライブハウスに出入りしながら、The FRIDAYというバンドを友人たちと結成していた。東日本大震災とその後の福島第一原子力発電所の爆発事故がそのすべてを一瞬で変えた。

 

ムトウモモカは言う。「(福島第一の爆発の)映像を見た時、すべてが終わったと思いました。テレビとラジオはシーベルト値について話し始めましたが、わたしたちはそれが危険なのかどうか分かっていませんでした」仙台に住む親戚がすぐに避難しろと彼女の家族に伝えてきたが、彼女たちは1ヶ月間その場に留まった。叔父に津波の被害を受けた地域や死体安置所に連れて行かれた彼女は、何が起きたのかをじかに理解することができた。

 

「本当に、本当に心が痛みました」爆発事故から約5年が経った今、ムトウモモカはこう振り返り、「事故直後はただただ怒っていました」と続ける。

 

「怒り」は日本国内の多くの人たちによって共有された感情だった。爆発事故のあと、ミュージシャンたちがオンライン上でプロテストソングをシェアし始め、その怒りを日本政府と東京電力に向けた。メインストリームのJ-Popが前向きなメッセージを打ち出していく一方、数人のトップアーティストと数多のアンダーグラウンドアーティストたちはインターネットや大規模なデモ、そして音楽フェスティバル(この中には反核に特化したものもあった)などを通じて抗議の姿勢を打ち出していった。2011年3月11日から約5年が経過した今、その勢いは弱まったが、まだ続いているものもある。

 

 

 

日本における反核運動は福島後に突然生まれたものではないが、Noriko Manabeが2015年の著作『The Revolution Will Not Be Televised: Protest Music After Fukushima』の中で触れているように、反核は芸能人にとって禁忌とされてきた。何故なら、電力会社は日本における大広告主のひとつであり、その立場を利用して、メディアが原子力に対して批判的な立場を取らないようにプレッシャーをかけていたからだ。しかし、そこには例外もあった。1986年のチェルノブイリ原発事故のあと、RC SUCCESSIONがElvis Presleyの「Love Me Tender」とEddie Cochranの「Summertime Blues」を反核の歌詞に変えたバージョンとしてレコーディングした他、THE BLUE HEARTSも「チェルノブイリ」というタイトルの楽曲をレコーディングしている。両バンドによるこれらの反核ソングはインディーレーベル経由でヒットしたが、電力会社に抑制され、政治にほぼ無関心な日本のメインストリームシーンの中では例外だった。

 

 

2011年3月以降、日本の音楽業界は事実上停止状態にあった。新作のリリースは延期され、海外アーティストの多くは放射能を懸念してツアーをキャンセルしていた。一方で、AKB48のようなメジャーグループは被災地のための募金活動を展開しつつ、被災者たちに向けてコンサートを開催した。この年のJ-Popシーンには愛国主義と楽観主義が席巻しており、そのハイライトと言えるものがEXILEの「Rising Sun」だった。2011年後半のリスナーたちは、きゃりーぱみゅぱみゅの超カラフルな「PONPONPON」や、薫と友樹、たまにムック。のあざとい「マル・マル・モリ・モリ!」などのビッグヒットと共に、アップビートな逃避へと向かった。福島第一原発爆発事故のあとに生まれた混乱と怒りは、メジャーレーベルによって形にされることはなかったが、その代わり、オンラインに投稿された音楽がメルトダウン後に数多くの人たちが感じた不安を捉えていた。最初のバイラルヒットが生まれたのは爆発事故から約1ヶ月後のことで、人気シンガーソングライターの斉藤和義が登場するYouTubeの映像だった。この映像の中で斉藤は自身の楽曲「ずっと好きだった」の歌詞を変えて「ずっとウソだった」と激しく歌い、東京電力のような組織を名指しで批判した。この楽曲は斉藤の所属するレーベルからシングルとしてはリリースされておらず、映像も投稿後まもなくして削除されたが、それは問題にはならず、インターネットユーザーたちはすぐに再投稿を続けた。現在そのひとつの視聴回数は40万近くを数えている。

 

 

