十一月 08

Pete NamlookとFAXの小宇宙

過去25年のエレクトロニック・ミュージックシーンの中で最も多作で最も強い拘りを持っていたアーティストのひとりだったドイツ人アーティストと膨大なバックカタログで知られるレーベルのミステリアスなレガシーを紐解く

By Joe Madden

 

1990年、ドイツ・フランクフルト。30歳のPeter Khulmannは市内中心部の銀行での仕事を終え、徒歩で自宅へ向かっていた。いつも通り、彼はギターを抱えていた - ギターは彼が地元のジャズフュージョンバンドのリハーサルやギグのために定期的に持ち歩いていた楽器だった。Khulmannの類い希な演奏スキルは、彼をフランクフルト周辺の様々なバンドの重要メンバーに押し上げていたが、本人のライブバンドへの情熱は消えかかっていた。同じテンプレートを繰り返すことに息苦しさを感じるようになっていた。制限のない自由な音楽を制作したかったのだが、どうすればそれができるのかが分からずにいた。

 

フランクフルトの中央を流れるマイン川の岸辺にしばし立ち止まったKhulmannは、抱えていたギターケースから中身を取り出すと、何の気なしに爪弾いた。その軽やかな演奏は、流れる川の音に寄り添っていた。それを不思議に思い、奇妙な共演により真剣に取り組んだ彼は、より自由で、より真実に近い演奏から自分がインスピレーションを得ていることに気が付いた。多作を誇ったアンビエントアイコン、Pete Namlookが生まれた瞬間だった。

 

1990年代後半までに、Pete Namlookは、“FAX” として広く知られている自身のレーベルFAX +49-69/450464から、週1枚に近いハイペースでアルバムをリリースするようになっていた。アルバムの大半は、非常に仕事熱心だった彼のソロかコラボレーションだった。幸運なことに、Namlookには先見の明があり、FAXはハードコアなレコードコレクターだけではなく、当時その数を増やしつつあったチルアウト、アンビエント、テクノ、スペーストランス、コズミッシュ、ダブ、エスノ・ニューエイジのカジュアルリスナーたちにもアピールすることになった。

 

SFのトロープ、謎めいたアーティスト名、限定プレス、ジャンル別の色分け、コレクター心をくすぐる付録、シリーズでデザインが統一されており、並べると一枚絵のように美しいアートワークなどが多くの興味を引き、セールスを伸ばしていた。リリースがハイペースすぎて、本人や別名義の新作のレビューを上回っていた時期でさえも、セールスは伸びていった。Namlookのフォロワーは、偏執的な献身ぶりで知られるようになり、表面上はチルアウトコミュニティに属していた彼らは、その中で特異な存在感を放っていた。

 

 

 

“Pete Namlookは効率について非常に頑固なアイディアを持っていて、アーティストのクリシェ、つまり、曖昧で、落ち着きがなくて、ディーバな人物を相手にするのを嫌がっていた” 

Uwe Schmidt aka Atom TM

 

 

 

FAXが人気を獲得してから数年後、Namlookはあの川辺での閃きの瞬間を、アヴァンギャルドシーンのヒーローで、定期的にコラボレーションを行っていたベーシストBill Laswellに説明していた。ニューヨークの自宅からインタビューに応じたLaswellは「あの瞬間までPeteは非常に型にはまった音楽を演奏していた。その音楽はChick Corea的なフュージョンサウンドで、エクスペリメンタルでなければ、奇妙でもなかった。だが、あのアンビエントサウンドに合わせて演奏できることに気が付いたんだ。彼にとってはとても重要な瞬間だった。音楽と自然が直接繋がっていることを知ったのさ」と語っている。

 

しかし、Namlookが真の天啓を得るまではもうしばらく時間がかかった。のちに生み出すことになるワイドスクリーンなシンセスケープからはまだ地球ひとつ離れた場所にいた彼が最初に手がけたエレクトロニック・ミュージックは、拍が前面に押し出されたダンスフロア寄りな内容だった。4Voice「Eternal Spirit」をはじめとするそれらの初期作品群は、フランクフルト産トランスの形成を促し、セールスも順調だったが、Namlookは音楽業界の謀略的側面に嫌気を感じるようになっていった。

 

 

 

 

NamlookのコラボレーターだったUwe Schmidt aka Atom TMは、チリの自宅から電話インタビューに応じ、次のように振り返っている。「Peteは、不正や裏切り行為、自分に隠れて何か奇妙な動きをする連中を許せない性格だった。非常に孤独で、ほんの数人しか信用していなかった。誰かが自分に隠れて何かしていることに勘づけば、その瞬間にその人物と縁を切っていた。私たちの業界にはそのような人物がそれなりにいたので、そういう結末を迎える回数は多かった」

 

Schmidtが話を続ける。「PeteはFAXの経営についてかなりしっかりと考えていた。銀行で働いていた経験があったので、シーン全体の経済をかなり深く分析した。誰がどのレーベルを動かしていて、いくら儲けているのかをチェックしていた。細かく計算をしていた。それで “簡単じゃないか。分からない部分は何もない。レーベルの大半は非効率な経営をしている。仕事も最低だ。アーティストの取り分から多くを抜いている。Uwe、君が僕のレーベルからリリースする時の取り分は半々だ” と言っていた。そして実際そうだった」

 

のちにSchmidtは、FAXのサブレーベルとしてRather Interestingを立ち上げた。Namlookは、このような責務を担えるミュージシャンはSchmidtしかいないと判断していた。Schmidtがさらに続ける。「Peteは私をクリエイティブで非常に有能な人物として捉えていた。それで “レーベルを立ち上げたらどうだ? 君が好きな音楽とアートワークでやればいい。だが、色々なルールがある…” と言い、マスターデータやアートワークの準備に関する非常に具体的な仕様のルールや、バーコードの用意の仕方などを事細かに教えてきた。彼は私にほんの小さなミスもして欲しくなかったんだ。私がオーディオファイルのフォーマットを間違えれば、Peteは完全に取り乱した。だが、基本的には私たちの関係は上手くいっていた」

 

FAXの初期リリース群はトランスだったが、Namlookはすぐにこのジャンルと、そこを取り巻く人たちに疲れを感じるようになった。そして、川辺での啓示がまだ自分の中に強く残っていた彼は、激しく打ち鳴らされるBPM145のキックドラムを捨て、アンビエントにフォーカスし始めた。

 

 FAX中期のCD付録 © Charley Uzzell Edwards 

 

 

1990年代初頭のアンビエントブームの最中は、この音楽をBrian Enoが『Ambient』4部作で打ち出したコンセプトの延長上に位置するものとして扱っている人が多かった。4部作の1枚目『Ambient 1: Music For Airports』のライナーノーツの中で、Enoはこのジャンルを「無視できると同時に興味を引かれるもの」と定義している。しかし、Pete Namlookは全く違う視点から捉えていた。

 

Namlookはドイツのエレクトロニック・ミュージック専門メディア『Slices』のインタビュー内で次のように語っている。「Enoの定義するアンビエントは音楽の壁紙のようなものだ。それ自体が何かを伝えるのではなく、背景に溶け込み、その環境に仕えると。だが、私のアンビエントの定義はEnoの定義とは共通点がない。私にとってアンビエントとは旅であり、激しい感情だ」

 

1993年3月、NamlookはAir名義(フレンチタッチのデュオとは無関係)でファーストアルバムをリリースした。名義がそのままタイトルとして使用されている500枚限定のこのアルバムは、ドラマティックなシンセフレーズと不穏な雰囲気がチルアウトへの先入観やイメージを覆しており、アンビエントの新しい基準のひとつになった。FAXからリリースされた直後に、世間のニーズに応えるためにRising Highへライセンスされたこのアルバムは、Namlookをグローバルなエレクトロニカシーンのビッグアーティストのひとりへと押し上げることになり、彼は野心的な “コラボレーター・ウィッシュリスト” に沿って制作を進められるようになった。

 

そのリストに沿ったコラボレーションは、NamlookのクリエイティビティとFAXのカルト的人気をさらに高めることになった。次々と組まれていったスーパーデュオ(時としてスーパートリオ)は、様々な音楽のベン図を描いていった。Namlookの存在感のあるシンセは、テクノ(Richie Hawtin)、ジャズ(Karl Berger)、クラシック(Alban Gerhardt)、アンビエントハウス(Mixmaster Morris)など、ありとあらゆる音楽と交差していった。

 

 

FAX中期のCD付録 © Charley Uzzell Edwards

 

 