その後まもなく、日本各地のミュージシャンたちは反核ソングをYouTubeやニコニコ動画へ投稿するようになっていった。1960年代の反戦ソングを皮肉を込めてもじったヒポポ大王のフォーク「東電に入ろう」が、福島第一原発爆発事故から数ヶ月に渡って反核フォークを投稿していたplutoleaksにピックアップされて注目を集めた他、「メルトダウンブルース」や20分以上のVocaloidの楽曲、または京都のバンドFlying Dutchmanのスポークンワード的パンク「humanERROR」など、あらゆるインディーミュージシャンたちが、爆発事故によって触発された音楽をシェアしたが、アイドルポップシーンからも意外な形でプロテストソングが登場した。このジャンルは通常、政治的意識の高さよりもキュートなサウンドで知られているが、制服向上委員会による「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」は、快活な楽曲にセシウムの危険性と政治家を名指しで批判するメッセージを組み合わせていた。

 

多数の視聴回数を記録したその他のオンライン上の楽曲は、その翌年に日本各地で開催された反核デモにおいて不可欠な存在になっていった。レゲエアーティストのランキン・タクシーは、原発事故によって引き起こされる放射能問題について歌った自身の1987年の楽曲「誰にも見えない、匂いもない」をダブアイヌバンドと組んで福島バージョンにアップデートして発表し、数多くのデモでパフォーマンスを披露した。また、COMA-CHIの「Say “NO”!」やHIBIKILLAの「最悪ノ事態」などもデモでプレイされ、本人たちがパフォーマンスを行うこともあった。

 

YMOのメンバーであり、ソロとしても成功を収めている坂本龍一も、日本国内でより力強く明確に反核を打ち出すイベントのオーガナイズに力を貸した。そのNO NUKES 2012は幕張メッセで開催され、YMOを始め、ASIAN KUNG-FU GENERATION、斉藤和義(「ずっとウソだった」を演奏)などが出演し、Kraftwerkも「Radioactivity」のスペシャルバージョンを演奏。スクリーンに「フクシマ」の文字が瞬くと観客の多くが歓声を挙げた。

 

 

被災地の近くでは、福島出身のBand of AccuseやStrange Factoryといったバンドが、小規模だが同じく反核を打ち出す活動をしていた。Strange Factoryでヴォーカルを担当するりょうは「福島出身の多くのアーティストは福島第一の状況報告のやり方や、放射能汚染について怒っていました」と振り返る。りょうにベースの山田とドラムの44℃(全員本名を明かしたがらなかった)を加えた福島出身のこのトリオバンドは、2011年8月6日に銀座で開催されたサウンドデモなど数々のデモに参加し、翌年には混沌としたパンクナンバーの「Town Of Death」や「Weapons Of Mass Destruction」を含む全4曲が収録された強烈なサウンドが印象的な7インチEP「Fukushima Nightmare」をリリースした。

 

「音楽のスタイルは変わらかったんですが、あの経験で歌詞は大幅に変わりましたね。3.11以降に僕たちが受けた精神的、肉体的なダメージを人に伝えたかったんです」とりょうは続けている。一方、東京をベースに活動するバンド新月灯火も福島県住民のメッセージを東京でのライブ中にプロジェクターで映し出すことで現地の体験を伝えようとした。ヴォーカルの田中美知子は「『あなたたちは押しつけがましいし、説教くさい。悲観的だから楽しめない』と言われたこともありますよ」と言うが、彼女のバンドは政府と東京電力の無責任な態度にあまりにも大きなショックを受けたため、何かをやらなければならないと感じたのだ。

 

 

日本の西側では滝川健児がまったく別のスタイルで攻撃を展開した。「東京電力と日本政府の対応は最悪でしたね」と振り返る滝川は、CRZKNY名義で活動するジュークアーティストで、その怒りが東京電力の記者会見や『サウスパーク』の攻撃的なセリフをサンプリングしてスピーディーに組み合わせた「Struggle Without End」EPの制作に繋がった。しかし、このEPはそこまで注目されなかった。滝川はハードコアやヒップホップとは異なり、日本のクラブシーンの大半は政治的メッセージを避けていると感じている。

 

その後すぐに、滝川は3.11以降の日本国内に広く流布したもうひとつの感情 − 恐怖 − と向き合い、京都のジュークプロデューサー、Gnyonpixと組んで反核のコンピレーション『Atomic Bomb Compilation』を制作した。終戦記念日にリリースされたこのジュークを中心に集められたコンピレーションは、滝川の地元である広島と長崎の原爆をテーマに据えつつ、福島後に原子力が生み出した不安感を捉えており、性急で細かい電子音のジュークがその不安を見事にサウンドで表現している。

 

「周りからは『原爆と原子力は違う。混同しちゃダメだ』って言われますけど、僕は同じだと思っています。人体へ悪影響を与えましたし、歴史を振り返ってみれば、共に恐怖と悲劇を生み出しました。僕のサウンドでみんなに考えてもらいたいんです」

 

ムトウと彼女の家族は最終的に福島に戻ったが、その後も彼女は自分が見てきたことに怒りを感じ続けていた。デモなどに参加してきた彼女は「やれることはすべてやりました」と振り返り、「みんなもそうだったと思います」と続ける。The FRIDAYも再始動し、政治的な音楽シーンに飛び込んでいった。「災害のあと、福島の農作物や、福島出身の人たちを拒否する人たちが出始めましたんです」と振り返る彼女のバンドは、2013年に「Our Body Made In Fukushima」EPをレコーディングした。この頃までに福島に関する会話のほとんどは、福島を消滅してしまった地域として、まるで過去の教訓のように扱うようになっていた。そのEPはその考えに対する鋭い反証のようなサウンドだったが、ライブでのムトウは更に踏み込み、「Fuck You We’re From Fukushima」と書かれたTシャツを着てステージに立った。女子高生が「Fuck」という言葉をあからさまにかざすことを不適切だと考える人も少なからずいたが、本人は「(Tシャツが)パワーを与えてくれたんです」と振り返り、次のように続ける。

 

「あのEPで決心したんです。わたしはここで育ったし、ここに住み続けようって」

 

 

2015年8月初頭、鹿児島県の川内原子力発電所が再稼働した。福島後初めてとなる再稼働は少数の反対運動を生み出したが、3.11の1年半後の反対運動とは似ても似つかないものだった。

 

それから数日後、『Atomic Bomb Compilation Vol.3』がオンラインでリリースされ、日本国内外のアーティストたちが、「Atomic Sin」や「Nuclear Money」などとタイトルが付けられた不安に満ちたトラックを提供した。滝川はまだやる気に満ちており、自分の音楽とコンピレーション群は世間に過去に起きたことを思い出させる手段になると信じている。

 

「他のアーティストは3.11のことを忘れてしまったように感じています」新月灯火の田中は言う。彼女のバンドは反核をテーマにして東京周辺で活動を続けており、今も福島を訪れている。フェスティバルNo Nukesもまだ続いているが、初年度に比べると会場と参加者は共にかなり縮小している。音楽は今でも抗議活動で大きな役割を担っているが、2016年の政治的な抗議活動の大半は、安倍総理の改憲にフォーカスしており、原子力はスポットライトから遠ざかってしまった。

 

Strange Factoryも活動を続けているが、家族や仕事とのバランスからそのペースは落ちている。しかし、活動の努力は続けており、あの時に起きたことを世間に伝え続けたいと考えている。一方、The FRIDAYは全国ツアーを終えたあと活動を休止している。ムトウは演奏を続けているが、プロテストソングの制作は行わないという個人的な決断を下した。「わたしは農作物の放射能値を計る仕事をしているので、仕事を通じて沢山のことを学びましたし、沢山の農家の方や、飲食店の方たちとも話してきました」と話すムトウは、短期的な経験だったと感じていることからデモへの参加もやめ、今後は日常生活を通じて抗議していきたいと続ける。「目の前にいる人たちと何をすべきか、何をすべきではないのかについて話すようになりました。今は疲れや悲しみを癒す音楽を作りたいと思っています」

 

「福島第一の事故に反応するミュージシャンの数は徐々に減ってきていると思います」Strange Factoryの山田が言う。「多くの人たちは見えない敵を相手にするのに疲れたか、諦めてしまったんじゃないですかね。単純に現状に慣れてしまったのかも知れませんけど」

 

Photos: Kuwamoto Hikaru