Namlookはコラボレーターになりえるアーティストを見つけると、その人物をスタジオに連れてくるためにあらゆる手を使った。1994年の『Outland』や『Psychonavigation』など、Namlookと数々のアルバムを共作したLaswellは次のように振り返っている。「Peteを初めて知ったのは、私がリリースしたばかりのアルバムに彼のトラックのサンプルが使われていると本人から電話がかかってきた時だった。私がサンプリングしたのは非常に特徴的なノイズだった。だが、プロモーションもほとんどされない、無名に近いアルバムになる予定だったので、無断で使ってもやり過ごせると思っていたんだ。その電話で彼はこう言ってきた。 “君を訴えた方がいいかい? それとも一緒に何か作るかい?” とね」

 

Laswellが続ける。「実はその時、“他の連中がやっているように君も訴えてくれて構わない” と返したんだ。“コラボレーションに時間と努力を投じる価値はない” とね! 彼は大笑いしていたよ。結局、2人でそのまま会話を続けて、最終的には一緒に制作することになった。彼がニューヨークへ来る時もあれば、私がドイツへ行く時もあった。彼はなるべく多くの作品に私を参加させようと躍起だったので、ベストな状態でレコーディングに臨めない時もあった。たとえば、私がフランクフルトのフェスティバルに出演したあとは、私のベースをクリーンにレコーディングできる準備が整っていなかった。それで彼のラップトップへ直接レコーディングしたんだが、当然クオリティは酷かった。もっと良い状態でレコーディングできていた作品がいくつかあった」

 

2人には “細部に拘りすぎずスピーディに仕事を進めたい” という共通点があった。Laswellがさらに続ける。「考え直したり、時間をただ浪費したりすることは一度もなかった。Peteがテクスチャやサウンド、リズムを鳴らしてレコーディングセッションをスタートさせれば、私はただそれに合わせていくだけだった。Peteがとんでもない量のワインを勧めてくる時があった。彼のワインコレクションは素晴らしかった。だが、その裏には、もっと長く演奏しろという意図が隠されていた。もっと上手く演奏しろという意図さえあったかもしれない! 私たちは常に考えられる最高の結果を出そうとしていたが、同時に素早く仕上げることも意識していた。Peteがあそこまで多くのレコードをリリースできた理由はここにある。彼は非常に速いスピードで仕事をこなせた」

 

 

FAXバックカタログのコラージュ © Kevin Foakes 

 

 

Namlookの高速で細部に拘らない制作アプローチと相性が悪いコラボレーターも何人かいたが、彼らは全員、Namlookの辞書に "譲歩" という言葉がないことを知っていた。「これまで出会ってきた中で、私より厳格な性格の人物はおそらくPeteだけだろう」とSchmidtは振り返り、次のように続ける。

 

「Peteは “いいか、これが僕の好むやり方だ。このやり方に納得してもらえるならグレートだが、できないなら、一緒に仕事はできない” と言っていた。Peteの思い通りに仕事を進められなかったコラボレーターが数人いたが、Peteが彼らと一緒に仕事をすることは二度となかった。彼は効率について非常に頑固なアイディアを持っていて、アーティストのクリシェ、つまり、曖昧で、落ち着きがなくて、ディーバな人物を相手にするのを嫌がっていた」

 

Schmidtも、完成したと判断したあとはトラックを絶対に変更したくないというNamlookの頑固ぶりに悩まされることがたまにあったとしている。「Peteは、クリエイティブな瞬間を記録したらあとは放っておくというアプローチを好んでいた。これが私を苛つかせた。なぜなら、私のアプローチとは完全に異なるからだ。ごくたまに、私が “あのセクションをやり直してもっと良くしたい” と頼むと、“駄目だ。それは理に反している。あの状態を維持するんだ」と言ってきた。そして大抵の場合、彼の言葉通りになった。今振り返ると、彼が正しかったと思えるところもあるが、当時はこのような意見の相違がもどかしかった」

 

しかし、Namlookとのコラボレーションが一切楽しくなかったわけではない。今回話を聞いた誰もが、Namlookには快活なユーモアセンスがあり、クリエイティビティを刺激する愉快で革新的な制作手法を編み出すこともあったとしている。Schmidtは次のエピソードを語っている。

 

「Peteが手に入れたばかりのシンセサイザーを見せてくれたあとで、“僕はキッチンでディナーを作るから、その間にこれを少し触ってみたらどうだい?” と言ってきた時があった。しかし、実は、私が触っている間、キッチンのPeteは心の中でメモを取りながらそのサウンドをちゃんと聴いていた。新しい機材を手に入れて、手探りで色々といじっている時間は非常にクリエイティブだ。それで、キッチンから戻ってきたPeteは “素晴らしいシンセじゃないか。今のをレコーディングしておくべきだった。でも残念ながらもうこの世から消えてしまったな” と言ったが、続けて、実は全てをちゃんとレコーディングしていたことを明かした。それで2人で気に入った部分を抜き出し、それらを元にしてトラックを制作した」

 

 

 

"FAXのカタログは圧倒的だ。しかも、バラエティに富んでいる。自分の好きなサウンドを見つけるには相当な時間をかける必要がある。かなり掘り下げないといけない"

Bill Laswell

 

 

 

1993年、Biosphere名義での活動が最も良く知られているGeir Jennsenは、Namlookと非常にトリッピーなアルバム『The Fires of Ork』を共作してR&SのサブレーベルApolloからリリースした。「ひたすら厄介なプロジェクトだった」とJennsenが振り返っているこのコラボレーションは、物静かな性格の彼にとってトラウマに近いものになったが、数々のチャレンジを乗り越え、クリエイティブパートナーシップを機能させた。アルバム制作がJennsenにとっていかに大変だったのかについては、当時のJennsenの日記に具体的に記されている。この日記は、想像以上に複雑で厄介だった1990年代中頃のエレクトロニック・ミュージック業界の実情をユニークな視点から洞察している。

 

 

 

1993年6月22日 木曜日

郵便受けにPete Namlookからの手紙が入っていた! CDをレコーディングしたいらしい。面白そうだ! 僕に言わせれば、彼は近年を代表する最高の音楽を作っている人物だ。電話でNamlookと長話をした。本名はPeter Kuhlmannらしい。彼は僕がR&Sと出版契約を結んでいることを好ましく思っていなかった。Renaat(Vandepapeliere / R&S設立者)にこのプロジェクトの邪魔をしてもらいたくないというのがその理由だった。

 

1993年6月28日 月曜日

R&SのKatrienから電話があった。Pete Namlookが僕と仕事をしたがっていることを彼女に伝えると、すぐにRenaatから電話がかかってきて「Namlookだと? 駄目だ。絶対に駄目だ!」と言われた。


 

1993年8月17日 火曜日

フランクフルト行きの荷造りをしていると、Peterから電話があって、Renaatと合意に至ったと言ってきた。これでアルバムを制作できる。しかも、R&Sにライセンスする可能性もある。素晴らしい1日の始まりだった。フランクフルトも楽しかった。Peterから彼のアパートとスタジオを見せてもらった。自分の部屋も与えてもらった。レストランでディナーを食べた。

 

1993年8月19日 木曜日

今日は早くから制作を始めた。Peterのガールフレンドがいくつか文章を読み上げ、僕たちがそれをサンプリングして「Talk to the Stars」に使った。ディナーのあと、僕が用意していたラフ「Energy to Earth」の制作を進めた。Peterは素晴らしい仕事をしてくれた。EMS Synthiの使い方は特に素晴らしかった。彼の仕事ぶりを見たり聴いたりするのは素晴らしい経験になった。でも、彼が家族の面倒を見るためにスタジオを出たり入ったりしていたのは気に入らなかった。何かが上手くいっていないことが理解できたし、彼の機嫌が悪くなっていくにつれて、居心地が悪くなっていった。

 

1993年8月23日 月曜日

1日中待たなければならなかった。Peterは娘の誕生日パーティに顔を出さなければならず、そのあとも急ぎのオフィスワークをしなければらなかった。その間、僕は彼のレコードコレクションをダビングしていたけれど、夜の7時になる頃には我慢が限界に達していた。感情が爆発する寸前だった。レコーディングを全くしないのは今日で4日目だった。列車に乗ってベルギーへ戻ろうと思ったが、現金が足りなかった。結局、夜の8時から「the mountain idea」の制作を始めた。霧に包まれて山の中で迷ってしまった人物をイメージしようとした。Peterがクラシックなサイレンス系ストリングスと、様々なモジュールを通過させてニーチェを読み上げた彼の声を加えた。新しいタイトルは “Gebirge”。結果には大いに満足している。

 

 

 

 

Namlookの性急なアプローチは、FAXスタートからたった10年で彼に約400タイトルをリリースさせることになった。このような膨大な規模と、ソーシャルメディアのファンサイトやDiscogsを頻繁に訪れてそのレガシーをアップデートしている熱狂的なファンの盲従が、無秩序に広がる作品群を聴いてみたいと思っている人たちを躊躇させている。これがNamlookをある意味盲点的な存在にしている。近年のアンビエントリバイバルでこのジャンルの虜になっている人たちでさえも、彼には気付いていない。

 

Laswellは「そういう特徴が彼のレガシーを傷つけているかどうかは分からない。だが、新しいファンを捕まえにくくしているのは確かだ。FAXのカタログは圧倒的だ。しかも、バラエティに富んでいる。自分の好きなサウンドを見つけるには相当な時間をかける必要がある。エレクトロニック・ミュージックをベースに様々な分野に枝分かれしている。ダンスミュージックもあれば、自然の音を使用しているシリーズもある。モンゴルに影響されているリリースもあれば、アフリカに影響されているリリースもある。彼がTetsu Inoueと組んだアルバム群も、彼の他の作品群からは大きく異なっている。かなり掘り下げないといけない」

 

FAXは活動期間を通じて、支持者と同じくらい誹謗中傷する人も数多く集めた。しかし、たとえば、「リリースペースを月1枚程度に落とす」、「アルバムの収録時間を150分以内にまとめる」などの常識的なレーベル活動は、彼には受け容れられないものだった。激しい性格に伴う悪いイメージは、露出過多によってさらに悪化したはずだ。カタログの全てがウィナーではなかった。大量の『Dark Side of the Moog』シリーズ(Namlookの一枚岩のようなドローンに “ファーアウト系” の父Klaus Shulzeのサウンドを加えたシリーズ)や、27番まで存在する『Namlook』シリーズ(大量に存在するソロ名義リリース群の一部に過ぎない) などをリリースしてきた彼にとって、クオリティコントロールは最優先事項ではなかった。Bill Laswellも、Namlookと制作したアルバムの正確な枚数を覚えていない。

 

 

Peter Kuhlmann © Geir Jenssen

 

 

2012年11月8日、Peter Kuhlmannはドイツの山奥にある自宅で心臓発作を起こし、その数秒後にこの世を去った。51歳だった。余りにも早すぎる突然の死は、アーティストPete Namlook、FAX +49-69/450464、複数のサブレーベル、定期的に繰り返されていた様々なコラボレーションの終わりを意味していた。彼の死後、遺族は、彼のヴィジョンだったという事実に敬意を表して、レーベル運営を継続しないことを発表した。誰も管理しなくなったFAXのディスコグラフィーは物理的に、そして文化的にゆっくりと崩れ始めており、バックカタログの大半は著作権を無視したYouTube動画として残っているだけだ。

 

しかし、Namlookの膨大なリリース群 - Discogsで超高値をつけている作品もいくつかある - は再評価の時を迎えつつあるのかもしれない。歴史に埋もれているエレクトロニック・ミュージックの名盤を再発する家内制手工業的レーベルの数が増えているのに伴い、いくつかのFAXの名盤・レア盤が最近のリスナーのために再び世に放たれている。Namlookが1993年にリリースしたアンビエント組曲『Dreamfish』(Mixmaster Morrisとのコラボレーション)と、『Dark Side of the Moog』シリーズ(11枚全て)が再発されている他、2018年6月にはJenssenが自身のレーベルBiophonから『The Fires of Ork』をリリースしており、NamlookとRichie Hawtinによる強烈なコラボレーションシリーズ『From Within』の再発も噂されている。

 

音楽以外に話を移すと、Kuhlmannは、その奇妙でユニークな世界へ足を踏み入れることを許されていたごくひと握りの人たちの心の中に今も生き続けている。Schmidtは次のように振り返っている。「Peteは、音楽業界の中で本当の意味で頼ることができた数少ない人間のひとりだった。私の大きな助けになってくれた。信頼できる人間だった。彼を疑ったことは一度もない。ビジネスと制作から離れている時の彼は、感受性が豊かな素晴らしい人物だった。技術的な質問をするために彼のオフィスを訊ねれば、こちらに何か問題があることを感じ取り、先回りして質問してきた。また、彼はちゃんと話を聞いてくれた。真剣に受け止め、真剣に考えてくれた。そして大抵の場合、彼のアドバイスは的を射ていた」

 

「ある友人が "世の中には自分の人生に姿を現し、その人でなければ見せることができない世界を見せてくれる人がいる" と言っているが、私は彼が見せてくれた世界を心の底から恋しく思っている」

 

 

Header Image © Kevin Foakes